酔雲庵

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門 

井野酔雲

創作ノート



『定本武田勝頼』より



上野晴朗著 定本武田勝頼




祢津宮内少輔元直(−1575.6)‥‥‥一無斎。長篠戦死。娘は1542年12月に信玄の側室となる。
勝頼の母、諏訪夫人は1555年11月6日、死去。
1543年5月、諏訪の上原城に板垣信方を据え諏訪郡代とする。
信方の後、諏訪郡代は室住玄審允→長坂虎房(釣閑斎)→武田信廉→市川宮内助。
1556年、秋山伯耆守信友、伊那郡代となり高遠城代となる。
1559年、晴信、出家して信玄と号す。
1562年6月、勝頼(17)、諏訪氏の名跡を継ぎ、諏訪四郎を名乗り高遠城主となる。馬場信春、城を改築。
勝頼に付けられた武将は跡部右衛門尉、向山出雲、小田切孫右衛門、安部五郎左衛門(阿部加賀守勝宝)、竹ノ内与五左衛門、小原下総、小原丹後(下総の弟)、秋山紀伊守。
1563年、勝頼の初陣。
1565年8月、飯富兵部少輔虎昌(山県三郎兵衛の兄)、義信謀反の罪で殺される。長坂源五郎、曾根周防らが連座する。曾根周防の妻は飯富兵部少輔の娘で、義信の乳母。曾根一族の昌世も浪人となり、1569年に復帰し、三増合戦の功により興国寺城将となる。
1565年11月13日、勝頼(20)、織田信長の養女と結ばれる。
1567年10月6日、武田義信、死す。
1567年11月頃、勝頼の嫡子武王信勝、高遠城内で誕生する。母親は死す。
1567年11月21日、松姫(7)と信長の嫡子奇妙丸(11)、婚約する。
1568年4月以降、箕輪城代の工藤源左衛門、内藤修理亮昌豊を名乗る。
1570年、信玄は馬場美濃守(57)、内藤修理亮(50)、秋山伯耆守(44)、高坂弾正(44)、小山田弥三郎信茂(31)、原隼人佐(46)、山県三郎兵衛尉(42)の7人の宿老と信玄の側近、土屋平八郎昌次(26)、武藤喜兵衛昌幸(24)、曾根内匠昌世(25)、三枝善右衛門守友(30)で上洛の軍議を行う。
1571年2月あるいは3月、勝頼、武田家の跡継ぎとして甲府に迎えられる。
1571年4月、高遠城に武田信廉が入る。
1571年9月16日、勝頼の側室が死ぬ。
1571年、信玄、比叡山より大僧正の位を貰う。
1572年、信玄、松姫と奇妙丸の婚約を破棄する。
1572年、信玄、西上の時、甲府御留守衆には御蔵前衆、御曹司(信勝)衆、御料人(お松、お菊)衆、御聖道(聖宝)衆、四衆合129騎。
1573年4月12日、信玄(53)死す。
1573年4月25日、越中富山城の河田長親、信玄の死を知る。
1573年5月9日、家康は大井川を越えて駿河に侵入、久能城の根小屋や駿府城近くの処々に放火、長篠城近くまで侵入、偵察して岡崎に引き上げる。
1573年6月、家康、武田の二俣城を落とすために砦を築く。
1573年7月、家康、長篠城を攻撃する。
1573年8月、奥平貞能、信昌父子、家康に寝返る。
1573年9月、信長も信玄の死を確信する。
1573年9月10日、家康、長篠城を落とす。
1573年11月、勝頼は一万五千の兵を率いて駿河から遠江に入り、掛川、久能の地方を焼き払い、天竜川を押し渡って浜松城を攻めようとしたが、家康が誘いの乗らないので示威行動だけで甲府に引き上げる。
