酔雲庵


藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉

井野酔雲

創作ノート




「藤吉郎伝」の年表





1400年頃 今川仲秋、尾張守護として入部する。
1475年 西軍の斯波義廉、織田敏広に擁立されて尾張に下り、下津城に入る。
1478年 8月 東軍の織田敏定、尾張に入部し清洲城を築き、斯波義敏父子を迎える。
1479年 正月 織田敏広と織田敏定、講和し、尾張を上四郡と下四郡に分ける。
1480年 織田敏広(妻は斎藤妙椿の娘)死す。寛広が継ぐ。寛広、岩倉城を築き移る。
1483年 斯波義敏(1435−1508)の子義寛、織田敏定に迎えられる。
1485年 9月 漆桶万里、清洲城の備後守敏信邸にて犬追物を見物する。
1517年 8月 義寛の子義達(1488−1521)は織田大和守達勝に擁立されて清洲にいたが、遠江の今川氏親と戦って敗退し、剃髪して死を免れる。
1518年 4月 松平長親、三河国明眼寺に宗長を招き連歌会。
1523年 閏3月 京極高清、浅井亮政の攻撃を避けて尾張に逃げる。
1525年 今川氏親の子氏豊(1522−,4)、尾張今川家の養子となり那古野城に入る。
9月 浅井亮政、六角定頼に敗れて、越前の朝倉氏を頼る。翌年には復帰する。
1526年 宗長、守山の松平与一信定(織田信秀の姉婿)の屋敷にて織田筑前守、同伊賀守、小守護代坂井摂津守らと連歌会。
宗長、清洲の坂井摂津守屋敷に泊まり、連歌会。
宗長、小田井の織田筑前守良頼の息、藤左衛門(信秀の伯父)屋敷に泊まる。
宗長、津島の正覚院に泊まる。三郎信秀(19)、挨拶に赴く。
6月23日 今川氏親(54)死す。
松平清康、今川方だった東三河の平定に乗り出す。
1527年 8月 土岐頼芸、土岐頼純を越前に追放し美濃国守護となる。
1529年 7月17日 松平清康(1510−35,20)、尾張に侵入し品野城(東春日井郡)、岩崎城を攻略する。
品野城に松平信定が入る。
1532年 織田信秀、対立していた清洲の織田大和守達勝と和睦する。
1533年 7月 織田信秀(26)、山科言継(27)と飛鳥井雅綱(45)を勝幡城に招待する。
二人は那古野にも行き、今川氏豊(12)に蹴鞠を指導する。
この年、なか(17)、弥右衛門(21)と祝言を挙げる。
この頃、中村は今川家の領内。
1534年 藤吉郎の姉、とも生まれる。
織田信長、勝幡城にて生まれる。幼名は吉法師。
織田信秀(27)、熱田を押さえるため、古渡城を築き、勝幡より移る。
1535年 12月5日 三河の松平清康(26)、今川氏輝の支援のもと守山城に出陣するが家臣に殺される。
12月12日 信秀、三河岡崎城まで攻めるが敗退する。
桜井の松平信定、織田信秀と内通し、広忠を岡崎城から追い出す。
1536年 3月17日 今川氏豊の兄、駿河の氏輝(24)死す。
6月 内乱の後、義元(18)、今川氏を継ぐ。
7月 天文法華の乱。
9月 松平広忠(11)、信定に攻められ、駿河に逃げ今川義元を頼る。
1537年 藤吉郎、尾張中村にて生まれる。
五右衛門、伊賀石川村にて生まれる。
2月 今川義元、武田信虎の娘を妻に迎える。
4月 今川義元、遠江見付城の堀越氏延を攻め滅ぼす。
6月25日 松平広忠、今川義元の支援のもと、岡崎城に復帰する。
これ以後、松平氏は今川家の被官となる。氏豊のいる那古野まで、今川一色に染まる。
1538年 3月 織田信秀(31)、今川右衛門佐氏豊(17)の那古野城をだまし取る。
木下弥右衛門(26)、今川氏豊の城兵として那古野にて戦死する。
藤吉郎は母に連れられ杉原家に避難する。
今川方の木下一族は滅亡、中村は信秀の支配下となり織田敏秀の領地となる。
