1433年 |
今川氏の内紛 |
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1441年 |
嘉吉の乱 |
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1467年 |
応仁の乱 |
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1468年 |
9月16日 |
手越河原の戦い |
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1471年 |
3月 |
三島の戦い |
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1473年 |
小夜の中山の戦い |
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1474年 |
11月20日 |
見付城の戦い ○今川義忠×●狩野七郎右衛門自刃、巨海新左衛門尉(吉良氏被官) |
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1476年 |
2月9日 |
塩買坂の戦い |
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1476年 |
今川氏の内紛 |
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1479年 |
12月21日 |
将軍義政から、竜王丸家督相続の正式な許可がおりる。 |
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1483年〜1487年 |
早雲、幕府申次衆となる。 |
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1487年 |
11月9日 |
駿府今川屋形の戦い |
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1491年 |
4月3日 |
堀越公方足利政知病没。 |
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1491年 |
10月11日 |
堀越御所の戦い(1493年10月11日の説もあり) |
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1491年 |
深根城の戦い(1493年の説もあり) |
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1492年 |
9月 |
今川氏親、甲斐に進攻。 | |
1494年 |
秋 |
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1495年 |
8月 |
鎌山の戦い |
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1496年 |
志戸呂の戦い ○今川氏親×●鶴見因幡守戦死(鶴見氏滅亡) |
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1497年 |
原要害(殿谷城)の戦い ○今川氏親×●原氏 |
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1497年 |
4月25日 |
柏久保城(修善寺町)の戦い ○伊勢早雲×●狩野氏 |
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1497年 |
11月13日 |
倉真城の戦い ○今川氏親×●松浦兵庫頭自刃 |
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1501年 |
天方城の戦い ○福島玄審允×●佐野小次郎 |
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1501年 |
8月〜9月 |
座王城(久野城)の戦い |
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1501年 |
9月18日 |
今川の部将、伊勢早雲、甲斐に進攻。 |
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1503年 |
葛山孫四郎、甲斐に進撃し、戦死。 |
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1504年 |
8月 |
堀江城の戦い ○伊勢早雲×●堀江下野守 |
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1506年 |
8月20〜21日 |
岩津城の戦い ○松平長親×●伊勢早雲 |
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1506年 |
8月26日〜 |
今橋城の戦い ○伊勢早雲×●牧野古伯戦死 |
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1508年 |
10月19日 |
三州合戦 ○松平長親×●伊勢早雲 |
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1510年 |