長坂釣閑斎‥‥‥左衛門尉虎房、筑後守。1543年7月、上原城将となる。1548年、諏訪郡代となる。1557年以前に、信玄の側近となる。1570年頃、釣閑斎光堅と号す。
跡部大炊助勝資‥‥‥又八郎。1580年頃から尾張守を名乗る。
1573年12月28日、武田家の宿老7人が集まり、馬場美濃守の屋敷で軍議を行なう。
1574年1月、家康、駿河に侵入し田中城外を偵察して兵を引く。
1574年2月5日、勝頼、美濃岩村の明智城を落とす。
1574年3月5日、勝頼の祖父信虎(81)、信州伊那の祢津甚平宅で逝去。逍遙軒、信虎の肖像画を描く。
1574年3月、勝頼、高野山に塔婆を立て、信玄を供養する。
1574年5月、勝頼、遠江に進撃、7月に高天神城を落とす。高天神城攻撃の責任者は穴山信君。
1574年7月、北条氏政、下総関宿城を攻め、太田城の佐竹義重と和を結ぶ。
1574年9月、上杉謙信の兵、深谷城を攻める。
1574年9月、勝頼、二万の兵を率いて駿河から遠江に進攻、家康と天竜川で対峙し、11月に甲府に帰る。
1574年閏11月、梁田政信、関宿城を氏政に渡して和が成る。
1574年12月28日、武田家の宿老7人が集まり、山県三郎兵衛尉の屋敷で軍議を行なう。長坂釣閑斎と跡部大炊助が現れる。
1575年2月、家康は奥平信昌を長篠城の守将に据える。
1575年3月7日、勝頼、山県三郎兵衛尉を高野山へ代参として登らせ、塔婆を立て供養する。
1575年4月、家康配下の大賀弥四郎、勝頼に内応するが露見し、殺される。
1575年4月12日、恵林寺、躑躅ケ崎屋形にて信玄の三年忌を大法要が営まれる。
1575年4月21日、勝頼、一万五千の兵で長篠城を囲む。
1575年5月6日、勝頼、家康のいる吉田城を囲む。
1575年5月11日、勝頼、再び、長篠城を囲み攻撃する。
1575年5月13日、信長、三万余の兵を率いて岡崎に到着。
1575年5月18日、信長、設楽ケ原の極楽山に陣を敷く。
1575年、長篠合戦の後、穴山信君、山県三郎兵衛尉の跡を継ぎ江尻城主となる。
1575年6月、家康、遠江の光明城を落とす。
1575年8月、家康、諏訪原城を落とす。
1575年9月、勝頼、遠江に出陣、家康勢を追い散らす。
1575年11月、信長、信忠に岩村城を攻撃させる。
1575年11月21日、岩村城、落ちる。
1575年12月24日、家康、二俣城を攻め取る。
1576年3月、勝頼、遠江に出陣。
1576年4月16日、勝頼、信玄の安骨葬儀を行う。高坂弾正は剃髪して式に臨む。
1576年4月17日、信玄の初七日。
1576年4月26日、信玄の七周忌の法要も済ます。
1576年5月16日、勝頼、安倍五郎左衛門を高野山成慶院へ派遣し、信玄の寿像(長谷川信春画)、数々の遺品を納めさせる。
武田家親族衆 武田逍遙軒信綱 (1528−1582.49)‥‥‥信玄の弟。高遠城主。諏訪、伊那郡代。
一条右衛門大夫信龍 (1538−1582.39)‥‥‥信玄の弟。
武田左衛門佐信友 (1543−  .34)‥‥‥信玄の弟。
海野龍宝 (1538−1582.36)‥‥‥信玄の次男。
武田四郎勝頼 (1546−1582.31)‥‥‥信玄の四男。
