酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



今川関係合戦年表




1433年

今川氏の内紛
・彦五郎範忠‥‥出家するが、将軍の支援を得て、家督を継ぐ。岡部氏、朝比奈氏、矢部氏。
・弥五郎範頼‥‥範忠が出家した後、細川持之の支援。矢部氏、朝比奈氏。
・千代秋丸‥‥‥母は扇谷上杉氏正の娘、父範政が希望。山名時煕の支援。狩野氏、富士氏、興津氏、三浦氏、進藤氏。
9月3日、狩野氏の湯ケ島城が今川貞秋の軍に包囲され陥落する事によって終焉する。

1441年

嘉吉の乱
今川範忠は、石川、新野、庵原らを上洛させる。

1467年

応仁の乱
義忠、小笠原、笠原、浜松、庵原、新野、高木、葛山、朝比奈らの軍勢を率いて上洛し、細川の陣に投じる。
この頃、遠江では、浜松、浜名湖付近を拠点に三河吉良氏が勢いを伸ばし、天竜川の東見付付近には狩野、掛川を中心とした地方には横地、大井川の西岸付近には、勝間田と勢力分野が確定していた。この狩野、横地、勝間田らの勢力圏に浜名湖北返の井伊氏が尾張の斯波氏と連合して進出しようとしていた。文明5年、義忠は狩野氏の拠点見付城を攻めて、これを落とし、一族の堀越貞延に一千騎を与えて浜松まで進出させた。斯波氏もこれに応じたので、今川、斯波の合戦が始まる。斯波の実力に傾いた横地、勝間田らの国人は、一度は義忠の手によって陥落させられた見付城を復旧し、公然と今川に抗した。義忠は久野、奥山、杉森、岡部らの部将を引き連れて見付城を包囲攻撃したが、今川勢に大きな損害が出たので兵を引き上げる途中、塩買坂で突然、夜中の奇襲攻撃を受け、戦列を整える事もできず、義忠は流れ矢に当たり重症、手当の甲斐もなく、亡くなる。

1468年

9月16日

手越河原の戦い
○今川義忠×●斯波氏
今川方の伊東伊賀入道道安は嫡子の九郎祐範、弟修理時氏、同被官小北小三郎祐貞戦死。

1471年

3月

三島の戦い
○古河公方足利成氏×○堀越公方足利政知
古河公方方‥‥‥小山氏、結城氏。
堀越公方方‥‥‥駿河より加勢、上杉氏の被官矢野安芸入道が奮戦。

1473年

小夜の中山の戦い
○横地、勝間田、鶴見×●堀越貞延戦死
今川方‥‥‥堀越貞延率いる一千騎。

1474年

11月20日

見付城の戦い ○今川義忠×●狩野七郎右衛門自刃、巨海新左衛門尉(吉良氏被官)
今川方‥‥‥原氏、小笠原氏、久野氏ら中遠一揆

1476年

2月9日

塩買坂の戦い
○横地、勝間田氏残党×●今川義忠戦死
1476年になり、東遠の国人横地、勝間田が斯波氏に通じ、義忠によって攻め落とされた見付城を復旧し、公然と今川氏に敵対する行動を取り始めた。横地氏の当主は横地四郎兵衛で横地城に拠り、勝間田氏は勝間田修理亮で勝間田城に拠り、両者連合して義忠の遠江進出を阻止しようとした。
義忠は、久野佐渡守、奥山民部少輔、杉森外記、三浦左衛門、岡部五郎兵衛を引き連れ五百余騎を二手に分け、横地、勝間田のこもる見付城を取り巻き、夜昼息もつかせず攻め戦い、七日目の夜中、両人共討ち死にし、勝利する。この時、鶴見城をはじめとした他の斯波方の城も攻める。凱旋する途中、塩買坂において、横地、勝間田の残党に襲われ、そこで戦いとなり、義忠は流れ矢に当たり死亡。41歳。供の矢部、朝比奈討死。《4月6日死亡説あり》

1476年

今川氏の内紛
・小鹿範満‥‥関口氏、新野氏、名児耶氏、蒲原氏、庵原氏、由比氏、堀越公方、扇谷上杉氏。
・竜王丸‥‥‥堀越一秀。三浦氏、朝比奈氏、長谷川、斎藤、伊勢早雲。
堀越公方足利政知は上杉政憲に三百の兵を付けて駿府に送り込む。
扇谷上杉定正は家宰太田資長に三百の兵を付けて駿府に送り込む。
早雲の活躍で和解し、浅間神社の神前で神水を飲み交わして、お互いに争わない事を誓い合う。

