酔雲庵

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門 

井野酔雲

創作ノート



『群馬県古城塁址の研究、補遺篇 下巻』より




◇廐橋城

長野左衛門尉宗賢(−1489)
長野宮内大夫賢忠
1541年頃 膳、山上にも勢力が及んだが、那波宗俊と協力して、金山の由良成繁を攻撃して敗れ、両城や那波地方からも退く。
長野道安(−1550頃)
長野道賢(藤九郎)
1551年 北条氏に属す。
長尾謙忠
1563年 2月、松山城救援に赴かなかったため謙信に処断される。
北条丹後守高広(1513−1587)
1554年 11月、景虎に背くが1555年2月、降伏する。
1560年 より那波在城。
1563年 2月より廐橋城代となる。
1567年 謙信に叛して北条氏に応じたが、越相同盟により、氏政の斡旋で謙信に許され復帰。
1572年 安芸守と改め、1578年3月、謙信死後入道して安芸入道芳林と号す。
1578年 9月、景虎に味方して越後に向かい樺沢城を守る。
1579年 2月、嫡子景広が御館で討死し、樺沢城も落ちて廐橋に帰る。その年8月、勝頼に属す。
1582年 武田滅亡によって一時、滝川一益に従い、一益上洛後、上杉景勝の支援により北条氏に抗したが後、服す。その頃は毛利の旧姓を称す。
滝川一益が引き上げた後、北条氏直に従うが、上杉景勝の関東出陣を知るや、景勝を迎える態度を示し北条勢と戦う。しかし、景勝の出陣はなく、
1584年 北条に従う。
北条下総守高定(−1578)高広の父。
1568年 以前より1571年3月まで在城。以後、春日山にて謙信の側近。
1578年 5月6日、景勝と景虎を和せしめようとし疑われ、子の広包と共に殺される。
北条丹後守景広(1548−1579)助三郎。
1572年 6月、丹後守を称す。父と共に廐橋城にいる。
1578年 9月、廐橋を発ち、10月10日、父高広を樺沢城に残し直江津に向かい、御館に入り景虎を助ける。
1579年 2月1日、荻田孫十郎の槍に傷つき、その夜死す。
滝川左近将監一益
1582年 北条高広は大胡に隠棲。

  • 河田備前守は1580年、勝頼に膳城で討ち取られる。
  • 1578年10月、北条の先鋒新四郎氏忠は勝頼が撤退したと聞き、御館に北条丹後守景広を送り、樺沢城に北条安芸守高広、河田伯耆守、小田原勢少々を残し引き上げてしまう。12月28日、景広は雪に埋まった旗持城を攻めたが失敗に終わる。1579年2月1日、景広、直江津の八幡宮に参籠している所を襲撃され討ち死にする。景広死後、景虎を捨てて景勝に付く諸将が続出する。坂戸城主長尾平五郎景憲も、北条高広と共に守っていた樺沢城を去って坂戸へ帰ってしまう。3月17日、景虎、景勝の和睦を図ろうと、上杉憲政は景虎の子道満丸(9)を連れて、景勝方の付け城、春日村の四ツ屋城に向かったが、二人はそこで景勝方に殺され、景虎の室は自害、景虎は鮫ケ尾城に逃げる。24日、景虎も力尽きて自害する。1581年3月、北条城も景勝に降伏する。


◇大胡城

北条丹後守高広
1572年頃 より、廐橋城を景広に譲って移る。
北条常陸介高繁
1579年 景広戦死後、大胡城主となる。
1584年 北条氏に従った後、城主は山上郷右衛門顕将が任じられたが、顕将は氏直の側近として小田原にいたため、高繁が城代として守る。
牧野右馬允康成
北条氏滅亡後、2万石で封じられる。