仁科五郎盛信 (1557−1582.20)‥‥‥信玄の五男。
葛山十郎信貞 (1559−1582.18)‥‥‥信玄の六男。
安田三郎信清 (1563−  .14)‥‥‥信玄の七男。母は祢津甚平の娘。
穴山玄審頭信君 (1541−1582.36)‥‥‥勝頼の義兄。江尻城主。
小山田左兵衛尉信茂 (1540−1582.37)‥‥‥岩殿城主。
武田左馬助信豊 (1549−1582.28)‥‥‥信繁の子。小諸城主。
望月右近大夫義勝 (1552−  .25)‥‥‥信豊の弟。
武田信澄 (1560−  .17)‥‥‥逍遙軒の子。
河窪信俊 (1564−  .13)‥‥‥信実の子。
一条信就 (1564−  .13)‥‥‥信龍の子。
武田信光 (1559−  .18)‥‥‥信友の子。
武田信真 (1562−  .15)‥‥‥信光の弟。
1576年8月、勝頼、駿河から遠江に出陣、小山城まで至るが小競り合いだけで兵を引く。
1577年1月22日、勝頼(32)、北条氏政の妹(14)を娶る。
1577年3月3日、諏訪下社の秋宮千手堂の落慶式。願主は諏訪春芳軒という諏訪の御用商人。勝頼は奥方と娘を連れて参加する。
甲府の御用商人には坂田氏がいた。
勝頼の子供たち 紅暎林葉大姉  (1566−  )
武王信勝    (1567−1582)
新典廐室    (1573−  )‥‥‥1582年春、武田信豊の子、次郎に嫁ぐ。
貞姫(貞光大姉)(1579−1659.6.3)‥‥‥松姫と共に逃げ、古河の宮原勘五郎に嫁ぐ。
斎理周哲大童子 (1581−1583.3.7)‥‥‥渡辺嘉兵衛、鎮目村に匿う。
勝三
本光信継庵主 (1582−1655)
1577年8月、勝頼、遠江に出陣。小山城の三浦右馬助に樽井城を攻めさすが、落とす事はできず。
1577年10月、勝頼、遠江に出陣、小山城に入る。20日に大井川に軍を進め、家康と対峙するがお互いに牽制だけで引き上げる。
1577年11月、信長から同盟の誘いが来るが断る。
1578年3月より高坂弾正の具合が悪くなる。
1578年3月13日、上杉謙信(49)死す。
1578年5月7日、高坂弾正(52)、海津城で死す。海津城の実権と奥信濃の実権は武田信豊の手に移る。跡は次男の高坂源五郎が継ぎ、甥の春日惣次郎と共に城将として残る。
1578年5月頃、勝頼、越後小出雲まで出馬する。外交に当たったのは信豊。
1578年12月、お菊御料人(1563−1604.16)と景勝(24)の婚約なる。
1577〜1578年頃、お松御料人は甲府一蓮寺の末寺で武田家と縁の深い玉伝寺(尼寺)の生弌房のもとに身を寄せ、仏道一途の道に入ってしまったといわれる。
1579年、勝頼は廐橋城には用土新左衛門(弥八郎重連)、北条丹後守の侍衆にそのまま任せ、沼田の城代には信州先方衆の西条治部少輔を置く。これに対し氏政は武蔵上野の境に兵力を増強して対抗し、広木(美里町)、 大仏(美里町)に城を構え、氏邦に守らせた。
1579年3月24日、上杉景虎死す。
1579年3月25日、勝頼、遠江国安(小笠郡)に陣を張り。馬伏塚に家康軍と対峙したが、29日、勝頼は大井川を渡って引き上げ、家康も浜松に帰る。
1579年4月12日、信玄の七回忌の法要を執り行う。勝頼、法要の前に恵林寺の改築を行う。
