湯煙月
土砂降りの雨の中、 「例のお客さんがまだ着かないのですか」と一九は聞いた。 「これは先生、お帰りなさいませ」 安兵衛は愛想笑いを浮かべながら、頭を下げた。 「困った事になりました。無事であってくれればいいのですが‥‥‥ところで、先生、今日はいかがでしたか。途中で雨に降られて大変だったでしょう」 「いえいえ、かなりの収穫がありましたよ。 「なんだ、おまえも御一緒したのか」と安兵衛は新三郎を見た。 新三郎は返事もしないで、あらぬ方をぼんやりと眺めていた。 「若旦那には町の案内もしてもらって大いに助かっております」 「そうですか。どうぞ、こき使ってやって下さい。まったく、遊んでばかりいて困ります。先生からもよく言ってやって下さい」 「いや、しっかりした息子さんですよ」 「先生にあまり迷惑をお掛けするんじゃないぞ」と安兵衛は息子を睨み、顔を和らげると一九におやすみなさいませと頭を下げた。 部屋に帰る途中、一九はまだ来ない客の事を新三郎に聞いた。 客の名は山崎屋 「ほう、それじゃア、今年もかってえ乞食のなりで来たのかな」 「多分、そうでしょう」 「その山崎屋の旦那ってえのは、かなりの年配なのか」 「いえ、まだ四十前です。それ程、いい男には見えませんよ。なんで、あんな男にあんないい女がくっつくんでしょうねえ。勿体ねえ事です」 「お金の力でしょ。どうせ、その女だって見かけはいいけど、つまらない女なのよ」 麻吉がねえというように一九を見た。 「かもしれねえな。しかし、お得意様じゃア放ってもおけねえ。湯安の旦那も大変なこったな」 壷に帰ると誰もいなかった。誰もいないが、部屋の 「月麿たちは夢吉の部屋の方に行ったようだな」 「なに話してるのかしら」 「四年間の積もる思いを話してんだろう。それにしても、月麿の野郎、うまくやりやがった。それこそ、夢吉は月麿なんかにゃア勿体ねえ」 「夢吉ねえさん、月麿さんと一緒に江戸に帰っちゃうんでしょうねえ」と新三郎が残念そうに言った。 「そりゃそうでしょ」 「桐屋にいてくれれば、草津の者たちも喜んだのに」 「わちきと豊吉は残るわよ。わちきらじゃア不満なの」 麻吉が怖い顔をして睨むと、新三郎は慌てて、 「いえ、そういう意味じゃ」と手を振る。 「ねえさんたちが残ってくれりゃア、もう、みんな大喜びです。毎晩、遊びに行きますよ」 「いいのよ、無理しなくって」と麻吉は笑いながら、新三郎の背中をたたき、 「夢吉ねえさんにはかないっこないもの」と首を振る。 「ところで、話ってえのは例の事だな」 一九が言うと新三郎は急に真剣な顔をしてうなづいた。 「なに、例の話って」 麻吉が一九と新三郎の顔を見比べる。 「話していいか」と一九が聞くと新三郎はもう一度、うなづいた。 一九はお鈴の事を麻吉に話して聞かせた。 「そうだったの。若旦那も辛いわねえ。でも、よくある話じゃない。ほら、釣り合いの取れるどこかの養女にしてさ、それから 「江戸と違って、田舎は色々とうるせえんじゃアねえのか」 「なアに、肝心なのは本人たちの気持ちさ。ここんちだって跡取りはあんたしかいないんでしょ。あんたがどうしてもって気なら、親だって考えるよ。でも、相手の気持ちはどうなんだい」 「それが、まだ、わからねえんです」 「まず、それを確かめなくっちゃアね。それにしても大した娘だねえ。一人でそんなとこに入ってくなんて。わちきにゃアとても真似できないわ」 「俺、ずっと悩んでたんだけど、やっと決心がつきました。さっき、 「そうよ、そうじゃなきゃア男じゃないわ。うまくやりなさいよ」 「はい、真剣勝負のつもりでやります」 新三郎は言いたい事を言うと、さっぱりした顔して帰って行った。 「なんでえ。自分でちゃんと決めてたんじゃねえか」 「自分の決心を先生に伝えて、励ましてもらいたかったのよ。うまく行くといいわね」 「まったく、世話のやける奴らばかりだ」 一九は 「ねえ、先生、いい やっと二人きりになれたと麻吉は嬉しそうに一九に寄り添う。 「まあな。かなりのネタは集まった。