お鈴
新三郎の案内で、 熱い湯がブクブクと音を立てて噴き出している鬼の 読本の構想を練りながら、一九はふと、草津の湯が 「えっ、かってえの所に行くんですか」 一九の意見を聞くと新三郎は顔をこわばらせた。 「あんな汚えとこに行って、どうするつもりなんです」 「ネタ捜しさ。ネタはどんなとこに落ちてるかわからねえからな」 「どうしてもと言うのなら案内しますけど、覚悟して下さいよ。凄えとこですから」 二人は 「表通りにはいませんよ。裏の方に隠れてるんです」 草津の入り口にある木戸が見えて来た辺りで、新三郎は左の細い路地に入って行った。宿と宿の間を抜けると粗末な小屋が並んでいるのが見えた。中には 一九たちの姿を見ると顔や手足に汚い 「一 「どうします、まだ、奥の方を見ますか」と新三郎が 「まだ、奥があるのか」 「ええ、結構、あちこちから集まって来るんですよ。幸い、歩けねえような重病の者はいません。冬住みがあるので、奴らも一年中、ここにはいられませんからね、冬になるとどこかに行って、また、戻って来るんですよ」 「そうか。せっかくだから見て行こうか」 「そうですか」と新三郎はいやな顔をしながらも奥へと向かった。 狭い路地は雨水が溜まってグシャグシャだった。下駄を泥だらけにしながら奥へと行くと小屋の中から次から次へと異様な者たちが、 「おあまり下しゃれ、おあまり下しゃれ」と言いながら出て来た。 乞食たちは一九の着物を引っ張ったり、指のない手で、一九の腕をつかんだりしてくる。さすがに、一九も気持ち悪くなり、 「もういい。早く出よう」と新三郎を促した。 新三郎はうなづき、乞食たちを払うように先へと進んだが、ふと、足を止めて、小屋の中を覗き込んだ。 一九も小屋の中を見ると薄暗い中に若い娘の姿があった。 「可哀想になア、あの若さで 「ええ」と言いながら、新三郎は娘の姿をじっと見ていた。 娘がチラっと振り向いた。 その顔は以外にもまともだった。まともというより、泥沼の中に咲く一輪の 「おい、おめえ、もしかして、お鈴じゃアねえのか」と新三郎が娘に声を掛けた。 「えっ」と言いながら、娘は新三郎を見つめた。 「もしかしたら、湯安さんとこの若旦那さん?」 「ああ、俺だ。新三郎だ。おめえ、なんでこんなとこにいるんだ」 「それは‥‥‥それより、若旦那こそ、どうして、こんなとこに」 「いや、俺はちょっと、この先生を案内して‥‥‥それより、おめえ、かってえになっちまったのか」 お鈴は首を振った。 「おひゅひゅひゃんはわひらの観音ひゃまひゃ」と小屋の中にいた乞食が言った。 一九がその乞食を見ると、頭を丸めて、ぼろぼろの 「とひどひ、わひらの面倒ほ見にひてふれるんひゃよ。 「面倒を見る?」と新三郎は小屋の中に目をこらした。 よく見ると、お鈴のそばに年寄りが寝ていて、お鈴は傷口を洗っていたようだった。 「おい、おめえ、 新三郎は下駄のまま小屋に上がるとお鈴の手を引っ張った。 「若旦那、やめて」と言うのも聞かず、新三郎はお鈴の手を引いて小屋から連れ出した。 「てめえら、どきやアがれ」 凄い 一九は慌てて、後を追った。 曲がりくねった迷路のような細い路地を抜けるとようやく、表通りに出た。そこは美濃屋の裏辺りだった。新三郎はお鈴と言い合いをしながらも、さっさと歩き、広小路まで行くと近くの茶屋にお鈴を誘った。 「さあ、訳を聞かせてくれ」と新三郎は声をあらげて言っていた。 一九も茶屋に入って、二人の様子を見守った。 「さっき言った通りです。あたしはあの人たちの面倒を見なければならないんです」 「だから、どうして、おめえがそんな事をしなけりゃならねえんだって聞いてんだ」 「あたし、もう決めたんです」 「何を言ってやがんでえ。嫁入り前の娘が出入りするとこじゃアねえ」 「あたし、お嫁になんて行きません」 「まったく、どうなっちまったんでえ」 お鈴は口を堅く閉じたまま、うつむいていた。