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| ◇ | 荘園(13世紀末) | ||
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規模が小さく、荘園を構成する名田の大きさが、大体均等。 |
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関東、東北等の地区では、地頭。御家人等の在地武士が、総領制と言われる非常に強固な同族的結合をもって家父長的独裁権を振るい、一般農民に対して、極めて強い支配を行っていた。一般農民たちは、いつまでも、地頭、土豪等の強豪名主の強い支配、隷属から抜け出すことができず、先進地区のような、中、小名主的農民の独立と成長が長い間押えられていた。それゆえ、これらの地区の土地経営は、地頭、御家人等が大土地を所有し、直接経営が一般的な形として行われていた。 |
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先進地区では、農民が直接、商人と取引きしたが、後進地区では、取引きの相手は、地頭やその代官であった。 |
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先進地区では、農業余剰生産物の蓄積及び、その売却という過程によって、農民の富裕化、身分的上昇、在地地主として名主の成長があったが、後進地区では、貨幣経済は、農民の頭上を流れて行き、農民とは関係のないものだった。 |
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室町時代になり、幕府によって、荘園の侵略は公然と行われるようになっていった。大寺院の東寺、興福寺の荘園でさえも侵されるようになっていた。本所一円支配の荘園の荘官や荘民を軍役という名目で徴発し、自己の被官化して行き、犯罪者の検断のため、本所一円支配の荘園に守護使を派遣するとか、幕府の名で全国的に、段銭、棟別銭を課すという事も、本所権の否定を促進していった。幕府も表向きは守護による荘園の破壊を制止し、寺社領を保護したが、現実として、本所権の合法的否定、荘園制の無実化の方向に向かっていた。 |
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鎌倉以来の地頭層が、在地に根を張った者と、南北朝の争乱を機に、在地領主化して来た有力名主等がある。前者は、南北朝から室町にかけて、有力名主層の国人を自己の家臣団に組み入れる程に成長し、一方、有力名主層出身の国人は、農民的な性格を有し、荘園内の一般農民の先頭に立ち、それらの農民の利害を考慮しながら、行動しなければならなかった。自己の身を守るためには、将来性のある守護大名と結ぶ事が必要だった。室町時代には、守護大名の交代、消長が激しく、国人が結ぶ、守護大名の興亡は直ちに、国人層の運命を大きく左右した。国人たちは常に、時の政治的な情勢を敏感に判断し就去を決しなければならなかった。領国制を確立拡大するためには、国人層を被官化して、家臣団に組み入れなければならなかった。両者の利害の一致により、両者は急速に結ばれて行った。被官化した国人は、前にも増して、公然と荘園内に自己の領主的支配を拡張していき、荘園領主との紛争も激化して行った。崩れ行く荘園支配を維持するため、領主たちは、幕府にすがり、守護を通じて、国人の荘園横領を阻止しようとした。幕府は、一応、守護に命じるが、名目だけのものとなり、実行はされなかった。幕府の力でも、どうにもできないとなると、領主たちは、守護大名に荘園の年貢を請け負って貰う事になった(守護請)。守護大名は、請け負いを承諾するが、請け負いを名目にして、守護大名自身が公然と荘園を横領して行った。 |
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15世紀始めの頃、守護大名の所領は、各地に散在しており、幕府権力によって、全国的な治安が維持されてているうちは、問題なく、所領から、収入を得る事ができたが、在地領主の成長などによって不安定になると、守護は、国人たちを自己の傘下に糾合し、守護領国制を確立して行こうとする。そのためには、幕府権力に保証された『守護』という肩書が絶対に必要であった。守護の権限として、検断、御家人の統制、軍隊の指揮権、それを補強する数々の権限が与えられていた。『守護』という肩書があるゆえに、国人たちは被官となり、領国制が展開していった。国人は守護大名の力よりも、肩書に結び付いていた。しかし、後進地区では、肩書はさして問題ではなく、力と結び付いていた。幕府権力が没落して行くにしたがって、守護という肩書が、有名無実化した時、先進地区の守護は幕府と共に、没落して行く事になった。 |
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荘園の代官的地位にあった名主は、早くから地侍=国人的性格を持ち、武士的な者へと上昇し、在地領主としての性格を強くしていた。 |
