19.江戸を去る文人墨客
江戸の城下にも道灌は病死ではなく、殺されたとの噂が広まっていた。ただ、誰に殺されたか、となると様々な噂が飛び交った。 江戸城を乗っ取った曽我豊後守が殺ったに違いない‥‥‥ いや、豊後守ではなくて、河越城に入った豊後守の親父、兵庫頭じゃ‥‥‥ それは違う、殿様に長年苦しめられた長尾伊玄に決まっている‥‥‥ そうじゃない、管領様じゃ。殿様の活躍があまりに有名になり過ぎたんで、 本当はのう、 銭泡は糟屋から帰ると、さっそく、芳林院の周厳和尚のもとに行き、大慈寺の首塚の事を確認した。勿論、和尚は何も知らなかった。何も知らなかったが、大慈寺に道灌の首塚ができた事を喜び、立派な供養塔を建てなければならんと張り切ってしまった。 道灌の首をあの寺に葬ってくれたのは、仏様のお陰に違いない。有り難い事じゃと、さっそく、糟屋に向かう旅支度を始めてしまった。その首塚が本物か偽物か、まだ分からないとは銭泡には言えなかった。 竜仙坊は中道坊に会うために河越に向かった。五日も経つというのにまだ帰って来ない。あの竜仙坊が殺される事などないとは思うが心配だった。 風輪坊は毎日、城内の様子を探ったり、城下に、お紺が来ていないかどうかを調べていた。銭泡はお紺など来ない方がいいと願っていたが、風輪坊は、お紺がもう一度、銭泡を殺しに現れる事を願っていた。 お志乃は銭泡と一緒に暮らすようになってから、店番と銭泡の面倒を見なくてはならなくなり、前よりも忙しくなったので、お鶴という若い娘を雇って店番をやらせていた。なかなか機転の利く娘らしく、暇な時には店をその娘に任せて、銭泡から改めて『茶の湯』を習っていた。 最近になって、銭泡は万里と共に、やたらと送別の宴に招待されていた。道灌を頼って江戸に滞在していた僧侶や公家たちが、道灌が亡くなってしまったので江戸を去ろうとしていた。彼らのほとんどは旅の途中、道灌に引き留められて、江戸に滞在していた者たちだった。江戸城内の客殿に滞在していたのに、豊後守によって無理やり追い出され、城下の旅籠屋に移った者もいる。道灌が亡くなって、江戸城も豊後守のものとなり、江戸に見切りを付けて 銭泡と万里は送別の宴に招待されては、彼らと道灌の思い出を語り合い、別れを告げなければならなかった。別れを告げる度に、この江戸もだんだんと淋しくなって行くのを感じない訳にはいかなかった。長く江戸に住み着いていた公家たちの中にも、道灌がいないのでは、と移住を考えている者も多かった。 今日も京都に帰るという春水庵という歌人に別れを告げたばかりだった。その歌人は鈴木道胤の『紀州屋』に滞在していた。紀州屋を出た二人の気持ちは沈んでいた。 「みんな、いなくなってしまうのう」と言って万里が溜め息をついた。 「何となく、この町も活気が無くなって行くようじゃ」 「どうじゃ、もう少し、飲まんか」と万里は歓楽街の方を見た。 「遊女屋に行くのか」 「いや、女子を抱くような心境じゃないわ。ちょっと、酒を飲むだけじゃ」 「そうじゃのう。もう少し飲むか」 二人は八幡神社の側にある小さな飲屋の 城下での噂が豊後守の耳にも入り、豊後守の配下の侍たちが、やたらと町を徘徊して、豊後守を悪く言う者たちを捕まえていた。しかし、取り締まりを厳しくすればする程、町人たちは豊後守が殺したに違いないと確信を持ち、陰に隠れてはこそこそと噂をしていた。 「わしものう、江戸を去ろうと決めたんじゃ」 万里が沈んだ面持ちで言った。 「おぬしもか‥‥‥」 「ああ。せっかく、あんないい所に屋敷まで建てて貰ったんじゃがのう。やはり、道灌殿がおらんのではのう。道灌殿がおられた時は最高の所じゃと思っておったが、最近は、やけに薄暗いのが気になってのう」 「あそこは薄暗いか」 「もっとも、あの屋敷を建てた当初は冬で、梅の木も葉がなかったからのう。