1579年4月、勝頼、駿河に入り遠江国安まで行くが、すぐ兵を引く。
1579年7月、勝頼は西上野に出陣、広木と大仏を攻めるが落とせず、小競り合いに留まる。
1579年9月5日、北条氏政、家康と勝頼を攻める約束を結ぶ。
1579年9月13日、勝頼、駿河の黄瀬川で氏政と対陣、小競り合いだけで兵を引く。
1579年9月15日、家康、嫡子信康を自殺させる。
1579年9月17日、家康、掛川に出陣、勝頼を挟撃しようとする。
1579年10月20日、お菊御料人、越後に嫁ぐ。付き従った家臣は佐目田菅七郎6人、土屋藤左衛門5人、向山新三郎5人、雨宮縫殿丞6人、林与兵衛6人、円阿弥5人、木村与三兵衛5人、木村与三郎3人、御中間9人。
1579年、仁科五郎盛信(23)、高遠城主となる。仁科大町と兼帯。大町の館には家老の等々力次右衛門尉が留守居役として残され、北安曇の護衛、遠くは上杉景勝から譲られた姫川上流の根知城まで部下の在番衆を置いて守った。盛信は新館を建て、松姫を呼び寄せる。新館尼と呼ばれる。
高遠城主だった逍遙軒は下伊那の松山町にある大島城に移る。
1579年11月、武王信勝(13)、元服して武田太郎信勝を名乗る。
1579年、穴山信君は江尻城に壮麗な天守閣を築き、『観国楼』と名付ける。
1580年2月5日、信虎の七回忌の法要を執り行う。
1580年初め、内藤修理亮昌月、大和守の受領名を受ける。跡部大炊助は尾張守となる。
1580年3月、勝頼、伊豆に出陣する。船軍(ふないくさ)も行われる。
1580年4月、石山本願寺、信長と和睦し雑賀へ去る。
1580年4月26日、釣閑斎と跡部越中守勝忠(前美作守)は上杉家の長井丹波守に未進の黄金50枚の催促をする。
1580年6月18日、真田昌幸、沼田城を奪う。
1580年8月、勝頼、駿河の黄瀬川で氏政と対峙する。海津城から高坂源五郎も呼び寄せ、曾根河内守と共に沼津城の補強を命じる。勝頼の軍勢は一万六千。氏政が出て来ないので駿河に向かう。家康も逃げ、9月、甲府 に戻る。
1580年9月、家康、持宗城を攻め落とす。
この頃、岡部次郎右衛門正綱、穴山信君、曾根下野守昌世らは敵に内通していた。
1580年10月、勝頼、東上野を攻める。大胡、山上、膳の城を視察。
1580年11月、穴山信君、入道して梅雪斎不白と号す。
1581年1月、甲府の北西韮崎片山七里岩の上に要害の地を見立て、真田昌幸を普請奉行に命じ、城を築かせる。
原隼人祐貞胤が昌幸の補佐をする。初代は長篠で戦死。二代は膳城で深手を受け間もなく死亡している。
新府築城は穴山梅雪の勧めによる。1月に着工し12月に竣工。
1581年3月22日、高天神城は落城する。
1581年5月、勝頼、伊豆に出陣、氏政と対峙する。6月に氏政が兵を引き、勝頼も引く。
1581年5月、家康は藤枝まで攻める。
1581年9月末、北条家の戸倉城主笠原新六郎、武田に内応する。
1581年10月、新府城の主力構造部の工事が終わる。勝頼、伊豆に出陣。
1581年11月、勝頼、御坊丸を信長に返す。
1581年12月、信長、東条城に大量の兵糧を運び、武田追滅作戦の準備を始める。