1479年

12月21日

将軍義政から、竜王丸家督相続の正式な許可がおりる。

1483年〜1487年

早雲、幕府申次衆となる。

1487年

11月9日

駿府今川屋形の戦い
○伊勢早雲×●小鹿範満
早雲は、駿河国興国寺城と富士下方12ケ郷を与えられ、氏親の部将となる。

1491年

4月3日

堀越公方足利政知病没。
その頃、政知の長男茶々丸は狂乱という事で土牢に入れられていた。政知の後妻の円満院が自分の生んだ潤童子という男子に家督を継がせたいために仕組んだもので、茶々丸は廃嫡される運命にあった。政知死後の混乱を狙って、茶々丸は牢から抜け出し、継母円満院と潤童子を殺し、実力で堀越公方となる。ところが、政知の重臣たちとの間がうまく行かず内紛状態となる。

1491年

10月11日

堀越御所の戦い(1493年10月11日の説もあり)
○伊勢早雲×●足利茶々丸
伊勢方‥‥‥今川氏親、葛山氏堯の援軍を引き連れる。
茶々丸は敗れ、近くの願成就院に逃れ自刃する。

1491年

深根城の戦い(1493年の説もあり)
○伊勢早雲×●関戸吉信
堀越公方は滅亡したが、重臣の一人関戸播磨守吉信は、自らの居城である深根城にこもり、早雲に対する抵抗を試みる。早雲はみせしめのために猛攻しす。深根城には、雑兵を含めて侍およそ五百、近郷の女子供も城に入ったので、その数は一千を越えていたという。早雲はまず、辺りの在家百ばかりを壊し、それで濠を埋め、城攻めにかかる。城内の女子供、僧侶まで一人も残さず首を切り、切った首一千余を城の回りに架けさせた。茶々丸が堀越御所では死なず、脱出して深根城で死んだとの説あり。

1492年

9月

今川氏親、甲斐に進攻。

1494年

殿谷(とんのや)城の戦い
○伊勢早雲×●原頼景
早雲が数千の軍兵を率いて遠江の3郡(佐野、山名、周智)に乱入し、在家が残らず灰燼に帰す。

1495年

8月

鎌山の戦い
△伊勢早雲(今川方)×△武田信虎

1496年

志戸呂の戦い ○今川氏親×●鶴見因幡守戦死(鶴見氏滅亡)

1497年

原要害(殿谷城)の戦い ○今川氏親×●原氏

1497年

4月25日

柏久保城(修善寺町)の戦い ○伊勢早雲×●狩野氏
早雲方‥‥‥大見三人衆、佐藤藤左衛門、梅原六郎左衛門、佐藤七郎左衛門の活躍。

1497年

11月13日

倉真城の戦い ○今川氏親×●松浦兵庫頭自刃
松浦方‥‥‥殿谷城の原頼景、志戸呂城(横岡城)の鶴見因幡守

1501年

天方城の戦い ○福島玄審允×●佐野小次郎
久野宗隆は、敵将佐野小次郎の首を取る。

1501年

8月〜9月

座王城(久野城)の戦い
○久野佐渡守宗隆、福島左衛門尉助春×●小笠原定基、斯波義寛
斯波方‥‥‥義寛の本拠は尾張清須、小笠原定基は信濃守護

1501年

9月18日

今川の部将、伊勢早雲、甲斐に進攻。

1503年

葛山孫四郎、甲斐に進撃し、戦死。

1504年

8月

堀江城の戦い ○伊勢早雲×●堀江下野守

1506年

8月20〜21日

岩津城の戦い ○松平長親×●伊勢早雲

1506年

8月26日〜
11月4日

今橋城の戦い ○伊勢早雲×●牧野古伯戦死

1508年

10月19日

三州合戦 ○松平長親×●伊勢早雲

1510年

5月4日

二俣城の戦い ○二俣昌長(今川方)×●斯波氏

     
     
     
     
     
◎婚姻関係
・中御門宣秀(1469−1531)の妹、寿桂尼(1488−1568)は、今川氏親(1471−1526)に嫁ぎ、宣秀の子宣綱(1511−1569)は、氏親の娘を嫁に貰う。1527年、宣秀は権大納言を辞職し駿河に下る。宣綱はしばしば駿河に滞在し、晩年は帰洛せず、遠江国で没す。寿桂尼の妹は山科言綱に嫁ぎ、言継の義母となる。
・義元(1519−60)の妻は武田信虎の娘(1519−50)。
・氏親の娘は北条氏康(1515−71)に嫁ぐ。
・氏親の娘は瀬名氏俊に嫁ぐ。
・氏親の娘は関口氏広(1518−62)に嫁ぐ。
 
 
◎駿河に下向した公家
・冷泉為和(1486−1549.7.10)1547年、駿河に下向、翌年2月、駿河において出家し、静清と称す。
・四条隆重(1507−1539.11.19)1536年、駿河に下向、翌年5月に帰洛するが、狂気に陥る。
・三条西実澄(1455−1537)
・山科言継(1543−1611)1556年、駿河に下向。
・三条実望
・坊城俊名
・正親町三条実福
 
