酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



『宗長日記』より



宗長日記




宗長手記  上

大永2年(1522,75歳)

5月 越前の朝倉教景を訪ねて旅に出る。
懸川の朝比奈泰能亭に逗留する。新城の普請中、外城の回り六、七百間、堀を掘り、土塁を築き上げ、おおよそ、本城と同じ、本と外の間に堀あり。南に池あり、岸高く水広くて大海に似たり。
  • 数年前、備中守泰煕、遠江にて活躍。社山城の蒲原左衛門佐昌長(1502年、二俣に蟄居、後二俣近江守を名乗る)在城、配流をもって二俣の城へ退ける。備中守、早雲庵と共に浜名を攻め、浜松庄(吉良氏知行地)の奉行、大河内備中守、堀江下野守数年ら逃げる。その後、飯尾善四郎賢連、吉良より申し下され、しばらく奉行となる。
  • 1504年9月初め、関東に合戦あり、9月11日、修理大夫氏親進発、13日、朝比奈備中守、福島左衛門尉、駿遠両軍勢逐日出陣す。20、21、22日、早雲の陣武蔵益形着陣し合戦。敵討ち負けて立川に退き、その夜、二千余り討ち死に。10月4日、氏親、鎌倉まで帰陣、一両日逗留。熱海湯治17日、韮山2、3日、陣労休め帰国す。その時、三島大社、神前にて、9月10日より3日千句独吟する(出陣千句)。
  • 1512年、大河内備中守、浜松庄に討ち入り、引馬に立てこもる。朝比奈備中守発向し、大河内を討つが、吉良氏の墾望により命だけは助け、帰陣。その12月、泰煕不慮に病死。泰能幼少にして、叔父の左京亮泰以しばらく補佐する。
  • 1514年、大河内再び反乱す。氏親自ら進撃。笠井庄楞厳寺(りょうごんじ、曹洞宗)に着陣し、天竜川を越え、大菩薩という山(浜松市三方原町うとう坂)に着陣。泰以、御嶽山城の井伊次郎を落とす。武衛(斯波治部大輔義達)、奥山に退き、尾張に帰国す。
  • 1515年、氏親、甲斐に出兵中、大河内ら反乱を起こす。今川軍二千人甲斐勝山城にこもる。宗長、武田次郎信虎と氏親を和解させる。泰以、遠江の留守を守る。
  • 1516年夏、氏親、引馬城に向かい、六月より八月まで攻める。8月19日落城。安倍山の金掘りを使う。大河内兄弟父子、巨海(大河内一族、愛知県大海住)、高橋(大森氏支流、愛知県豊田市高橋住)その他、立てこもる輩、一千余人討ち死に。武衛(治部大輔義敦、義達改名)、近くの普斎寺(浜松市富塚町、曹洞宗)にて出家させ(入道法名安心)、尾張に送る。
  • 1465年8月より11月まで、義忠、遠江守護代狩野宮内少輔の見付城を攻める。11月20日、落城、狩野討ち死に。
  • 文明の初期、矢部左衛門尉戦死、朝比奈肥後守泰盛戦死、岡部左衛門尉病死。
  • 氏親の頃、今川方の三河の国境近くの舟方城の多米又三郎、戸田弾正忠、諏訪信濃守らに攻められ討ち死にす。朝比奈泰以、攻め寄せ、敵を討つ。泰以、掛川城を泰能に譲り、駿府に閑居す。
浜松庄の奉行、飯尾善四郎乗連の屋敷に逗留。浜名備中守館にて、一日連歌あり。
勝山城(豊橋市石巻本町勝山)の熊谷越後守と連歌。
市田城(愛知県国府の東北)の牧野四郎左衛門尉と連歌。
刈谷の水野和泉守近守の屋敷に泊まる。
知多郡常滑の水野紀三郎の屋敷に泊まる。
常滑より伊勢大湊に渡り、山田に参宮。
7月下旬 誘いを受け宗碩、山田に到着。
8月4日より始め、毎日二百韻両吟、5日にて、管領細川右京大夫高国のために千句両吟。
8月16日 山田を立つ。宗碩は尾張に向かう。亀山城主関民部大輔、今は隠遁し何似斎(かじさい)、多気の宮原七郎兵衛尉盛孝、供をす。
亀山の新福寺の成就院に泊まる。十日余り休養。連歌一座あり。
9月1日 雲津川を渡り、朝倉の使いの山伏と会う。
9月2日 山田に帰る。西行谷(尼寺)を訪ねる。
10月 山田を立ち、多気に二日、三日逗留、連歌一座。
長谷寺に参る。
多武峯の宿坊安養寺。連歌あり。金春七郎宗瑞、訪ねて来て、夜明けまで飲む。
大和八木に一宿、翌日白土法眼澄英の坊に一宿。澄英と共に南都千手院に行く。
連歌あり。大仏を参り、薪村酬恩庵に向かう。
  • 紹崇‥‥‥尺八吹きの僧。元、東山霊山正法寺の時衆。五条東洞院常福寺、紫野大徳寺の塔頭大仙院に四、五年もありて、後、和泉堺の草庵に住む。伊勢山田にて宗長を訪ね来る。酬恩庵にて年を越す。