1581年12月24日、勝頼、新府城に移る。次第窪に穴山屋敷、伊藤窪に山県屋敷、次第窪に長坂屋敷、次第窪に甘利屋敷、石水に青木屋敷、次第窪に小山田屋敷、伊藤窪に伊藤屋敷が残されている。
1582年1月27日、木曽義昌が信長に寝返ったという情報が茅村備前守より阿部加賀守のもとへ届く。
1582年1月28日、討手の大将として武田左馬助信豊を命じ、今福筑前守、横田十郎兵衛、都合三千騎をもって木曽口に進撃させ、搦手の大将には仁科五郎盛信を据え、諏訪越中守、同伊豆守に二千騎をもって上伊那口か ら進撃させる。
高遠城に小山田備中守昌辰を副将としてつけ、飯田城の保科正直には小幡因幡守、同五郎兵衛、波多源左衛門をつけ、松尾城には小笠原信嶺を、平谷、浪合の街道筋には下条信氏、兵庫助信昌らを配備する。
伊那の大島城には日向大和守、小原丹後守、安中七郎三郎、依田能登守らをつける。
松本の深志城には馬場大炊助氏貞を派遣する。
1582年2月2日、勝頼、二万を率いて出陣する前、木曽の人質、老母(70)、嫡子千太郎(13)、娘(17)を斬る。
勝頼、諏訪上原城に駐屯し軍議を重ねる。信豊も5度に3度は病気と偽り出席しない。
1582年2月3日、信長、出陣令を発する。この日、信忠は木曽口と岩村口と二手に分けて進撃。
1582年2月6日、下条信氏の伊那城を落とす。
1582年2月14日、松尾城の小笠原信嶺を降ろす。
飯田城を守る保科正直、小幡因幡守らは戦わずして逃げる。
1582年2月15日、大島城を守る逍遙軒、安中七郎三郎、小原丹後守、依田能登守らも城を明けて出奔する。
1582年2月16日、今福筑前守率いる三千騎は鳥居峠で織田軍に敗れる。
伊那市にあった春日城も箕輪の福与城も辰野の宮所城も城兵は逃げ出した。
1582年2月18日、家康、浜松を発し、20日には田中城を囲み、依田信審を降ろし、21日には駿府を占領、27日には用宗城が開城、城番の朝比奈信置は蒲原で殺される。
1582年2月20頃、深志城も落ちる。
1582年2月25日、穴山梅雪の人質が古府中から逃げる。27日、勝頼の知らせが届く。
1582年2月末、織田軍、高遠城を囲む。武田家臣たちに、内応すれば、しかるべく恩賞を与えるとの信長、信忠連名の書をばらまく。
1582年2月末、北条氏邦、廐橋城に入り、箕輪城を落とす。内藤昌月、氏邦に降りる。
1582年2月28日、勝頼、新府城に戻る。従う者は一千ばかりに減る。
1582年3月1日、江尻城の穴山梅雪も家康に内通、城を明け渡す。
1582年3月2日、高遠城、落ちる。
興国寺城の曾根下野守は早くから家康に内通していて、富士川東郡一帯の支配を任される。
1582年3月上旬、沼津城を守っていた高坂源五郎と曾根河内守は城を明け甲斐に逃げる。
1582年3月3日、勝頼、新府城に火を放ち、東に向かう。
1582年3月3日、早朝新府城→光明寺→躍踊原→みだれ橋→北北条→相岱→権現沢→阿弥陀森(涙の森)→上ノ山→見返り塚→法喜院→宇津谷→(上ノ山→駒沢→滝沢→金剛寺のコースもある)→妙善寺→志田→下今井 →泣き石→塔の越→龍地→島上条→千松橋→古府中(一条右衛門屋敷にて休息)→大泉寺→善光寺→石和→春 日居の渡し場→田中→下矢作→小城→中尾→南野呂→下岩崎→上岩崎→柏尾大善寺(3月3日夜)→横吹→鶴 瀬→駒飼(3月4日)→水野田→田野(3月11日滅亡)。