明るい下で見ても美しい娘だった。こんな娘があんな所にいたなんて、一九にも信じられなかった。 「もう、あたしの事は放っといて下さい」とお鈴は小声で言った。 「おめえが 「それがあたしのお仕事なんです」 「なんだと、赤岩の先生にしろって言われたんか」 「先生は関係ありません。先生もあたしがあんな事をするのは反対なんです。でも、あたしはやらなければならないんです」 「だから、どうして、おめえがやらなけりゃアならねえんだよお」 「誰もやらないから、あたしがやらなければならないんです」 「まったく、何を言ってやがるんでえ。あんな奴らの面倒を見て何になるって言うんでえ。おめえ、しめえには、おめえもかってえになっちまうぞ」 「構いません。その覚悟はもうできてます。若旦那さんには迷惑はお掛けしません。あたし、失礼します」 お鈴は一九にも頭を下げると立町の坂を上って行った。その後ろ姿を見送りながら、 「畜生、どうなっちまったんでえ」と新三郎は独り、つぶやいた。 「余程の覚悟をしなけりゃア、あん中には入っちゃア行けねえ。大した娘だ」と一九は煙草の煙りを吐きながら言った。 「幼馴染みなんですよ」 新三郎はぽつりと言って、お鈴の後ろ姿をじっと見つめていた。お鈴の姿が見えなくなると照れ臭そうに一九を見て苦笑した。 「ガキの頃はいつも真っ黒で男みてえな娘だった。でも、だんだんと綺麗になって、十六の時から、うちで 「もしかしたら、若旦那ともわけありの仲だったんじゃアありませんか」と一九は聞いてみた。 新三郎は冷めたお茶をすすると素直にうなづいた。 「壷廻りをやってた頃のあいつは毎晩、俺の部屋に来ましたよ。俺もあいつに夢中になったけど、あの頃の俺は草津から出たくてしょうがなかった。結局、俺はあいつと別れて平塚に行ったんですよ。帰って来てから会いてえとは思ったけど、あいつもいい年だし、俺なんか忘れて嫁に行った方がいいと思って‥‥‥」 「身分が違い過ぎるのかな」 「俺は身分なんてどうでもいいと思うんだけど、湯安を継ぐとなるとそうもいかなくて」 「だろうな。しかるべき 「はい」 「でも、さっき、お鈴ちゃんを引っ張って来た時の剣幕は凄かった。もしかして、若旦那は今でも、お鈴ちゃんの事を思ってんじゃアねえのかい」 「いや、そんな事はありませんよ。あいつの事なんか、もう勝手にしやがれです。好きにすりゃアいいさ」 新三郎はそう言いながら、空になった湯飲みの中をじっと見つめていた。 「若旦那は総領だと聞いたんだが、弟はいねえのか」と一九は聞いた。 「二人いたんだけど、二人とも死んじゃったんですよ。本当は六人兄弟だったんです。俺が十一になった春までは六人揃っていて、毎日、うるさかったんだけど、その年の四月に一つ上の姉えが流行り病で亡くなって、六月には上の弟が亡くなっちまったんです。そして、二年後には下の弟が亡くなって、五年前には一番下の妹が亡くなったんです。残ったのは俺と十七になる妹の八重だけなんです」 「そうだったのか、四人も兄弟を亡くしてたとはなア‥‥‥六人のうちで男一人、女一人しか残らなかったのか。そいつは親御さんの思い入れも 「ええ、そうなんです」 新三郎はしばらく、うつむいていたが、顔を上げると一九に笑いかけ、 「さて、次はどこに行きます」と聞いて来た。 「そうだな。村ん中は 「あそこの 「そういえば、鷺白先生も言ってたな。是非、そいつは見なければならんな」 お鈴の事から立ち直った新三郎は一九と一緒に薬師堂の石段を登った。一九が仁王門の彫り物を見上げていると、 「先生、月麿さんがいますよ」と新三郎が 見ると月麿が鐘撞堂の上に座り込んで、誰かと話をしている。 「あれ、あの女、桐屋のお夏ですよ」 「なに、かわらけお夏か」 確かに、月麿と話をしているのは、麻の葉模様の 「あの二人、何してんでしょう」 「さあな」と首を傾げながら、一九は月麿に声を掛けた。 