通油町
梅雨が始まる前の 「おう、どいた、どいた、邪魔だ、邪魔だ」 年の頃は三十半ばのいなせな遊び人という身なりのこの男、今、売り出し中の浮世絵師、 師の歌麿は 緑橋を渡って 狭い中庭にも小さな鯉のぼりが暑い日差しの中、頼りなくぶら下がっている。井戸端では二人の女が洗い物の手を休めて、ベチャクチャ話し込んでいる。女たちは飛び込んで来た月麿に驚き、顔を上げた。 「あら、月麿さんじゃない。脅かさないでよ」と言ったのは、若い方の女。髪をばい 「血相を変えて、一体、どうしたんです」 月麿はおっとっとと立ち止まり、息を切らせながら目の前の長屋を指さし、 「先生は、先生はいやすかい」とやっとの思いで吠えた。 「ええ、いますよ。いつものように、ごろごろ寝そべったまま本を読んでます。本を読んでは、佐吉め、佐吉め、こん畜生、奴にゃア負けられねえって、昨日からずっと唸ってますよ」 月麿はおかみさんの話を最後まで聞かず、先生の 月麿はちびた下駄を脱ぎ散らかして、さっさと部屋に上がり込んだ。 「先生、先生、 月麿が騒いでも、先生は知らんぷり、何かをぶつぶつ言いながら、文机に向かっている。 この先生、 「先生、先生、大変なんだってばよお、のんきに仕事なんかしてる場合じゃねえ」 「やかましい野郎だなア。おい、おめえ、そいつを読んでみたか」 一九は振り返ると散らかっている十二冊の 「なんでえ、 「へっ、悔しいがな、面白え。去年、前編を売り出したんは知ってたが、 「あれ、『膝栗毛』はもうやめですかい」 「ありゃアもう今年書き上げたら、それでおしめえだ」 「そう簡単に終われますかね。 「うるせえ!」と一九は本気で怒る。 「膝栗毛なんかどうでもいいんだ。俺はな、読本を書くって決めたんだ」 「へいへい、わかりやした」と月麿はうなづき、 「で、一体、どんなのを書くんでやすか」と機嫌を取るように聞いてみる。 「そいつを今、思案中よ。せっかく、うめえ 「おっと、こっちこそ、忘れるとこだった」 月麿は馬琴の読本を放り投げると膝を進めて、 「先生、一大事なんだ」と真剣な顔をしてみせる。 「うるせえ。何があったってえんだ。どうせ、また、くだらねえ 一九は 「そんなんじゃアねえんだ、先生」 月麿は一九から団扇を奪い取ると、 「夢吉が草津に行っちまったんだよう」と情けない声で言う。 「夢吉だと‥‥‥」 一九は首を傾げて考える。 「聞いた事ある 「どこのどいつはねえでしょうが。 「おうおう、おめえが振られた例の 一九はそんな事はどうでもいいという顔で、 「よして下せえよ。そうじゃねえんで」 「それじゃア、旦那と一緒に 「それが関わりが出て来たんだ」 「何だと」 月麿は急に嬉しそうな顔をして、 「夢吉は旦那と別れたらしい」とニヤニヤ笑う。 「何を都合のいい事を言ってやがんでえ」と一九は相手にしない。 「いや、先生、ほんとなんだ。俺はちゃんと調べて来たんだ」 「へっ、暇な野郎だぜ。師匠が亡くなって、今が売り出す 「夢吉は俺の命なんだ。旦那と別れて困ってんのを黙って見ちゃアいられねえ」 「なにも困ってるとは決まっちゃアいめえ。新しい 「夢吉にかぎって、そんな女じゃねえ」 「ふん、勝手にしやがれ。おめえののろけなんか聞いてる暇なんぞねえよ」 一九はポンと煙管を 「そうじゃねえんだ。先生、俺たちも草津に行こうってえんだ」 「なんだと? 馬鹿言ってんじゃねえ。なんで俺が草津くんだりまで行かなけりゃならねんだ」 「そいつはほれ、草津に行って『草津道中膝栗毛』を書きゃアいい。