沖縄の酔雲庵


尚巴志伝

井野酔雲



早田左衛門太郎の略歴


1274年 10月 蒙古襲来。対馬の宋助国はじめ一族郎党80人戦死する。
    対馬の島民の多くは殺され、家は焼かれ、生き残った者は捕虜になる。  
1281年 5月 蒙古襲来。対馬の島民の多くは殺され、家は焼かれ、生き残った者は捕虜になる。  
1307年   祖父、早田次郎左衛門、対馬の土寄浦に生まれる。  
1324年   次郎左衛門、倭寇として高麗を襲撃して穀類と人を奪う。  
1331年   次郎左衛門の長男孫次郎、対馬の土寄浦に生まれる。  
1336年   父、三郎左衛門、次郎左衛門の次男として、対馬の土寄浦に生まれる。  
1338年   次郎左衛門、博多で初代一文字屋と出会う。  
1339年   後醍醐天皇、崩御。  
1341年 1月 次郎左衛門、琉球に行き、伊平屋島に鮫皮作りの職人を置いて行く。  
1345年   仁位宗香、代官として筑前から対馬に来る。  
1346年 1月 次郎左衛門、琉球の伊平屋島に行き、鮫皮を手に入れる。  
  6月 次郎左衛門、伊平屋島のイハチ(鮫皮大主)を連れ帰る。  
1348年 1月 次郎左衛門、伊平屋島に行く。イハチ、帰る。  
    台州の方国珍が倭寇と結び、浙江、福建で海賊を行い、元の輸送船を襲い始める。  
1349年   倭寇が活発化し、高麗を苦しめる。  
1350年 4月 倭寇、100余艭が高麗の順天府を襲い、穀物を奪う。  
1351年 8月 倭寇130艭が高麗を襲撃。次郎左衛門の長男、孫次郎が戦死する。  
1352年 3月 高麗の首都開京は非常事態に陥っていた。それは朝鮮半島に食料などを求めて入ってきた多く の日本人によるものだった。  
  12月 次郎左衛門、三郎左衛門を連れて琉球に行く。  
1353年 6月 次郎左衛門と三郎左衛門、琉球から帰る。  
1354年 4月 倭寇、高麗全羅道の漕船40余艭を略奪する。次郎左衛門、三郎左衛門も参戦する。  
  12月 三郎左衛門、琉球に行く。  
1355年 4月 倭寇230艘、高麗全羅道の漕船200余艭を略奪。次郎左衛門も参戦する。  
  6月 三郎左衛門、琉球から帰る。  
1356年   済州島で蒙古の移民らの反乱がおき、地方行政の中核にある人々が殺害される  
1357年   倭寇、連年、元の沿岸を襲い各地の官民を脅かす。  
1358年 3月 倭寇、高麗の角山戊を襲い船300余艘を焼く。  
  5月 倭寇、高麗の喬桐を焼く。  
    高麗では倭寇のため財政が困窮し、百官の俸禄が支給できなくなる。  
    この頃より中国大陸に倭寇出現する。  
  12月 三郎左衛門、琉球に行く。  
1359年 6月 三郎左衛門、琉球から帰る。  
1360年 5月 倭寇、高麗の江華島を襲撃、300余人を殺害し米4万石を盗む。次郎左衛門、三郎左衛門も参戦する。  
1361年   対馬島の土寄浦に、水軍(倭寇)の大将、早田三郎左衛門の次男として生まれる。 1歳
  8月 懐良親王、大宰府を征西府とする。  
1368年   元が滅び、明が建国する。 8歳
  12月 父の三郎左衛門、琉球に行く。  
1369年 6月 父の三郎左衛門、サグルー(思紹)を対馬に連れて帰る。 9歳
1970年 1月 三郎左衛門、サグルーを送って琉球に行く。 10歳
  5月 三郎左衛門、琉球から帰る。  
    三郎左衛門の弟の五郎左衛門、高麗の富山浦に「津島屋」を開き、拠点とする。  
1371年 2月 刀屋の「一文字屋」、早田三郎左衛門の船で博多から坊津へ引っ越しする。 11歳
  7月 倭寇350艘、高麗の礼成江を襲い、兵船40艘を焼く。父も出陣する。  
    懐良親王、「日本国王良懐」の名で明国の冊封を受ける。  
    懐良親王、倭寇が捕えた被慮人を明に送還する。  
  11月 九州探題に任じられた今川了俊の弟仲秋の軍勢、呼子港に上陸する。  
1372年 1月 三郎左衛門、琉球に行き、サハチ(尚巴志)の誕生を祝福する。 12歳
  5月 明の使者、琉球に行く。琉球の進貢貿易が始まる。  
    高麗の使者、明への貢馬を獲得するため済州島に行くが、島民の反乱により島に上陸できず。  
  6月 三郎左衛門、琉球から帰る。  
  8月 太宰府落城。懐良親王、太宰府から髙良山に移る。  
1373年 6月 倭寇、高麗の東西江に集まり、陽川を襲い漢陽府に至り、家屋を焼き人民を掠め、数百里が騒然となる。三郎左衛門も出陣する。 13歳
    高麗の崔茂宣、火薬開発に成功する。  
    三郎左衛門の弟、備前守が五島に進出して拠点を作る。  
    祖父の次郎左衛門(67)、亡くなる。  