「先生、遅えですよ」と月麿は鐘撞堂から飛び降りて、一九たちに近づいて来た。 「遅えって、何が遅えんだ」 「だって、先生、賽の河原を見たら、ここに来るって言ってたじゃアねえですか」 「ああ、そうだっけ。すっかり忘れてたわ」 「ひでえなア」 「俺が来なかったお陰で、お夏といい 「えっ、まあ、そうだけど」 月麿は振り返って、お夏を見ながらニヤニヤする。お夏は鐘撞堂のそばに立ったまま、一九たちに頭を下げた。 「で、謎はわかったのか」 「そんなの全然、わかりゃアしませんよ。お夏も一緒に見てくれたんだけどね、何が何だか、さっぱりでさア」 月麿は自分で写した近衛龍山の歌を一九に見せた。
「成程、こいつが本物か。確かに句の頭を読むと『なむやくししうにしむ』となるな。この後ろにある二つの歌は何だ」 「別の歌らしいんだけど、『白根に今朝は雪ぞ降りける』ってえのが、夢吉の歌ん中に入ってるんですよ。それで、そいつも写しといたんだ」 「その歌は 新三郎がそう説明した。 「ちょっと夢吉のを見せてみろ」 夢吉の歌と龍山の歌を比べてみると似ているようで、少しづつ違っていた。石段に座り込んで、二つの歌を見比べているとお夏も来て加わった。 「やっぱり、歌の順番が違いますねえ」と新三郎が言った。 「いや、順番だけじゃアねえな。 「そうなんでさア、先生」と月麿がうなづく。 「歌もバラバラになってやがるんだ。まともな歌は二つだけなんですよ。一体、夢吉の奴、何でこんな面倒臭え事をしたのか、さっぱりわからねえ」 「こいつは難しそうだな。おめえの頭じゃア無理かもしれねえな」 「ええ、もう俺アお手上げだ。夢吉に参ったって言いてえのに、あいつはどこに隠れちまったのか出て来ねえんです」 「こいつは鷺白先生に見せた方がいいんじゃねえですか」 「それしかねえな。それにしても、月麿、何かおかしかねえか」 「おかしいって何が」 「 「いや、そんな事アねえけど」 「何かおかしいぞ。こいつは夢吉だけの 「あの例の若え男か」 「その男はどうした。おめえの後を付けてなかったか」 「俺も気にしてたんだけど、そんな奴はいなかったようだ」 「おめえは誰か怪しい奴を見なかったか」 月麿がお夏に聞いたが、お夏も誰も見なかったと言う。 「その若えのが誰だか知らねえが、そいつだけじゃアねえ。誰か、大者が後ろにいるに違えねえ」 「大者って誰なんです。もしかしたら、相模屋かな」 「かもしれねえな。夢吉の居場所を知っていながら、捜してる振りをしてるのかもしれねえ」 「あの二人が俺をからかってるってえんですか」 「奴は歌に詳しいのか」 「さあ、どうだか。 「津の国屋の旦那なら知ってるかもしれねえな」 「あのう、もし」とお夏が声を掛けた。 「相模屋さん、昨夜、お連れさんと一緒に桐屋に泊まったんですよ。夢吉さんがどこかに行っちゃったって、やけ酒飲んでたみたいです。夢吉さんの居場所を知ってるとは思えませんけど」 「そうか、奴らは桐屋に泊まったのか。夢吉の居場所を知ってるなら、夢吉のとこにいるはずだ。となると奴も本当に知らねえのかもしれねえ」 「そうこなくっちゃアいけねえ。夢吉が相模屋なんかと一緒にいるわけがねえ。夢吉は相模屋たアきっぱりと別れたんだ。それなのに、めめったらしく草津まで追って来るから隠れちまったんだ」 「おめえも人の事が言えるか」 「そりゃアそうだけど。畜生、どこに隠れてやがんだ」 「とりあえず、それを鷺白先生に見せましょう。何かがわかるかもしれない」 新三郎が言うと一九はうなづいたが、 「ちょっと待て」と手を上げた。 「俺も本物を写しておこう」 一九は新三郎を連れて、薬師堂の中に入った。龍山の歌は壁に飾ってあった。堯恵の歌も隣りにある。両方の歌を手帳に写し、薬師堂の右横にある芭蕉の句碑も写した。
山なかや菊は
|
西の河原 | 鐘撞き堂 |
1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物