春日居の渡しの近く、春日居町鎮目には芍薬塚があり、この村の渡辺嘉兵衛と弟瀬兵衛は、勝頼夫人から泣き疲れていた2歳になる男の子の世話を頼まれる事になったが、翌年春3月7日に病没してしまう。
柏尾大善寺では勝沼次郎五郎信友の娘理慶尼(−1611)が一行を迎え、厚く持て成し、勝頼と夫人は薬師堂に籠もって祈りを込めながら一夜を明かした。
1582年3月5日、信長、安土城を発し甲州に向かう。
1582年3月6日、信長、岐阜において高遠城主の仁科盛信の首実験をし、その後は南伊那に入る。
1582年3月7日、信忠、古府中に入り、禁制を出すと共に塔岩の一条右衛門大夫信龍の屋敷を本陣とする。続いて、尊体寺、善光寺と本陣を進める。
1582年3月9日夜、小山田信茂、密かに人質を奪って逃げる。
1582年3月10日、家康も河内路を北上、市川に着陣する。
勝頼は自刃を覚悟し、かつて先祖の武田信満が禅秀の乱で戦死した天目山を自らの死地と定め、日川渓谷沿いに田野という村落まで登って行った。最期まで付き従った者は女子供を含め、わずかに40数名だった。
小宮山内膳友晴‥‥‥小宮山丹後守の嫡男で使番12人衆の出。勝頼の代に長坂釣閑斎、跡部大炊助、秋山摂津守の3人の出頭衆と仲たがいし、そのうえ、小山田彦三郎の讒言にあい、勝頼の勘気を被り、蟄居を命じられ ていたが、3月10日の朝、勝頼の最期の場所に駆けつけ、勝頼の許しを受け、身を乱軍の中に投じて壮烈な戦 死を遂げた。
早野内匠助、剣持但馬守、清六左衛門、同弟又七郎の4人は夫人と共に甲府に来た者たち。
1582年3月11日、家康、甲府に至り、信忠軍と合流。
1582年3月14日、信長、浪合に至り、勝頼の首実験をする。
1582年3月16日、武田信豊は部下の下曾根信恒に殺され、長谷川与次が使者となって、その首を信長に届けた。
1582年3月19日、信長、飯田を通り、上諏訪に至る。家康は上諏訪まで信長を迎える。
1582年3月22日、勝頼に謀反した穴山梅雪、木曽義昌、小笠原信嶺に、信長に伺候、拝謁を許される。
1582年3月29日、信長は上諏訪において諸将論功行賞を行う。穴山梅雪は河内の旧領安堵、木曽義昌は木曽の旧領に安曇、筑摩の2郡を与えられる。
1582年4月2日、信長、上諏訪を発ち甲斐の古府中に入り、武田館を陣所にして七日間滞在する。この7日間に武田旧臣の重要人物が次々に斬られ、恵林寺の焼き打ちも行う。
跡部大炊助、諏訪で殺される。逍遙軒は府中立石で殺される。小山田兵衛、武田左衛門佐、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛この4人は善光寺で殺される。一条右衛門大夫は甲州市川にて家康に殺される。秋山内記は高遠で殺される。長坂釣閑父子は一条館で殺される。典廐父子は小諸で殺される。大熊も伊那で殺される。高坂源五郎も川中島で殺される。駿河先方衆も成敗、甲信駿河侍大将いずれも家老衆殺される。ただし、信濃に真田、芦田、上野に小幡、和田、内藤、その他上州衆を皆助けて滝川寄騎に付ける。
甲府立石‥‥‥ 武田逍遙軒信綱、葛山十郎信貞、武田上野介信友。
甲州市川(3月15日)‥‥‥ 一条右衛門大夫信龍。
