酔雲庵


銭泡記〜太田道灌暗殺の謎

井野酔雲





21.長尾信濃守




 シーンと静まり返った深夜、星は出ているが、月のない九月の初めの事だった。

 銭泡とお志乃の寝ている枕元に、音もなく現れた者があった。

 お紺だった。

 左手に笛のような物を持っている。右手の傷はまだ治らないのか、白い布が巻き付けてあった。

 お紺はしばらく、眠っている二人を見下ろしていた。意を決して、銭泡の側に近づこうとした時、隣の部屋から声が掛かった。

「お紺、今度は命を貰うぞ」

 お紺は立ち止まって板戸の方を睨んだ。板戸が静かに開き、風輪坊が手裏剣を構えて立っていた。

「お前は何者じゃ」とお紺は聞いた。

「それは、こっちが聞きたい事じゃ」

 お紺は笛を口元に持って行こうとした。

「死ぬ気か」と風輪坊は言った。

「伏見屋を殺して死ぬ気だったが、お前を殺して死ぬ」

「それは無理だ。後ろを見ろ」

 お紺はチラッと振り返った。後ろに手裏剣を構えた女がいた。

「死ぬのは、おぬしだけじゃ」

「何者じゃ」とお紺はもう一度聞いた。

「駿河の風摩党じゃ」

「風摩党? 駿河? 駿河の者がどうして、伏見屋の身を守るのじゃ」

「銭泡殿は駿河の早雲殿の大事な客人じゃ。死んでもらっては困るんじゃよ。それより、おぬしはなぜ、銭泡殿の命を狙う」

「親の仇じゃ」

「なに、親の仇じゃと。銭泡殿に親を殺されたとでも言うのか」

「そうじゃ。道灌と伏見屋は親の仇じゃ」

「道灌殿と銭泡殿が親の仇‥‥‥訳の分からん事を言うな」

「本当の事じゃ」

「おぬしは一体、何者なんじゃ」

「道灌と伏見屋に滅ぼされた豊島家の者じゃ」

「なに、豊島家の者‥‥‥ほう、そうじゃったのか。それで、道灌殿の命を狙っていたのか‥‥‥しかし、豊島家と銭泡殿とどういう関係があるんじゃ」

「伏見屋はその頃、道灌の軍師だった。伏見屋の指図で残党狩りが行なわれ、あたしの妹と弟、そして、母上は無残にも殺されたんじゃ」

「何を寝ぼけた事を言っておる。当時、確かに銭泡殿は江戸にいたかもしれんが、軍師などではない。ただの茶人として、お茶室を作っていただけじゃ」

「嘘だ。あたしの家族を殺したのはその男だ」

「まったく、話にならんな。そんな嘘を誰に吹き込まれたんじゃ」

「嘘ではない」

 銭泡が目を覚ました。

 銭泡は体を起こすとお紺を見た。

「わしではないぞ」と銭泡は言った。

「嘘だ、お前はあたしの家族を殺したんだ。あたしはお前を殺して死ぬ」

 お紺は笛を口に当てようとし、風輪坊とお紺の後ろにいる女は手裏剣を投げようとした。

 その時、「待て!」と庭から誰かが怒鳴った。お紺が一瞬ひるんだ隙に、風輪坊の手裏剣がお紺の持っていた吹き矢の筒を弾き飛ばした。

 声を掛けたのは竜仙坊だった。竜仙坊は構わず、縁側から部屋の中に上がると、

「この屋敷は囲まれている」と厳しい顔付きで言った。

 竜仙坊は素早く、お紺の帯に挟んであった匕首(あいくち)を奪い取ると、お紺の腕を逆手に取って座らせた。

 風輪坊の仲間の女が、あっという間に、お紺を縛り上げた。その女は善法園で働いていたお鶴だった。

 お志乃も起きて、銭泡と一緒に部屋の隅で丸くなって成り行きを見守っていた。銭泡もお志乃も、お鶴が風輪坊の仲間で、銭泡を見守っていたとは信じられなかった。今まで、二人が話をしている所など見た事もなかったし、会っても他人のように装っていた。刀を腰に差し、手裏剣を構えた勇ましいその姿は、今までのお鶴からは想像もできなかった。

