酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







03.初めての沖縄、楽しみじゃ




 事務所があるビルの中は冷え冷えとしていた。

 鍵を掛けていない事務所のドアを開けると、ちょっとした待合室がある。くたびれた長椅子が二つ横に並び、古い雑誌と汚れた灰皿が乗ったテーブルがあるだけの殺風景な細長い部屋だ。当然のごとく、誰も私が来るのを待ってはいないと思っていたら、明かりが付いていて誰かが私を待っていた。

「やあ、遅いぞ」と待ち人は言った。

 冬子の実の父親、藤沢静斎だった。

「おはようございます」と挨拶をした後、「どうしたんですか、こんな早くに」と私は静斎に聞いた。

「別に早くはない。散歩のついでに寄っただけじゃ。久し振りにお前の顔が見たくなってな」

 私は笑った。

 静斎の家とこの事務所は歩いて来られる距離ではなかった。駐車場に停まっていたシルバー色のボルボに乗って来たのに違いない。以前は赤いボルボだったが、買え代えたようだ。冬子が言った通り、静斎は相変わらず元気そうだった。

 事務所の鍵を開け、静斎を中に入れてソファーに案内した。

 部屋の暖房を入れ、カーテンを開けて、コートを脱ぐと私は静斎の正面に座った。

 静斎はタバコに火をつけていた。私もタバコに火をつけ、静斎の顔を改めて見た。相変わらず、白い髪と白い髭を伸ばして仙人のような顔をしているが、初めて会った時に比べたら、やはり、大分、老けてしまったようだ。

「久し振りだ。今晩、一緒に飲まないか」と静斎は煙を吐きながら言った。

 私はうなづいた。

「それは構いませんが、何かあったのですか」

「別に何もないがの」そう言って静斎は私の顔をじっと見つめ、「沖縄に行くんじゃないのか」と聞いた。

「えっ、冬子さんですね。冬子さんから聞いたんですね」

 静斎はうなづいた。

昨夜(ゆうべ)、電話して事情は聞いたよ。みどりさんの彼氏が行方知れずになってしまったようじゃな。お前を呼んだと言っておった。わしも冬子と一緒に行こうと思っていたんじゃがな、用ができてしまって一緒に行けなかったんじゃ。その用も昨日、終わった。沖縄に行こうと思って、冬子に電話してみたんじゃよ」

「ようするに、私と一緒に沖縄に行って、向こうで一緒に飲もうというわけですか」

 静斎は嬉しそうにうなづいた。

「さすが、探偵じゃな。その推理は大正解じゃ」

 私は笑った。

「わかりました。午前中に仕事を片付けて、昼過ぎに迎えに行きます」

「飛行機の予約はしたのか」

 私は首を振った。

「知り合いがおる。わしがしておこう。何時頃の便がいい?」

 私は時計を見た。九時二十分になるところだった。これから報告書を書いて依頼人と会い、自宅に帰って旅の用意をして、静斎を迎えに行って羽田に行く時間を計算した。

「二時頃なら」と私は言った。

「よし、二時過ぎの便を予約しよう。それとな、冬子が何と言ってきたかは知らんが、お前の旅費や滞在費、それに調査費用もわしが持つ。いいな」

 私はうなづいて、お礼を言った。

 静斎は嬉しそうに笑って、「久し振りの沖縄、楽しみじゃ」と言って帰って行った。

 まさか、静斎が出て来るとは思ってもいなかった。冬子には悪いが、静斎が費用を持ってくれるとなれば、怖いものなしだ。大船に乗った気持ちで沖縄に行ける。静斎ではないが、「初めての沖縄、楽しみじゃ」だ。

 静斎を見送り、机の向こう側の所定の位置に腰を下ろすとパソコンのスイッチを押した。滅多にないが、メールで仕事の依頼をしてくるお客がいる。一応、メールをチェックした。

 最近は電話帳で探偵社や興信所を調べるより、パソコンで調べるお客が多くなってきている。私も時代に遅れまいと暇な時間を使ってホームページを作って公開した。そのおかげかどうかはわからないが、以前よりも仕事が増えたような気がする今日この頃だった。

 いらないメールを削除して、ワードを起動した。五日間、歩き回って調査を終えた仕事の報告書を作成して、プリントアウトすると依頼人に電話をした。

 今回の仕事は昔のクラスメート捜しだった。四十年ぶりに中学のクラス会を開きたいが、所在のわからないクラスメートが何人かいるので、その連絡先を調べてほしいという依頼だった。はっきり言って簡単な仕事だと思っていた。なにも探偵を雇わなくても自分で調べられるだろう。金はあっても時間がないだけなのだろうと思っていた。ところがどっこい、始めてみるとそう簡単な仕事ではなかった。市町村合併で住所は変わってしまい、おまけに目当ての中学校もなくなっている。それでも何とか聞き込み調査で、目当ての人物にたどり着く事ができたが、最後の一人にてこずった。二日もあればすぐに終わるだろうと考えたのがあまかった。全員の所在をつかむのに五日も掛かってしまった。改めて、四十年という月日の長さを思い知らされた仕事だった。

 依頼主はどこかの会社役員の奥様といった感じの御婦人で上品に大喜びしてくれた。たとえ、つまらない仕事でも喜んでもらえれば苦労が報われるというものだ。その御婦人と高級ホテルのロビーで待ち合わせの約束をして、さて出掛けようと思った時、電話が鳴った。

「日向探偵事務所です」と言うと微かな笑い声が聞こえ、「おはようございます。冬子です」と返ってきた。

「やあ、おはよう」

「準備はできましたか。お金を入金しました」

「ありがとう」静斎の事を言おうかと思ったが、二人で行って冬子を(おどろ)かそうと思い、黙っている事にした。

「もう少しで仕事が終わる。そしたら、こっちから電話をするよ」

「ありがとうございます。今日のうちに来られますよね」

「たぶんね」

「今朝の新聞、見ました?」

「ああ」

「もしかしたら、真一さんもあの犯人に‥‥‥」と冬子は小声で言った。

「思い過ごしだよ」と私は言った。

「だって、未だに連絡が取れないんですよ。みどりなんか、もう半狂乱状態なんだから。早く来て助けてあげて下さい」

「わかった。今日中に行けるようにする」

「お願いします‥‥‥」冬子は何かを言いたそうだったが何も言わなかった。

「今日の沖縄はいい天気か」と私は聞いた。

「ええ、いいお天気です。トレンチコートはいらないですよ」

「そっちはいらなくても、こっちはコートなしじゃ風邪をひくよ」

 冬子は笑って、「それじゃあ、待っています」と言って電話を切った。

「みどりちゃんが半狂乱か」と私は独り呟いた。

 確かに、みどりの気持ちになってみれば、無差別連続殺人犯にやられたのかもしれないと最悪の事態を想像してしまうかもしれない。

 私が知っている女子大生の頃のみどりは悩みなど何一つないといった感じの明るい女の子だった。大きな目をして、いつも笑っていた。美大を卒業して冬子と同居していた頃、二人に呼ばれて、カラオケに行ったのを思い出した。その頃、冬子に彼氏ができて、みどりは彼氏がいなかったので、なぜか私が呼ばれた。みどりは歌がうまく、その頃、流行っていたミーシャの「Everything」を歌ったのを覚えている。冬子が何を歌ったのかは思い出せない。多分、私がよく知らない浜崎あゆみか安室奈美恵の歌を歌ったのだろう。

 みどりのためになるべく早く沖縄に行くべきだと自分に言い聞かせて私は事務所を後にした。




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