◇箕輪城

1566年 内藤修理亮昌豊、城代となる。
1575年 5月、長篠の合戦にて、昌豊戦死する。留守を守ったのは瀬下隼人(豊後守嫡男)。
1576年 2月14日、昌豊が戦死し、子の昌月が城代として箕輪城に入る。
1582年 3月、武田氏滅亡。昌月は北条氏に降り、後、滝川一益に降りる。
6月、一益が去り、北条氏邦が箕輪に入る。城代として昌月を置く。
1583年 5月、氏邦、箕輪城にて病に伏し、医師糟屋養信斎が治療に当たる。
1590年 4月24日、前田利家、真田昌幸に降りる。


◇女渕城

1560年 長尾景虎、女渕城を奪取して足利城主長尾景長に与える。長尾景長、家臣の新居図書助長重を城代とする。
1561年 10月2日 新居長重、赤城神社に大足の田3段を寄進する。
1562年 赤井氏を追い長尾景長を館林城主となる。
1569年 7月15日 長尾景長死す。長尾顕長が継ぐ。
1570年頃 沼田平八郎景義(妻は矢場城主横瀬繁勝の娘)、女渕城代となる。
1574年 上杉謙信、女渕城を降ろし、越後勢を置く。
1576年 由良氏、女渕城を手に入れ新居長重を城主とす。
1578年 3月、謙信死す。沼田景義、女渕に復帰する。
1580年 9月、武田勝頼、女渕城を攻略。河田備前守討ち死に。
10月14日、北条氏邦、女渕城を由良国繁に渡し、新居長重復帰する。
11月3日、新居長重、赤城神社に安堵状を出す。
1582年 3月、武田氏滅亡。小田原勢、上野に進駐。
5月、滝川一益、廐橋城に入り、上野の諸将これに従う。
5月6日、北爪長秀、赤城神社に寄進。
6月19日、一益、神流川に北条勢と戦って敗れ上方に去る。
1583年 2月13日、北条氏邦、赤城神社に禁制を出す。
7月、北条氏滅び、女渕城廃城。


◇白井城

1570年 春、真田一徳斎、白井城を攻める。城主、長尾憲景は八崎城に逃げる。
4月11日、北条三郎、沼田で謙信と対面する。
1571年 12月、北条と武田が再び、同盟する。
1573年 4月、信玄死す。
1578年 3月、謙信死す。憲景は北条方となる。
1580年 4月、廐橋城の北条高広、武田方となる。
6月、真田昌幸、沼田城を落とす。
8月、昌幸、津久田、猫、見立城を落とす。北条芳林は八崎城を攻略する。
1582年 3月、武田氏滅亡。
6月、本能寺の変。憲景は高山越前守を使者とし、三男鳥坊丸を人質に北条氏に降りる。
7月、北条氏は憲景の家臣赤見山城守に中山城を守らせ、沼田衆を懐柔させる。
閏12月、北条氏邦は阿曽、鎌田(森下城)を攻略。
1583年 4月2日、長尾憲景死す。次男の輝景が跡を継ぐ。小田原から城代として南城頼胤、大橋康定、大沢一信(由良国繁家臣)が派遣される。
・北条氏は鳥坊丸に政景と名乗らせ、八崎城に入れる。
1584年 末、北条高広、小田原に屈服する。
1585年 閏8月、家康、上田を攻めるが敗れる。家康と協調して北条氏直は沼田を攻めるが敗れる。
1589年 この頃、輝景は病身のため隠居し、政景が白井城主となっていた。
1590年 1月9日、政景、氏政に命じられ、小田原を発ち白井城に帰り籠城の準備をする。
1月26日、垪和伯耆守、検使として白井城に来て巡視する。
5月14日、前田利家に攻められ開城。政景は捕らえられ加賀に行く。後、政景は景勝の家臣となり、景広と改める。


◇大戸城

1567年 1月、浦野中務少輔(真楽斎)、石倉城を守り廐橋城を監視する。
1574年 6月、浦野新八郎(民部左衛門嫡子、大戸丹波守)、高天神城を守る。
1579年 大戸真楽斎、死す。弾正忠重次が跡を継ぐ。
1582年 9月、北条氏、大戸城を攻め落とす。弾正忠、出羽守、戦死する。