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鎌倉末期から南北朝の内乱期にかけて、農民の支配者に対する反抗は徐々に活発化して行った。しかし、その時期の農民闘争は主として在地領主武士に対する反抗で、荘園領主と手を結んで行われた。反抗の主体は旧名主層であり、反抗の対象も地頭代官等であった。また、反抗の主要目的は夫役免除や名田の所職をめぐる争いであった。これが室町期に入ると、反抗の対象は荘園領主に移り、その目的も夫役免除から年貢の減免へと変わっていた。これがやがて、愁訴、強訴が不成功に終わると、耕地を捨てて、山野に逃れる逃散へと発展して行く。僅かの土地からの収入の半ば近く収奪される農民はただでさえ、その生活は楽ではなく、水害、風害、長雨、ひでりなどのため不作が続けば、たちまち、農民は飢餓に追いやられた。そんな時でも、荘園領主の収奪は容赦されなかった。貨幣経済に巻き込まれた農民は、年貢の納入も銭納化し、そのために、年貢負担の責任をおう名主層の農民は、年貢米を銭に変えなければならず、その度ごとに、商人に不当の利益を絞り取られ、生活の困窮を告げる者も多くなった。その際、荘園領主や酒屋、土蔵らは、名主職や作職等を買い上げて行った。また、土地を奪われて苦しんでいた農民の他にも、公家、武士、都市の市民たちも、高利貸には、苦しめられていた。しかし、武士や公家は、経済的困窮を農民の上に転化して行った。農民の生活は苦しみを増すばかりだった。郷村となって、寄り合いを持つようになった村々は、自分らの力で村を守ろうと、農民たちは、武器を持ち、荘園領主に反抗し、一揆を起こすに至ったのである。 |
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国内の荘園的土地の完全なる否定と支配、在地の国人=土豪の武力的、政治的服属により、支配下の土地を戦国大名の所有とした。その後、その一部を直轄地として代官を派遣して支配し、残りは寺社に朱印地として与える他、一族、譜代、新参の国人等の家臣団に知行地として恩給、安堵の形で給与した。それらの知行地の年貢等の徴収は知行地を与えられた家臣の従来の慣例による支配に任せたが、そこでは、今までのような、群小在地領主の土地所有としての意味は消え、すべてが、大名の所有であり、家臣はその知行を許されている形式をもった。戦国大名は分国法を施行し、その領国における政治、経済等全般に完全な支配権をその手に握った。領国の完全支配と争覇戦への投入のために富国強兵策を行い、産業の奨励と統制、農業技術の改良、農民統制の強化等を行う。すなわち、農民の土地への緊縛、兵農分離、商農分離を行い、城下町への職人、商人の招集などの政策を取った。また、鉱山の開発などは、戦国大名が競って行った政策であった。商品の領国内集中のためには中世的座を撤廃し、楽市楽座の命令を発し、関所の廃止など積極的に行った。家臣団の城下集住、一国一城主義の徹底、集団歩兵戦への転換など新しい軍事組織を作り出して行った。家臣団は組に組織され、下級武士は寄親、寄子の制度により、統制されて行った。一揆における農民の指導者、利用者たる国人層を戦国大名の被官とし奪われた農民は従来のような規模の団結と力では、農民の唯一の支配者である強力な戦国大名に対抗する事は困難となっていた。 |
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文明17年(1485)山城一帯の土豪=国人衆と新興名主層の農民の連合した大規模な一揆。土豪、農民は集会を開いて、両畠山の軍隊の山城からの撤退を議決し、これを突き付けた。この集会には、国中の16歳から60歳に至る男子が集まり、意気当たるべからざるものがあった。両畠山氏は兵を引き上げ、国一揆の華々しい勝利であった。ここに国人たちによる合議制の国支配が生まれた。しかし、国一揆の勝利も十年足らずで崩れて行った。 |
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| ◇ | 北陸の真宗寺院 | ||
越中井波瑞泉寺 |
明徳4年(1393)、本願寺第5代の法主綽如(しゃくにょ)によって、貴賎の道俗男女の喜捨によって建立された。近くには、東大寺八幡宮領高瀬荘があった。 |
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加賀二股本泉寺 |
瑞泉寺にあった第6代本願寺法主巧如の4男如乗によって始められた。 |
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加賀鳥越弘願寺 |
観応元年(1350)、本願寺第3世覚如の直弟立頓によって建立された。 |
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加賀河崎専称寺 |
宝徳年間以前から真宗道場となっていた。 |
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加賀小松本蓮寺 |
綽如の2子円鸞によって始められる。 |
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越前藤島超勝寺 |
嘉吉年間に綽如の命によって建てられる。 |
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越前和田本覚寺 |
超勝寺から分かれる。 |
