酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



加賀国の状況




嘉吉 元年(1441) 6月 富樫教家が、将軍義教の勘気にふれて出奔。
教家の弟、泰高が、管領細川持之の被護のもと家督をつぐ。
数日後、嘉吉の変、将軍義教、殺害される。
教家の家来本折但馬入道、加賀に打ち入り、泰高の家来、山川筑後入道と争う。嘉吉2年、畠山持国、管領となり、教家を家督とし、本折但馬入道は守護代となる。
山川筑後入道父子は、主人の泰高に代わって割腹する。
文安 4年(1447) 教家と泰高は和睦して、教家の子成春が、北加賀(河北、石川両郡)、泰高が、南加賀(能美、江沼両郡)の守護に任命される。
社寺領を横領したかどで、成春は半国守護職を奪われる。
泰高の家来山川近江守、教家派を越中に追いやる。
長禄 2年(1458) 赤松政則、北加賀半国守護職として、加賀に入国。
赤松方、富樫成春方を撃破し、小寺藤兵衛を守護代として、駐在させる。
富樫成春、亡命中に病死。成春に、政親、幸千代の二子あり。
寛正 5年(1464) 富樫泰高、政親に家督を譲り、隠居する。
応仁の乱(1467) ・越前──朝倉(西軍→東軍)、甲斐、(西軍)
・能登──畠山(西軍)
・加賀──赤松(東軍)、富樫(政親、東軍・幸千代、西軍)
・幸千代の将、額熊夜叉(父、丹後守は小寺にやられる)
・政親の守護代槻橋近江守
・赤松勢、加賀から引き上げる。
文明 4年(1472) 8月 越前の西軍の甲斐八郎が、東軍の朝倉孝景と戦って敗れる。
吉崎に近い細呂宜郷下方で行われたが、本願寺門徒は関係なかった。
甲斐八郎は加賀に敗退して、加賀の西軍、富樫幸千代派と合体する。
蓮如の次女見玉、死す。
5年 7月9日 幸千代の軍、白山の山内荘の富樫政親を攻撃する。
政親は東軍の朝倉孝景に救援を求める。
孝景は幕府に越中勢の救援を依頼する。
政親、敗れて、白山から隣国の朝倉孝景を頼る。
6年 4月 細川政元と山名政豊、和睦する。
6月 美濃斎藤妙椿、兵を率いて越前に入る。朝倉孝景と甲斐八郎を和解させる。
高田派門徒、幸千代軍と結び、本願寺門徒を攻撃する。
6月26日 吉崎の本願寺門徒、武器を取り、加賀国に侵入、富樫政親の軍勢と合流する。
7月26日 本願寺門徒と高田派門徒(幸千代方)、戦闘を開く。
8月26日 蓮如、武器商人、三河の青野八郎左衛門入道真慶より武器を買う。
10月14日 幸千代の居城の蓮台寺城、陥落し、守護代小杉は切腹。
富樫政親守護職となる。
11月 戦は鎮静する。門徒千人近く戦死。高田派門徒は一掃される。
幸千代、京都に亡命する。
一向宗門徒違乱多し。
7年 3月 富樫政親、本願寺門徒を攻め、一揆勢敗れ、有力門徒は越中に亡命する(瑞泉寺、土山御坊)
 ・政親の有力家臣は守護代山川三河守、槻橋、倉光、本折、狩野、大内、相河ら
5月 蓮如、十ケ条の掟を発す。
6月 一揆勢、盛り返す。
7月 蓮如、越中利波郡井波の瑞泉寺に下向。
8月21日 夜、蓮如、吉崎を去る。蓮乗(瑞泉寺、本泉寺)一人残し、蓮綱(松岡寺)、蓮誓(吉崎御坊)を連れて行く。
9月 蓮崇、破門となる。湯涌村に遁走し、篭城するが、適わず、越前に落ち伸びる。
8年 加賀の国人、西郡四郎、本願寺門徒は協調して、幕府評定衆、摂津政親の所領である加賀国倉月庄内南新保西方を侵略横領する。幕府、奉書を出す。
9年 1月 朝廷、加賀違乱に対し、蓮如に処置を命ずる。
蓮如、河内国出口に至る。
11月 応仁の乱終わる。
10年 蓮如、土山道場に、蓮乗を補佐するため、蓮誓を派遣し、蓮綱を松岡寺に戻す。
11年 蓮如、山科に本願寺建立、始める。
13年 2月18日 越中砺波郡一帯の領主、国人の石黒左近光義と天台宗医王山惣海寺の衆徒の連合軍一千六百余名、本拠地、福光城を出て、瑞泉寺攻撃に発進する。
対する一揆勢、御箇山勢三百余名、近在の百姓衆二千余名、山田谷、般若野郷勢千五百余名、射水郡百姓衆千余名、坊主衆23名、総勢五千余名。
戦いは小矢部川の支流、山田川の田屋河原(井波町)で行われ、加賀二股本泉寺の門徒、湯涌谷衆二千余名、背後より、福光城、惣海寺を襲う。石黒勢は潰滅状態となり、主将光義以下16名が田屋河原で自害し、惣海寺48宇は焼かれ、一揆方の大勝利となる。のち、砺波郡は、瑞泉寺、土山坊の支配する所となる。
この年、蓮如、病気になった蓮乗を補佐するため、蓮悟を本泉寺に送る。
7月 朝倉孝景没す(1428-1481,54歳)。
16年 11月 加賀一向一揆、越前侵入を図る。
17年 7月 飛騨白川の一向一揆。
 大野郡白川郷鳩ケ谷道場(照蓮寺、1496年より称する)が中心。明教坊。
 ・兄の教信は還俗して、三島将監と名乗り、兵法の鍛練に努める。
 ・吉城郡高原郷、常蓮寺(後、越中八尾に移り聞名寺を称する)
7月18日 白川郷を支配する国人、内ケ嶋為氏は、鳩ケ谷道場を急襲するが、敗れ、越中に退敗する。
8月28日 陣容を立て直した内ケ嶋勢は、鳩ケ谷を守る坊主、門徒らが、帰郷した後、道場を攻撃する。三島将監教信は逃れたが、明教は卒塔婆峠で自害する。明教の一子亀寿丸と女房は、加賀に逃れ、やがて、郡上郡白鳥に移り、成長した。後、蓮如の調停により、両者は講和する。
18年 蓮誓、越中にて、滝野坊、中田坊を開き、山田光教寺に入る。
長享 元年(1487) 蓮悟、本泉寺を二股から、若松に移す。
12月 富樫政親、一向一揆に備え、近江より帰国する。
2年(1488) 6月 加賀一揆、富樫政親を攻め滅ぼし、富樫泰高を守護とする。
7月 将軍、義尚、蓮如に対し、加賀門徒の総破門を迫る。
蓮如、細川政元に頼り、政治的決着をなす。主な寺に『お叱りの御書』を下す。
延徳 元年(1489) 3月 将軍義尚(25)没し、加賀の本願寺領国化が実現する。
8月 蓮如、隠居し、実如、本願寺を継ぐ。