府中善光寺(3月15日)‥‥‥小山田兵衛右衛門尉信茂、信茂子(8)、武田左衛門信光(兵庫助子、19)、小山田八左衛門行村、小菅五郎兵衛、朝比奈兵衛大夫信置(駿河守子)
甲府一条館‥‥‥ 長坂釣閑斎、同源五郎(釣閑子)
信州諏訪(3月15日)‥‥‥ 跡部大炊助(勝資子の昌勝か)、諏訪越中守昌豊、諏訪伊豆(越中子)
古府中‥‥‥ 曾根下野入道、同河内守(入道子)、同掃部介(入道次男)、秋山万可斎、秋山摂津守(万可斎子)、跡部越中守、市川十郎左衛門(長円寺)
信州小諸(3月13日)‥‥‥ 武田左馬助信豊、同次郎(左馬助子)
信州高遠‥‥‥ 秋山内記(摂津守子)
信州川中島‥‥‥ 高坂源五郎(弾正次男)
信州伊那‥‥‥ 山県源四郎(三郎兵衛子)、大熊備前守朝秀
甲州郡内‥‥‥ 今川左近太夫
武州‥‥‥ 小山田佐渡(掃部長男)、加藤丹後(掃部次男)
駿河蒲原‥‥‥ 朝比奈駿河守氏秀
駿河村松‥‥‥ 今福丹後守昌和、同善十郎(丹後子)
甲州小尾‥‥‥ 今福刑部左衛門
甲州南山‥‥‥ 今井肥前、同惣一、岩手右衛門
国未詳‥‥‥ 今福筑前守成就、朝比奈摂津守秀重、清野美作守重定、小山田出羽、小山田左兵衛義国

田野の景徳院の牌子を見ると勝頼、夫人、信勝の他に僧2人、士33人、女子16人、計54人とある。
景徳院殿頼山勝公大居士 武田勝頼(37)
北条院殿模安妙相大禅定尼 同夫人(19)
法雲院殿甲巌勝信大居士 武田信勝(16)
鱗岳大和尚、       円公首座禅師
忠屋存孝居士・土屋惣蔵昌恒、阿白道総居士・河村下総守、慶宝道賀居士・安倍加賀守貞村、常叟道温居士・温井常陸介、跡叟道張居士・跡部尾張守、忠叟道節居士・小宮山内膳友晴、金渓道助居士・金丸助六郎昌義、中源実宝居士・小山田平左衛門、洞谷宗谷居士・小山田掃部介義次、明藍道白居士・小山田弥助、久桂芳昌居士・小山田於児、秋峯道純居士・秋山紀伊守光綱、水村山谷居士・秋山杢介、鉄岩恵船居士・小原丹後守忠次、空岸東海居士・小原下総守忠国、西安道伊居士・安田伊賀守、月窓江海居士・岩下総一郎、実山金性居士・小原源五左衛門、堅英了雄居士・秋山源三郎景氏、傑伝宗英居士・秋山宗九郎、観応月心居士・秋山民部光明、清寒霜白居士・秋山宮内、円応寒光居士・多田三郎、即応浄心居士・内藤久蔵、一峯宗誉居士・小原下野守、虚屋道幽居士・山野居源蔵、清神道林居士・神林清十郎、原清道賢居士・小原清次郎、賀屋道養居士・有賀善右衛門、源与道屋居士・土屋源蔵、天真了然居士・穴沢次太夫、本光道如居士・薬袋小助、松峯道鶴居士・貫井新蔵。
妙法禅定尼 妙蓮禅定尼 妙華禅定尼 妙経禅定尼 妙観禅定尼 妙世禅定尼 妙音禅定尼 妙菩禅定尼 妙薩禅定尼 妙普禅定尼 妙門禅定尼 妙品禅定尼 妙□禅定尼 妙二禅定尼 妙十禅定尼 妙五禅定尼
甲斐国志には士46人、侍婢23人、主従合計72人とある。
大龍寺鱗岳和尚、小宮山内膳正、金丸助六昌義、土屋惣蔵昌恒、土屋源蔵親久、秋山紀伊守光継、秋山民部丞光明、阿部加賀守勝宝、小原丹後守守次、小原下総守忠国、小原下野守、小山田平左衛門、温井常陸介氏照、多田新蔵盛房、薬袋小助信里、岩下惣六郎、貫名新蔵元重、山居源蔵正久、斎藤作蔵昌勝。
甲陽軍鑑には侍44人、女房衆23人、主従合計70人とある。