1374年 4月 倭寇350艭が高麗を襲撃。高麗の水軍、大敗して死する者5000人。三郎左衛門も出陣する。 14歳
  明の洪武帝、泉州・明州・広州の市舶司を閉鎖し、民間による交易や往来を禁止する。  
    高麗、戦艦314艘、兵25605人で済州島を平定する。  
    兄の次郎左右衛門、高麗人の娘を妻に迎え、高麗の富山浦に屋敷を構える。  
    懐良親王、髙良山から肥後菊池に移る。  
  12月 三郎左衛門、琉球に行く。山伏のクマヌも琉球に行く。  
1375年 6月 倭寇の将、藤経光、高麗の官憲にだまし討ちにされそうになる。この事件後、倭寇は高麗人の殺害に及ぶようになる。 15歳
    三郎左衛門、琉球から帰る。  
    済州島で反乱が起こる。倭寇200余艘が済州島を攻める。三郎左衛門も出陣する。  
1376年   高麗の李成桂、倭寇を智異山に撃破する。 16歳
  12月 倭寇、高麗の合浦の営を焼き、付近各地を襲撃する。左衛門太郎、初陣を飾る。  
    この頃、宗香の子、澄茂、今川了俊の斡旋で対馬守護になる。  
1377年 6月 倭寇200余艘が高麗を襲撃。父と共に出陣する。 17歳
  11月 倭寇130艘が高麗を襲撃。父と共に出陣する。  
    この年、高麗は54回の倭寇の襲撃を受ける。  
    九州探題今川了俊、倭寇が捕えた被慮人を高麗に送還する。  
1378年 3月 倭寇、高麗の泰安郡を襲撃し、南陽水原府を攻める。父と共に出陣する。 18歳
    倭寇の将、中尾弾正の娘を妻に迎える。  
  10月 倭寇、高麗の休州、全州、陽県、益州を襲う。兄の次郎左衛門と共に出陣する。  
  12月 三郎左衛門、琉球に行く。  
1379年 5月 倭寇騎馬700、歩兵2000余で高麗の普州を襲撃する。兄の次郎左衛門と共に出陣する。 19歳
  6月 三郎左衛門、琉球から帰る。  
    長男、藤次郎、生まれる。  
  7月 倭寇、高麗の楽安、余美、丹渓、山陰、洞州、威陽などを襲撃する。父と共に出陣する。  
    今川了俊、捕えた壱岐の海賊20人を甑に入れて明に贈る。明は日本から贈られた海賊20人、甑のまま寧波で蒸し焼きにする。  
1380年 2月 倭寇、高麗の永善県、宝城郡を襲い、富有県に入る。父と共に出陣する。 20歳
  8月 済州島の倭寇500隻、高麗の鎮浦口に入り、隊を分けて岸に登り州都に散入する。高麗の守備兵、大砲で倭船を焼く。  
  9月 高麗の李成桂、雲峰にて倭寇の首領、阿只抜都(アキバツ)を倒す。  
    懐良親王、明の太祖暗殺の計画に同意し、兵(倭寇)を送るが陰謀は露顕し、帰還する。  
    この年、三郎左衛門の娘婿の藤五郎、壱岐島に拠点を置く。  
1381年 2月 倭寇、高麗の寧海府を焼く。父と共に出陣する。 21歳
  11月 倭寇、明の広東を襲う。父と共に出陣する。  
    懐良親王、菊池城を攻め落とされ、金峰山に移る。  
1382年 長女、生まれる。 22歳
  12月 三郎左衛門、琉球に行く。  
1383年 3月 征西将軍宮懐良親王(55)没。 23歳
  5月 倭寇120艘が高麗を襲撃するが撃退される。  
    義父の中尾弾正と嫡男が戦死し、左衛門太郎が中尾家を継ぐ事になる。  
  6月 三郎左衛門、琉球から帰る。  
1384年 5月 倭寇、明の長淵を襲う。父と共に出陣する。 24歳
    次女、生まれる。  
1385年 8月 武芸舎の三好日向が土寄浦に来る。 25歳
9月 倭寇150艭が高麗を襲撃するが撃退される。父と共に出陣する。
    高麗、明に馬6000匹を献じる。  
    李成桂、咸州に入り込んだ倭寇を撃退する。  
1386年 12月 父、三郎左衛門と共に琉球に行く。三好日向も琉球に行く。 26歳
1387年 1月 山伏クマヌの案内で、サハチ(尚巴志)、ヒューガと共に琉球を旅する。 27歳
  5月 サハチを連れて、対馬に帰る。  
    次男、六郎次郎、生まれる。  
  7月 倭寇、明の台州を攻める。父、出陣する。  
1388年 1月 サハチを連れて琉球に行く。 28歳
  5月 高麗、明と戦うために 、各地の武将を集めて征伐軍を北に送る。その隙を狙って、倭寇が高麗を攻める。父も出陣する。  
    左衛門太郎、琉球から帰る。  
  6月 李成桂、王城を落とし、高麗の実権を掌握し、倭寇退治の軍を送る。突然の反撃に多数の倭寇が倒され、左衛門太郎の弟、左衛門次郎(23)が戦死する。  
1389年 1月 父と共に混乱状態の高麗(弟の敵討ち)を攻める。 29歳
  2月 高麗、兵船100艘をもって対馬を攻める。浅海湾を攻め、土寄浦一帯を焼き払う。
藤法眼宗慧戦死、宗水、早田丹後、日下部土佐などが奮戦する。
 