長享2年(1488)の一揆の状況




一揆側の国人、渋川兵部大輔重国と三浦弥兵衛守治が、山川三河守を通じて、政親に詫びを申し入れたが、政親は聞き入れず、一揆側を騙し、その隙に、越中、越前からの援軍を迎え入れ、一揆勢をたたく事を考え、松坂八郎信遠の二千騎を越前口に派遣し、山川自らも千五百騎で、大野、宮腰へ出張して、越中勢を迎え入れ、越前、越中勢と合体して、一揆の背後を攻めようと図ったが、一揆側も山川の叛意を見抜いて、安藤九郎定治が江沼勢三千騎で越前口へ、越智伯耆守吉徳が河北勢を率い、越中口を押えたため、山川の企ては失敗に帰した。

長享元年12月より翌二年5月頃まで、両軍陣営の対峙が続いた。一揆側は、政親と対立していた大叔父富樫泰高を担ぎ出し、総大将に据えた。泰高は家臣二千騎を率いて、野々市の大乗寺に陣を構えた。

6月5日。戦端は開いた。城中より、本郷修理進春親が進み出て、一揆勢を罵る。一揆勢からは、河合藤左衛門尉宣久が出て、口上を言う。

双方の手勢、百五十騎が、矢を打ち合い、夕方には、陣営に引き上げた。

6月6日、大乗寺にて郡議を開き、作戦を練る。

この頃、越中守護畠山政長の家臣松原出羽守信次、竹中岩見守にの軍勢五千余騎が、富樫幸千代党の牢人である阿曽孫八郎盛俊、小杉新八郎基久らの案内で倶利加羅峠より侵入するが、河北の一揆勢が英田(あがた、津幡町)光済寺を大将として、五千余騎で迎え討ち、越中に追い返した。