ここんとこ、草津の湯は 「おいおい、そいつは滝違えだぜ。草津じゃなくって王子の滝だろう」 「王子の滝もそうなんだが、草津の滝も有名なんだ。なにしろ、湯煙りを上げたお湯が川のように流れてる凄えとこなんだ。草津の事を書きゃア、そりゃアもう売れる事、請け合いだ」 「おめえに請け合ってもらっても仕方ねえや」 「いや、先生、村治の旦那だって乗って来るに違えねえって」 「膝栗毛はやめるって言ってるだろうが、うるせえ野郎だ。行きたかったら、てめえ一人で追いかけてきゃアいいだろう」 「そんな冷てえ事を言わねえで下せえよ。十日ばかり 「おう、そう言やア思い出したぜ。その旦那ってえのは酒屋だったっけなア」 「へい。 「そうか、あん時、相模屋も焼け出されたのか」と一九は神妙な顔をしてうなづく。 「へい、そうなんで。あの年は三月と十二月にでっけえ火事がありやがった。三月の大火ん時ゃア、この辺りまで焼けて、先生んちも俺んとこも焼けちまったけど、芝居町は 「まったく、ひでえ火事だったぜ。 「そうだ、先生」と月麿が何かを思い出したように手をたたく。 「読本と言やア以前、師匠と一緒に草津に行った時、草津に 「なに、木曽義仲の伝説か‥‥‥義仲と言やア『ひらがな 一九が興味深そうな顔をして来たので、うまく行ったと月麿はほくそ笑む。 「ほんとでさア。詳しい事は知らねえが本当のこってす。そん時は 「なに、京伝先生も行ったのか‥‥‥」 「へい。 「蔦重の旦那も? おい、そいつはいつの事でえ」 「もう、十年余りも 「その頃、俺は蔦重に 「あん時ゃア十日ばかり草津で遊んで、それから、旦那と京伝先生は江戸に 「おうおう、そんな事があったっけなア。あん時、おめえも行ったのか」 「荷物持ちでさア」 「ふーん。そうか、草津に木曽義仲の伝説があるのか‥‥‥面白えかもしれねえな。馬琴が 「そうこなくっちゃいけねえや」と月麿は嬉しそうに膝を打つ。 一九は団扇を手に取ると扇ぎながら、 「木曽義仲か‥‥‥」と何度も呟き、独りでうなづく。それから、ニヤニヤしている月麿の顔を見つめ、 「それで、おめえ、夢吉を草津まで追いかけてって、どうするつもりなんだ」 「どうするって、夢吉が辛え目に会ってたら助けてやろうと」 「ふん、何が助けるだ。ただ、とぼしてえだけだろうが」 「そんなんじゃねえ。俺ア夢吉と 「おきゃアがれ。あん時のおめえにそんな 「確かに、あん時ゃアなかったけど、今なら何とかなる」 「ふん、どうだか。ところで、夢吉は何で草津に行ったんでえ」 「それがよくわからねえんですけどね、何でも、草津に昔の芸者仲間がいるらしくて、旦那と別れた夢吉は一夏、草津で芸者稼業に戻ろうと思ったんじゃアねえかと」 「ほう。深川に戻らねえで草津で稼ごうってえのか」 「へい、草津はえれえ賑わいで、稼ぎもいいらしい」 「一人で行ったのか」 「いえ、まさか。草津にいる芸者が助っ人を呼んだらしくて、仲町の芸者が二人に 「それに箱持ち(三味線持ち)も言ったんだろう」 「へい、多分」 「稼ぎに行ったんなら邪魔しねえ方がいいんじゃねえのか」 「そんな事、言わねえで下せえよ。旦那と別れたんなら、一目会いてえってえのが人情ってもんでやしょう」 「おいおい、おめえ、まだ、本気で惚れてんのか」 「へい」 「まったく、しょうがねえ野郎だ」 「また、二人で悪い冗談の相談してるんでしょ」と入って来たのは井戸端で洗い物をしていた、ばい髷の粋なおかみさん。