3 どうして、こんなふうになっちまったんだ
忠次が嫁を貰ってから一年が過ぎた。 初めの頃、年下の忠次に何事も従っていたお鶴も、嫁に来て一年が過ぎると新しい生活にも慣れ、だんだんと姉さん風を吹かすようになった。母親ともうまくやり、朝から晩まで母親と共に働き続け、忠次はのけ者にされたような感じだった。 「ねえ、まだ、免許が貰えないの? 一体、いつになったら道場が開けんのよ」 「そんな簡単に取れりゃア、誰だって道場主になれらア。免許を取るってえのは、うんと難しいんだ」 「早く、取ってよね」 「わかってらア。それよりよお、たまにゃア仕事を休んで、どっかに遊びに行こうぜ」 忠次はお鶴を抱き寄せようとするが、 「なに言ってんの。そんな暇なんかないわよ」とつれなかった。 家にいても面白くなく、また、フラフラと遊び歩くようになって行った。 清五郎と富五郎は三室村の勘助の子分になり、 勘助は一家を張ると言っていたが、千代松の言った通り、親に反対されて、三室村に一家を張る事はできなかった。仕方なく、 千代松は勘助の子分にはならず、忠次と共に本間道場に通っていた。しかし、嫁を貰ってから お鶴と喧嘩をして、ムシャクシャしていた忠次は内緒で銭を持ち出すと、昼過ぎに家を出た。 赤とんぼが飛び回り、北風が道端のススキの穂を揺らせていた。 からっ風にはまだ早いが、風は冷たかった。 忠次は懐手をすると風に押されるように、フラフラと南へと歩いて行った。足は自然と隣村の嘉藤太の家に向かっていた。嘉藤太には会いたくなかったが、久し振りに 当時、博奕は厳しく禁じられていた。しかし、庶民の娯楽として日常茶飯事のように行なわれていたのが実情だった。気心の知れた仲間が集まれば、いつでも、どこでも博奕が始まった。仲間の家は勿論の事、畑の中や道端、寺社の境内、坊主が混じって本堂でやる事もある。その中に女子供が加わっている事も珍しくはなかった。だが、そこらでやっている博奕では大金は動かない。ほんの 大金が動く博奕場は 国定村でも 祭りの時は大金の動く賭場が開くが、普段はそんな賭場はない。ところが、嘉藤太の家で勘助が貸元になって、いつでも賭場を開いているという。忠次はその噂を聞いていたが、今まで行こうとは思わなかった。しかし、今日は無性に博奕が打ちかった。博奕が打ちたいというより、以前のように清五郎や富五郎たちと一緒に遊びたくなったのかもしれなかった。 意気込んで嘉藤太の家に行ったが、賭場が開かれている様子はなく、やけに静かだった。 忠次が家の中に入ろうとすると、 「おっちゃんはいねえよ」と後ろから声がした。 振り返ると十歳位の子供が竹槍を持って立っていた。この辺りでは見かけない生意気そうなガキだった。 「何でえ、おめえは?」 「留守番だい」と子供は竹槍を構えて、 「おじさんこそ見かけねえけど誰だい?」と聞いて来た。 「留守番だと? 嘉藤太はどっかに行ったんかい?」 「嘉藤太さんもおっちゃんも草津の湯に行ったんだ」 「草津だと?」 「そうだい。おじさんは誰なんだ?」 「誰でもいい。いつ 「知らねえ。饅頭を買って来てやるって言ったけど‥‥‥」 「しっかり、留守番してろ」 忠次はがっかりして又八の家に行き、勘助の事を聞いた。 「よく知らねえけど、勘助親分にまとまった銭が 「パアッとか‥‥‥いい気なもんだな。小生意気なガキが竹槍かついで留守番してたが、ありゃ何でえ?」 「ああ、あいつは勘助親分の 「どういうこったい?」 