葺屋町
酒に目がない一九は昼間っから酒を飲んで、のんびりしたかったのだが、お民を連れて、朝早くから芝居見物に出掛けて行った。草津に行くためには第一に、お民の機嫌を取らなければならない。一緒に連れて行ってやりたいがそうもいかない。芝居見物で我慢してもらうしかなかった。 『忠臣蔵』を見て、馴染みの芝居茶屋で夕飯を食べ、銘酒 「栄三郎の お民はうっとりとした顔付きで、芝居茶屋で買って来た栄三郎と源之助の 「なに言ってやんでえ。今度は源之助にくら替えか」 「そうじゃないけどさ、二人共、ほんとによかったのよ」 「ふん、二人はまだまだ若え。なんと言っても 「いいえ、栄三郎こそ、今に立派な千両役者になるわよ」 「それより、 「そうねえ、成田屋もよかったねえ」 久し振りに芝居を見て、お民は嬉しくてしょうがないようだ。まずはうまく行ったなと一九も満足だった。 芝居の話を 「お揃いで、今日はお出掛けでしたか」 「おう、徳さん。まあ、上がりねえ。ちょっと一 「はい、どうも。ちょっと、うちの旦那から 「ほう、何だろう」と一九はお民の顔を見る。 お民は赤い顔して首を振った。 「わたしも詳しい事はわからないんですけどね、いい知らせがあるから、明日、ちょっと、顔を出してくれとの事です」 「そうか、 「徳さん、さあ、お上がりなさいな」とお民も機嫌よく迎える。 「今日はお芝居を見に行って、今、帰って来たばかりなんですよ」 「成程、そうでしたか。そういえば今日は初日でしたね。で、例の歌右衛門を?」 「いやいや、栄三郎さ。俺はやっこさんを見たかったんだが、こいつは栄三郎贔屓だ。わき目も振らずに市村座にまっしぐらさ。まあ、高麗屋に 「そうでしたか。そいつはようございました」 徳次郎は上がり込み、一九とお民の芝居話を聞かされた。 「あいつも飲むと癖が 「普段、おとなしいから、飲むと気が大きくなるんでしょうねえ」 「俺を相手に愚痴るくれえならかまわねえが、所かまわず、あれをやってたら、しまいにゃアしくじるぜ」 「大丈夫よ。おまえさんみたいに、あちこち遊び歩かないから」 「へっ、俺だって近頃はおとなしいもんだ」 「さあ、どうだか」とお民は一九を横目で睨む。 「月麿さんとまた、何やら企んでるんでしょ。あまり、ふざけた事をしないで下さいよ」 「なに、心配するねえ」 次の日、浮き浮きしながら村田屋を訪ねて行くと、主人の治郎兵衛は機嫌よく、嬉しそうな顔で迎えた。一九は浮かれている自分を 「先生、実は昨日、津の国屋の旦那が見えましてな」と治郎兵衛は口を切った。 「えっ、津の国屋?」 意外な話だった。 「先生の 「それだけですか」と一九は治郎兵衛の目の奥をのぞき込む。 「いやいや、どこでどう聞いたものか、先生と月麿が草津に行くというのを知ってましてな、できれば、一緒に行きたいと言ってましたよ」 「そいつア本当ですかい」 一九は信じられないという顔をして身を乗り出した。 「本当です。ただし、条件があるんですよ」 「何です。もしや、夢吉の事では」 「いえいえ。夢吉の事など一言も言ってませんよ。それ程、難しいもんじゃございません。旦那が言うには草津の湯を舞台に‥‥‥」 「草津を 治郎兵衛は首を振った。 「それじゃア、 「いえ、そんな堅いもんじゃありません」 「合巻ですか」 「いいえ。実はわ 「なんと、わ印ですか‥‥‥確かに、あの旦那の 「四年前、『 「わ印か‥‥‥」と腕組みをして考えていた一九は、治郎兵衛の顔を見て、 「読む方じゃなくて、絵本の方ですね」と聞いた。 「うむ、そうだ」と治郎兵衛はうなづく。 「津の国屋の旦那は 「折帖ってえと、絵は十二 「まあ、そうだな。草津を舞台に描いてほしいそうだ」 「描けといやア描くけど、十二枚ってえのは、ちときついなア」 「なにも先生が絵まで描かなくてもいい。月麿に描かせりゃアいいんだ」 「成程、そりゃアいい。そいつは妙案だ。それなら何とかなるだろう。奴も 「勿論ですよ。大っぴらには売れんがな、津の国屋の旦那がすべてを任せろって言ってましたよ」 「さすが、やる事が大きいねえ」 「という訳だ。どうする。一緒に行きますか」 「勿論でさア。旦那、お願えしますよ」 「そうと決まれば、さっそく、返事をやりましょう。先生は月麿に話して旅の支度を始めて下さい。津の国屋の旦那はもう、いつでも出掛けられるそうですから」 「そいつは 一九は村田屋を出ると飛び上がって喜び、月麿に知らせるために ♪やなぎやなぎで世を面白く 中村歌右衛門が流行らせた