◇中山城

1582年 10月、中山右衛門尉、津久田城攻めで戦死する。
閏12月、北条軍、中山城を占領する。白井長尾家臣、赤見山城守、中山城を築き城主となる。
1583年 3月までに、赤見方に属したのは中山、川田、須川、沼田の地侍は57人に及ぶ。
1586年 9月、真田昌幸、中山城を落とし、林弾左衛門らに守らせる。


◇沼田倉内城

1560年 9月、長尾景虎、関東出陣。小田原勢は城を捨てて退去する。
1561年 6月、景虎、越後に帰る。
1564年 1月、輝虎、沼田に置いた猿ケ京の人質を猿ケ京に移し、宮野城在城の栗林次郎左衛門に管理させる。
1565年 倉内城を守っていたのは松本石見守景繁、河田伯耆守重親、新発田右衛門大夫長敦、小中大蔵少輔、小国刑部少輔。輝虎は武田の沼田攻めを警戒し、河田備前守長親も沼田に送る。
1566年 9月、武田信玄、箕輪城を落とす。
1567年 倉内城を守っていたのは松本石見守景繁、河田伯耆守重親、上野中務少輔家成。
1569年 1月5日、川場に隠居していた沼田顕泰、嫡子朝憲を殺し、会津に逃げる。
1570年 4月11日、輝虎、倉内城で北条三郎と対面する。
10月下旬、輝虎、倉内城で中風を患う。
1571年 4月、謙信、浅貝の砦(三国峠の北3.5キロ)を長尾顕景(景勝)に強化させ、栗林政頼に守らせる。
政頼は宮野城と兼帯し、三国峠の確保に当たった。
10月、北条氏康、死す。
12月、武田と北条、再び、同盟する。
1572年 2月、謙信、帰国し、本庄繁長を廐橋城に派遣し、関東の越後勢の総指揮とする。
10月、白井城を一徳斎に奪われた一井斎は八崎城に止まり、沼田、廐橋の連絡を確保する。
1573年 4月、信玄、死す。
1574年 2月、謙信、関東出陣。家康の二俣城攻めに呼応し、吾妻に進攻しようとしたが、羽生の危機を死って東上野に転じる。
1578年 3月13日、謙信、死す。
5月、景虎方の河田重親、景勝方の上野家成を攻め破り、5月半ば、猿ケ京城を攻撃する。景勝は坂戸城の深沢利重に救援を命じる。重親は三国峠を越えて進出し、利重に撃退される。この頃、沼田には北条の先鋒として猪股邦憲がいた。
1579年 2月中旬、河田重親、北条高広、北条氏光、越後より沼田に戻る。
4月、北条勢、小田原に引き上げる。沼田には猪股能登守、渡辺左近允、藤田能登守を置く。
5月、河田重親は北条氏政に請うて八崎城に移り、更に関根の寄居に入り、北条高広が武田勝頼に従うにおよび、新田に去り由良氏に身を寄せる。
8月24日、廐橋の北条高広、武田と結ぶ。
10月21日、北条勢、名胡桃、小川を攻撃する。猪股邦憲、沼田から撤退し、渡辺左近(北条家臣)、藤田信吉(1558−1616)が守る。
1580年 1月11日、真田昌幸、岩櫃城から名胡桃城に移る。
5月、藤田信吉の内応により、昌幸、沼田城に入る。信吉の弟、信清は武田に従わず浪人する。
8月、昌幸、北能登守に越後口の押さえとして小川城を守らせ、沼田城には山名信濃守、発知図書、中山右衛門に留守を固めさせ、鎌田城、長井坂城、津久田城、不動山城を攻め取る。続いて、斎藤加賀守の守る勝保沢城に向かったが、北条氏邦が大戸口に進攻して来たため沼田に引き上げる。