「円徳坊の一味じゃ」と竜仙坊は言った。

「お前が連れて来たのか」と竜仙坊は、お紺に聞いた。

 お紺は縛られたまま銭泡を睨んでいた。

「お前が連れて来たのか」

 竜仙坊はお紺の肩をつかみながら、もう一度、聞いた。

 お紺は竜仙坊を睨むと、首を横に振った。

「円徳坊はお前の仲間じゃろう」

 お紺はまた、首を振った。

「嘘をつくな。おぬしが円徳坊と会っていたのをこの目で見ておるわ」と風輪坊はお紺に詰め寄った。

「話は後じゃ。奴らを倒さねば、こっちがやられる」

 竜仙坊と風輪坊は闇の中に出て行った。お鶴も行こうとしたが、風輪坊から、お紺を見張れと命じられて残った。

 お鶴とお紺、そして、銭泡とお志乃は暗い部屋の中で、回りの様子を窺いながら、じっとしていた。

 時折、店の方で物音がしたが、辺りはシーンと静まり返っている。竜仙坊と風輪坊の二人が、この屋敷の回りで円徳坊の一味と戦っているに違いないが、闇の中で何が行なわれているのか、銭泡には見当もつかなかった。

 四半時(三十分)くらい経っただろうか、竜仙坊と風輪坊の二人が戻って来た。銭泡は胸を撫で下ろして二人を迎え、部屋の明かりを点けた。二人の着物には返り血が処々に付いていた。

「円徳坊から、すべてを聞き出そうと思ったが殺されてしまった」と竜仙坊は額の汗を拭った。

「円徳坊は死んだのか」とうなだれていたお紺が顔を上げて聞いた。

「ああ。誰が殺したのかは大体、分かるがのう」

「円徳坊というのは何者だったんです」と銭泡は聞いた。

「越後の山伏じゃ」

「越後?」とお紺が鼻で笑った。

「あいつは出羽の山伏で、糟屋のお屋形様のもとで働いていたのよ」

「うむ。確かに中道坊の下にいた。しかし、殿を殺してからは中道坊の下を離れ、独自の行動をしていたんじゃ」

「どういう意味よ」

「偽って、お屋形様の配下になったという事じゃ。お前はあそこにいた下男の弥吉が仲間だった事を知っていたのか」

「弥吉が仲間? まさか‥‥‥弥吉が何をしたというのよ」

「今回、殿の暗殺の中心になっていたのが弥吉だったんじゃ」

「何ですって。あの弥吉が‥‥‥そんな馬鹿な‥‥‥」

「殿が殺された時、殿の脇差を隠したのは、お前じゃな」

「えっ? そんな事知らないわよ」

「お前じゃなかったのか」

「何で、あたしがそんな事をするのよ」

「お前は殿が風呂に入っている時、湯加減を聞きに行ったのう。その時、殿の刀を盗んで、どこかに隠したんじゃ」

「そんな事、知らないわよ」

「本当か」

「本当よ」

「やはり、弥吉じゃったか」

「弥吉が道灌殿の刀を隠したというのですか」と風輪坊が聞いた。

「そうじゃ。隠したというより、弥吉は殿の刀を使って殿の首を斬り落としたんじゃ」

「何じゃと、弥吉が道灌殿を‥‥‥」

 銭泡は驚いて竜仙坊を見つめた。

 お紺も竜仙坊の言った事には驚いていた。

「そんな、馬鹿な」と風輪坊が言った。

「お紺が刀を隠していないとなれば、そうとしか考えられん‥‥‥湯殿の庭石の下に首を隠すための穴があった。穴はあったが、それを使った形跡はない。という事は、本物の首は穴には隠されなかったという事じゃ。となると、本物の首はどうなったんじゃ」

「弥吉が湯殿から直接、持って行ったんかのう」と銭泡は言った。

「いえ、道灌殿が殺された時、弥吉は湯殿にはいませんでした。弥吉が道灌殿を殺したとは考えられません」と風輪坊は言った。

「風輪坊」と竜仙坊は呼んだ。

「弥吉が殺したかどうかは後にして、まず、どうやって、首を移動したかを考えてみてくれ。それが分かれば自然と誰が殺したかが分かる」

「その前に、お紺が今回の道灌殿の暗殺にかかわっていたのかを聞きたいんだが」と風輪坊は言って、お紺を見た。

「あたしは何も知らないわよ。道灌から湯加減を聞いて、弥吉に告げてからはずっと、客殿の縁側に控えていたのよ」

「確かに」と銭泡は頷いた。

「わしが竜仙坊殿と話して、客殿に戻った時、お紺さんは確かに縁側におったわ。その後、わしは吉良殿、刑部少輔殿と掛け物を見て回っておったので分からんが、客殿に戻って来た時も、お紺さんは同じ所に控えておった」