大永3年(1523年、76歳)

正月 三条西実隆(逍遙院殿)より歌が届く。
  • 宗長の子承葩(じょうは)、1507年に生まれ、斎藤安元の猶子として出家する。後、誰庵と名乗る。この頃、喝食。
  • 能勢因幡守頼則、細川氏被官。後、芥川城主。宗長の有力な後援者。
  • 数年前の東山千句の時、実隆の申し出に、肖柏禅師、宗碩法師、寺町三郎左衛門(細川被官)、波々伯部兵庫助正盛、河原林対馬守政頼(西宮瓦林城主)など上洛する。
3月 薪より京に向かう。
  • 祖心紹越(−1519.4.16)‥‥‥大徳寺真珠庵、酬恩庵住持。朝倉経景子、教景の従弟。晩年、越前一乗山東南麓に深嶽寺を創建する。
4月10日 越前に向かう。朝倉教景の山荘昨雨軒に泊まる。平泉寺に寄り近江観音寺に寄り、大津を経由し、京に戻る。京から湯山(有馬の湯)に向かう。城山(高槻)の能勢源五郎国頼と千句。
年末 薪酬恩庵にて越年。宗鑑らと言い捨て俳諧。


大永四年(1524年、77歳)

正月 酬恩庵にて迎える。
  • 紹鳳(1451−1534.9)‥‥‥酬恩庵院主。俗姓湯川氏。和泉堺の人。近江少林寺開基。
  • 中御門宣胤(1441−1525.11)‥‥‥法名乗光、今川氏輝の舅。宗長と親しい。
  • 勝蔵坊正純‥‥‥三井寺の僧。尺八、連歌をよくす。
月村斎(宗碩)三人千句、近江種村中務丞の屋敷にて、逍遙院殿、月村、宗長。
大津の津田宗珪と連歌。本須大和守、河井駿河守らと連歌。
亀山の野村大炊介屋敷に泊まる。
何似斎と連歌、神戸右京進、訪ね来る。
  • 杉原伊賀入道宗伊(−1485)‥‥‥孝盛父竹林抄の連歌作者七人の一人。
6月5日 京より清宮内卿法印(名医)到着。
6月7日 亀山を立ち、駿河に向かう。常滑の大野に泊まる。
6月8日 刈谷の水野和泉守宿所一宿。本願寺の土呂御堂善秀寺に一日逗留。
6月10日 今橋(豊橋)の牧野田三一宿。
6月11日 遠江吉美(きび、湖西市)
6月12日 引馬の飯尾善四郎一宿。
6月13日 掛川一宿逗留。
6月15日 駿河藤枝鬼巌寺。
6月16日 夜に入りて府中に到着。
7月 興津藤兵衛尉正信の宿所に向かう。
  • 正親町三条実望(1463−1530)‥‥‥氏親の姉婿。1515年内大臣、1523年12月駿河にて薙髪。浄空と号す。1530年駿河にて死す。
  • 小原親高‥‥‥今川家被官。連歌仲間。
  • 招月庵正広(−1494)‥‥‥正徹の跡を継いで松月庵主となる。1473年10月駿河に下向。
8月 庵原の市川宿所にて一折興行。


大永五年(1525年、78歳)

