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紅梅の肌着に唐織りの小袖、赤地金襴に萌黄裏の羽織を着て、黄金造りの鍔に白鮫鞘の太刀を帯び、黄金の張鞘の大脇差ははね差しに、首にはいらたかの大数珠をかけていた。 |
南蛮更紗の袖無しの胴着を小袖に重ね、黄金の鎖を重ねて水晶のロザリオと十字架を胸にかけ、腰には瓢箪や巾着、印籠などさまざまな物を吊して、地面についた太刀にゆったりともたれかかるポーズ。 |
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風流とは《きらびやか》とか《風雅》という意味で、派手に飾り立てた衣装をつけて踊る踊り。 |
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音楽を家の業とする公家。踊りの歌を依頼され、小歌の作詞作曲をする。 |
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飛び上がる踊りの特色はリフレインの部分で発揮され、優艶な歌詞の部分には、緩やかな舞の手振りが加わるという独特な様式が次第に形作られて来る。 |
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歓進興行も請け負う。芸能者と交渉し、場所を設定し、河原者を使い、舞台や桟敷を設営する。そして、宣伝と札の販売にかかる。 |
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応仁の乱前は、賀茂河原、洛外の神社、祇園、稲荷二大社の御旅所、さらに、諸街道から京への入り口にあたる鳥羽、西七条などの街道口、そして、歓進聖たちの拠地の寺堂、すなわち矢田寺、六道珍皇寺、因幡堂、六角堂、千本閻魔堂(引接寺)、北野神社など、かなり限定されていた。これらの土地の共通点は、いずれも霊魂の集まる場所であったというところにある。このような地は、鎮魂のため芸能が演ぜられるのに最適の場所であった。 |
応仁の乱後は、河原から、町中の辻で、興行が行われるようになる。その他、町堂、街道口、寺社の門前等が興行地となるが、地域的には、下京に限られている。 |
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外囲いは竹矢来を組んで筵を張り巡らし、入り口は鼠木戸と呼ばれる小さな物、その木戸口の上に櫓を組んで紋幕を張り、梵天を立て、三道具(刺股、突棒、袖搦)を載せている。梵天は、もともと、神降臨の場であった舞台に、神を歓請するためのしるしであった。三道具は、邪悪な物を払う呪具として置かれた。 |
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能舞台を踏襲したもので、広さは二間四方で、後方に囃子座があるが、地謡座はまだない。床下は板を張っておらず、屋根は切妻破風の板葺きで、舞台全面三方に細長い幕(水引幕)を張り、後方の能舞台では松が描かれている所と橋懸かりの後ろには紋の入った飾り幕や段幕を引いている。お国の座の紋は、下り藤を描くものが多い。この舞台の様式は、慶長十年頃までの、猿楽能や幸若、曲舞など、座員十数名程度の芸能座が、歓進興業を行う際のごく普通の形式であった。 |
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舞女は5、6人。 |
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1585年〜1630年頃にかけて、盛んに流行る。女能は、大夫の姿形の美しさという別種の興味が寄せられていたため、その演目は直面、つまり、シテが面をつけずに演じる現在能が多かった。 |
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