那古野城に信長(5)を入れる。池田恒利戦死する。
この年、松平方の岩崎城を奪い返し、丹羽氏識に与える。氏識、新たに築城する。
1539年 9月 母、なか(23)、中村出身の茶坊主、筑阿弥(39)と再婚する。
11月 勝幡城主、弾正忠信定(51)死す。
1540年 藤吉郎の義弟、小一郎、生まれる。
6月6日 信秀、三河に攻め入り、安城城を奪い、長男の三郎五郎信広を入れる。
これ以後、松平家の内訌は激化、宿老の酒井忠尚や松平忠倫は信秀に通じる。
この年、信秀、伊勢神宮の遷宮に協力し金子、材木を整える。
1541年 6月14日 武田信虎、子の晴信に追われ、駿河に行き今川義元を頼る。
1542年 8月10日 信秀、三河に攻め入り、今川、松平軍を破り、矢作川以西は織田氏の勢力内となる。
8月23日 斎藤利政(道三)、主人土岐頼芸を遂う。頼芸、尾張に逃げる。
1543年 2月14日 信秀、平手政秀を京都に上らせ、内裏の修理費四千貫を寄進する。
8月25日 ポルトガル船、種子島に鉄砲を伝える。
藤吉郎の義妹、麻、生まれる。
1544年 藤吉郎(8)、光明寺に入れられる。
2月 将軍義晴、種子島銃の製造を近江国友鍛冶に命じる。8月に六匁の鉄砲2挺を献じる。
9月 三河水野信元、今川義元に背き、織田信秀に属す。
朝倉、織田両氏、土岐氏を助けて、美濃に入り井口城を攻め、信秀大敗する。
11月 連歌師宗牧、天皇の女房奉書と古今集一部を携えて古渡城に来る。
12月 宗牧、今川氏を訪ねる。
1545年 8月 今川義元、北条氏康と駿河に戦う。武田晴信、義元を助ける。
9月20日 松平広忠、安城城の奪回を図るが、信秀の援軍に敗れる。
この年、堺の橘屋又三郎、種子島にて鉄砲の製作法を学び、堺に帰る。
1546年 藤吉郎(10)、光明寺を追い出され、伯母の杉原家に厄介になる。
10月 京都に土一揆蜂起する。
11月 今川義元、三河渥美郡今橋(豊橋市)吉田城の戸田宣成を攻め滅ぼす。
この年、信長、古渡城にて元服し、三郎信長を名乗る。
1547年 8月 松平広忠、子の竹千代を質として今川義元を頼る。
田原城主戸田康光、竹千代を奪い織田に送る。当主を失った松平領国は今川領国となる。
9月 今川義元、三河渥美郡田原城の戸田康光を攻め滅ぼす。
9月22日 織田信秀、美濃を攻めるが敗れる。加納口合戦。
犬山の与次郎信康、織田因幡守、青山与三右衛門ら大勢戦死。
信秀が美濃大垣に出陣している隙を狙って、清洲の老臣、坂井大膳、同甚助、河尻与一ら古渡城を攻め、町々に放火する。
平手政秀、清洲方との和平に尽くす。
この年、信秀、建仁寺禅居庵に摩利支天堂を建立する。
10月 信秀、三河岡崎に出陣。
藤吉郎(11)清洲で鍛冶師をしている祖父のもとに厄介になる。
11月 斎藤利政再び、大桑城に土岐氏を討つ。
1548年 信秀、今川氏に対するため、城を古渡から末森に移す。
3月19日 信秀、小豆坂合戦にて今川、松平軍に敗れる。
信秀、美濃の斎藤道三と講和を結び、道三の娘を信長の妻に迎える事を約す。
頼芸、美濃に帰国。
1549年 1月17日 信秀、粕井口に出陣した犬山城の織田信清を追い返す。
2月24日 道三の娘、胡蝶、信長に嫁ぐ。輿付は堀田道空。
3月3日 信秀、末森城にて死す。信長(16)家督を継ぎ、弟信行を末森城に入れる。
3月6日 信秀、松平広忠(25)を暗殺する。当主を失った松平領国は今川領国に編入され、松平家臣団は解体再編されて今川家臣となり、上級家臣は駿府に移る事となる。
岡崎城には今川家臣が城代として置かれ、松平直轄領は今川氏の支配するところとなる。
刈谷城主の水野信元を除き、三河は今川領となる。
犬山の信清、反乱を起こす。
7月 信長、国友鍛冶に六匁玉の鉄砲500挺?を注文する。
11月10日 今川義元、三河安祥城を攻め、城主織田信広(信秀の子)を捕らえる。
