酔雲庵


藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉

井野酔雲

創作ノート







「武功夜話」より



  • 尾張と美濃の境界は不明瞭で葉栗郡の場合は美濃は尾張領内をしばしば侵していた。
  • 天文、弘治(1532〜57)の頃、川並衆は岩倉七兵衛(伊勢守)信安の旗下として美濃勢と戦う。
  • 信長が跡を継いだ頃は美濃方は川並衆を取り抱え、加賀の江や黒田辺りへ乱入しては上郡を窺い、尾張にとっては危ない状態にあった。
  • 前野小次郎宗康は岩倉七兵衛の奉行役を務める。
  • 海東郡の勝幡に織田弾正忠信秀、上の郡木下城に弟の織田伯厳(信康)。
  • 丹羽郡稲木庄於久地(小口)の城には弘治(1555〜57)の頃まで信秀の弟、信康がいたが、美濃側の鵜沼には斎藤の将、大沢治郎左衛門正秀が出城を構えていて、しばし侵入を企てたので、信秀と相談し、木下という所に新城を構えた。於久地の城には老職の中島左衛門が城代として入る。
  • 於久地の城は広大な構えで二重の堀は厳重かつ堅固だった。信康の時世では皆が力を合わせ、信秀の指図に従い、岩倉信安ともども仲良く治まっていた。
  • 信秀は岩倉の伊勢守信安と清洲の尾張守(彦五郎)を凌ぐ勢いとなり、上四郡のうち大介川以東は、半ば信秀の支配する所となる。
  • 前野小次郎高康(宗康の4代前)は岩倉織田家に仕え、158貫文を領した。宗康の代まで、奉行職を務め、城の南東の地に前野屋敷を賜った。
  • 岩倉伊勢守の領地は三千貫文。
  • 前野助六(1552−1605)と生駒隼人(八郎右衛門三男、1575−1670)は尾張衆では同輩だった。
  • 信長が生駒屋敷に通った時、近習を十有余人を従え、その中に前野小右衛門長康もいた。
  • 1555年正月、吉乃が男子を産んだ時、一陽来復と無礼無講のお触れがあり、雲球(八郎右衛門)が扶養中の浪人衆、親戚縁者の家人、召し使いの下男下女、若党、小者にいたるまで、馬場前のたまりに 夜の更けるのも忘れて乱舞した。
  • 春日井郡粕井の地は信秀の頃から、織田家の御台地として定められ、前野孫九郎雄吉(長康兄)は粕井、篠木の御台地の三千貫文の代官として吉田という城にあった。後年、織田信雄の傅役となり、三 千貫文を給されて親類の小坂氏を継いだ。
  • 信清は信秀の死後、岩倉七兵衛と対立し、大和守広信と結び、春日井郡粕井、篠木の三千貫文を掠め取ろうと企む。前野宗康は粕井御台地の代官、小坂久蔵正氏と比良の佐々内蔵助に直ちに知らせると共に、蜂須賀党らと信清の寄せ手を防ぐ。
  • 1554年7月12日の夜中、清洲の織田彦五郎広信は家老の坂井大膳にそそのかされて、武衛(斯波義統)の屋敷を取り囲み火を放つ。下郡の織田伊賀守、信長の叔父源三郎信光らも加担する。報を受けると 信長は駆けつけたが義統は火中にて自害し、信長は義統の嫡男を那古野に伴い庇護する。この合戦の 折り、小坂久蔵正氏、小坂源九郎正吉は彦五郎の居城松葉での合戦で戦死する。
  • 1555年6月、清洲城下の再建のため、信長は夫役の百姓に一人につき六合を宛てがう。近郷の百姓は競って集まり、普請に精を出す。
  • 岩倉信安は日々、猿楽や歌舞三昧に興じ、信長もそれを好み、度々、岩倉を訪れていた。
  • 生駒蔵人家宗は犬山城の伯厳(信康)と入魂だったが、信長が生駒屋敷に出入りするようになると、八郎右衛門と十郎左衛門信清は不仲となる。
  • 於久地三千貫文の地は岩倉の伊勢守の領地であったが、敏信が美濃にて戦死し、跡を継いだ六郎信安が幼かったため、犬山の信康が後見人となり於久地を支配した。ところが1547年、信康は美濃の瑞竜寺山にて戦死し犬山衆も多く戦死した。信秀の死後、犬山の信清は於久地を横領する。信安は異議を唱え、信長に言上するが、信清は返還しようとはせず、御台地へも兵を入れた。信安は立腹し、美濃の斎藤左兵衛義龍を頼んだ。岩倉の奉行役を務めていた前野氏は困難な立場に立った。信長は岩倉信安のもとに前野小次郎宗康を遣わし、犬山信清のもとに生駒八郎右衛門を遣わした。信長は信安を隠居させ、嫡子の兵衛信賢に跡を継がせる。信清は八右衛門の説得により信長方となる。