「あたしはずっと、あそこにいたのよ。道灌のお供の人に聞いてみれば分かるわ。あたしは道灌が殺されたなんて、全然知らなかった」

「うむ。お紺の言っている事は本当じゃろう」

「畜生、あたしが道灌を殺したかったのに‥‥‥」

「話を戻すぞ」と竜仙坊が言った。

「どうやって、弥吉が殿の首を湯殿から移動したかじゃ。下手人が湯殿に隠れていた二人だったとする。二人は殿の首を斬り、二つの偽首を持って逃げた。本物の首は庭石の下に隠され、後で、弥吉の手でどこかに運ばれる予定だった。ところがじゃ、なぜか、予定は変更された。殿の首は庭石の下には隠されなかった。なぜじゃ」

「湯殿にそのまま、置いて行ったのじゃろうか」と銭泡は言った。

「それもありうる。しかし、弥吉が来る前に、殿の死体が発見されてしまえば、首を取る事はできなくなる」

「となると、弥吉はどうやって‥‥‥」

「湯殿から生首を何で運んだかが問題となるんじゃ」

「普通、首袋か首桶でしょう」と風輪坊は言った。

「そんな者を下男が持っていたら怪しまれる」

「となると‥‥‥湯桶か‥‥‥」

「そうじゃ、湯桶じゃ。弥吉は殿が風呂に入っている時、お湯を運んだ。その時、殿は弥吉に殺され、首は湯桶の中に入れられて運ばれ、どこかに隠したんじゃ。その時、首の血止めをするために、庭にあった塩をすくって使ったんじゃろう」

「という事は、弥吉がお湯を足しに行った時、道灌殿は殺されたというのですか」

「そうとしか考えられんのじゃ。そして、殿を斬った刀は、逃げた二人のうちのどっちかが持って行ったに違いない。殺された山伏の死体を調べた時、刀まで調べなかったのは迂闊(うかつ)じゃった。刀を調べれば殿の刀があったかもしれん。」

「あの弥吉が下手人だったのか‥‥‥」銭泡が呟いた。

「弥吉が道灌を殺したですって‥‥‥」お紺が信じられないというように首を振った。

「道灌を殺したのは湯殿に隠れていたという二人の山伏じゃなかったんですか」まだ信じられないといった顔をして風輪坊が聞いた。

「その可能性もある。しかし、そうなると、殿が声も出さずに殺されたという説明がつかんのじゃ。二人の曲者(くせもの)は湯殿の庭にいた。殿に気づかれずに窓から湯殿に入って、殿の首を斬るなどという芸当ができるはずはない。湯殿に侵入した時点で、殿に見つかって声を出される事じゃろう。声を出されるだけでなく、殿があっさりと殺されるはずがない。いくら丸腰だったにしろ、殿が簡単に殺されるはずはないんじゃ」

「確かに、そうじゃ」と銭泡も言った。

「あの湯殿には庭に面して二ケ所、窓があるが、あんな所から顔を出せば絶対に見つかる。道灌殿としても庭の方を見ながら湯に浸かっていたじゃろうし」

「そうじゃ。もし、二人が同時に飛び出して来たとしても、声も出さずに殺されるなんていう事は不可能じゃ。その点、弥吉なら、三年もあそこにいる。殿も顔を知っていよう。以前にも、弥吉に湯を足して貰った事があるかもしれん。弥吉が湯を足しに来ても、信用して警戒もしなかった事じゃろう。そこを殺られたという訳じゃ」

「成程‥‥‥そうだったのか‥‥‥そうなると、わしらが道灌殿が殺されたと思った物音はまったく別の物だったという事ですね」

「多分、血を噴き出していた殿の胴体が、突然、動いたのかもしれん」

「恐ろしや‥‥‥」

「弥吉が道灌を殺ったのか‥‥‥」

 お紺は一人で、弥吉が、弥吉がと呟いていた。

「お前はただ、利用されていただけなんじゃよ」と竜仙坊はお紺に言った。

「弥吉は伏見屋殿を殺そうとした。その理由は伏見屋殿に越後から来たという事を知られたからじゃ。しかし、失敗した。わしは弥吉を捕まえようとしたが、自分で首を掻き斬って死んでしまった。そこで、円徳坊はお前を使って、伏見屋殿を殺そうとしたんじゃろう。お前は弥吉が越後から来たという事を知らん。その事を知られたから伏見屋殿を殺せとは言われなかったじゃろう。どういう理由で、伏見屋殿を殺せと言われたんじゃ」