春になり夏が過ぎて、葉が生い茂るのは当然の事とは言えるが、以前はそんな事など全然、気にならなかったんじゃ。ところが最近、やけに気になってのう」 「そうか‥‥‥道灌殿がいなくなると、そんな事まで気になるもんかのう」 「気になるわ。うちに帰っても、みんな、暗い顔をしておるしのう。はづきの奴が、おうちに帰ろうと言っておるんじゃ‥‥‥」 「おうちに帰ろうか‥‥‥はづきちゃんにとっては、おうちというのは美濃にあるうちの事なんじゃな」 「そうらしいのう。今まで、そんな事、言った事なかったのに‥‥‥ずっと、ここにいられたらいいねって言っていたんじゃ。はづきは道灌殿が亡くなった事は知らんじゃろう。それでも雰囲気で分かるのかのう」 「そうか、おぬしもここを去るか‥‥‥」 「おぬしはどうするつもりなんじゃ」 「わしか‥‥‥わしはお志乃次第じゃのう」 「あれだけの店を構えておったら、ここから去る訳にはいかんな」 「お志乃はお茶を売るのが好きなんじゃ。できれば、続けさせてやりたいと思っておる」 「そうじゃな。お茶を見る目を持っておるし、続けた方がいい」 「うむ‥‥‥」 「おぬし、越後に行ったとか言ったのう」 「ああ。行ったが、それがどうかしたのか」 「越後の話は宗祇殿からも聞いておってのう。一度、行ってみようと思っておったんじゃ。わしは江戸に来る時は尾張から駿河へと抜けて来たが、帰りは越後を通って帰ろうと思っておるんじゃ。 「いつか話していた美濃の 「そうじゃ。二年前に亡くなってしまわれたがのう」 「亡くなってしまったのか‥‥‥」 「ああ、九十一の大往生だったそうじゃ。それに、 「ふーん」 「なあ、越後のお屋形様というのはどんなお人じゃ」 「うむ。道灌殿に似ているところもあるのう。ここと同じように、府中の城下には京から下向して来たお公家さんやらが多いわ。和歌や連歌、漢詩なども盛んじゃし、おぬしが行けば歓迎されるじゃろう。道灌殿がいなくなって、関東の地で 「そうか‥‥‥ここにおるよりはのう」 「ここから出ると言っても家族がおるから大変じゃのう」 「いや、子供たちも旅を楽しんでおるから、結構、楽しいもんじゃよ」 万里は江戸を去る事に決めると、やたらと美濃の国を懐かしがって話していた。 万里と別れ、善法園に帰ると竜仙坊と風輪坊が揃って待っていた。 「うまいお茶を御馳走になっておるわ」と竜仙坊が迎えた。 「お邪魔してます」と風輪坊はちょこんと頭を下げた。 「さすがじゃ。わしはお茶がこれ程、うまいものじゃったとは今まで知らなかったわ。武士たちが茶の湯、茶の湯と騒いでいるが、あんな物のどこがうまいんじゃと思っておった。しかし、一流のお茶というものは、やはり違うもんじゃのう。こいつはうまい」 「それは、ようございましたな」 「お茶を飲みながら、風輪坊から城内の様子を聞いていたところじゃ。若殿は毎日のように重臣たちと喧嘩しているようじゃな。この先、どうなるやら‥‥‥」 「竜仙坊殿はこれから若殿に付いて行くんでしょう」 「いや、若殿がこれから、どうするかによるな。出方次第ではここを去る事になるかもしれん」 「そうですか‥‥‥」 「竜仙坊殿、河越はどうでした」と銭泡が聞いた。 「おう、まいったわ。中道坊の奴が河越にいなかったんじゃ。また、古河に行ったという。奴の帰りを待っていたんで手間取ってしまった」 「また、古河に行ったのですか」 「ああ。お屋形様に頼まれて向こうの様子を探るために配下の者たちを連れて行ったんだそうじゃ」 「公方様と結ぶためにですか」 「そうじゃ。兵庫頭も扇谷家の執事になったものじゃから張り切っておるわ」 「それで、中道坊から事実を聞きましたか」 「おう。やはり、あの首塚は偽物じゃった。殿に似ている首を捜して、お屋形様と対面させたそうじゃ。お屋形様はすっかり騙されて、本物だと信じたようじゃ。