1581年 3月、昌幸、沼田を取り戻そうと攻めて来た沼田平八郎景義を倒す。
4月下旬、昌幸、報告のため甲府に向かう。
6月、昌幸、沼田に帰り、諸将を配備を定める。西条治部少輔、昌幸の援護として沼田に入る。
沼田城代‥‥‥ 海野能登守輝幸。
沼須城主‥‥‥ 藤田能登守信吉、沼田城住。三百貫。
長井坂城‥‥‥ 恩田越前守、下沼田豊前守。
鎌田城‥‥‥ 加藤丹波守。
阿曽の砦‥‥‥ 金子美濃守。
小川城‥‥‥ 北能登守。
名胡桃城‥‥‥ 鈴木主水。
上川田城‥‥‥ 発知図書。
下川田城‥‥‥ 山名信濃守、同主水。
新巻の要害‥‥‥ 塩原源太左衛門、沢浦隼人。
箱崎城‥‥‥ 原沢大蔵、山口式部、神保大炊助、小池右馬助、森下又右衛門
湯桧曽、清水越の番‥‥‥安部彦次郎、内山市左衛門。
犬居田の砦‥‥‥ 鈴木与八郎、同主税助、石倉、青柳、鈴木駿河大夫(富士の御師)
中山城‥‥‥ 中山安芸守、同右衛門、平形丹後守。
尻高城‥‥‥ 尻高左馬助、同源三郎、村上出羽守。
11月21日、真田信尹、海野長門守、能登守を殺す。幸貞の妻子は安中勘解由が守って落ちたが、藤田信吉の手に捕らえられ、妻の父矢沢頼綱に預けられる。
1582年 3月、武田家滅亡後、北条氏が占領する。藤田信吉は上杉景勝のもとに逃げ、矢沢頼綱は岩櫃城に逃げる。
5月、滝川一益、北条勢を追い出し、甥の儀太夫益氏を入れる。
6月、信長が死ぬと藤田信吉は一益に沼田城を要求するが、昌幸に渡す意向だったため断る。
6月14日、一益、藤田勢を追い散らし、沼田城に入り、矢沢薩摩守に引き渡す。
6月19日、一益、神流川で北条軍と戦い、上方へ去る。
7月初め、昌幸、北条氏に属す。白井の憲景も属すが廐橋の高広は反抗する。
8月、昌幸、祢津助右衛門幸直を川田城に入れて固める。
9月、北条氏、大戸城を奪う。
10月、昌幸、北条に叛し、祢津助直を攻めてこれを追い、沼田の矢沢頼綱も中山右衛門を先手として津久田城を攻める。右衛門戦死。
10月上旬、氏邦、長井坂城を攻め恩田越前守以下奮戦後撤退する。
10月23日、氏邦、阿曽、森下両城を攻め、矢沢頼綱後詰めをして撤退する。
閏12月、北条軍は中山を占領し、長尾憲景の家臣赤見山城守綱泰(沼田六郎、下野赤見の養子となっていた)に新たに築城させ守らせる。中山衆、上川田衆、下川田衆、須川衆らが赤見になびく。
・岩櫃、沼田間が分断され孤立に陥った沼田を救うべく、昌幸は上杉景勝と結び、沼田の矢沢頼綱は嫡子三十郎頼幸を人質として差し出す。
1583年 2月、箕輪城の北条氏邦、森下城を攻略する。さらに、大戸城を大改修し吾妻攻略の拠点とする?。五乱田に別城を築き、黒川谷から沼田盆地への繋ぎとして倉内城に重圧を加える。
3月、氏邦、白井まで兵を進めるが沼田の攻撃は行わず。病により箕輪に帰る。
1584年 1月、白井の輝景、川田城を攻めるが、祢津幸直、これを撃退する。
1585年 閏8月、徳川勢、上田で敗れ、氏直は沼田総攻撃を中止し、9月29日、陣を払う。
・景勝は沼田支援のため、矢沢三十郎を沼田に帰す。