「その事はもう聞きました」と風輪坊が言った。

「この女は豊島家の残党で、銭泡殿が家族を殺したと吹き込まれたのです。銭泡殿が道灌殿の軍師だったと信じています。それで、銭泡殿を親の仇だと狙っていたのです」

「親の仇か‥‥‥」

「この男が親の仇だというのは嘘だと言うのか」お紺は銭泡を睨みながら言った。

「嘘じゃ。お前は円徳坊に騙されたんじゃよ。親の仇だと言えば、お前が伏見屋殿を殺すじゃろうと思っての」

「この男は親の仇ではないと言い張るつもりか」

「言い張るも何も、伏見屋殿はただの茶人じゃ。茶人になる前は京の商人じゃ。戦などに出た事もなければ、人を殺した事もあるまい」

「お紺さん。わしは十年前に、ここにおった事は確かじゃが、その後、ずっと旅を続け、十年振りにこの地に来たんじゃ。十年前、長尾伊玄殿が反乱を起こしたというのは道灌殿より聞いたが、道灌殿が戦に出掛ける前に、わしはここを去って駿河の方に行ったんじゃよ。確か、駿府の浅間社で花見の宴を盛大に行なうと言うんで、わしは呼ばれて駿河に行ったんじゃ」

「そうじゃ。殿が豊島氏と戦ったのは、伏見屋殿が駿河に行ってからじゃ。おぬしの親御さんが亡くなったのはいつの事じゃ」

「文明九年(一四七七年)の四月よ」

「その頃、伏見屋殿はどこにおった」

「四月といえば、花見の宴も終わり、確か、風摩小太郎殿と共に播磨の方に行ったと思うが‥‥‥」

「そうです」と風輪坊が言った。

「思い出しました。お頭が近江の飯道山(はんどうさん)に来たのが、その年の三月でした。銭泡殿も一緒でした。お頭と銭泡殿はその後、播磨に行き、四月の末に、お頭は播磨から飯道山に戻って来て、わしらを連れて駿河に向かったのです。銭泡殿はその時、まだ、播磨にいると聞きました」

