消えた夢吉
当時の草津には『 滝に打たれて湯に浸かり、 「先生、先生、 「なんだ、また、おめえの大変が出たな。さては、夢吉にけんつくを食らわされたな」 一九が笑うと、 「わざわざ草津までやって来て、すぐに突き出されるたア可哀想なべらぼうだ」と都八が大笑いする。 「まあ、落ち着いて、 「それどころじゃねえんですよ。当の夢吉がどこにもいねえんだ」 「おめえの捜し方が下手くそなんだろう」 「そうじゃねえってば。捜すとこはみんな捜したんだ。畜生め、夢吉の奴、消えちめえやがった。どこ行っちまったんだよう」 月麿は半ば、べそをかいている。 「なに、夢吉が消えただと」 津の国屋もようやく、真顔になった。 「旦那、そうなんで、どこにもいねえんでさア」 「桐屋にもいねえのか」 「いるはずなのにいなかったんで。梅吉ってえ夢吉を呼んだ芸者に聞いたら、今の時期はまだ暇だから、すぐに仕事はねえってんで、中沢善兵衛って宿にいるって言うんですよ。それで、すぐに 「おめえが来たのを知って、どこかに隠れちまったんじゃアねえのか」と一九は月麿をからかう。 「違えねえ。おめえにゃア、もう会いたくねえんだとさ」 「やかましい。おめえは黙ってろ」 月麿は都八をジロっと睨んでから話を続けた。 「誰だかわかんねえけど夢吉に会いに来た男がいるんだ。 「その男ってえのは何者なんだ」 「そいつが 「夢吉を知ってんだから江戸者だろうな」 「相模屋が追って来たんじゃねえのか」と津の国屋が 「奴とは別れたはずです」 「いや、そいつはわからねえよ。相模屋が燃えちまって、夢吉とは別れなけりゃアならなくなったが、やっこさん、未練があって追って来たのさ。いや、はなっから、こっちで会う約束があったのかもしれねえ」 「そんな‥‥‥それじゃア、夢吉は今、相模屋と一緒にいるってえんですか」 「そうかもしれねえな」 「畜生、そんな真似はさせねえ」 「そんな真似をさせねえったって、二人の気持ちが別れてなけりゃア、おめえの出番なんかねえぞ」 「先生、何とかして下せえよ」と月麿は一九を頼る。 「何とかしろったって、そんなのア無理だ。相模屋と会ってるにしろ、そのうち、宿屋に帰って来るだろう。待つしかねえな。まず、湯に入って、のんびり待つ事だ。いい湯だったぞ」 「そんな心境じゃありやせんよ」 どうしたらいいんだとおろおろしている月麿を見ながら、皆、笑っている。可哀想に思ったのか、 「おい、月麿、相模屋を捜してみろ」と津の国屋が助け舟を出す。 「つぶれたにしろ相模屋ともあろう者が安宿に泊まってるはずはねえ。大きな宿屋を捜しゃア、案外、すぐに見つかるぞ」 「そいつだ、旦那」 月麿は嬉しそうに膝を打つと、 「あっしはひとっ走り、捜して来まさア」と飛び出して行った。 「おい、俺も行くぜ」と都八が慌てて後を追って行く。二人を見送った後、 「旦那、夢吉と相模屋の仲は本当のとこ、どうだったんだ」と一九が聞くと津の国屋は首を傾げた。 「男と女の仲は俺にもわからんよ。ただ、夢吉が相模屋の 「母親のために妾になったとしたら、相模屋に本気で惚れてたわけじゃアねえんだな」 「そいつはわからねえな。そん時は本気で惚れてなかったにしても、四年間も囲われてりゃア気持ちも変わるんじゃアねえのか。相模屋は俺たア違って、あっちこっちで遊んだりはしねえからな。夢吉を大切にしてたろう」 「そうか‥‥‥その相模屋が草津まで追って来たとなりゃア、月麿なんかが今頃、面を出しても勝てるはずはねえか」 「思わぬ強敵が現れたもんだな。しかし、やっこさんじゃアねえんじゃねえのか。奴は今、草津まで来る余裕はあるめえ」 「たまたま、夢吉を知ってる奴が顔を出したのかな」 「だと思うがな。月麿の奴が騒ぎ過ぎるんだろう」 夕飯前にちょっと散歩でもするかと一九と津の国屋も壷を出た。 飯時が近いので、豆腐屋や漬物売りなど、おかずを売る者たちが宿屋の廊下を声を掛けながら歩いていた。 「ほう、ああやって部屋まで売りに来るのか、面白えもんだな。それに、あの漬物売りの娘、なかなか可愛いじゃアねえか」 水のたっぷり入った 「ほう、変わった風俗だな。あの腰つき、なかなか色っぺえもんだ」 酒や料理の注文まで取って廻っている威勢のいい若い男もいる。 「こいつは便利だ。酒に不自由する事はなさそうだ」 「なんとなく、江戸の長屋に似てるな」 二人は広小路に出た。雨が上がったせいか、人の数も多くなってきた。甘酒売りやおしるこ、 『滝の湯』を覗くと二十人近い客が滝に打たれている。男だけでなく、女もいた。残念ながら、若い娘はいない。今の時期、草津に来るのは 左側の二本が『天狗の滝』、中央の十二本が『薬師の滝』、右側の三本が『不動の滝』と名付けられていた。