実は一九の恋女房で、お 四十歳の一九のもとに十九歳のお民が嫁いで来たのは四年前。勿論、一九は初婚ではない。一度目は大坂で材木屋の 「前と違って、長屋住まいなんだから、あまり大騒ぎしないで下さいよ」とお民はちらっと一九を 「そんなんじゃねえんだ」と一九は手を振る。 「月麿の奴が惚れた女を追いかけるって言うんでな。ちょっくら、一肌脱いでやろうと思ってたんだ」 「あら、おめでたいじゃないの」とお民はニコッと笑う。 「月麿さん、うまくやって下さいね」 月麿はお民の笑顔を見る度に、どうして、こんな可愛い女が一九と一緒になったのか、不思議に思う。そして、自分も惚れた女と幸せな夫婦になる事を夢に見る。 「はい、そりゃアもう、なんとしてでも」 「絵も売れて来たんだし、いつまでも遊んでないで、そろそろ身を固めた方がいいわ。ねえ、どんな人なの」 「夢吉ねえさんだとさ」と一九がニヤニヤしながら月麿を見て言う。 「えっ、もしかして、芸者さんなの」 「そういう事だ。しかも、とびきりの 「あら、そう。芸者さんもいいけど、月麿さんにはやっぱり、 月麿は渋い顔して首を思い切り振る。 「おみやの事はもう言わねえで下せえ。あいつの事アもう、すっかり忘れやした。でも、夢吉の事はどうしても忘れられねえんですよ」 「お民、こいつはな、夢吉が深川にいた頃、 「振られたっていいんだ。今度、振られたら、俺もきっぱりと諦める。ただ、もう一度、夢吉を描きてえんだ。今の俺は自分の絵がわからなくなっちまったんだ。師匠が亡くなって、 「そうか‥‥‥歌麿師匠がそんな事を言ったのか。確かに、今時の美人絵はどれもこれも師匠の物真似だ。歌麿師匠を越えるのは難しいが、弟子として、おめえがやらなきゃならねえぜ」 「師匠を越えるなんて、そんな大それた事まで考えちゃアいねえ。ただ、自分の絵を描きてえんだ」 「よし、おめえがそれ程まで言うなら、一肌脱がなくっちゃアならねえな」 「先生、一緒に草津に行ってくれるかい」 「義仲の伝説が本物なら行ってもいいぜ」 「ちょっと、おまえさん、草津に行くんですか。草津って、あの お民は何が何だかわからないという顔して、一九と月麿を見比べる。 「上州(群馬県)の草津よ。夢吉が草津に行ったんだそうだ」 「ちょっと、ちょっと待って下さいよ。草津に行くったって、そんな、先立つ物なんかありゃしませんよ」 「なに、銭がねえのか」 「ありませんよ。この前の火事で家財道具をすっかりなくして、ようやく立ち直ったばかりじゃないですか。そんな余計なお 「おい、銭がなきゃア話にならねえ。夢吉が帰って来るまで我慢しろ」 「そんな‥‥‥そうだ、先生、村治の旦那に頼みゃアいい」 「駄目です」とお民は月麿に首を振ってから、一九を睨む。 「旦那には色々とお世話になったんだから。これ以上、迷惑かけられません」 「いや、そうじゃねえんだ、おかみさん。俺が夢吉の絵を描いて、先生が読本を描く約束をして、前金をいただきゃアいいのさ」 「そんなにうまく行くかしら」 「うまく行くさ。先生、さっそく、旦那んとこに掛け合いに行きやしょう」 「おう。ついでに、京伝先生んとこにも挨拶に行って来るか」 月麿は一九を引っ張るようにして出掛けて行った。
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一九の女房、おたみ
1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物