「勘助親分の妹が板割職人の浅の親父んとこに後妻に 「おっ母と馬が合わねえのに、その兄貴とは馬が合うんか?」 「親父の跡を継ぐより、勘助親分の子分になりてえんでしょ」 「ふーん。しかし、あんなガキに留守番させて、遊びに行くたア 「あれ、留守番はちゃんといるはずですよ。確か、佐与松さんが文句を言いながらも留守を守ってるはずですけど」 「いなかったぜ」 「おかしいな‥‥‥でも、珍しいですね、兄貴が勘助親分を訪ねるなんて」 「兄貴に会いに来たんじゃねえ。清五の奴にちょっと用があったんだ」 「清五さんもすっかり博奕打ちになりましたね。俺も勘助親分の子分になろうと思ってるんです」 「勘助親分か‥‥‥まだ、 「でも、羽振りはいいみてえですよ」 「ふん」 「兄貴が博奕打ちになりゃア、俺は文句なしに子分になんのに」 「俺は博奕打ちにはなんねえ。道場主になるんだ」 「早くなってくだせえよ」 「うるせえ」 忠次は又八の家で酒を飲み始めた。酒を飲めば、お鶴に対する愚痴が出た。又八を相手に愚痴をこぼしていると、何だか外が騒がしくなって来た。 「何、騒いでるんでえ? おめえ、ちょっと見て来う」 又八はうなづくと出て行った。 忠次は酒を飲みながら、勘助たちを追って草津の湯に行こうかと思った。あまりよく覚えていないが、親父が生きていた頃、家族揃って草津に行った事があった。銭はたっぷりあるし、千代松でも誘って気晴らしに草津に行くのも悪くねえなと思った。 一旦、家に帰って旅支度をして出掛けるかと又八の家を出ようとした時、血相を変えて又八が戻って来た。 「兄貴、 「何だと? 佐与松がやられたんか?」 「血だらけんなって転がり回ってます。兄貴、何とかしてくだせえ。勘助親分も嘉藤太さんもいねえし‥‥‥」 「おい、ならず者がどうして、名主んちに押し込むんでえ。詳しく聞かせろい」 「それがよく分かんねえんだけど、そいつらは久宮一家の者らしくて、勘助親分とこに来たらしいんです。縄張りの事で言い掛かりを付けに来たらしいんだけど留守なんで、名主さんとこに押し入ったみたいです」 「どうして名主んとこに行くんでえ?」 「さあ? 名主さんは嘉藤太さんの親代わりみてえだから、難癖を付ければ、銭を脅し取れるとでも思ったんじゃねえですかね。そこに留守を預かってた佐与松さんが話を付けに言ったんだけど、喧嘩になって斬られたようです」 「相手は何人でえ?」 「えーと、三人です」 「おめえ、 「ええ、親父のがあります」 「そいつを持って来られるか?」 又八は力強くうなづくと奥の部屋から長脇差を持って来た。 忠次は頑丈そうな長脇差を受け取ると腰に差し、着物の 「よし、行くぞ」 又八は忠次の真似をして、木刀の柄に酒を吹きかけると忠次に従った。 田部井村の名主、小弥太の屋敷の前は人だかりとなっていた。皆、心配そうな顔をして、屋敷の中の様子を見守っている。又八が人々を押しのけて、忠次を通した。 菊の花が見事に咲いている広い庭の中程に血の跡があった。しかし、佐与松の姿はどこにもなかった。 縁側に遊び人風の男が三人いて、名主の小弥太が頭を下げているのが見えた。一人が縁側に座り込み、二人がその脇に立っている。座り込んでいる男が何かを名主に言っているようだが、聞き取る事はできなかった。 「なんだ、おめえは隣村の忠次じゃねえか?」と見物人の誰かが言った。 「おめえなんかの出る幕じゃねえ。今、 「師範代を呼びに行ったのか?」 忠次は声の主に聞いた。 「ああ。宇右衛門さんなら、あんな通り 「あんな野郎、俺だって追っ払えらあ」 「やめとけ、相手は腕が立つ。