  • 1557年11月、信安は信長の弟信行と謀り、信長に謀反する。
  • 1558年、前野小次郎宗康、前野孫九郎雄吉、前野小太郎長康、前野小兵衛勝長、森甚之丞正成、森清十郎正好、蜂須賀彦右衛門正勝、坪内惣兵衛為定、前野喜左衛門義康ら十余人が、生駒屋敷にて信長と会う。小六は往環自由の御墨付きを貰い、小太郎は45貫文宛てがわれる。
  • 1558年5月28日、信賢の叔父七左衛門が大将となり、一千八百余を率いて浮野原に打って出るが、昼下がりには清洲勢に打ち負かされ、多くの死傷者を出し、城内に逃げ帰るが城兵は300足らずとなる。翌年、岩倉城は落城。前野小兵衛ら、信賢を美濃に逃がす。
  • 藤吉郎の生まれは親代々、百姓をもって生業とする村長役人の家、同郡内の松葉城、織田右衛門支配の百姓。天文(1532〜54)期以来、度々の兵乱によって田畑は荒廃し、百姓の多くは逃散して失家が 多く、殊に下の郡ではおびただしかった。松葉城主、右衛門は浪人を多数召し抱え、武備は怠らなかったが、ゆえに、軍用金も必要とあって反銭、夫銭を旧に増して厳しく取り立て、怠ると厳罰に処したため百姓の中には身代を潰す者も数知れぬ有り様だった。中々村は大きい村だったが、失家二十有戸で貧村と相成った。藤吉郎の家は代々、組頭を務めていたが、天文の年に父が戦死し、後ぞえの義父と折り合わず、口減らしのため、寺奉公に追い出された。寺には3年を経ずして追い出され、村にもどるが、13歳の時、出奔し東へと旅立つ。1556年、生駒屋敷に来て小才をもって取り入り、蜂須賀小六に召し抱えられる。吉乃が戻って来ると、吉乃の身近に仕え、吉乃の口添えで信長に仕え、吉乃への使い走りをそつなく務める。やがて、足軽となり、出世する。
  • 1555年夏、藤吉郎(19)は生駒屋敷にいた。尾張は素より、三河、遠江、駿河、美濃の情報に詳しい。
  • お祢は丹羽郡浅野郷、浅野又右衛門長勝の娘。その実は同村の住人、林孫兵衛の妹。父の林弥七郎は岩倉退治の時、戦死。又右衛門も岩倉の家人で、岩倉落城後、弓矢に優れた器量人ゆえ、浅野村の中で260貫文を宛てがわれ、信長に仕える。又右衛門には男子がいなかったため、蜂須賀小六の縁で、安井弥兵衛の子、弥平次を 養子に迎える。弥平次の兄は安井長兵衛。
  • 1560年、蜂須賀小六は前野小右衛門、蜂須賀小一郎、村瀬兵衛門、村瀬於亀、武藤九十郎、小木曽平八、稲田大炊助、前野右京進らを引き連れ、今川義元を探るため三河に赴く。
  • 佐々内蔵助は1561年の三河梅坪合戦で活躍し春日井郡のうち八千貫文を与えられ、黒母衣組の筆頭となる。前野長兵衛は戦死し、子の喜左衛門は280貫文宛てがわれる。
  • 1563年、木下藤吉郎、馬5匹、足軽130(鉄砲60、槍60)をもって伊木山を攻める。馬上は藤吉郎、弟の小一郎、浅野又右衛門、林孫兵衛、木下源助。
  • 松川瀬の草井清兵衛忠次(船頭衆)。
  • 前野村の北西8町ばかりの所に宮後村がある。
  • 三輪氏は宮後村の住人。
  • 前野孫九郎は丹羽氏の娘を室としていたが、病死後。後添えとして三輪氏の娘を娶る。
  • 生駒家の浪人は三十有余人。
  • 美濃と尾張の国境に大河があり、この川の中洲に居を構え、群れ集う事は往昔から盛ん。その数は数千人、いつも両国の形勢を見ては進退巧みにした。
  • 1565年、蜂須賀小六、前野小右衛門、藤吉郎に仕える。
  • 森甚乃丞の妹、露乃は吉乃の侍女。
  • 松倉には前野又五郎(長老)、坪内惣兵衛勝定、坪内喜太郎利定がいた。
  • 和田新助、青山小助は蜂須賀党。
  • 1570年、羽柴筑前守は浅井旧領、坂田、浅井、伊香3郡、都合十二万二千三百石を領地とする。勘定奉行に浅野弥兵衛、杉原七郎左衛門が任じられ、検地を行なう。
    ・6尺3寸の竿をもって1間と定め、1間四方を1歩、300歩をもって1反と改める。
    ・それまでの1貫を米にして4石とし、うち6分を年貢と定める。
    ・旧浅井3郡の浅井郷、伊香郷、坂田郡は合計九千二百町歩で三万五百七十五貫文であったが、これを石高制にして十二万二千三百石となった。
  • 今浜城築城の時の御城御普請方御奉行は蜂須賀小六正勝と前野将右衛門長康。係は藤堂与右衛門高虎、青木勘兵衛一矩、真野右近将助宗、加藤作内光泰。



