村田屋と京伝
通油町の表通りに店を構える それ以前にも一九は 初編で神田の八丁堀の裏長屋から箱根まで行った弥次郎兵衛、北八の二人は失敗を繰り返しながら、二編で そんな一九が月麿と一緒に村田屋に顔を出すと、主人の治郎兵衛は顔を崩して機嫌を取った。『膝栗毛』が来年正月に売り出す八編で終わるのはわかっている。一九はそれでもうおしまいにしようと思っているが、版元としては、さらに続編を書いて貰わなければならない。売れっ子作家を手放す訳にはいかないのだ。 「旦那、いい話を持って来ましたぜ」 浮世絵や黄表紙、滑稽本らが所狭しと並ぶ店先から客間に通されると月麿が調子よく話し出した。 「何だい、揃って。また、一騒ぎ起こそうってえ 治郎兵衛はニヤニヤしながら、二人の顔を見まわした。 「へい。まあ、面白え趣向なんですがね、今回は茶番じゃねえんで、仕事の話なんですよ」 治郎兵衛と一九、月麿は版元と作家という関係だけでなく、十返舎社中という 「ほう。二人で組んで 合巻というのは黄表紙が発達したもので、だんだんと話が長くなったため、数冊をまとめて綴じた物をそう呼んでいた。当時、 「ええ。合巻でも滑稽本でも、読本でも何でもいけますよ、ねえ、先生」 「まあな」 「ほう。そいつは凄い。で、その趣向は?」 「草津ですよ。上州草津の湯です」 「なに、草津の湯‥‥‥うーむ、そいつは面白えかもしれんな。この間も、 「旦那、それなんですよ、それ。辰巳芸者もいるんでさア。旦那もご存じでしょう夢吉を。その夢吉も草津に行ったんです」 「なに、あの夢吉がか」 「へい、そうなんです。あの夢吉が草津にいるんですよ。あっしは夢吉を美人絵に描こうと思ってんでさア」 「夢吉は身請けされたと聞いたが、また、芸者に戻ったのか」 「そうらしいや。旦那、夢吉の絵を出してやって下せえよ」 「まあ、出してやってもいいがな、それより、草津の話ってえのは面白そうだ。弥次さん、北さんを草津に行かせりゃいい。うむ、草津道中膝栗毛、うむ、こいつア受ける事、間違えなしだ」 「そりゃアもう、そいつを読んだら、江戸っ子が連なって草津に出掛けやすよ。そこで、旦那、ちょいと相談なんですが、 「やはりな。 「さすが、旦那だ。物わかりがいいねえ」 「そんなにおだてんでもいいわ。ところで、先生」と治郎兵衛は月麿から一九に視線を移す。 「『膝栗毛』の八編の方は順調なんですか」 「そりゃアもう 「そうですか、安心しました。上州草津の湯か‥‥‥実にいい所に目をつけましたねえ」 「実は読本を書こうと思いまして」 「読本と言えば、馬琴先生と北斎先生が大した本を出しましたねえ。あれは評判がいい。先生も負けずに面白えのを書いて下さいよ」 村田屋を出た二人は本町通りを西へと向かった。通油町から 二年前の文化三年(一八〇六年)三月四日の昼の九つ(正午)頃、 あの大火事が嘘だったかのように、土蔵造りの 「先生、旦那はうまく路銀を出してくれるかなア」 心配顔で月麿が言うと、 「出してくれなきゃ、今回は諦めるさ」と一九はつれない。 「京伝先生は貸してくれねえかな」 「先生だって火事で焼け出された口だぜ。未だに 「そうだよな。難しい話だな」 「吉原や深川で遊ぶ銭があったら、ちゃんと溜めておきゃア、今頃、泣きを見ずにすんだんだ」 「それはお互え様でしょ。先生だって派手に遊びまくった口でしょうが」 「まあ、そうだが、戯作者たる者はたんと遊ばなけりゃア、いい本は書けねえ」 「美人絵ならなおさらだ。師匠のように吉原に居続けでもしなけりゃ、いい女は描けねえ」 「そいつは言えるな。小銭を溜め込んでる野郎に、いい本やいい絵が書けるわけねえ。あれだけ売れてた歌麿師匠だって、 「あっ、そうだ。先生、津の国屋の旦那に相談したらどうだろう」 「 「俺もそれ程の付き合えはねえけど、あの旦那も夢吉を 「そううめえ具合に行くめえよ」 「当たって砕けろだ。京伝先生のうちから山城町はすぐですぜ。ついでだから寄ってきやしょう。そうだ、京伝先生に 「まったく、気楽なもんだぜ。津の国屋の事アおめえに任せるよ」 二人は本町三丁目で左に曲がると日本橋へと向かった。越後屋の脇を通り、賑わう魚河岸を横目に見て、日本橋を渡る。さすが、お江戸の中心、もう昼過ぎなので旅人の姿はないが、様々な人々が忙しそうに行き交い、橋の下には荷物を山積みした 日本橋を渡った二人は話をしながら日本橋通りを南へと歩き、京橋を渡った。京橋を渡れば、銀座一丁目にある京伝の店はすぐだった。 当時、 京伝は初め、浮世絵師を志して、北尾重政の門に入り、北尾 刑の後、京伝は戯作者をやめようと決心して、煙草入れを売る店を銀座に開いたのだった。