5月4日 |
二俣城の戦い ○二俣昌長(今川方)×●斯波氏 |
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◎婚姻関係 | |||
・中御門宣秀(1469−1531)の妹、寿桂尼(1488−1568)は、今川氏親(1471−1526)に嫁ぎ、宣秀の子宣綱(1511−1569)は、氏親の娘を嫁に貰う。1527年、宣秀は権大納言を辞職し駿河に下る。宣綱はしばしば駿河に滞在し、晩年は帰洛せず、遠江国で没す。寿桂尼の妹は山科言綱に嫁ぎ、言継の義母となる。 | |||
・義元(1519−60)の妻は武田信虎の娘(1519−50)。 | |||
・氏親の娘は北条氏康(1515−71)に嫁ぐ。 | |||
・氏親の娘は瀬名氏俊に嫁ぐ。 | |||
・氏親の娘は関口氏広(1518−62)に嫁ぐ。 | |||
◎駿河に下向した公家 | |||
・冷泉為和(1486−1549.7.10)1547年、駿河に下向、翌年2月、駿河において出家し、静清と称す。 | |||
・四条隆重(1507−1539.11.19)1536年、駿河に下向、翌年5月に帰洛するが、狂気に陥る。 | |||
・三条西実澄(1455−1537) | |||
・山科言継(1543−1611)1556年、駿河に下向。 | |||
・三条実望 | |||
・坊城俊名 | |||
・正親町三条実福 | |||
◎駿府の商人 | |||
・友野次郎兵衛尉……1553年頃、それ以前から任命されていた商人頭の地位を安堵される。信濃出身、先祖は小笠原氏。小笠原長清(1162−1242)の六男、時長が伴野姓を名乗る。一族の伴野刑部少輔貞慶は1552年頃、武田氏に仕え、信州先方衆、前山城主を務める。 | |||
・松木与左衛門尉……松木興三左衛門宗義が永禄(1558−70)の頃、甲斐より移り住んだのが始まりと言う。 | |||
◇1575年10月の駿府御用商人 | |||
松木宗清、友野昌清、多喜政吉、畠川次久、山本長徳、市野秀忠、長島吉広、大野規重、太田盛家、古市昌家、星野久次、神範貞 | |||
◎駿府の職人 | |||
・紙漉‥‥‥当時、製紙業が盛んで、駿府では良質の紙が安く出回っていた。 | |||
・塗師(ぬし)‥‥‥駿河の漆器は有名。 | |||
・革屋‥‥‥八郎右衛門と彦太郎の二人を頭にして皮革の確保を図る。 | |||
◎金山 | |||
◇享禄年間(1528−32)より、安倍奥梅ケ島金山開かれ、第一期の繁栄。ついで、甲駿境の麓(富士)金山の経営にもあたる。 | |||
・安倍金山‥‥‥梅ケ島金山(日影沢金山、入島金山、関の沢金山、湯の森金山)、大河内金山。甲斐国にも続き早川金山。 | |||
・井川金山‥‥‥笹山金山を中心とする。甲斐国にも続き長畑金山、遠山金山。 | |||
・富士金山‥‥‥甲斐国にも続き中山金山。 | |||
・伊豆の土肥金山は1577年より、湯ケ島金山、縄地金山は1592年以降、開発される。 | |||
*三条西実隆の日記に、氏親から黄金を送られた事がしばしば見られる。 | |||
1511年10月11日に、氏親、飯尾近江守に黄金10両を与える。 | |||
『沢流し』川岸の岩石のそばの砂をすくい、水のゆるやかに流れる場所の川底に筵を敷き、その上にすくった砂を流す。砂は流され、比重の大きい砂金だけが筵に残る。 | |||
『追掘(おっぽり)』砂金を含んだ砂の堆積した所にはえる雑草を掘り、根に付着した砂金を取る。 | |||
『灰吹法』1533年、博多の神谷寿禎が朝鮮から灰吹法の技術を身に付けた宗丹、桂寿という二人の吹工を連れて来て、石見銀山で実際に行なわせたのが最初だといわれる。始めは銀採取に行なわれた が、すぐ金採取にも応用され、瞬く間に、各地の鉱山に伝わる。今川家には、義元の代に伝わる。 当時、金山で働く鉱夫たちの集団を金掘(かなほり)衆とか金山(かねやま)衆と呼んでいた。 | |||
1516年、氏親は、遠江引馬城の大河内貞綱を攻めた時、安倍金山の金掘を使い、城中の水の手を断ち、落城させる。 | |||
☆今川氏は朝鮮と貿易をし、灰吹法を知る技術者を連れて来た可能性あり。 | |||
・戦国期に築城技術と鉱山掘削鑿(くっさく)技術と潅漑技術は三位一体となって発展して行く。 | |||
◎千貫樋(せんがんとい)‥‥‥伊豆国三島小浜池から駿河駿東郡の玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の村々まで、樋によって用水を流す。途中、国境を流れる境川をまたぐ形で樋が架けられている。1555年頃、架けらたものという。1554年、北条氏康と今川義元が和解し、氏康の娘が氏真に嫁ぎ、婿引出として、朝比奈蔵人によって架けられた。近世の記録によると、全長38間(68m)、幅6尺、深さ1尺5寸の木製の樋が架けられ、下から樋までの高さが1丈4尺程あったという。なお、現在も使われている。 | |||
◎富士修験 | |||
表口は村山、村山浅間神社、村山三坊(大鏡坊、辻之坊、池西坊)が中心となる。 | |||
戦国期には今川氏の支配下に入り、保護される代わりに、今川氏のための祈祷や諜報活動を行なった。 | |||
今川、武田の没落により、村山修験は衰退し、江戸期になると表口は吉田に変わる。 | |||
◎伊勢信仰……今川氏は御師の足代氏と師檀関係を結んでいた。 | |||
◎熊野信仰……熊野の御先達了蔵坊浄春と小先達玉泉坊俊照は、富士郡下方庄居住の人々を檀那に持つ。渡部左京助勝は二度、吉原の道秀は13度。月米の渡部九郎五郎の母、初度。 | |||