「分かったか。伏見屋殿はお前の仇ではない。円徳坊に利用されただけじゃ」

「本当なのか」

「本当じゃよ。そんな嘘はすぐにばれる。太田家の武士に聞いてみればいい。いや、もし、わしが道灌殿の軍師じゃったら、江戸の町人も知っておるはずじゃ」

「円徳坊はあたしを利用したのか‥‥‥」

「お前は、いつ、円徳坊と出会ったんじゃ」

「家族が殺されて、たった一人でさまよっていた時、助けられたのよ」

「そうか、円徳坊に育てられたのか」

「ええ‥‥‥円徳坊から武術も習った。そして、糟屋のお屋形ができてからは、そこに御奉公に上がって、お屋形様を訪れて来るお客さんの事などを円徳坊に知らせていたのよ」

「殿を殺すためにお屋形に奉公したんじゃな」

「ええ。江戸では道灌を殺す事は無理だ。道灌もあのお屋形内なら安心をする。機会が来るまで待てと言われて‥‥‥」

「という事は円徳坊の奴は、三年前から、道灌殿を殺そうとしていたというのか」と風輪坊が聞いた。

「仇を討つ時は助けてやると言ったけど」

「円徳坊としても三年前は殿を殺すつもりはなかったじゃろう」と竜仙坊は言った。

「今、思えば、そうかもしれない。あの時以前にも道灌を殺す機会は何度もあった。でも、円徳坊は何だかんだと言って手伝ってはくれなかった」

「お紺、どうじゃ。まだ、伏見屋殿の命を狙うつもりか」

 お紺は首を振った。

「これから、どうする」

「どうする? あたしを殺すんでしょ。道灌を殺そうとしたんだから」

「お前はただ利用されていただけじゃ。お前を殺しても誰も喜ばん」

「あたしを逃がすというの」

「ああ」

 お鶴はお紺を縛っている縄をほどいた。お紺は肩を落として、気の抜けたように俯いて座っていた。

「これからどうするつもりじゃ」と竜仙坊がもう一度、聞いた。

「お前を育ててくれた円徳坊はもうおらんぞ」

「あんな奴、死んで当然よ」

「育ての親じゃろう」

「あの男は、あたしを無理やり‥‥‥」

「やられたのか」

「仇を討つためだと、ずっと、我慢して来たのよ。あんな奴は死んで当然なんです‥‥‥」

「そうじゃったのか‥‥‥まあ、お前の事は風輪坊に任せるかのう」

「えっ」とお紺は顔を上げた。

「こいつはのう、お前に惚れたらしい。お前が現れるのを首を長くして待っておったぞ」

「竜仙坊殿‥‥‥いきなり、何ですか」

「本当じゃろうが」

「あたしの事を?」

「お紺さん」と銭泡が声を掛けた。

「もう、親の仇の事は忘れる事じゃ。これからはもっと自分を大事にするんじゃ。風輪坊殿は本当にそなたの事を思っておる。そなたもよく考えてみてくれ」

 お紺は風輪坊の方を見た。

「あなたが‥‥‥あたしの事を‥‥‥」

 風輪坊は照れ臭そうに頷いた。

「竜仙坊殿、越後はどうでした」と銭泡は聞いた。

 お志乃は銭泡に言って、一同を居間の方に移させた。お志乃は台所に下りて、お湯を沸かし始めた。

 居間に移った竜仙坊、風輪坊、お紺、お鶴、銭泡は輪になって座り、皆、竜仙坊が話し出すのを待っていた。

「すべてが分かった」と竜仙坊は皆を見回した。

「わしは越後に行く前に白井に行ったが、白井では何も得られなかった。越後まで行っても無駄じゃと思っておったが、以外にも、真相を知る事ができた。これも皆、亡くなられた殿のお陰じゃと思っておる。わしは越後に行って、まず、山伏らのたむろしている宿坊を当たってみた。何も得る物はなかった。お屋形にも忍び込んでみたが、そこでも何も得られなかった。当然、越後のお屋形様は殿が亡くなった事は知っていた。だが、誰に殺されたかを知っているのかどうかは分からなかった。次に守護代の長尾信濃守の屋敷を探った。信濃守はまだ若い男じゃったが、何となく、奴が臭いと睨んで、しばらく、奴の回りを調べてみた。うまい具合に円信坊という信濃守の配下の山伏が現れたわ」

「道灌殿の首を持ってですか」と銭泡は聞いた。

「いや、首は持ってはおらん。首の事はひとまず置いといて、信濃守が何をたくらんでいたかが分かったんじゃ。信濃守は殿を暗殺するだけでなく、もっと大きな事をたくらんでいたんじゃよ」

「もっと大きな事?」と風輪坊は聞いた。

「ああ」と竜仙坊は頷くと一同を見回した。

「すべての事の始まりは、越後のお屋形様が今年の三月に相模守(さがみのかみ)に任じられたという事じゃった。伏見屋殿、相模守というのが、どういう意味を持っているのか御存じですかな」

「いや。わしにはそういう事はよく分からんが‥‥‥」

「うむ。わしも知らなかった。備中守だとか尾張守だとか色々あるが特に意味などないと思っていた。昔はその国の守護職に就いた者がその国の守を名乗っていたらしいが、今はそんな事はない。中には勝手に名乗っている者も多い。ところが、相模守というのは重要な意味を持っていたんじゃ」

 竜仙坊はもう一度、皆の顔を見回した。

 皆、真剣な眼差しで竜仙坊が何を言い出すのか見守っていた。

「相模守というのはな、鎌倉幕府の頃の執権(しっけん)であった北条氏が代々、任命されていた官職名だそうじゃ。北条氏が滅び、室町幕府になってからは相模守に任命された者はおらんのじゃ。ところが、越後のお屋形様は正式に相模守に任命された。相模守の官職を手に入れるために莫大な銭を使ったらしいがのう」

「越後のお屋形様が関東を狙っておるという事ですか」と銭泡は聞いた。

 竜仙坊は頷いた。

「実際、今の関東を押えているのは越後のお屋形様といってもいい。古河の公方様と将軍様を和睦させるために奔走したのは越後のお屋形様じゃった。公方様も越後のお屋形様には借りがあるという訳じゃ。それに、管領は自分の息子じゃ。管領は上野の国と武蔵の国の守護職を持っている。越後、上野、武蔵の三国を越後のお屋形様が治めていると言ってもいいじゃろう。越後のお屋形様が次に狙うのはどこじゃと思う」

「相模です」と風輪坊は言った。

「そうじゃ。相模守となったからには相模の守護職を手に入れたいと思うのは当然の事じゃ。そこを守護代の長尾信濃守があおったという訳じゃ。相模の守護職は扇谷上杉氏じゃ。扇谷上杉氏とは共に公方様を相手に戦った仲じゃったが、公方様と和睦した今、扇谷上杉氏を潰すのは今しかないと信濃守は相模守に言ったんじゃ。今のうちに殿を倒しておかないと管領殿は殿にやられてしまうと言って、相模守をあおったんじゃ。相模守も、殿が関東にいる限り、関東を我が物にする事は難しいと思っている。相模守は信濃守に殿の暗殺を命じたんじゃ。信濃守はさっそく、相模守の命を白井の左馬助に伝えた。左馬助は殿の暗殺の事を聞いて驚いたが、管領である弟、そして、越後の守護職を継ぐ事になる自分のためだと言われ、殿の暗殺に踏み切ったらしい。信濃守は左馬助に越後の山伏を紹介して、すべてを左馬助に任せる振りをしたんじゃ」