おめえじゃア佐与松の二の 「佐与松はどうした? 「腕をちょっと斬られただけだ。命に別条はねえ」 「よかったな」と言うと忠次は門から庭に入って行った。 「おい、やめとけ」 後ろで声がしたが、忠次は構わず、縁側の方に向かった。 又八が得意顔で後に従った。 「国定の忠次だ」という声があちこちから聞こえて来た。 「お町さんに振られた男だぜ」という声も聞こえて来たが、忠次は無視した。 「何でえ、てめえは?」 長脇差を腰に差した背のひょろっとした男が忠次を睨んだ。名前までは知らないが、久宮一家の身内に違いなかった。 「国定村の忠次郎だ。よく覚えておきやがれ」 忠次は胸を張って 「知らねえな。ガキの出る幕じゃねえぜ、さっさと 「おめえらこそ、怪我をしねえうちに帰った方がいいぜ」 「野郎! 痛え目に会いてえんか?」 アバタ面の男が歪んだ顔をさらに歪め、長脇差の柄に手をやって忠次の方に踏み出して来た。 「帰れと言ったんだ。聞こえねえのか?」 「そいつア、こっちの言う事だ」 「おめえも勘助の身内かい?」 三人の中では一番貫録のある男が縁側に腰を下ろしたまま、落ち着いた声で聞いた。 「身内じゃねえ」 忠次は縁側に座っている男を睨んだ。 「じゃア、どこの 「どこでもねえ。本間道場の忠次郎だ」 「へっ、棒振りをやってるからっていい気になるんじゃねえ。おとなしく帰んな」 「ここまで来たら、そうは行かねえ。ここで引き下がったら、また恥をかく」 「そうかい、そんなに怪我してえんなら、望み通りにしてやるぜ」 男は立ち上がると、二人を押しのけ、忠次の前に出た。 面倒臭そうに長脇差を抜くと切っ先を忠次の顔に向けた。 「忠次、やめるんだ!」 名主の小弥太が縁側から顔を出して叫んだ。 忠次も長脇差を抜いて構えた。 真剣で斬り合うのは初めてだった。 相手の男は何度も 下手をすれば死ぬかもしれない‥‥‥ 背中に冷たい汗が流れ、足が震え、頭の中が真っ白になった。 何がどうなったのか分からない‥‥‥ 相手の長脇差が頭上できらめき、斬られると感じ、必死になって斬り掛かって行った。 グサッという鈍い音がして、奇妙な 暖かい物が顔に掛かり、 「やめろー!」と誰かが叫んでいる声で我に返った。 声の方を向くと本間道場の師範代、宇右衛門が馬から飛び下りて、こちらに走って来るところだった。 「うわぁ!」と叫びながら、二人の遊び人が逃げて行った。 見物人たちは慌てて、道を開けた。 忠次は手にした長脇差を見た。血で真っ赤になっていた。 相手の男は首の付け根から血を吹き出しながら倒れている。 「おい、忠次、おめえ、大丈夫か?」と宇右衛門が聞いた。 忠次は自分の体を眺めた。着物も血で真っ赤になっていた。人を斬るとこんなにも血が出るのかと驚いた。痛みはどこにもない。斬られてはいないようだった。 「で、 「そっちは大丈夫ですか? 白目なんかむきやがって、ふざけるんじゃねえ‥‥‥くたばっちまったのかい‥‥‥」 気が動転していて、自分が何を言っているのか分からなかった。 宇右衛門は倒れている男を調べていた。 「見事な切り口だ。しかし、殺したのはまずいぞ」 小弥太も家から出て来て、死体を調べた。 「何者ですか?」と宇右衛門が小弥太に聞いた。 「久宮の親分の客人で 「流れ者か‥‥‥何だって、そんな奴が名主さんちにやって来たんです?」 「嘉藤太が賭場を開いてたのを知っていながら見ねえ振りをしてたと言い掛かりを付けて来たのよ」 「ゆすりか‥‥‥とにかく、忠次、おめえ、長脇差なんか捨てて、その血だらけの面を洗って来い」 忠次は裏庭に行き、井戸で長脇差に付いた血を流し、顔と手を洗った。