酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



風土記、北陸




  • 興福寺大乗院
越前河口庄、坪江庄、三国湊。
  • 後白河院長講堂
越前和田庄、坂北庄。
  • 比叡山延暦寺
越前織田庄、加賀南白江庄。
  • 八条家
気比庄敦賀津。
  • 北陸の荘園は、近畿地方に比べて、広い土地を持ち、多くが数カ村にまたがっていた。
  • 北陸地方に番頭制荘園が発達。
  • 1581年回船式目の7湊
越前三国、加賀元吉、能登輪島、越中岩瀬、越後今、出羽秋田、津軽十三。
文明の頃、商船の往来が絶えず、遠く、松前地方とも交易があった。
  • 鎌倉末期、酒田の六梃舟の船頭は、7月の初め、酒田を漕ぎ出し、直江津から敦賀に着き、そこから大津まで、年に一度、上り下りしていた。室町時代になると、酒田、蒲原、敦賀、三国、直江津などには、問丸も発生した。
  • 若狭小浜と宇須岸(うしょろけし、函館)との間には、毎年3回も商船が往来し、下北半島の田名部にも回船がしばしば、訪れた。
  • 越後の産物、青苧も、小浜、敦賀に輸送された。
  • 人買い
海運を利用して、東国では人買いが横行する。十何歳かの娘を二貫二百文で永代に売った(1399年)。
  • 鋳物師の名には『吉』という名前が多い。
  • 1350年、加賀国鳥越に立頓(三世覚如のの直弟子)によって、弘願寺が建つ。
  • 1393年、越中国砺波井波に綽如によって瑞泉寺が建つ。
  • 1440年頃、越前藤島に五世綽如によって超勝寺が建ち、和田に本覚寺が建つ。
  • 1450年頃、加賀国江沼郡山城庄河崎に専称寺、能美郡小松に本蓮寺が建つ。
  • 講は、原則的に、月に一回、開かれ、門徒の憩いの場で、生活の上の苦楽の鬱憤をはらす場所でもあった。講の場で酒茶飯を共に楽しみ、連歌も楽しんだ。それと共に、領主の苛政への批判も行われた。
  • 冨樫政親は本願寺の保護と教団の発展を約束し、その代償として本願寺の軍事援助を求める。
  • 文明6年7月、政親方‥‥本願寺門徒、山川、本折、槻橋、白山平泉衆徒。豊原寺衆徒。幸千代方‥‥専修寺門徒、守護代小杉、額熊夜叉、沢井、阿曾、狩野。
  • いろりに、松の脂の多い松の木を燃やし、照明とした松アカシ。
  • 海岸地方では、魚(イワシ)の油も使った。
  • 名主
名田の所有者、名田は在家によって構成され、在家の経営者を名子と言う。名主は、下人や名子の労働力によって、4,5町程、自分で経営し、他は、在家に耕作させ、一定の公事、年貢を徴収していた。土地を広げて行くのに成功した名主は、やがて、武士となり、直接の生産者は、名子の手に移り、それぞれ、地位が上昇して行き、下人だった者も百姓となる場合もあった。
  • 能登の名主(地頭)時国家の屋敷‥‥‥母屋273坪、28坪の土蔵、28坪の酒蔵、78坪の廐、72坪の稲蔵、15坪の塩蔵が建てられ、その屋敷の回りに小さな下人の家が並ぶ。