1586年 春、昌幸は上田から食糧を送り救恤につとめ、川田城の祢津幸直は倉内城の北条曲輪に移り、川田城には家臣の小林文右衛門がいたが、小林、赤見の両将が協定を結んで相互に作毛を荒らす事をやめる。
4月下旬、北条高広、北条氏に従い、三俣に退き、氏直は廐橋城に入り、沼田城の矢沢頼綱に降伏状を突き付ける。頼綱はこれを拒絶する。
5月13日、正午より豪雨、3日3夜降り続き、川は洪水、橋は流され、北条の沼田征伐は延期となる。
5月25日、河川の水が引き、北条勢は猪股邦憲を先陣として片品川を押し渡り、田北の原に展開したが城が固くて落ちず、27日から再び豪雨となり、氏直は小田原に帰る。邦憲は阿曽の砦に残り沼田の監視に当たる。
7月、阿久沢左馬助を首班とする神梅の地衆は五乱田城に孤立した久屋三河等の沼田勢三百を襲い、城を攻略して久屋三河、割田新兵衛らを討ち取る。
9月、昌幸、中山城を奪還し林弾左衛門を入れ、割田新兵衛分の知行を与える。猪股邦憲は榛名峠を保持して名胡桃城を窺う。
9月20日、豊臣秀吉、真田成敗を止めた事を上杉景勝に申し送る。
1587年 1月、秀吉は景勝に免じ、昌幸を許し上洛を命じる。
2月中旬、由良国繁は阿久沢左馬助を先手とする五千余騎を以て五乱田城を発して沼田に向かい、阿曽在城の猪股邦憲と協力して沼田城を攻めるが矢沢頼綱の反撃に会い、糸井原、糸井坂で大いに戦い、北条方は敗退する。
2月末、秀吉、真田、徳川間の停戦を命じる。
1588年 5月、昌幸、嫡子信幸を沼田城主とし、矢沢頼綱を信州に戻す。
閏5月、秀吉、相国寺の妙寿院惺窩を使僧として小田原に送り、氏直に上洛を勧める。氏規が上洛する。
8月、氏邦、由良国繁、猪股邦憲らに沼田を攻めさせるが敗れる。
1589年 7月、昌幸、沼田領3分の1を北条氏に渡す事に決まる。
10月3日、北条氏忠、倉内城を受け取る。氏邦が城主を兼帯し、猪股邦憲が城代となる。小川城には富永又七郎(北条)が入り、名胡桃城には鈴木主水。羽場城には望月主税、塩原清左衛門。箱崎城には原沢大蔵、同式部。猿ケ京の宮野城には矢沢頼綱の家臣、庄村金右衛門、苗木弥左衛門が入った。
・中山右衛門戦死のため弟の九兵衛は城を失い姉婿の鈴木主水を頼り名胡桃城にいた。
10月23日、猪股邦憲、中山九兵衛を利用して名胡桃城を奪う。
11月24日、秀吉、家康を三枚橋に出陣させ、北条氏に宣戦する。
1590年 北条氏滅亡後、真田信幸に与えられる。


◇小川城

1580年 4月18日、昌幸の沼田城略取に殿を勤める。
8月、昌幸、東上野進攻の評定に加わり、小川に在城して越後口を押さえる。
1581年 8月、小川可遊斎、浪人となり越後に行く。北能登守、城主となる。
9月13日、昌幸の善導寺振舞に御相伴衆に加わる。
1582年 10月28日、北条氏邦の沼田攻撃に対し、先陣を務め防戦。
1587年 2月、由良勢の沼田攻めに際し、矢沢頼綱の先陣として戦い、敵を撃退する。
1589年 8月、秀吉の検使沼田城来着の接待に、真田信幸に付き添う。




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