土屋惣蔵、秋山紀伊守、小山田平左衛門、同掃部、子息弥助、同お児(16)、土屋源蔵、金丸助六、秋山民部、同弥次郎(民部子)、坊主円首座、阿部加賀守、温井常陸、小宮山内膳、小原丹後、小原下総、岩下惣九郎、小原下野、多田新蔵、大龍寺鱗岳和尚、御鷹師斎藤作蔵、山名居源蔵、御歩衆山下杢助、みない小助、ぬきな 新蔵、歩の20人衆までかようにお供ありといえども、ただ44人なり。
上野原の加藤丹後守景忠は長篠で戦死、嫡子次郎左衛門信景が跡を継ぎ、丹後守を名乗る。
加藤氏の同族、上原讃岐守義実はお松御料人を武州八王子まで送り、窪田、石坂その他の者へ引き渡す。
お松御料人は1582年3月、石黒八兵衛、同朋何阿弥が供をして、天目山奥の仮屋に逃げ、八王子に逃げる。あまたの親族を率いて山梨県栗原の海洞寺に隠れていたが、その後、武州に走って案下山に隠れた。同行の人は末の妹一人、叔父逍遙軒、弟葛山義久の甥、勝頼の娘(後、宮原氏に嫁ぐ)、武田龍宝の娘、仁科盛信の嫡子、同娘の類若干人。書によっては3月23日まで向岳寺に身を潜め、その後、武蔵へ逃避、3月27日、上恩方の金照庵へ身を隠したという。
曾根下野守昌世は奥近習6人の一人で初め孫次郎勝長といい、永禄の末、足軽大将となり右近助といった。曾根中務大輔虎長の息子で義信事件のため同族と共に曾根の地を追われ、源内匠助と称して一時、駿河国に住み、浪々の身であったが、永禄12年(1569)の三増合戦で戦功を立て、再び、信玄に仕えるようになり、駿河の興国寺城を任される。天正7〜8年の間に下野守を名乗る。信玄他界後、度々、信長に書を送り内応し、武田家滅亡後は興国寺城主を認められ、富士川以東の支配を任される。信長死後は家康に仕え、武田の遺臣たちを家康に仕えさせる。
桂樹庵理慶尼(−1611.8.17)‥‥‥武田信虎の弟、勝沼次郎五郎信友の娘で、名を松葉という。雨宮某に嫁ぎ、1560年、勝沼氏が信玄に謀反のかどで誅滅された時、離縁となり、大善寺の慶紹阿闍梨を慕って仏門に入 り、得度を受け寺の境内に庵を建てて住む。
勝頼の首は3月15日から二、三日、飯田に晒され、その後、京都に送られ、小諸城で誅された武田信豊の首と一緒に六条の下御霊社前の獄門に晒し、京都の人々に見物させた。
京都花園妙心寺には恵林寺の快川国師に私淑して、その嗣となった南化玄興(なんかげんこう)が正親町天皇の勅命により妙心寺58世として在住していた。南化は勝頼の首が梟された事を聞くと胸を痛め、京都所司代に抗議すると共に、信長に嘆願して、これを貰い受け、3人の首を妙心寺にあつく迎え入れる。
1582年4月10日、信長、古府中を発ち、中道往環を通って駿河に向かう。
1582年7月、家康、甲斐に再入国し、北条軍と新府城において対戦の最中、武田遺臣の招撫のため焼失した恵林寺の復興と勝頼主従の冥福を祈って、田野の地に一寺(天童山景徳寺)を興す事を約束し、勝頼の菩提寺へは田野郷一円を寺領として寄付する。
1588年、景徳寺落成。
武田家滅亡後、真田昌幸を頼ったのは婿の小山田壱岐守、原隼人祐の子供兄弟、板垣修理、内藤、瀬下若狭、大熊五郎左衛門、羽田筑後、加茂、安中、白倉、丸山、花形、軍配者来福寺など。




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