松平竹千代、織田信広と人質交換され、尾張から駿府に移る。
11月 信長の名で熱田八ケ村に制札を与える。
1550年 藤吉郎(14)、祖父のもとから中村に帰るが、また、飛び出し、岩倉城下の従姉、浅野又右衛門の妻を訪ねる。岩倉城下で様々な仕事をやる。
6月 義元の夫人武田信虎の娘死す。
8月3日 今川義元、慶覚坊に駿河、遠江の山伏の管掌を命じる。
10月 国友鍛冶、鉄砲500挺?を完成させ、信長に渡す。
11月1日 信秀の名で祖父江金法師宛安堵状を発給。
12月23日 笠寺観音に備後守判形に任せて安堵状を出す。
1551年 藤吉郎(15)、生駒家の商人に連れられ、生駒屋敷に行く。
藤吉郎、蜂須賀小六(25)らと出会う。
3月3日 織田信秀の葬儀が那古野城下の万松寺にて行われる。
この年、信長の侍女中将、信長庶長子『乙殿』を産む。後の左京亮、雅楽頭。
7月 藤吉郎、駿河に旅立つ。
11月 藤吉郎と五助、松下佐右衛門に仕える。
1552年 4月17日 信長、今川に寝返った鳴海城の山口左馬助父子と赤坂にて戦うが勝敗は決せず。
この頃の信長の兵力は800人。
8月15日 清洲城の坂井大膳らが松葉城の織田伊賀守と深田城の織田右衛門尉を人質に取り、信長ら叛旗を翻す。斯波義統、信長に知らせる。
8月16日 信長は守山城の叔父孫三郎信光の援軍を得て萱津で大膳らを撃破し、ついで松葉、深田両城を回復し、守護代家を孤立させる。
10月 五助、松下屋敷を逃げ出し、伊賀に帰る。
11月 今川義元の長女、武田晴信の嫡子義信に嫁ぐ。
12月 斎藤道三、土岐氏を撃滅する。
1553年 閏1月 平手政秀、信長の素行を諌めて切腹する。
4月 信長、今川に通じた鳴海城の山口左馬助父子を攻める。
信長、斎藤道三と尾張富田聖徳寺にて会見。鉄砲隊あり。
11月 義父、筑阿弥(54)死す。
1554年 信長、大風の中を知多郡西岸に渡海し、小河城の水野信元を救援する。
5月 五助、お夏を連れて、松下屋敷に来る。
6月 藤吉郎(18)、五助とお夏を連れて、尾張中村に帰る。
7月 藤吉郎と五助、生駒屋敷に居候する。
7月 今川義元の嫡子氏真、北条氏康の娘を娶る(甲相駿三国同盟)。
7月12日 斯波義統(42)、織田広信の家臣坂井大膳に殺される。義統の子、義銀は信長を頼る。
7月18日 信長は弟勘十郎の家臣柴田勝家らに命じて清洲を攻撃させる。安食の成願寺の前で戦いが繰り広げられ、清洲衆の有力な武将30騎余りが討ち取られる。
この合戦で、小坂久蔵、小坂源九郎は戦死する。
7月末 藤吉郎と五助、京都に旅立つ。
この年、信長庶次子信正生まれる。母は塙直政妹。
1555年 4月20日 信長、叔父信光と諮り守護代織田彦五郎信友を殺し清洲城を奪取。坂井大膳は駿河に逃げる。
右兵衛佐義銀(1540−1600)を斯波家当主とし、信長は守護代として那古野から移城。
叔父の信光が那古野に入る。守山城には叔父の孫十郎信次が入る。
7月6日 信長の弟喜六郎秀季が叔父孫十郎信次の家臣に誤って射殺される。
信次は信長の報復を恐れて出奔した後、年寄衆は守山に籠城するが、勘十郎信勝は城下に火を放って裸城となし、さらに信長の包囲攻撃により開城する。そして、信長の弟安房守秀俊が守山城主となる。
7月 藤吉郎、尾張に帰り、蜂須賀小六から鉄砲を習う。
閏10月 太原崇孚死す。
11月22日 美濃の斎藤義龍、弟孫四郎、喜平次を殺す。
11月26日 叔父信光、家臣の坂井孫八郎に殺される。那古野城は林秀貞が城代となる。
1556年 4月20日 斎藤道三(63)、信長に美濃を譲る事を遺言し、子義龍と戦い敗死す。
信長は救援に向かうが、間に合わず、岩倉が謀反したため引き下がる。
5月 那古野城代林佐渡守の弟美作守、信長とその弟秀俊の誘殺を企て失敗する。