又八が一緒について来た。 「兄貴、兄貴はやっぱり 又八は憧れの 「おめえの親父の長脇差を汚しちまったなア。よく手入れして 「こいつは俺の宝にしますよ」 「馬鹿野郎! 人を殺した長脇差が宝になんかなるか」 「兄貴、これからどうなるんです?」 「人を 「早く逃げた方がいいですよ。まごまごしてたら、八州様に捕まっちめえます」 「逃げるったって、どこに逃げるんでえ?」 「信州の方まで逃げれば大丈夫だって、勘助親分から聞いた事あるけど」 「信州か‥‥‥」と忠次は言ったが、信州なんて行った事もなかった。 どうやって逃げればいいのか考えていると宇右衛門がやって来た。 「いいか、忠次、よく聞け。こっちの事はわしと名主さんで何とかする。一応、お役人には届けなくてはならんが、相手は 「隠れるって、どこに?」 「とりあえず、道場に行って本間先生にありのままを話すんだ。先生は顔が広え。うめえ事を考えてくれるだんべえ」 忠次は血の付いた着物を着替え、家にも寄らずに真っすぐ、市場村の本間道場に向かった。又八も一緒に行くと言い張ったが、途中で追い返した。 畜生! どうして、こんなふうになっちまったんだ‥‥‥ お鶴と喧嘩して、気晴らしに博奕を打とうと家を出てから、まだ、 これから、自分がどうなって行くのかまったく分からなかった。 脇目も振らずに歩いている忠次の周りを赤とんぼの群れが飛び回っていた。
念流の師匠、本間千五郎は忠次の話を聞くと玉村宿で 千五郎が書いてくれた書状を持って、忠次は玉村宿に向かった。 玉村宿は日光 八州様というのは正式には 忠次が無宿者を斬った文政九年(一八二六)の頃、上州(群馬県)と 彼らは江戸に住んでいるため、地方を巡回するには道案内を必要とした。道案内は原則として村の名主たちが務めるべきだったが、取り締まりの対象が博奕打ちや無宿者なので、そういう者たちを捕まえるには内情をよく知っている者でなくてはならない。そこで、顔の売れている博奕打ちの親分を道案内に採用する事となった。これを『二足の 道案内は無報酬だったが、八州様を後ろ盾にした役得は多かった。 博奕を見逃してやるからと言って 佐重郎はそこまであくどい事をしてはいなかった。しかし、玉村宿には飯盛女が大勢いて、佐重郎が何も言わなくても、旅籠屋の主人たちは見逃して貰うために包み金をそっと握らせていた。 佐重郎は忠次が与五左衛門の伜だと知ると大歓迎してくれた。人を殺した事を知っても驚く事もなく、相手が無宿者なら何とかなる。俺に任せておけと力強く言った。 人を殺して不安になっていた忠次は佐重郎の言葉に励まされ、何とかなりそうだと気が楽になった。よく分からないが、佐重郎は忠次の父親に恩を感じているようだった。これでようやく恩返しができると喜んでいた。 その晩、忠次は
|
玉村宿
1.国定忠次の年表 2.『群馬県遊民史』より 3.『上州路』より 4.『東村誌』より 5.『大前田栄五郎の生涯』より 6.お鶴・お町・お徳・お篠・お貞の略歴 7.百々村の紋次の略歴 8.大前田栄五郎の略歴 9.日光の円蔵の略歴 10.島村の伊三郎の略歴 11.三ツ木の文蔵・国定の清次郎・五目牛の千代松の略歴 12.木崎宿の左三郎・木島の助次郎・三室の勘助の略歴 13.『やくざの生活』」より 14.『日本侠客100選』より 15.「侠客国定忠次一代記」のあらすじ、主要登場人物、忠次の生きた時代背景