  • 白山
  • 石徹白の中居神社、別当は美濃長滝寺。
  • 石徹白は、上、中、西、下、小谷堂(こたんど)、三面(さつら)の6つの村からなり、そのうち、上在所は中居神社に仕える社家のみが住み、中、西、下の在所には社人が住んでいた。平社人は、多く農耕に従っており、とくに焼畑をさかんに行い、稗を作った。小谷堂、三面の人々は、社人の小作をしていた。社家は、祭りの一切を行い、地方の旦那場を歩いて札を売り、生計を立てた。平社人の役目は、神輿を担ぐ事で、末社人には、それも許されなかった。
  • 越前勝山の地に平泉寺と白山中宮があった。
  • 牛首村の住民も元は社人。宿坊などもあったが、下人たちが、門徒になってしまい、社家としても、白山信仰を捨てねばならず、食うために、木地師となっていった。また、本願寺信仰が入り、白山信仰に関する物は焼かれた。焼畑は、山奥に入り、春から秋まで、畑の側で過ごす者が多かった。
  • 村には、山地主(元社家)と焼畑作り(元社人)と荷持ち(元下人)に別れた。荷持ちは、山の産物を里まで運ぶのを仕事とした。冬の間は、木地師となった。市ノ瀬の佐々木氏は社家。広い山林を持つ。
  • この辺りは古くから、養蚕も盛んだった。白山の神は養蚕の神として祭られていた。『オシラサマ』
  • 山主が、物資の交換機関を行った。生産物をまとめて、荷持ちに運ばせ、村人の必要な物を町から運び、村人に売り付けた。
  • 金山
  • 最初の金山は、陸奥国小田郡(遠田郡涌谷村黄金迫)749年発見される。
  • 奈良の大仏に使われた黄金は一万一千九百四十六両。
  • 坂上田村麿の東国成敗は、黄金獲得のためだった。
  • 佐渡相川金山──1603年開発され、20年後の最盛期には、相川に、家数五千軒、人口20万と称される鉱山都市となった。1年の運上銀は、八千貫余。実際の年産額は2万貫余と推定される。40年後頃より、次第に衰えていった。
  • 南部白根金山1602年発見。三千軒余りの都市が出現する。
  • 鉱山病、『よろけ病』と呼ばれる鉱毒病の珪肺。
  • 院内銀山、1606年発見。経営者4人、山師36人、金児308人、同手代164人、山中惣下才500余人、惣大工2300余人、山留め荷物留めなどの役人700余人、掘子、油通、たがね通などの者5300余人、合計7300余人。
  • 延岡銀山──1456年?加賀金沢の儀賀市郎左衛門が発見し、丹波生野銀山の山師作兵衛とともに開発して、大盛山となり。盛んな時、48000軒の鉱山都市となった。1670年頃には衰退する。
  • 製鉄業者は、出雲国能義郡比田に女神の金屋子神を祭り、金屋と呼ばれていた。
  • 初期の精錬方法──地面を掘って、くぼみを作り、平炉とし、砂鉄と木炭を交互に入れて火力で溶融還元し、鉄を炉底に集めて精錬する野炉によった。
  • 1650年頃の中国流の精錬方法──本床の広さ3,5〜7尋(約5m〜10m)、深さ1丈位、水が涌けば16尺位まで掘り、中に栗丸太を簀子のように並べ、柴や莚を敷き、その上を2尺位土で固め、その上に大石を並べ、粘土で固め、四隅に竹を立てて、地下の湿気を抜く装置をした。その床の上に深さ53寸、幅32寸、長さ9尺の長方形の炉を作り、内部を耐火粘土で塗り上げ、炉の上に甲(覆)をかけ、中央に煙り出しの穴をつけた。燃料は木炭を用い、栗、松炭を最良とした。番子によって3昼夜吹き続け(これを一夜と言う)720貫前後生産した。この方法によって、年間、およそ80吹きとして、六万貫前後の生産が普通であった。その生産能率は、荒鉄一万貫得るのに、砂鉄八万貫と木炭五万五千貫で溶熱しなければならなかった。
  • 『古代の鉄と神々』より
  • 美作国一の宮中山神社、祭神‥‥‥金山彦神(製鉄の神)
  • 美濃国仲山金山彦神社(南宮大社)
  • 鉄神の系譜‥‥‥スサノヲノミコト──オオナムチ──ニギハヤヒノミコト
  • 大和三輪山大神神社‥‥‥鉄の山(オオナムチ)。農耕に必要な水をもたらすと共に、農耕を推進する鉄製器具の原材料たる砂鉄を産する山。
  • 砂鉄を含む山を『鉄穴山(かなやま)』といい、砂鉄を掘る作業を『鉄穴(かんな)流し』といい、そこで働く 人々を『鉄穴師(かなじ)』と呼んだ。
  • 鉄穴師は、砂鉄分の多い、削り易い崖を選んで山から水を引き、崖を切り崩して土砂を水流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁水を流し去り、沈んだ砂鉄を採ってタタラ炉に 入れて製錬する。
  • 穴穂、穴太、穴生、賀名生は、いずれも産鉄地。