同じ頃、能登守護、畠山義統(よしずみ)も幕府の出陣催促を受けて、一軍を南下させて来た。河北郡黒津舟(内灘町)の線で、笠間、高橋の一揆勢が、これを迎え討ち、河北郡の一揆勢も河北潟を渡って、能登勢の側背を攻めたので、能登勢はたまらず、敗走してしまう。6月7日早暁より、戦闘開始。四万九千余の一揆勢は一斉に額口(ぬかぐち)の陣に襲い掛かる。城中からは、二千余騎が反撃。一揆勢は、敵をおびき出すため、退却し、城兵が深追いした所を左右より、洲崎、河合の手勢が押し包み攻撃。この合戦で、富樫方は、本郷修理進、額丹後守、高尾若狭守、槻橋弥次郎、斎藤藤八郎、徳光次郎ら、有力武士五百人、雑兵千余人が戦死して総崩れとなり、屋形に火を掛けて山城に立てこもった。夜、政親は、磯部勝願寺と木越光徳寺に書状を送り、妻と子供を脱出させる。

6月8日、朝倉貞景は、堀江中務丞景用、南郷某、杉若藤左衛門、志比の笠松氏らを将とした五千余騎を進発させ、越前、加賀国境の橘(加賀市)より侵入し、陣を構える。大聖寺山に待機していた敷地、福田の一揆勢七千余りが、安藤九郎、金森玄英入道らの指揮で、これに襲いかかり、激戦となるが、翌日、高尾城の陥落が伝えられ、越前勢も兵をまとめて引き上げた。

6月9日、早朝、洲崎慶覚は、ただ一騎で、敵陣を駈け巡り、投降する者は皆助命すると触れ回り、過半の者を投降させ、城中には、政親以下三百人足らずとなる。山川三河守も投降して、越前勝山へ落ちて行った。本折越前守常範も投降したが、一揆弾圧の張本人と見られていたため、末輩数十人に取り囲まれ、惨殺されてしまう。

政親は単身で、大手口より敵中に突入して戦ったが、次第に、山頂の本陣に追い詰められ、最後まで生き残った三十人の家臣とともに自害して果てた。守護代、槻橋近江守重能以下同族七名も自害して果てる。一揆勢は政親の首を取り、大将の泰春の実験に供した。



一揆方
総大将 富樫泰高 野々市大乗寺に着陣 二千余人
四箇寺の大坊主
    鳥越弘願寺(津幡町)
    吉藤専光寺(金沢市田丸町)
    磯部勝願寺(金沢市)
    木越光徳寺(七尾市)

伏見
山科
浅野
大衆免(だいじゅめ)

一万余人
  〃
  〃
  〃
鶴来金剣宮、白山本宮衆徒
(天台宗白山神宮寺の別宮と本宮)
諏訪口(野々市) 三千余人
洲崎和泉入道慶覚(久吉の父)
洲崎十郎左衛門尉久吉
河合藤左衛門尉宣久
石黒孫左衛門正末(湯涌谷衆の頭)
上久安┐
上久安│
上久安│
上久安┘
総勢一万余人
笠間兵衛家次 野々市・馬市 革屋七千余人
安吉源左衛門尉家長
(手取川流域四万貫を領す)
額口(金沢方面) 手取川河原衆八千余人
山本円正入道祐賢
(加茂社領河北郡金津庄の庄官の山本民部丞氏茂の一族)
山科山王林(金沢方面) 十人組衆一万余人
高橋新左衛門信重
(河北郡木目谷の国人)
押野山王林(金沢方面) 六ケ組衆五千余人
山之内諸勢 山間郡一帯 山八人衆(手取川上流山之内庄の国人)
鈴木出羽守、三池など
四社(白山四社の神人)
能美郡一揆勢 野々市諏訪森 五万余人


守護方
富樫政親 高尾山 八千余人
守護代、山川三河守高藤 高尾山 千五百人
大和、甲賀の兵(幕府の援軍) 高尾山 五百人




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