後、 「今日ねえ、みんなで 「ほう、そうだったのか。蟻の門渡りに常布の滝か。平兵衛池はその先にあるらしいな」 「遠いの?」 「二里半くれえらしいな」 「そう、それじゃア、お天気になったら、みんなで行きましょうよ」 「そうだな。綺麗な池らしいから、向こうで酒盛りするのも面白え」 「ねえ、先生、どんな話になるの、今度書く読本て」 「まず本の題だが『草津奇談、 「ねえ、ねえ、どんな話」 「まず、義仲の親父が 「そうね、そうしましょう」と麻吉は部屋の隅に積まれた布団を引っ張り出す。 一九が脱いだ着物を綺麗にたたみ、自分も着物を脱いで、一九の隣りに潜り込む。 「やっぱり、草津は涼しいわね。蚊はいないし、朝晩は涼しいし、ほんと、来てよかった。ねえ、先生も夏の間、こっちにいて、ここで読本を書けばいいのに」 「そうはいかん。そうのんびりしてたら、 「そうか、先生、若いおかみさんを貰ったんだっけ。すっかり忘れてたわ。年が二十も違うんですってね。どうなの、若いおかみさんて、やっぱり、いい?」 「若えと言ったって、おめえと同じくれえさ」 「あら、そう。そういえば、わちきも先生と二十も離れてるのか。でも、先生は若いわよ。若い時、あんなに遊んでたのに、ほら、もうこんなになって」 「なアに、おめえがいい 一九は麻吉の肩を抱き寄せる。 「ねえ、続きを聞かせて。京伝先生も鬼武先生も読本をいっぱい書いてるけど、読本て何だか難しいでしょ。わちきなんか読めないわ。でも、絵だけ見てても面白そうじゃない。ねえ、山吹御前と駒若丸はそれからどうなるの」 「聞かせてと言ってもなア、そんなとこを握られてたんじゃ、うまく話せねえよ」 「やだア、先生だってさわってるくせに」 「なあ、おめえ、お夏のここ、見た事あるか」 「急になに言ってんのよ。男の人ってどうして、そういうのに興味あるんだろ」 「噂には聞くが見た事ねえからな」 「まったく、しょうがないねえ。先生たちが来る前にね、お夏さんと金毘羅さんの滝の湯に入ったのよ。その時、じっくりと見せてもらったわ。わちきもあんなの初めて見たけど、ツルツルしていて綺麗なもんだったわ」 「ほう、ここがツルツルか。一度、拝んでみてえもんだな」 「なに言ってんの。ただ、毛がないだけじゃない。なんなら、わちきの剃って見せましょうか」 「おう、そいつは面白え、俺が剃ってやる」 「いやね、本気にしないでよ。お夏さんみたいに生まれつきならいいけど、剃った後が大変でしょ。お髭みたいにざらざらしてたらみっともないじゃない」 「そりゃ確かにそうだ」 「お夏さんは『かわらけ』だけど、お糸さんの方は『 「なに、お糸は牡丹餅?」 「そう。もう毛が凄いの。真っ黒けなのよ。それでも、お客さんが怪我しないように、あの回りだけは綺麗に抜いてるらしいけどね」 「ほう、かわらけお夏に牡丹餅お糸か。ところで、豊吉はどんなだ」 「豊吉のはね、なんていうか、好きそうな赤貝ってとこよ。ほんとに好きなんだから」 「わかるよ、好きそうな面をしている。あっ、そうだ。夢吉はどうだ。知ってんだろ」 「先生たちが来る前、一緒に滝の湯に入ったけど、夢吉ねえさん、四年前と全然、変わってなかったわよ。肌なんか真っ白で、ツルツルなんだから」 「やはり、いい体してるのかい」 「女から見てもうっとりする程よ」 「くそっ、月麿なんかにゃア勿体ねえ、畜生め」 「やだ、痛いってば」 「おめえのはさしづめ、食べ頃の柔らけえ毛の生えた桃ってとこだな」 「やだア」 外は土砂降り、二人は他愛ない事をしゃべりながら、しっぽりと濡れて行った。
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麻吉
1.草津温泉の年表 2.十返舎一九の年表 3.文化五年、六年の出版状況 4.文化五年、草津温泉の図 5.文化五年の草津温泉の様子 6.湯本安兵衛の湯宿 7.喜多川歌麿の略歴 8.喜多川月麿の略歴 9.山東京伝の略歴 10.艶本一覧 11.「草津温泉膝栗毛 冗談しっこなし」のあらすじ、主要登場人物