義仲伝説
一九は朝早くから、新三郎、中沢 昨夜、桐屋で夕飯を食べた時、 一九は眺草と共に早めに桐屋から引き上げ、宿屋に帰った。眺草は甥が経営する中沢 「明日は大丈夫じゃろう」と笑うと眺草は帰って行った。七十近いというのに元気な爺さんだった。 眺草と別れ、部屋に戻ると新三郎が一人で待っていた。一九が思っていた通り、新三郎は お鈴の話によると、お鈴がかったいたちの面倒を見に来るのは月に一度だけだという。本当は毎日、面倒を見てやりたいけど、お鈴も食べて行かなければならないので、それはできない。普段は赤岩で先生の手伝いをしているという。 新三郎は何度もやめろと言ったが、お鈴の意志は堅かった。出された料理にろくに手もつけず、うつむいている事が多かった。新三郎はお鈴が今夜、お世話になるという山口 そんな事を相談されても一九は困ったが、新三郎の話を黙って聞いていた。かったいの世話なんかやめさせたいと言いながらも、一生懸命になって、かったいの世話をしているお鈴の姿に感動したようだった。 「あんなお鈴を見なければよかった」と新三郎は苦しそうな顔をして言った。 「お鈴の事なんか忘れてたのに‥‥‥あいつ、前よりもずっと生き生きしていて、強え女になっていた」 一九は新三郎の顔を見ながら、うなづいた。 「きっと、お鈴ちゃんは自分の生き 「ええ、凄え女です。あんな女だったとは思ってもいなかった」 新三郎は一九から目をそらすと、ぼんやりと 一九は煙管に煙草を詰めながら、 「若旦那、お鈴ちゃんに会って、また好きになっちまったんじゃアねえのかい」と聞いた。 「そんな、そうじゃねえんです」 新三郎は向きになって否定した。 「ただ、若え娘があんな事をしてるのが見てられなくて」 「いいや、そうじゃねえだろう。あれが、お鈴ちゃんじゃなくて、知らねえ娘さんだったら、そんなに 「自分の心に素直にですか‥‥‥」 新三郎はそうつぶやきながら帰って行った。 お鈴という娘は使えるかもしれないと 朝、起きてみると月麿はいなかった。無事に夢吉と会えたのか、それとも、 隣りの部屋を覗くと都八がおかよと一緒に幸せそうに眠っている。津の国屋の姿はなかった。桐屋に泊まり込んだようだ。一九は麻吉の事をチラっと思った。昨夜、連れて帰りたかった。麻吉も一緒に来たいような顔をしていた。でも、眺草が一緒だったので、誘う事ができなかった。どこで寝ているのだろうかと少し心配しながら部屋を出た。 庭の 今日、一日、降らないでくれよと一九は空を見上げながら、二人のそばまで行った。 「おはようございます。わざわざ、どうもすみません」 「いやいや、わしも確認したい事がありましてな」と眺草が言うと、 「昨夜、眺草さんを訪ねたら、一九先生が入山に行くと聞きまして、わたしも是非にとついてまいりました」と夕潮は笑った。 「お二人が一緒なら心強い。噂ではかなりの山奥だとか」 「そうじゃな、 庭の奥の方から眠そうな顔をして新三郎がやって来た。 一晩中、お鈴の事を考えていて、あまり寝ていないようだった。 「若旦那、夜遊びが過ぎるようですな」と何も知らない眺草が笑った。 一行は義仲伝説の村へと向かった。 その頃、月麿は中善の夢吉の部屋で目を覚ました。眠るつもりはなかったが、前夜もろくに寝ていなかったので、つい、眠ってしまった。知らないうちに布団の中に寝かされている。隣りの布団を見ると麻吉が一人で眠っていた。豊吉と藤次はいない。二人とも桐屋に泊まったようだった。 月麿は 昨日は夢吉が絶対に帰って来ると自信を持って待っていたのに、夢吉は帰って来なかった。この草津にいるのは間違いないのだが、どこに隠れてしまったのか、さっぱりわからない。 昨日の午後、夢吉を訪ねて、顔に傷のある不気味な浪人者が来たと番頭が言っていた。夢吉はその浪人者から逃げているのかもしれない。いや、夢吉が浪人者に追われるはずがない。きっと、相模屋を追って来た借金取りに違いない。 畜生め、夢吉の奴、とんだ野郎と一緒になりやがって‥‥‥ 「あら、もう、起きたの」と麻吉が顔を上げた。 月麿は振り返り、 「おめえ、先生と一緒じゃアなかったのか」と聞いた。 麻吉は首を振った。 「先生は早起きして山奥の村に行くんだって。押しかけようと思ったんだけどさ、邪魔しちゃ悪いから帰って来たのよ」 「なに、先生は例の義仲の伝説のある村に行ったのか」 「そうよ。雨が降らなかったら夜明け前に発つって言ってたわ」 「なんだ、先生はいねえのか」 月麿は急にがっくりと座り込んだ。麻吉は布団から出ると目をこすりながら廊下に出て来て、広小路を眺めた。 「ほら、眺草先生って方と一緒に行くらしいよ」 「先生がいねえんじゃアしょうがねえ。一人で謎を解かなきゃならねえ」 「わちきが手伝ってあげるよ」 「おめえじゃア頼りねえや」 「あら、わちきだって歌くらい知ってるのよ。わちきの前の旦那、歌詠みだったんだから」 「ほう、そいつは知らなかった。歌詠みは歌詠みでも 「違うったら、ちゃんとした歌よ。ほら、 「ほう、そいつは頼もしい。