「任せる振り?」

「そうじゃ。任せる振りをして左馬助の命で動いている山伏たちを、後ろで操っていたんじゃよ」

「どういう事です」

「殿を殺す事に成功した場合、その責任をすべて、左馬助に押し付けるためじゃよ」

「責任と言っても、それは手柄となる訳じゃろう」と銭泡は聞いた。

「確かに手柄となる。だが、暗殺では大っぴらには言えまい。手柄が逆に負い目となる訳じゃ」

「まだ、わしにはよく分かりませんが」

「越後のお屋形様は関東を狙っている。信濃守は、そのお屋形様を自由に操ろうとしているらしいのう」

「えっ、そんな事ができるんですか」と風輪坊が聞いた。

「できると思っているんじゃろう。若いわりには腹黒い奴じゃ」

「その信濃守とやらは、いくつなんです」

「見たところ、おぬしと同じ位じゃろう。三十になるかならんかというところじゃ‥‥‥越後のお屋形様の三男に、まだ十二歳の九郎というのがいるんじゃが、奴は、その九郎に家督を継がせようとたくらんでいる。お屋形様も先はそう長くない。嫡男の左馬助が跡を継ぐより、幼い九郎が継いだ方が自分の思い通りにできると思っているんじゃ。そして、お屋形様も関東にいる嫡男の左馬助よりも、側にいる九郎の方を可愛がっているんじゃよ。信濃守は左馬助を家督の座から降ろすために、殿の暗殺の全責任を左馬助に負わせたんじゃ」

「何という事を‥‥‥」

「道灌殿を暗殺した事を種に、左馬助を威すというのですか」と風輪坊は聞いた。

「多分、そんなところじゃろう」

「しかし、道灌殿を殺したのが左馬助だったと公表したところで、左馬助が失脚するとは思えませんが。返って、公方様や長尾伊玄らは、よくやってくれたと称えるでしょう。管領殿も喜ぶかもしれない」

「公表はせんじゃろう。多分、信濃守が狙っているのは殿の(たた)りじゃ」

「祟り?」

「非業の死を遂げた者の祟りじゃ。左馬助は自分の命で殿を暗殺したと思っている。暗殺にかかわっていた山伏たちが一人づつ狂い死にして行ったとでも告げれば、左馬助は怯える事じゃろう。やがて、眠る事もできなくなって憔悴して狂い死にしてしまう。そういう筋書きなんじゃろう」

「恐ろしい事じゃ」

「円徳坊もその信濃守の配下だったのですか」とお紺が聞いた。

「そうじゃ。信濃守の命で糟屋のお屋形を見張っていたんじゃよ。中道坊の配下になった振りをしてのう。弥吉もそうじゃ。弥吉は円蔵坊という山伏でな、若い頃は越後でかなり活躍していたようじゃ。豊島家の浪人者に扮して、曽我兵庫頭の屋敷に現れ、殿の暗殺を吹き込んだのも信濃守の配下の円福坊という奴じゃったらしい」

「という事は湯殿に隠れていた二人というのも、弥吉の手引きで忍び込んだ越後の山伏だったんですね」と風輪坊が聞いた。

「そうじゃ。実際は信濃守の配下で、白井の左馬助の命で、殿を殺すために湯殿に忍び込んだんじゃ」

「弥吉は本物の首をどこに持って行ったんです」

「白井じゃ。弥吉は騒ぎが治まった頃、仲間に渡したんじゃろう。白井に本物の首塚があったわ」

「白井に首塚があったのですか」と銭泡が驚いた。

 竜仙坊は頷いた。

「白井にあったのか」と風輪坊が呟いた。

「長尾氏の菩提寺である空恵寺の裏山にあった。大っぴらに殿の名前は書いてなかったけどな、間違いないじゃろう」

「この間、白井に行った時には見つからなかったのですか」

「ああ。空恵寺は白井の城下から一里程も離れた山の中にあるからのう。長尾氏にはもう一つ菩提寺があってな、雙林寺というんじゃが、そっちの方はこの前、調べた。しかし、空恵寺というのは分からなかったんじゃ。今、白井には長尾氏はおらんからのう」