6月 守山城主、織田秀俊、家臣に殺される。出奔中の信次を赦免し守山城を与える。
7月 信長、風流で天女に扮し女踊りを舞う。
8月24日 林佐渡守通勝、織田信勝の老臣柴田勝家、信長に背く。信長、稲生にて林らを破る。
信勝は末森城に籠城したが、母親の嘆願により信長から赦免される。
稲生合戦に前野党、生駒党参陣する。佐々孫助戦死。
9月下旬 明智氏の長山城落城。信長は救援を頼まれるが断る。光秀は越前丸岡に逃げる。
吉乃(19)、生駒屋敷に戻る。
この年、庶兄三郎五郎信広、美濃の斎藤義龍と諮り清洲城攻略を企てる。
この年、信安、岩倉城を去り美濃白金に隠居する。
この年、信長、三河加茂郡寺部城の鈴木重辰を寝返らす。
12月 藤吉郎、織田信長に仕える。
1557年 1月 今川義元、氏真に家督を譲る。
10月 吉乃(20)、信長の嫡子奇妙丸(信忠)を産む。
11月2日 信長の弟信行、再び背き、信長病気と偽り、清洲城に信行を誘殺する。
1558年 3月7日 信長、今川方の春日井郡の品野城を包囲するが、城将松平家次の急襲を受けて大敗。
3月 信長、今川の支配下にある瀬戸の井田城を攻めるが敗れる。
4月 今川義元、松平元康をして、三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めて降ろす。
5月 信長、犬山の信清と共に岩倉の織田信賢と丹羽郡浮野で戦って破り、岩倉城を攻める。
7月12日 岩倉城主信安は家督を次男の信家に譲るつもりだったが機先を制した長男信賢に追放されてしまう。
信長はこの内紛に乗じて、犬山城の織田信清の援軍を得て浮野で信賢を迎え撃ち、1250もの首を取る。
林弥七郎、橋本一巴の鉄砲と相打ちで死す。於祢(11)は浅野長勝の養女となる。
この年、吉乃、信長の次男茶筅丸(信雄)を産む。
この年、信長、末森城を破却する。
1559年 2月 信長上洛し、将軍義輝に拝謁。堺を訪ね、鉄砲を求める。
3月 信長、岩倉城の織田信賢を追放し、尾張平定に近づく。
10月 吉乃、信長の長女五徳を産む。
1560年 1月 信長、瀬戸の品野城を攻略する。
5月5日 信長は今川氏の機先を制して三河吉良地方に出勤し放火して回る。
5月19日 信長、今川義元(42)を田楽狭間に急襲し討ち取る。松平元康、岡崎に帰城。
6月3日 信長、美濃に侵入するが敗退。
8月23日 信長、美濃に侵入するが敗退。
1561年 3月 松平元康、今川の部将板倉重定を岡崎城から追い払う。
5月 信長、三河加茂郡に侵入し、挙母城の中条氏を滅亡させる。
以後、この地域一帯は高橋郡と呼ばれ、1590年まで尾張国分として扱われる。
5月11日 美濃稲葉山城の斎藤義龍が急死する。
5月14日 信長、美濃に侵入し、墨俣の砦を奪取する。
5月23日 信長、墨俣を拠点として斎藤氏と戦い勝利する。信清の弟、勘解由左衛門戦死。
6月 信長、稲葉山城を攻め、城下に放火する。織田越中守戦死。
1562年 1月15日 信長、三河の松平元康を清洲に招き同盟を結ぶ。
2月 信長、近江国友村の鍛冶に鉄砲200注文する。
1563年 1月 藤吉郎、足軽鉄砲隊百人の頭になる。俸禄50貫文。
4月 藤吉郎(27)、浅野又右衛門の養女於祢(16)と祝言を挙げる。
7月 信長、小牧山に城を築き、移る。
1564年 藤吉郎、鵜沼城、伊木山城の攻略に成功し、鏡野、幅上、芋ケ瀬600余貫の地を宛てがわれる。
1565年 藤吉郎、稲葉山城の功績により、加納表併せ1600有余貫文の身上となる。
1566年 9月13日 吉乃死す。
1567年 8月15日 信長、稲葉山城を落とす。




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