滝の高さや太さは様々で、高いのは二十 「これだけお湯の量が豊富だと、たとえ、かってえ(癩病患者)や、かさっかき(梅毒患者)が一緒に 「ええ、凄えもんだ。さすが、番付で東の大関だけの事はある」 『滝の湯』の右側の坂を上った所に不動堂があった。右側には中沢 山本十右衛門の宿屋の脇に通りがあり、その通りを挟んで中沢善兵衛という宿屋があった。 「ほう、ここに夢吉が泊まってるのか。案外、近くじゃねえか」 二人が二階建ての宿屋を見上げていると、 「あら、津の国屋の旦那に一九先生じゃない」と声が返って来た。 「なんだ、夢吉と一緒に来たのは、おめえらだったのか」と津の国屋が馴れ馴れしく声を掛けた。一九は知らないが津の国屋は知っているようだった。 「夢吉はどうした。 「それが、まだなのよ。どこ行っちゃったんだろ。ねえ、旦那、久し振りに飲みましょうよ。草津に来てから、もう一廻り(七日間)にもなるのに仕事がないのよ。もう退屈で、退屈でしょうがないわ」 「桐屋の仕事はどうなったんだ」 「それが夢吉ねえさんの早とちりだったのよ。向こうじゃ梅雨が明けてから来て欲しかったんですって。それを梅雨が始まる前に来ちゃって。桐屋にいる梅吉ねえさんがうまくやってやるって言うんで、こうして待ってんだけど、全然、お呼びはないのよ」 「そうか、そいつは 「ねえ、いらっしゃいよ。一杯、やりましょ」 「そいつは嬉しいがな、今晩は宿屋の方で歓迎の宴を開いてくれるらしい」 「まあ、さすがね。どこに泊まってるの」 「そこの湯本安兵衛だ」 「あら、そう。ねえ、旦那、わたいらもその宴に出ちゃ駄目かしら」 「おう、おめえらも芸者だっけな。いいぞ、夢吉も一緒に連れて来い」 「まあ、嬉しい。お 「おう、待ってるぜ」 二人の女は手を振ると嬉しそうに壷の中に入って行った。 「深川の芸者ですか」と一九は聞いた。 「なんだ、先生も知ってたんじゃアねえのか」 「いや、最近、深川の方は御無沙汰で」 「先生が知らなくても向こうは知ってるようだ。さすが、有名人は違うな」 「いや、月麿の奴が一緒に来たって言ったんだろう」 「いやいや、先生は有名だ。先生を知ってると言やア、女共がキャーキャー騒ぐよ」 「まさか、歌麿師匠や京伝先生じゃあるめえし。旦那にゃアかなわねえ」 中沢善兵衛の宿の向かい側、湯池の脇にお湯が溜まっていて、馬が足を湯につけていた。 「ほう、ここじゃア馬も湯に浸かれるとみえる。内藤新宿辺りの馬たちも湯治に来てるかもしれんな」 「きっと、立派な馬の宿屋もあるんだろう」 二人は冗談を言いながら、馬の湯の先にある『かっけの湯』に足を浸した。足だけを浸す湯なので深くはないが、お湯が下からブクブクと湧き出していた。 「これだけ、色んな湯がありゃア退屈する事もあるめえ。面白え所だ」 『かっけの湯』の右側に『熱の湯』があり、左側に、先程、美濃屋の芸者衆が入っていた『綿の湯』の小屋が見える。薬師堂へと登る石段の脇に『御座の湯』があり、そこから『綿の湯』へと湯が川になって流れていた。 中善の方を振り返ってみると二階の廊下に芸者たちの姿はなかった。中善の隣りに山口清太夫という宿屋があり、その隣りにはまた、山本十右衛門の宿屋が並んでいる。湯池を囲む一等地にいくつもの宿屋を持っているとはかなりの有力者のようだった。 一九と津の国屋は『かっけの湯』を出ると『御座の湯』を覗いた。五人の男が気持ちよさそうに入っている。湯小屋の後ろに大きな岩があり、その上に石のお宮が建っていた。 「成程、この岩に頼朝公が座ったとみえるな」 一九は両手を合わせてから、しばらく、じっと眺めていた。つい、うっかりして手帳を持って来るのを忘れてしまった。後で描かなければならないと思った。 二人は石段を登って薬師堂へと向かった。石段の途中に仁王門があり、 「丁度、湯安の部屋から反対の眺めだな。夏になれば、さぞや、賑やかな事だろう」 「ええ、凄えだろうな。なにしろ、宿屋の部屋がすべて、埋まっちまうってえんだから」 当時、湯畑から石段を登ると、そこに薬師堂があった。現在、そこにある光泉寺は町営駐車場の所にあり、バスターミナルの辺りは墓場になっていて無縁寺があった。 一九と津の国屋は薬師堂とその隣りにある光泉寺をお参りし、光泉寺の山門をくぐって門前町を眺め、料理屋、美濃屋の前まで来た時、暮れ六つの鐘が鳴った。 「さて、今日はこの辺で戻るか」と二人は湯本安兵衛の宿に帰った。
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一九の膝栗毛より滝の湯
1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物