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吉崎を含む越前国坂井郡は大体、興福寺大乗院領河口荘、坪江荘、同東北院領木田荘、一条家領足羽荘(文明以後は大乗院が支配)、醍醐寺三宝院領河合荘等からなる。 |
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文明2年の真宗寺院の状況 |
長享2年の状況 |
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| 越前 | 坂井郡9 大野郡6 | 坂井郡58 大野郡17 | |
| 加賀 | 石川郡12 | 石川郡18 | |
| 越中 | 射水郡36 新川郡20 砺波郡20 | 射水郡49 新川郡32 砺波郡35 | |
| 能登 | 鹿島郡1 羽咋郡15 鳳至郡3 | 鹿島郡1 羽咋郡17 鳳至郡5 | |
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転宗 |
周囲の農民は勿論、旧仏教寺院が頼みとしている在地武士までもが、真宗の門徒化してしまうようでは、旧仏教寺院としては、転宗か、廃寺の運命をたどるより他はなかった。 |
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門徒 |
農民は門徒になる事によって、守護や在地武士等の封建支配者を粗略にするという事態が頻繁に起こって来た。かつては、個々に分散し、相互にこれといった同朋意識、団結意識を持たなかった農民が、郷村制の形成による惣村的結合により、さらに、本願寺教団の本願寺を頂点とする中末寺、末寺という本末組織で結ばれる事により、門徒農民は組織の中に組み入れられる事となった。門徒農民の数が増し、それぞれの地区において門徒の勢力と組織が大きくなればなる程、門徒の支配者への反抗は増加して行った。 |
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| ◇ | 富樫氏 | 成春が北加賀、泰高は南加賀の守護職に任命される。 | |
| ・富樫成春 | 北加賀に入って来た赤松家の小寺藤兵衛に追われ、亡命中に病死する。 | ||
| ・富樫次郎政親 | 泰高より、南加賀を継ぐ。(東軍) | ||
| ・富樫幸千代 | 赤松家が北加賀から退くと、北加賀を手に入れる。(西軍) | ||
| ・甲斐八郎 | 朝倉孝景に敗れ、加賀に逃れ、富樫幸千代と合流し、越前奪回を図る。 | ||
| ・斎藤妙椿 | 美濃国守護代。文明6年(1474)朝倉孝景と甲斐八郎を和解させる。 | ||
文明6年7月26日、富樫政親・本願寺門徒・白山衆徒・山川、本折、槻橋当の有力武士。対、富樫幸千代・専修寺派門徒・守護代額熊夜叉・沢井、阿曽、狩野伊賀入道。文明7年になると、国人、農民門徒たちは、本願寺教団の威力を利用し、寺社領への年貢納入を拒否し始めた。門徒の勢力は、ますます拡大し、富樫方の国人たちも、身を守るために門徒にならざる得なくなっていた。政親は、かつての約束を無視し、門徒弾圧の挙に出た。自己の勢力を過信し、富樫勢力を見くびった門徒軍は敗退し、指導者株の坊主、国人門徒は、越中に難を避けた。 |
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◇ |
長享の一揆 |
一揆の指導者は洲崎慶覚坊兵庫、河合藤左衛門、笠間兵衛尉家次、山本円正入道、高橋新左衛門、木越光徳寺、磯部勝願寺、鳥越弘願寺、山田光教寺、野々市大乗寺。 |
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◇ |
破門 |
法主から破門になった坊主、門徒は諸他の同朋、同行からの交際を遮断される。村八部となり、当時、竃の火が消えた場合、隣家から火種を借りなければならなかった。しかし、破門になれば、火すら借りられなかった。また、貸した者も八部となった。目を見合わせる事さえ禁じられた。村の共同生活──田植え、稲刈り、用水、祭り等から、締め出される事となり、他所に逃げても、駄目だった。破門は、坊主、門徒にとって死を意味していた。また、死んでも、無間地獄に落ちるとされた。一家衆が、破門する権利を持っていた。 |
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| ◇ | 禅宗寺院 | 臨済宗は、鎌倉将軍、執政と強く結んだ。 | |
| 曹洞宗は、在地、中央の武士と結ぶ。 | |||
| ◇ | 浄土宗寺院 | 各地の領主層の武士を保護者として発達。 | |
| ◇ | 日蓮宗寺院 | 在地領主の武士と結ぶ。 | |
| ◇ | 組織 | ||
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単なる宗教的な性格だけでなく、村の政治的合体としての性格を強めて行った。 |
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長享一揆に活躍した国人門徒の連合体が組となり、加賀支配に代表者を送った。 |
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