お屋形様は洞昌院に持って行けと命じたらしいが、首と胴を初七日を過ぎてから同じ場所に埋めると祟りがあると言って、お屋形様を威したらしいのう。お屋形様は恐れて、それじゃあ周厳和尚の開いた大慈寺に持って行って、祟りが起こらんように充分に供養しろと命じたそうじゃ」 「やはり、偽首でしたか‥‥‥」 「埋まっているのは偽首じゃが、お屋形様は本物じゃと信じておる。そうなると、当然、あの辺りの者たちは本物じゃと信じる。時が経てば、あの首塚は本物になってしまうじゃろうな」 「周厳和尚は本物だと信じて糟屋に向かいました。立派な供養塔を建てるとの事です」 「そうか、そうなると益々、本物となってしまうのう」 「そうすると、やはり、本物は越後という事ですか」 「かもしれん。そう決め付ける前に、もう少し分かった事実があるんじゃ」 「何です」 「中道坊の奴は、お紺と弥吉の事を知らんのじゃ」 「えっ、お紺は中道坊の配下ではなかったのですか」 「違うらしい。お紺とつながっている円徳坊は確かに中道坊の配下じゃ。しかし、殿が殺された日から見当たらんそうじゃ。中道坊は円徳坊も殺されたものと思っていたわ」 「わしは、そいつをこの江戸で見た。死んでいるはずはない」 「うむ。わしもおかしいと思って、円徳坊の事を詳しく聞いてみると、五、六年前、河越にやって来て、腕も立つので配下にしたという。出身はよく分からんが出羽の国らしい。その頃、十歳くらいの娘を連れていたから、その娘をお屋形様のもとに奉公させたのだろうと言っておったわ」 「お紺は、円徳坊の娘じゃったのか‥‥‥」 「円徳坊は、まだ、この江戸にいるのか」と竜仙坊が風輪坊に聞いた。 「いえ、消えました。わしは円徳坊の後を付けて、平川の近くにある 「そうか、奴は何で江戸に来たんじゃろう」 「奴もお紺を捜しているのかもしれませんね。江戸に来ながら、ここに来なかったという事は、お紺から銭泡殿がここにいるという事を聞いていないからです。お紺は糟屋のお屋形を出てから円徳坊のもとには戻ってないんじゃないでしょうか」 「かもしれんのう。伏見屋殿が江戸に帰ったので、お紺も江戸にいると思って来たがいなかった。お紺を捜しに行ったのかもしれんな」 「円徳坊とお紺は何者なんでしょう」と銭泡は聞いた。 「やはり、弥吉の一味じゃったのかのう」 「越後ですか‥‥‥」 「越後に行ってみるしかないかのう‥‥‥」 「竜仙坊殿、越後まで行くつもりですか」 「決着を付けん事には、わしは先に進めんのじゃよ。真相を探ったとしても、どうなるもんでもないが、わし自身、真相をつかまん事にはどうにもならんのじゃ」 竜仙坊は空になった湯飲み茶碗の中を見つめていた。誰に命じられた訳でもなかった。竜仙坊は自分自身を納得させるために、道灌を殺した下手人を追っていた。 「わしも真相を知りたいと思っております。竜仙坊殿、是非とも真相をつかんで、わしにも教えて下さい」と銭泡は言った。 竜仙坊は顔を上げて銭泡を見ると頷いた。 「お話は終わりましたか」とお志乃が台所から顔を出した。 「 お志乃が山盛りの素麺を持って入って来た。 「おう、うまそうじゃのう。そういえば、わしはまだ、飯を食ってなかったわ」と竜仙坊は笑った。 「奥さん、遠慮なく、いただきます」 「奥さんだなんて‥‥‥」とお志乃は俯いた。 「竜仙坊殿、奥さんじゃなくて女将さんですよ」と風輪坊は言った。 「奥さんでもおかみさんでも同じじゃろう。さあ食うぞ」 竜仙坊は素麺に食らい付いて行った。 「竜仙坊殿、うまそうに食べますね」 風輪坊も素麺に手を伸ばした。 「うまいのう」 「確かに、うまいわ」 銭泡とお志乃は顔を見合わせながら笑っていた。
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