「しかし、どうして、長尾伊玄の菩提寺に首塚を築いたんでしょう」

「それは分からんな。殿は長尾伊玄の宿敵じゃったから、長尾氏に捧げたのかのう。祟りが伊玄に行くように伊玄の菩提寺に葬ったのか、それとも、祟りを恐れて、城下から離れている空恵寺に葬っただけかもしれんしのう」

「首塚の様子はどうでした」

「立派な供養塔が建てられてあったわ。左馬助としても、殿に成仏してもらうために必死なんじゃろう」

「竜仙坊殿、道灌殿の首をそのままにしておくのですか」

「今更、掘り起こしてもしかたあるまい。殿には白井から関東の地を睨んでもらった方がいいかもしれん。あそこからは関東平野が一望のもとに見渡せるからのう」

「そうですか‥‥‥そうですね。その方がいいかもしれない」

「これで、ようやく、謎が解けた訳じゃ。一件落着じゃな」

「下手人は越後の長尾信濃守じゃったのか‥‥‥」と銭泡は呟いた。

 銭泡は二年前、信濃守に会った事があった。若い男だったが、守護代としてお屋形様に頼りにされていた。和歌や連歌にも熱心で、宗祇の弟子の宗観(後の宗長)から、色々と教わっていた。守護代でありながらも謙虚で素直な若者だと思っていたが、裏でそんな事をたくらんでいたとは、人は見かけだけでは分からないと思った。また、その位の事ができないと、この乱世を生き延びて行く事はできないのかもしれない。

 殺るか殺られるか‥‥‥武士の世界は非情だと改めて、銭泡は思っていた。また、非情だからこそ、一時の安らぎを求めて、茶の湯やら連歌会が戦の最中にも行なわれるのかもしれなかった。

 お志乃がお茶を持って来て、皆に渡した。

「わしの命はまだ、狙われておるんじゃろうか」と銭泡は言った。

「それは分からんのう。円徳坊は死んだが、奴らの仲間はまだいるからのう。この場所も知られてしまったし、長尾信濃守とすれば、今回の暗殺の裏に越後がいるという事は隠しておきたいじゃろうからのう。まだ、狙われるかもしれん」

「しつこいのう」

「奴らは目的のためには、人の命など何とも思わんのじゃ。今回、ここを襲ったのは、お紺、お前の命も狙っていたのかもしれん。真相は知らなかったにしろ、あの時、現場にいて、かかわっていたんじゃからな」