 
◎駿府の商人
・友野次郎兵衛尉……1553年頃、それ以前から任命されていた商人頭の地位を安堵される。信濃出身、先祖は小笠原氏。小笠原長清(1162−1242)の六男、時長が伴野姓を名乗る。一族の伴野刑部少輔貞慶は1552年頃、武田氏に仕え、信州先方衆、前山城主を務める。
・松木与左衛門尉……松木興三左衛門宗義が永禄(1558−70)の頃、甲斐より移り住んだのが始まりと言う。
 
◇1575年10月の駿府御用商人
松木宗清、友野昌清、多喜政吉、畠川次久、山本長徳、市野秀忠、長島吉広、大野規重、太田盛家、古市昌家、星野久次、神範貞
 
 
◎駿府の職人
・紙漉‥‥‥当時、製紙業が盛んで、駿府では良質の紙が安く出回っていた。
・塗師(ぬし)‥‥‥駿河の漆器は有名。
・革屋‥‥‥八郎右衛門と彦太郎の二人を頭にして皮革の確保を図る。
 
 
◎金山
◇享禄年間(1528−32)より、安倍奥梅ケ島金山開かれ、第一期の繁栄。ついで、甲駿境の麓(富士)金山の経営にもあたる。
・安倍金山‥‥‥梅ケ島金山(日影沢金山、入島金山、関の沢金山、湯の森金山)、大河内金山。甲斐国にも続き早川金山。
・井川金山‥‥‥笹山金山を中心とする。甲斐国にも続き長畑金山、遠山金山。
・富士金山‥‥‥甲斐国にも続き中山金山。
・伊豆の土肥金山は1577年より、湯ケ島金山、縄地金山は1592年以降、開発される。
 
       *三条西実隆の日記に、氏親から黄金を送られた事がしばしば見られる。
          1511年10月11日に、氏親、飯尾近江守に黄金10両を与える。
 
『沢流し』川岸の岩石のそばの砂をすくい、水のゆるやかに流れる場所の川底に筵を敷き、その上にすくった砂を流す。砂は流され、比重の大きい砂金だけが筵に残る。
『追掘(おっぽり)』砂金を含んだ砂の堆積した所にはえる雑草を掘り、根に付着した砂金を取る。
『灰吹法』1533年、博多の神谷寿禎が朝鮮から灰吹法の技術を身に付けた宗丹、桂寿という二人の吹工を連れて来て、石見銀山で実際に行なわせたのが最初だといわれる。始めは銀採取に行なわれた  が、すぐ金採取にも応用され、瞬く間に、各地の鉱山に伝わる。今川家には、義元の代に伝わる。  当時、金山で働く鉱夫たちの集団を金掘(かなほり)衆とか金山(かねやま)衆と呼んでいた。
1516年、氏親は、遠江引馬城の大河内貞綱を攻めた時、安倍金山の金掘を使い、城中の水の手を断ち、落城させる。
☆今川氏は朝鮮と貿易をし、灰吹法を知る技術者を連れて来た可能性あり。
 ・戦国期に築城技術と鉱山掘削鑿(くっさく)技術と潅漑技術は三位一体となって発展して行く。
 
 
◎千貫樋(せんがんとい)‥‥‥伊豆国三島小浜池から駿河駿東郡の玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の村々まで、樋によって用水を流す。途中、国境を流れる境川をまたぐ形で樋が架けられている。1555年頃、架けらたものという。1554年、北条氏康と今川義元が和解し、氏康の娘が氏真に嫁ぎ、婿引出として、朝比奈蔵人によって架けられた。近世の記録によると、全長38間(68m)、幅6尺、深さ1尺5寸の木製の樋が架けられ、下から樋までの高さが1丈4尺程あったという。なお、現在も使われている。
 
 
◎富士修験
表口は村山、村山浅間神社、村山三坊(大鏡坊、辻之坊、池西坊)が中心となる。
戦国期には今川氏の支配下に入り、保護される代わりに、今川氏のための祈祷や諜報活動を行なった。
今川、武田の没落により、村山修験は衰退し、江戸期になると表口は吉田に変わる。
 
 
◎伊勢信仰……今川氏は御師の足代氏と師檀関係を結んでいた。
 
 
◎熊野信仰……熊野の御先達了蔵坊浄春と小先達玉泉坊俊照は、富士郡下方庄居住の人々を檀那に持つ。渡部左京助勝は二度、吉原の道秀は13度。月米の渡部九郎五郎の母、初度。
 
 




創作ノートの目次に戻る



inserted by FC2 system