酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



出雲のお国について




  • 華麗な扮装

紅梅の肌着に唐織りの小袖、赤地金襴に萌黄裏の羽織を着て、黄金造りの鍔に白鮫鞘の太刀を帯び、黄金の張鞘の大脇差ははね差しに、首にはいらたかの大数珠をかけていた。

南蛮更紗の袖無しの胴着を小袖に重ね、黄金の鎖を重ねて水晶のロザリオと十字架を胸にかけ、腰には瓢箪や巾着、印籠などさまざまな物を吊して、地面についた太刀にゆったりともたれかかるポーズ。

  • 室町時代には、曲舞(くせまい)が多く、ことに稚児や若衆、女曲舞が愛されていた。彼らには北畠など洛外の散所から来るものと、近江や加賀などの地方出身を売り物にしている座とがあった。

  • 三味線の琉球からの移入は、永禄年間(1558〜69)かといわれているが、一般に普及するのは約半世紀ものちの事。

  • 宮廷は戦国時代衰微をきわめたとはいえ、国の象徴としての地位に揺るぎなく、さまざまの芸能者が入れ代わり立ち代わり御所を訪れ、扇を賜ったり、ささやかな酒飯の馳走を得たりしていた。ことに戦国末期、諸国の武将が入京を最大の目標にしていた頃は、芸能者にとっても、上洛して宮廷に参入することが最高の栄誉となっていた。彼らは遠来を象徴する身なり、すなわち笠や蓑、手甲脚絆、あるいは腰に瓢を下げるなどしている。地方出身を称する事が、単なる物珍しさばかりでなく、宮廷に出入りしやすくなる伝統的な条件となっていた。

  • 皮衣(かわぎぬ)(ばかま)が流行。

  • お国の『ややこ踊り』以前、宮廷で演じられた芸能は、踊りではなく、舞の系統を引く物だった。『舞』がまわる事を意味し、『踊』が跳躍を意味する語。『舞』が支配者階級の思考の様式であるのに対し、『踊』は生産者側の発想だった。

  • 風流(ふりゅう)踊り

風流とは《きらびやか》とか《風雅》という意味で、派手に飾り立てた衣装をつけて踊る踊り。
盆踊りという語が普通に使われ出したのは、応仁の大乱の頃から。
この頃の盆踊りは、鉦や鼓で囃し立てるだけの念仏踊りであった。
永正の終わり頃(1520年)から、風流踊りが盆の恒例の催しとなっていく。
天文後期(1541〜55)には、公家衆、町衆、奉行衆それぞれが、踊りを掛け合うまでになり、京の町の風流踊りは最盛期を迎える。

  • 山科言継(ときつぐ)

音楽を家の業とする公家。踊りの歌を依頼され、小歌の作詞作曲をする。

  • 小歌踊り

飛び上がる踊りの特色はリフレインの部分で発揮され、優艶な歌詞の部分には、緩やかな舞の手振りが加わるという独特な様式が次第に形作られて来る。

  • 元亀二年(1571)7月に催された将軍義昭上覧の風流踊りは、金銀金襤緞子唐織物紅梅綺羅を尽くした先代未聞のものであった。

  • 信長は、義昭の居所として二条城修復にあたって、名石を綾錦で包み、色々の花を飾って大綱をつけ、笛、太鼓で囃し立て、自ら下知して庭へ引き据えた。土木工事に大勢の力を結集させるために風流を利用したのは、前代までの権力者には見られぬ事であった。

  • 天正9年(1581)9月9日、宮廷の紫宸殿の南庭において、十歳のお国、『ややこ踊り』を演ずる。

  • 北野天満宮は、南北朝末期から興行地としての長い伝統をもっていた。

  • 歓進聖

歓進興行も請け負う。芸能者と交渉し、場所を設定し、河原者を使い、舞台や桟敷を設営する。そして、宣伝と札の販売にかかる。

  • 京の興行地

応仁の乱前は、賀茂河原、洛外の神社、祇園、稲荷二大社の御旅所、さらに、諸街道から京への入り口にあたる鳥羽、西七条などの街道口、そして、歓進聖たちの拠地の寺堂、すなわち矢田寺、六道珍皇寺、因幡堂、六角堂、千本閻魔堂(引接寺)、北野神社など、かなり限定されていた。これらの土地の共通点は、いずれも霊魂の集まる場所であったというところにある。このような地は、鎮魂のため芸能が演ぜられるのに最適の場所であった。

応仁の乱後は、河原から、町中の辻で、興行が行われるようになる。その他、町堂、街道口、寺社の門前等が興行地となるが、地域的には、下京に限られている。

  • 芸能の種類は、室町時代を通して、初期には、田楽と平曲、中期以降は猿楽と曲舞という4種類に限られている。

  • 清水寺への参詣路である五条坂、清水坂は遊女たちのたむろする遊楽の気配の濃い地であった。五条橋周辺が新たな賑わいを見せたのは、天正16年(1588)、秀吉による方広寺大仏殿の建立が始まってからである。慶長10年代(1605)に入り、盛り場は四条へと移って行く。

  • 小屋掛け

外囲いは竹矢来を組んで筵を張り巡らし、入り口は鼠木戸と呼ばれる小さな物、その木戸口の上に櫓を組んで紋幕を張り、梵天を立て、三道具(刺股、突棒、袖搦)を載せている。梵天は、もともと、神降臨の場であった舞台に、神を歓請するためのしるしであった。三道具は、邪悪な物を払う呪具として置かれた。

  • 舞台

能舞台を踏襲したもので、広さは二間四方で、後方に囃子座があるが、地謡座はまだない。床下は板を張っておらず、屋根は切妻破風の板葺きで、舞台全面三方に細長い幕(水引幕)を張り、後方の能舞台では松が描かれている所と橋懸かりの後ろには紋の入った飾り幕や段幕を引いている。お国の座の紋は、下り藤を描くものが多い。この舞台の様式は、慶長十年頃までの、猿楽能や幸若、曲舞など、座員十数名程度の芸能座が、歓進興業を行う際のごく普通の形式であった。

  • お国一座

舞女は5、6人。
囃子方は、能と同じ四拍子、笛、鼓、大鼓、太鼓で、三味線はない。
謡い手が2、3人。
狂言師が2、3人と猿若。

  • 女能

1585年〜1630年頃にかけて、盛んに流行る。女能は、大夫の姿形の美しさという別種の興味が寄せられていたため、その演目は直面、つまり、シテが面をつけずに演じる現在能が多かった。

  • 文明(1470〜80)頃の念仏踊り 男が女の服を着、女が男の真似をして、口々に念仏を大声で唱え踊り狂っていた。




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