「でも、おまえさん、津の国屋さんのお供をすると言ったって、一文も持たずには行けないでしょうに」 いそいそと旅支度をしている一九をお民が心配顔で見守っている。 「なアに、村治の旦那が 「それならいいけど、何か、話がうますぎるような気がするわ」 「そんな事アねえ。考え過ぎだ。京伝先生がうまく運んでくれたに違えねえんだ」 「でも、もうすぐ梅雨に入るのよ。どうせなら、梅雨が明けてからにすればいいのに」 確かに空模様がおかしかった。昨日まで五月晴れのいい天気が続いたのに、今日は今にも雨が降りそうな雲行きで、妙に蒸し暑い。 「そんなのんびりしてられねえよ。早えとこ、ネタを揃えて読本を書かなくちゃアならねえ。来年の正月に売り出せるようにな」 「だって、『膝栗毛』もまだ書き上がってないんでしょ。大丈夫なの」 「心配するなって。『膝栗毛』なんてちょろいもんよ。旅から 「で、いつ出掛けるの」 「津の国屋の旦那はもう、旅支度が出来てるってえからな。明日じゃねえか」 「いつ行くかも知らないの。のんきねえ。置いてかれちゃうわよ」 「そんな事アねえよ。向こうが一緒に行きてえって言って来たんだ。そのうち、向こうから何とか言ってくらア」 「まったく、気楽なんだから。ねえ、 「ああ、持った持った。 「関所の手形はいいの」 「ああ。箱根を越えるわけじゃねえからな。切手だけで充分さ」 「それで、いつ帰って来るの」 「そいつは旦那 「当てにしないで待ってるわ」 「先生、支度できたかい」と月麿の声がした。 振り返ると旅支度に身を固めた月麿がニヤニヤしながら立っている。 「おう、いつでも出掛けられるぜ」 「これから、山城河岸に行くんですかい」 「どうするか。向こうからは何も言って来ねえが、とにかく、村田屋に行ってみるか」 「二人とも何を言ってんです。まさか、これから旅立つつもりじゃないんでしょうね」 「そいつがわからねえから、村治の旦那に聞いてみようってえんだ」 「だって、旅立ちは普通、朝でしょうに」 「まあ、普通はそうだろうな」 「ねえ、月麿さん、旅支度するのはいいけど、 「いや、先生が早く支度して来いってえもんで」 「まったく、二人ともいい加減なんだから」 あきれ顔のお民に送られ、旅支度を解いた月麿を連れて一九は村田屋へ向かった。 村田屋に行くと治郎兵衛が待っていた。 「たった今、津の国屋さんから使いが見えて、今晩、深川で送別の 「ほう、深川で送別の宴たア、お 月麿は顔を崩して膝を打つ。 「深川というと、やはり、一流どこの梅本、山本、尾花屋ですか」 「尾花屋だそうだ」 「いいねえ。尾花屋で 「明日の朝、芸者衆に見送られて、鹿島立ちと 「おっと、いけねえ。尾花屋に行くとなるとこんな 飛び出して行こうとする月麿を、 「そう、慌てるな」と治郎兵衛が引き留める。 「宴会は日が暮れてからだ。まだ、間がある。ところで、月麿、例の話だが大丈夫なのか」 「例の話?」と月麿はきょとんとしている。一九に肘を突かれて思い出し、 「ああ、 「師匠のもとで、たっぷり修行しやしたから 「なに、そいつは本当か」 「本当でさア。いくら師匠が名人でも、あれだけの仕事を一人じゃアさばけねえ。師匠は気に入った仕事は精出すけど、気に入らねえ仕事は弟子に任せてたんですよ。でも、師匠は自分の名にケチがつけられるのを嫌って、余程、師匠にそっくり描かねえと許しが出ねえんだ。師匠から 「どうして、菊から月に変えたんだ」 「菊の花は秋だけだ。月なら 「なんだ、それだけの意味か」と治郎兵衛は拍子抜けする。 「いや、本当は夢吉の本名が 「卯月か。うむ、なかなか風流な名だ。でも、あの夢吉には似合わねえなア」 「そうかなア。俺は卯月麿ってつけようと思ったんだけど、何か変なんで、月麿にしたんだ」 「卯月麿か‥‥‥いっそ、 「そいつはいいや」と一九が煙草を飲みながら大笑いする。 「旦那、からかわねえで下せえよ」 「しかし、おめえ、振られた女の名をてめえの名にするとは呆れた野郎だな」 「いや、旦那、そん時はまだ、振られちゃアいなかったんでさア。俺が名を変えてからすぐに夢吉は 「そうか、あの騒ぎの最中だったか、夢吉が身請けされたのは。そいつは可哀想だったな」 「そうさ。俺は夢吉とちゃんと別れる暇もなかったんだ」 「成程な。それで、ちゃんと別れを告げに草津に行くわけだな」 「違えねえ」と一九は笑い転げる。 「旦那、馬鹿言わねえで下せえよ」 「悪かったな。ところで、おまえの話によると、歌麿師匠の弟子たちはみんな、師匠の代筆をしてたのか」 「ええ、師匠の許しの出た弟子はやってましたよ。俺が美人絵をやらなくなってから、美人絵を描いてたのが鉄つぁんですよ。 「ふーん、そういう事情があったわけか。他の弟子たちはどうなんだ」 「 「成程、二代目より磯麿の方が腕は上か。最近、 「ほう、 「おまえさんも二代目に負けねえようなのを描いて下さいよ」 「任しといて下せえ。歌麿門で師匠に負けねえ 「楽しみにしてますからね」 その晩、一九と月麿はそれなりに 蒸し暑い一日だったので、夕涼みの人々が両国広小路に繰り出し、川開きにはまだ早いが賑やかなものだった。舟に揺られながら、月麿はいい気分で鼻歌を歌っている。 ♪恋の夜桜浮気で通う
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市川団十郎の助六
1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物