  • 那古野時代の信長の軍勢は800人。
  • 信長の小姓‥‥‥前田犬千代、池田庄三郎、丹羽万千代。
  • 川並衆‥‥‥平生は船頭や水運業を営むが、戦になれば形勢のいい方に味方し稼ぐ。
  • 犬山城の織田信清の妻は信秀の娘。信秀の死後、信長の政略によって嫁ぐ。
  • 岩倉城‥‥‥東西60間、堀割西口大門は土塁のみ、本丸館は平屋造り間口21間、奥行13間、望楼二重にそびえる。



  • 生駒氏‥‥‥尾張稲木庄柳橋郷郡村。太夫家と呼ばれ、金銀多く蔵し、居屋敷は広大、土居掘割りを巡らし、この掘割り深く水をためて堅固なる土居内に土蔵三棟立ち並び、木戸厳重にして木立ち生い茂り、まことに結構なる構え。
  • 生駒屋敷の居候‥‥‥越中浪人の兵法指南者、遊佐河内守。加賀浪人の兵法者、富樫惣兵衛為定。
                   伊勢河内中江の住人、森小一郎とその次男、森甚之丞正成。
                   美濃可児郡の土田甚助親正。肥田孫左衛門。尾張中々村在の木下藤吉。
  • 蜂須賀小六正勝‥‥‥丹羽郡稲木庄宮後郷の安井弥兵衛の家に寓居。安井屋敷は南北八十間、東西六十間。西北の大竹林の馬隠しの場、南東の土居内の八幡社。東口、古川筋の沢沼、古川から水を引き込んだ幅七間の堀。東北方向に清水の湧出する所あり、四季を通じて水量は豊か。東方は前野の境まで起伏が連なり、原野にして雑木が生い茂り、狐狸の住処となり、六町の間というものは茫草の地で、古来、馬捨て河原と呼んだ。小六が安井屋敷に滞在したのは天文(1532〜54)の初め。小六の配下の無頼者一千有余人。尾張と三河の境にある川筋の諸村には、以前から蜂須賀党の者たちが昵懇にしている者たちが散在していた。配下に前野小右衛門、蜂須賀小一郎、村瀬兵衛門、同於亀、武藤九十郎、小木曽平八、稲田大炊介稙元、前野右京進、和田新助、青山小助ら。
  • 前野小右衛門長康‥‥‥小六の舎弟分。
  • 小坂孫九郎雄吉‥‥‥前野長康の兄、母方の小坂家を継ぐ。尾張春日井郡粕井、篠木の御台地の三千貫文の代官として吉田城にあった。後年、御茶筅(織田信雄)様の傅役となる。岩倉七兵衛の家臣。妻は三輪氏。
  • 織田備後守信秀(1508−49.3.3)‥‥‥弾正忠。葬儀は1551年3月。
  • 織田孫三郎信光(−1555.11.26)‥‥‥守山城主。信秀の弟。家臣の坂井孫八郎に殺される。
  • 織田伊勢守信安(−1591)‥‥‥七兵衛尉、岩倉城主。猿楽、歌舞三昧に興じる。妻は斎藤妙椿の娘。
  • 織田十郎左衛門信清‥‥‥下野守、犬山城主。
  • 織田大和守広信(−1555)‥‥‥彦五郎、清須城主。
  • 堀田道空‥‥‥尾張津島の人。
  • 平手三位政秀(1493−1553)‥‥‥信秀の家老。
  • 吉乃‥‥‥生駒雲球(家長)の妹。美濃との縁談が決まった後、丹羽郡井上庄の井上屋敷に移し隠す。奇妙丸、茶筅丸は井上屋敷にて誕生する。井上村の土田屋敷は雲球屋敷から南東六、七百メートル先方にある。吉乃の姉は須古(中江殿)といい、前野村の森甚之丞正成の妻。侍女の露乃は森正成の妹。
  • 胡蝶‥‥‥1555年の吉日、信長に嫁ぐ。
  • 清須城下‥‥‥信長、1556年6月に清須城に入り、城下町を建設する。
  • 1556年、生駒屋敷にて、たまたま居合わせた蜂須賀小六に仕える。
  • お禰‥‥‥丹羽郡浅野郷の浅野又右衛門の娘であるが、実は同村の林孫兵衛(木下家定1543−1608)の妹。親の林弥七(杉原定利)は岩倉退治の時、戦死し、兄妹が幼かったため、又右衛門が養育した。安井家には男子がいなかったため、蜂須賀小六の縁である安井弥兵衛の子、弥平二を猶子とした。後の浅野弾正長政である。





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