「それじゃあ、この先、あたしも狙われるというのですか」

「可能性はある」

「関東の地から出れば大丈夫でしょう」と風輪坊は言った。

「うむ、大丈夫かもしれん。ただ、殿を殺したのが、越後の上杉氏だったという事は口にしない方がいいな。それを知った者は殺される可能性が出て来るからのう」

「というと、お志乃も狙われるのか」

「ここにいたからには狙われるとみていい。伏見屋殿、女将さんを連れて、ここから離れた方がいい。風輪坊もお紺を連れて離れた方がいいな」

 銭泡はお志乃を見つめた。お志乃は銭泡に頷いてみせた。

 お紺は風輪坊を見つめていた。風輪坊もチラッとお紺の方を見たが視線をそらし、

「竜仙坊殿はどうするんです」と聞いた。

「もう、ここにおってもする事がないんでな。みんながここを去ったら、しばらくは大山に籠もるわ。この先、どうするか、じっくり考えてみるさ」

 一瞬、沈黙が流れた。

「皆さん、お酒でも召し上がりますか」とお志乃が言った。

「そうじゃな。謎は解けたしのう。命を狙われているのに祝い酒でもないが、今更、寝られんじゃろう。酒を飲みながら夜明けを待つかのう」

 お志乃が台所の方に行った。お鶴が手伝うため後を追った。

「お紺さんの気持ちを聞いていなかったのう。お紺さんとしては、これから、どうするつもりなんじゃ」と銭泡は聞いた。

「あたし‥‥‥あたし、今まで仇討ちの事しか考えて来なかったので、これからの事なんて‥‥‥あたし、道灌様を殺すためだけに生きて来ました。でも、道灌様は、あたしが知らないうちに殺されてしまった。自分の手で仇を討ちたかった‥‥‥そんな時、円徳坊より伏見屋様も仇だと聞いて、今度こそは自分の手でと思って、命を狙いました‥‥‥でも、失敗して、あたしは逃げました。円徳坊の所に戻るつもりはありませんでした。仇である道灌様は死にました。あたしが直接、殺した訳じゃありませんけど、一応、仇は死にました。これで、ようやく、両親も浮かばれるだろうと思いました‥‥‥でも、憎かった仇が死んだというのに、思っていた程、嬉しくとも何ともないのです。日が経つにつれて、仇を討ったからって、どうなるんだろうって思うようになりました。死んで行った両親たちは、あたしが仇を討ってくれる事を望んでいたのだろうかって思いました‥‥‥別の生き方もあったんじゃないのかって思いました。もう、伏見屋様を殺す事なんかやめて、別の生き方をしようとも思いました‥‥‥でも、あたしには、どうやったら別の生き方ができるのか分からなかったのです。仇を討つ事だけに生きて来たので友達もいません。頼れるのは円徳坊だけです。でも、円徳坊の所に戻るくらいなら死んだ方がましです‥‥‥あたしは死ぬつもりで、ここに来ました。ここにくれば、風輪坊様や竜仙坊様がいる事は分かっていました。伏見屋様と一緒に死のうと思って、ここに来ました‥‥‥ところが、伏見屋様は女の人と一緒でした。一人だったら伏見屋様を殺して、あたしも死んでいたかもしれない‥‥‥でも、女の人がいたので思い切って殺せなかった」

「そうじゃったのか‥‥‥お志乃がいたお陰で、わしは助かったのか‥‥‥」

「伏見屋殿だけじゃない。お紺自身も助かったんじゃ」と竜仙坊は言った。

「お紺さん、別の生き方をする事じゃ。風輪坊殿に何でも相談する事じゃな。結構、頼りになる男じゃよ」

「任せて下さい」と風輪坊はお紺を見た。

 お紺は俯いていた。お紺は急に、糟屋のお屋形での夜を思い出していた。あの時、お紺は裸で風輪坊と戦っていたのだった。あられもない姿を風輪坊に見られた事を思い出し、急に恥ずかしくなっていた。

 お鶴が酒を持って来て、皆に注いで回った。

「ようやく、終わったのう」と竜仙坊はうまそうに酒を飲んだ。

 銭泡は竜仙坊が酔い潰れてしまうのを心配した。

「なかなか、似合っておる」と銭泡は風輪坊とお紺に言った。

「銭泡殿、よして下さいよ」と風輪坊は照れ臭そうに言って酒を飲んだ。

 お紺が風輪坊に酒を注ごうとした。

「どうも」と風輪坊は頭を下げた。

「よろしくお願いします」とお紺も頭を下げた。

「やったね」とお鶴が笑った。

 お志乃が簡単な(さかな)を持って来て加わった。

「風輪坊様、よかったですね」

「めでたし、めでたしじゃ」と竜仙坊は大声で言って手をたたいた。

 もう酔ってしまったのかと銭泡は心配していた。

 竜仙坊は急に立ち上がると流行り歌を歌い始めた。皆、手拍子をしながら竜仙坊の歌に合わせた。決して、うまいとは言えないが、竜仙坊はおどけながら一生懸命に歌っていた。

 その歌は道灌が生前、酔うとよく歌っていた歌だった。銭泡も、道灌がおかしな身振り手振りで歌うのを何度か聞いた事があった。

 竜仙坊はおどけながら歌い続けていた。

 竜仙坊にとって、ようやく、道灌の死の決着がついたのだろう。自分の目と鼻の先で道灌が殺され、それを止める事ができなかった。もう少し気をつけて守っていれば、あんな事は起こらなかったかもしれないと責任を感じていたのかもしれない。せめて、何者に殺されたのか、自分の手で探らなければならないと竜仙坊は決心したに違いない。それが、今まで道灌に仕えていた自分の最後の仕事だと決めたのだろう。

 ようやく、それも分かった。その事を道灌の墓に報告する事によって、竜仙坊の最後の仕事は終わる。

 道灌を殺した張本人は越後の長尾信濃守と分かったが、竜仙坊は信濃守を道灌の仇として暗殺する気はないようだった。信濃守が道灌を殺したのが真実でも、道灌の命を狙っていたのは信濃守だけではなかった。古河公方である足利成氏、管領の山内上杉顕定、扇谷上杉定正、長尾伊玄、駿河の小鹿新五郎、そして、豊島家を初めとした道灌に滅ぼされた者たちの残党、すべてが道灌の仇と言えた。それらの者たちをすべて、殺す事は不可能だった。道灌の仇を討つ事は竜仙坊の仕事ではない。道灌を殺した下手人を突き止めるまでが自分の仕事だと心得ているのだろう。

 竜仙坊は男泣きしながらも踊り続けていた。

 すでに、外は明るくなり始めていた。





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