それじゃア、この謎を解いてみてくれ」 月麿は夢吉の手紙、 月麿と麻吉がない知恵をしぼっている頃、桐屋の 「いい天気とは言えんが、雨が降らなくてよかったのう」と津の国屋が朝酒を飲みながら、見事な庭園を眺めた。 ツバメやセキレイが気持ちよさそうに飛び回っている。山の方ではウグイスとカッコウが鳴いていた。 「ねえ、わたいらもどこかに行きましょうよ」と豊吉が津の国屋にもたれながら甘える。 「そうだな。毎日、ごろごろしてるのも芸がねえ。ここらで名所見物と洒落るか」 どこに行くかと相談になり、 月麿と麻吉も呼びにやったが、月麿は勿論、来ない。麻吉は謎解きなんかどうでもいいと喜んでやって来た。一人で残されるんじゃ可哀想とお夏が麻吉と入れ替わるように中善に向かった。 津の国屋、都八、藤次、豊吉、麻吉、お糸の六人は特製の弁当と酒をぶらさげて、滝見物へと出掛けて行った。 一九たちは 一行はそこで一休みをしてから、 渓谷に架かる吊り橋をいくつも渡り、細い険しい道を通り、木曽義仲が密かに育てられたという入山村の それから十年近くの月日が流れ、 眺草は山道を歩きながら、義仲に関する伝説を詳しく話してくれた。
「あら、また降って来たみたい」 昼過ぎまで、月麿とお夏は宿屋巡りをして夢吉を捜し回っていた。広小路に面した大きな宿屋は勿論の事、裏通りにある小さな宿屋も捜したが、ついに見つける事はできなかった。もしかしたら、もう、草津にいないのかもしれないという不安がよぎった。疲れ果て、中善に戻った月麿は夢吉の手紙の解読に再び取り組んだ。草津にいるにしろ、いないにしろ、その手紙に何かが書いてあるに違いなかった。 「なに、雨が降って来たのか」と月麿は顔を上げて、外を見た。 あたりが急に暗くなったかと思うと、ザアーっと勢いよく雨が降って来た。 「まるで、夕立みたい。ねえ、見て、ほら、みんな大慌てで走ってるわ」 屋根を打つ雨の音がやかましくて、お夏の声も聞こえない。月麿も廊下に出て、広小路を眺めた。びしょ濡れになった客が泥だらけになって熱の湯の茶屋に駆け込み、空を見上げて雨宿りしていた。 「みんな、雨に濡れちゃうわね」 「ごうぎに降って来やがった。おい、入山村ってえのは、どのくれえかかるんだ」 「先生たちが行ったのは世立でしょ。四里はないと思うけど、あたしもよく知らないのよ、行った事ないし」 「四里か、往復で八里。朝早く行ったから、七つ(午後四時)頃には帰って来るか」 「そうね。七つには帰るんじゃないの。雨が降って来ちゃったし、もっと早く帰って来るかもしれないわ。でも、道はかなり険しいらしいし」 「今、何 「昨日の今時分でしょ」 「おきゃアがれ。お定まりの お夏は面白そうに笑うと、 「さっき、八つ(午後二時)の鐘が鳴ったばかりよ」と言い直した。 「そうか。まだ、帰って来ねえか。畜生、俺には手に追えねえや。早く、先生が帰って来ねえかな」 月麿は部屋に戻ると夢吉の手紙を手に取って眺めた。 「ねえ、ちょっと聞いていい」とお夏もついて来た。 「なんでえ」 「おまえと夢吉さんはどんな関係なの」 「どんな関係って、そいつはおめえ、昔、惚れ合った仲よ」 「ほんと?」 「当たりめえだ。夢吉と俺はそういう仲だったんだ」 「じゃア、どうして、夢吉さん、相模屋さんのお妾になったの」 「そいつはおめえ、夢吉のおっ母が倒れて、夢吉しか面倒を見る者がいなかったから、仕方なしに相模屋の世話になったんだろう」 「そうかしら」とお夏は首をかしげる。 「結構、夢吉さんも相模屋さんと惚れ合ってたんじゃないの」 「そんな事アねえ」と月麿はきっぱりと言う。 「あん時の俺はまだ半人前で、夢吉を食わして行く事なんかできなかったんだ。だから、夢吉は仕方なく、相模屋んとこに行ったのさ。今頃、相模屋と別れて、さっぱりしてるはずだ」 「そうかしら。それなら、どうして、いつまでも隠れてるの」 「そいつは相模屋の野郎が夢吉を追って草津まで来たからさ。野郎さえ来なけりゃ、夢吉だって隠れやしねえ」 「もしかしたら、今頃、相模屋さんと一緒に江戸に向かってるのかもしれないわよ」 「そんな事アねえよ。奴だって夢吉を必死になって捜してんだ」 「もしかしたら、夢吉さん、相模屋さんにも、その手紙をやって、早く、謎を解いた方を選ぶのかもしれないわね」 「なんだと? 夢吉が俺と相模屋を 「かもしれないって言っただけよ。相模屋さん、昨日の朝まで桐屋にいたけど、昨日の晩は現れないし、今朝も姿を見せなかったわ。夢吉さんと一緒に江戸に帰ったのかもね」 「馬鹿アぬかせ」と月麿は否定したが、急に心配になり、 「畜生、そんな事ア絶対にさせねえ」と慌てて手紙を懐にしまい、部屋から飛び出して行った。 お夏は淋しそうに月麿を見送りながら、せつない溜め息をついた。
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六合村世立 |
六合村世立
1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物