  • 縁日
観音18日(7月10日、四万六千日)、阿弥陀13日、薬師8日、地蔵24日、弁天巳日、大黒子日、毘沙門寅日。
信州鎌と善光寺詣、越前鎌と漆掻き職人、越後鎌と毒消し売り。
刃の形態から細刃型、広刃型、刃の厚さから薄物、中厚物、厚物に分類。
  • 焼畑
稗、粟、大豆などが作られた。火入れに先立ち、焼畑予定地の立木や下草などを鋸、鉈、鎌などで伐りそろえて十分に乾燥しておく。火入れは、火打石、付木などで、傾斜地の上から下へ行なう。年二回行なわれる。
白山麓の焼畑は1年目、稗。2年目、粟。3年目、大豆。4年目、稗。5年目、大豆。そして、放棄。
  • 斧(ヨキ)
刃の大型のものをハビロ、マサカリ、刀状に長く小型のものをナタと言う。
山林の伐木や木取り、荒削りなどの造材をする人。作業地近くに杣小屋を建て、ここに寝泊りした。
  • 樵(きこり)
杣、木挽、木地師などの専門職を除く土着の山林労働者。
  • 炭焼き
主に、製鉄や鋳物などに限られ、一般に使用されるようになるのは近世以降。
  • 木地師
栃(とち)、欅(けやき)、椈(ぶな)、イタヤカエデなどを材料に、椀や盆や食籠などの円形のくり物を作る。キサギという道具を使って木を削る。
轆轤を使わずに、農具の柄や枕を作っていた者がいた。
  • 鋳物師
仏像、梵鍾、茶釜、湯釜、塩釜、鋤、鍬などを製作。
  • 鍛冶師
鎌、鍬、犂、鋸、包丁などを製作。鋳物師と共に、守護神は荒神、稲荷神、金屋子神。
  • 大工
親方を棟梁と呼び、土方、左官、畳屋、指物師、屋根師など、家作りに関する職人すべてを統轄していた。大工たちは、職人神として太子を祀る。1月あるいは8月の21日もしくは16日を太子講と称し、集まり、色々な取り決めを行なった。
  • 竹細工
籠、笊(ざる)、簾、つづらなどを製作。材料の竹は、旬の10月から2月にかけて切ると虫がつかない。ナタで切り乾燥させる。
  • 雪国の民家は、壁が多く、窓が少ない。雪の降る前には、薪を取り溜ておき、家の周囲には雪囲いをする。雪降ろしのため、家々は離れて建ち、道は広くとっている。
  • 敦賀の地には、蔵屋敷が並ぶ。
  • 加賀金石の銭屋(江戸時代の豪商)
  • テグス
1714年、大阪にテグス問屋ができてから、全国に広まる。
  • 樽丸
吉野スギだけで間に合わなくなると、吉野の樽丸師が入り、白山南麓のスギが材料とされた。
  • 越前鎌
府中(武生)で、1314年頃より製作される。京都粟田口の刀工国家の三男の千代鶴国安が、府中に住み、刀剣製作のかたわら農具用の片刃鎌を作ったのが始まり。・5月6日、白山比口羊神社の白山祭。
  • 10月2〜4日、金剣宮の秋祭。
  • 東北地方には鹿と狼が多かった。
  • 羽黒山
本坊、宝前院。大先達、花蔵院、智憲院、正穏院。奥の院、荒沢の3寺。その下に大寺7寺(能林院他)。その下に18寺。明治維新の頃。
  • 月山、八方七口
荒沢、川代、シメカテ、大網、ヒジオリ、本道寺、大井沢、岩根沢。




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