1391年 9月 倭寇、明の広東を襲う。父と共に出陣する。 31歳
    今川了俊、高麗に被慮人を送還し禁賊を誓う。  
1392年 2月 倭寇、高麗の慶尚道仇羅を襲う。父と共に出陣する。 32歳
  7月 李成桂、恭譲王を廃位して、高麗王として即位する。  
    三女、生まれる。  
  10月 南北朝が合一される。  
1393年 1月 父に代わって琉球に行く。 33歳
    李成桂の王朝、明の裁可により国号が朝鮮となる。  
  5月 琉球から帰る。  
  12月 シャムの使者、日本に向かうが、海賊に攻められ、礼物などすべて焼けてしまう。  
1394年   三男、生まれる。 34歳
  6月 今川了俊、高麗に被慮人659人を送還する。  
    シャムの使者、朝鮮に戻り、船の準備をして、朝鮮の使者を伴い冬に帰国する。  
  8月 倭寇、朝鮮の安城を襲う。左衛門太郎の兄、早田次郎左衛門、戦死する。  
  10月 左衛門太郎の叔父、備前守、戦死する。  
    父の三郎左衛門が隠居し、左衛門太郎が早田氏に戻って跡を継ぐ。  
1395年   浅海湾の奥の船越を新しい拠点とする。 35歳
  7月 今川了俊、高麗に被慮人570余人を送還する。  
    今川了俊、九州探題を解任される。  
    朝鮮、対馬の宗氏と通交関係を結び、要求に応じて穀物を送り、島人が略奪行為を働かないように配慮する。  
1396年 1月 琉球に行く。 36歳
  4月 琉球のキラマの島に行く。  
  5月 琉球から帰る。  
7月 シャムに行った朝鮮の使者、途中で倭寇に襲われ、捕虜になるが帰国する。  
  12月 高麗を攻めるが、敵の軍船に囲まれ、 長男の藤次郎を人質にして投降の意を示す。  
1397年 4月 兵船24艘を率いて、朝鮮に投降する。 37歳
    配下80人と共に太祖の優遇を受け、宣略将軍となり、配下もそれぞれ授職され倭寇討伐に当たる。  
    以後、降倭が続出する。  
  7月 長男の藤次郎、 朝鮮で病死する。  
1398年 5月 洪武帝、没し、皇太孫の建文帝が即位。 38歳
    宗貞茂、筑前の兵を率いて対馬に渡り、仁位頼茂より島主の座を奪回する。貞茂は筑前守護代でもあったので太宰府に戻り、父の霊鑑を対馬に置く。霊鑑は東海岸の志多賀(峰町)に館を構える。  
1401年   仁位宗香の子賀茂が謀反を起こして霊鑑を追放する。 41歳
1402年 6月 明の成祖永楽帝が即位。 42歳
    貞茂が兵を率いて対馬に渡り、賀茂は討たれる。宗家と仁位家は和解し、守護貞茂の代官として賀茂の子茂秀が就任。以後、本宗家が守護、仁位宗家が守護代となる。  
1403年   次男の六郎次郎(17)の妻にサハチの娘のユキ(16)を迎える。 43歳
  9月 日本の使者、明の寧波に至る。明、足利義満を日本国王に封じる。  
1404年 9月 琉球に向かうシャムの船が福建海岸に漂泊、船を修理させ、食糧を与えて琉球に向かわせる。 44歳
    室町幕府と朝鮮の国交回復。日朝貿易盛んとなる。  
1405年 5月 父、三郎左衛門(70)、死す。 45歳
  6月 朝鮮王の許可を貰って、対馬に帰る。  
    鄭和、第一次航海に出る。62隻で総勢27800人。  
  12月 宗貞茂の使者、朝鮮に馬10匹を進献し捕虜60人を送還する。  
1406年 7月 倭寇に襲われたジャワの船が朝鮮の郡山島に漂着。 46歳
  9月 対馬の宗貞茂の使者、ジャワの船から奪った蘇木、胡椒、孔雀などを朝鮮に献じる。  
    朝鮮の使者、李芸、対馬に来て朝鮮人俘虜70人を朝鮮に連れ帰る。  




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