しかし、皮肉にも手鎖を受けたお陰で、京伝の名はさらに有名となり、版元からの依頼が殺到し、戯作を書かないわけには行かなくなった。洒落本から手を引いた京伝は寛政十一年(一七九九年)、江戸の作家による初めての 店は相変わらず、お客で賑わっていた。京伝のおかみさんに案内されて、二階の書斎に行くと、いつものように京伝は書物の山の中で仕事に熱中していた。 「おう、珍しいな、弥次さん、北さんが揃ってお出ましか」 京伝は笑いながら二人を迎えた。 「先生、よして下せえよ」と一九は手を振る。 「おい、聞いたぞ。この 「大丈夫ですよ。村治の旦那なんかに、そう簡単に騙されやしません」 「『膝栗毛』ももうすぐ終わりだな。弥次さん、北さんは今度はどこに行くんだ」 「それが草津なんですよ」と身を乗り出して月麿が言う。 「ほう、草津か‥‥‥成程な」 京伝はうなづき、月麿の顔を見ながらニヤニヤする。 「さては、夢吉だな」 「えっ」と月麿はたまげて、一九と顔を見合わせる。 「先生、夢吉が草津に行ったのをご存じなんですか」 「ああ、そういう噂はすぐに、誰かが知らせてくれるんでな」 「さすが、京伝先生だ」 「実はな、津の国屋の旦那が血相を変えて飛び込んで来たんだよ」 「えっ、津の国屋の旦那が‥‥‥すると、あの旦那も諦めてなかったんだな」 「そのようだ。さっそく、草津に行くと言っておったわ」 「そいつはまずい。旦那に出て来られちゃアかなわねえ。何とかしなくっちゃ」 「こいつは面白くなりそうだな。俺も気晴らしに草津に行くかのう」 「先生、草津の事でちょっと聞きてえんですけど」と一九が口を挟む。 「なんだ? 草津にも芸者遊びができる料理屋はちゃんとあったぞ」 「いえ、その事じゃねえんで。実は草津に木曽義仲の伝説があると聞いたんですけど」 「うむ、あるぞ。俺が草津に行ったのは、もう、かなり 「へい。そうなんですが、あっしはその事についちゃアあまり覚えてねえんで」 月麿は面目なさそうに首の後ろを掻く。 「そうか。しかし、懐かしいのう」 「で、先生、どんな伝説なんですか」 「うむ。草津の奥になんとか村ってえのがあってな、かなり山奥らしいが、木曽義仲がそこで育てられたと言うんだ。親父の 「そうですか‥‥‥頼朝に義仲か」 「おめえさん、読本を書くつもりかい」 「はい。佐吉には負けたくはねえんで」 「うむ。奴も出世したもんだ。黄表紙じゃアなかなか芽が出なかったが、読本を書くようになって一躍、有名になった。『弓張月』は 「はい。佐吉が出てった後に、俺がお世話になりました。蔦重の旦那があんなに早く亡くなっちまうなんて 「ああ、まったくだ。早すぎる‥‥‥」 京伝は昔を思い出しているのか、ぼんやりと文机を眺めていた。 版元の蔦屋重三郎が亡くなったのは十一年前の寛政九年(一七九七年)の五月だった。その三年前、大坂から江戸に戻って来た一九は蔦屋の 「だがな、蔦重の旦那もみんなが活躍してるのを 「そうでしょうねえ。でも、佐吉には負けられませんよ」 「草津を 「先生は今、何を書いてんですか」 「ああ。 「そいつは是非、読んでみてえですね」 「それが、かなり長くなりそうなんだ。俺も佐吉には負けられんからな。で、草津にはいつ出掛けるんだ」 「それが、まだ、はっきりとは」 「先立つ物が、まだ」と月麿が首を撫でながら、へへへと笑う。 「そうか、だろうな。一九は焼け出されて亀戸から戻って来たばかりだし、月麿は相変わらず、遊びが忙しそうだからな。色男も大変なこった」 「冷やかさねえで下せえよ。先生だって若え頃は遊びまくってたじゃねえですか」 「おめえもそろそろ身を固めた方がいいぞ」 「わかってまさア。だから、草津に行くんです」 「なんだと? 嫁さんを探しに草津に行くのか」 「いいですよ、もう。ところで、津の国屋の旦那はいつ出掛けるんですか」 「さあ、知らんよ。おめえら、旦那の供をして行ったらいいだろう」 「そう願えたら嬉しいんだけど、それ程、旦那と親しいわけじゃねえんで」 「そうか。よし、俺が何とかしてやろう。旦那も冗談や茶番が好きでな、おめえらと会いてえと言ってたよ。突然、訪ねてっても何だから、近えうちに何とか話をつけてやろう」 一九と月麿は顔を見合わせて喜び、京伝に頭を下げた。 「先生、よろしくお願えいたします」
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夢吉
1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物