正月 今川氏輝の発句にて百韻独吟。安倍川のほとりの庵にて新年を迎える。
興津正信の横山城にて連歌。
  • 紹僖‥‥‥今川氏親の入道号。
7月 駿府より宗碩に文出す。
9月 豊雅楽頭統秋(楽人)一回忌に三条内府浄空と共に、実隆に歌を送る。
内府浄空、御方(1494−1578、浄空の子、公兄)、紹僖、氏兼(関口)、親高(小原)、保悟(由比美作守、大宅姓)、珠易(宗祇門弟、1509年東路の津登の旅にも宗長と共に同道)らと歌詠み。
10月 三浦弥太郎、病死。
11月 三条西実隆(法名堯空)より返歌届く。
11月14日 父の年忌。
  • 志貴駿河守泰宗‥‥‥惣社宮内少輔、駿河一の宮浅間神社の神主
11月17日 氏親の舅、中御門一位、逝去(84歳)。
11月20日 竜王丸、元服して五郎氏輝を名乗る。
11月25日 祝言法楽連歌。氏輝に古今集聞書五冊、口伝切紙八枚を送る。
閏11月 中御門一位の御辞世の歌を詠み、返歌す。
12月26日 柴屋軒に帰る。
  • 興津彦九郎親久‥‥‥宗鉄、横山城主、正信の嫡子?。
朝比奈下野守時茂(泰能の叔父)と共にいろりを囲んで閑談。


大永六年(1526年、79歳)

正月28日 氏輝、連歌興行。
2月8日 朝比奈泰以亭にて一折興行。
2月9日夜 北川殿御見参。御折紙を過分に頂く。
2月11日 小河の長谷川元長に千句を懇望され、13日より始行し三日で終わる。
2月20日 泰以と共に小河を去る。
2月21日 掛川朝比奈泰能亭
2月22日 一折興行。
3月3日 遠江府中の堀越六郎(氏延?)亭にて興行。




宗長手記 下

大永六年(1526年、79歳)

2月10日 芝屋軒に帰り、庭園を直す。石を立て、水を撒かせ、梅を植えるなど。
2月11日 朝比奈泰以と共に小河に向かい千句の連歌。
2月20日 泰以と別れ、掛川に向かう。その日は金屋に泊まる。
2月21日 掛川にて連歌あり。
3月3日 見付の堀越六郎亭にて連歌あり。
天竜川の西、浜松庄の飯尾善四郎乗連屋敷にて連歌あり。
浜名の橋(浜名川にかかっていたが1498年流失)
善四郎の叔父、善六郎為清見送る。
三河国今橋の牧野田三、熊谷越後守らと物語。
伊奈(愛知県宝飯郡小坂井町)の牧野平三郎屋敷に泊まる。
深溝(額田郡幸田町)の松平大炊助屋敷にて連歌。
三河国守護代、吉良東条殿を初めて参ずる。二、三日逗留。
刈谷の水野和泉守近守屋敷。
3月27日 尾張国守山の松平与一信定(桜井松平家の祖、長親の三男)屋敷にて千句。
清須より、織田筑前守良頼(清須三奉行の一人)、織田伊賀守(九郎広信か、清須三奉行の一人)、小守護代坂井摂津守村盛ら来る。
熱田宮社参。
清須の坂井摂津守屋敷(守護所)に泊まる。
小田井の織田筑前守息藤左衛門良頼屋敷。
織田伊賀守屋敷。
高畠孫左衛門屋敷。
津島の正覚院に泊まる。領主織田弾正の息三郎信秀、礼として折紙などを持ち来臨。連歌興行。
瀬田の長橋→船にて桑名
桑名の等運(宗碩門人)と連歌。
亀山の関何似斎来て、合戦の事を知らせ、八風峠に向かう。
観音寺城より後藤但馬守迎えに来る。長光寺に一宿。谷中務、中江土佐守来る。
坂本金輪院→大津一宿。津田宗桂屋敷。東円坊、尺八を吹く。
正月26日に完成した大徳寺の山門を拝見。
四月七日、天皇崩御のため、京の都は喪に服す。
5月6日 月村斎宗碩興行。
6月15日 伏見→薪酬恩庵
7月29日 宗祇年忌、連歌興行。
8月4日 宇治白川。逍遙院殿。
8月12日 東雲軒。船にて茶の湯。京より印政(東山千句作者)、周桂(宗碩門弟−1544)来る。
8月15日 下京、月村斎、周桂らと連歌。
  • この頃、宗珠を中心に草庵の茶の湯盛ん。
波々伯部兵庫助正盛屋敷。
9月10日 伊勢備中守屋敷
9月13日 一色総州亭。
寺町三郎左衛門宿所にて千句連歌。
真珠庵に泊まる。
下京の聚情軒、伊勢八郎兄弟、一色新九郎らと歌詠み。
新九郎の扇と宗長の尺八を交換。岩山道堅(飛鳥井雅親門下、−1532)
紫野、北野宮司能祐法師(連歌師)の屋敷、周桂。
10月 京を離れ大津に向かう。三井寺の勝蔵坊。大津の津田宗桂亭に泊まる。
堅等、勝蔵坊、駿河まで同道。→船で坂本。
比叡辻の法泉寺栄能の聴月軒にて茶の湯、雪が降る。
矢島の少林寺門外の妙勝庵に泊まる。中江土佐守、炭を持って来る。
杉江兵庫来訪。三上越後守(六角被官)の使者坪田忠右衛門尉、樽酒を持って来る。
11月21日 一休和尚年忌。暁より雪降る。
南都から玄周来訪、駿河まで同道。
11月23日 三井寺勝蔵坊来訪。
  • 柏木禅門栄雅(飛鳥井雅親−1490)
晦日、駿河より朝比奈弥太郎泰元来る。泰以、時茂より黄金2両、庵原安房守より1両いただく。
12月17日 亀山の何似斎来訪。
宗梅法師(宗祇門下)より茶が届く。種村中務貞和、観音寺城より八木(はつぼく)(米)一駄。宮木入道真観より、しのね薬。宗牧(宗碩門下)より芥子3袋。


大永七年(1527年、80歳)

正月 逍遙院殿と贈答歌。
宗牧と両吟百韻。
観音寺城より平井右兵衛尉年始音信。
矢島馬場兵庫助興行。
正月29日 宗祇月忌。
2月12、13日 京都合戦。武田伊豆守戦死。
3月4日 矢島を出立→甲賀水口。佐治長政(少雲軒)らと連歌。
井口三郎左衛門、亀山まで送る。
3月7日 亀山逗留。
3月14日 何似斎宗鉄らと連歌。
神戸の佐藤長門守屋敷に泊まる。翌日、連歌。
高岡寺(鈴鹿市)
桑名の等運庵。
3月26日 尾張津島。
3月27日 清須、坂井摂津守屋敷、翌日、興行。
織田丹波守興行。
熱田
刈谷の水野和泉守屋敷に両日逗留。興行。去年のぼり千疋はなむけ、今回は土産にと五百疋いただく。
松平長親の安城城に一夜。守山より来ていた松平与一信定と会う。
岡崎、松平次郎三郎信忠。
深溝、松平大炊助屋敷に逗留。
西の郡(蒲郡市)鵜殿三郎長持屋敷。
伊奈、牧野平三郎屋敷。興行。
今橋、牧野田三屋敷。興行。
宇津山城(湖西市入出)の長池九郎左衛門尉親能屋敷逗留。
引馬に一夜。
掛川二日逗留。
小夜の山の途中、上洛する杉原伊賀守と出会う。金谷に一宿。
丸子の柴屋軒に帰る。
  • 今川氏親(喬山)1526年6月23日没、56歳。7月29日に知らせが届くが、帰らず。
  • 庵原安房守も亡くなっていた。
お屋形の亡くなった時、直ちに帰らなかった事で、駿府の風当たりは冷たい。6月23日、氏親一回忌、独吟百韻。
  • 中御門殿(1469−1531)‥‥‥宣秀、宣胤の子。妹は氏親室で氏輝の母。4月に子の宣綱(1511−69)と駿河に下向。
  • 柴屋軒、1523年、越前に行っていた時の7月14日の野分に客殿崩壊する。
7月 柴屋軒の庭園を壊し、畑にする。
7月29日 宗祇年忌。
  • 興津左衛門盛綱(−1528.4.7)
興津左衛門を訪ね、熱海に湯治。




宗長日記

享禄3年(1530年、83歳)

3月 正親町三条実望(慈光院殿)、駿府にて没。68歳。
6月5日 東常縁の息胤氏、素純法師没。
  • 宝樹院、柴屋軒の東垣に隣接する時宗道場。
11月7日 伊予の山伏訪ね来る。




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