酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







04.津軽海峡冬景色




 静斎が予約してくれた沖縄行きのビジネス・クラスに乗って、ビールを軽く飲みながら快適な空の旅を楽しんだ。

 私は機内に持ち込める小さなボストンバッグ一つだが、静斎は大きなスーツケースを持って来ていた。まるで、沖縄に一ヶ月も滞在するような勢いだ。聞いた事はないが、沖縄に別荘でも持っているのだろうか。

 ビールを一口飲むと静斎は「お前、沖縄は初めてだと言ってたな」と聞いた。

「はい、初めてです。若い頃から旅は好きであちこち行きましたけど、沖縄だけは行った事がありません」

「そうか。わしが初めて行ったのは海洋博の時じゃった。昭子と一歳になったばかりの紀子を連れて行った」

「へえ、赤ちゃんだった紀子さんを連れて行ったんですか」

「ああ。十一月頃じゃったかのう。まだ、アメリカ式に車が右側を走っていた。まだあまり開発されておらんから海も綺麗じゃったよ。紀子がキャッキャッと大喜びしてのう」

「そうだったんですか」

「その後に行ったのは十年位経った頃じゃった。初めて家族旅行ってもんをしたんじゃ。久枝に隆二に紀子を連れてな。隆二が中学三年、紀子が小学校の五年じゃった。隆二は野球部に入ってたからのう。夏休みも練習を休めなくて三年になってやっと一緒に旅行ができたんじゃ」

「淳一さんは行かなかったんですか」

「淳一は大学を卒業してテレビ局に入社したばかりじゃったからな、休みが取れなかったんじゃ。あの時が最初で最後の家族旅行じゃった‥‥‥その後もわしは何回か行ったが、行く度に沖縄は変わって行く。この前に行ったのは四年位前じゃった。あの時、モノレールの工事をしていた。もう走っているようじゃのう」

「ゆいレールっていうらしいですよ」と私はパソコンから仕入れた知識をちょっと披露した。

 つまみのナッツをかじりながら静斎は私を見て、「お前、冬子の事をどう思っているんじゃ」と突然、聞いた。

 私は静斎の顔を見つめただけで答えなかった。

 静斎はわかったというようにうなづいた。

「あれはパリから帰って来て、一段と綺麗になった。洗練されたというのかの、お前が沖縄に行くと聞いて、こいつは危ないと思ったんじゃ」

「何を言ってるんですか」と私は笑った。確かに冬子は可愛いが、恋愛の対象として考えた事はなかった。

「冬子がお前の事を好きなのは確かじゃ」と静斎は言った。「それは前からわかっておった。ただ、年の差があり過ぎるからな。冬子もお前の事は忘れて、他の男と付き合ってもみた。大学時代に同級生やら先輩と付き合ったが、一年も持たないで別れている。そして、パリに行った。もしかしたら、フランス人と付き合い、日本に連れて帰って来るのではと心配したが、そんな事もなかったらしい。早いもんで、冬子ももう二十八じゃ。いい相手を捜してやらんとな」

「もう二十八ですか」と私は驚いた。

 私の中では女子大生だった頃のイメージが強い。留学する前に会った時も、女子大生の頃とあまり変わったようには思えなかった。あれから三年半の月日が流れ、今の冬子を想像してみようと思っても、うまく想像できなかった。

「お前はダメだ」と静斎は言った。「うだつの上がらない私立探偵のもとに嫁にやるわけにはいかん。苦労ばかりして、絵が描けなくなってしまう」

「そんな心配は無用ですよ。私はただ仕事で呼ばれただけです」

「いいや。私立探偵など沖縄にだっているじゃろう。お前を呼んだのは、心の奥でお前に会いたいと思っているからじゃ」

「考え過ぎです」

「まあいい。わしが一緒に行けば問題も起こるまい」

 私はビールを飲んで、静斎の顔の先にある窓から外に広がる雲海を眺めた。

 奥さんが自殺して亡くなり、長男の淳一は殺人罪で刑務所に服役中、二男の隆二は群馬県で家庭を作って幸せに暮らしているが、静斎の家にはあまり帰らないらしい。長女の紀子はアメリカで暮らしている。淳一の嫁だったひろみも離婚して実家に帰ってしまった。広い邸宅にたった一人で暮らし、静斎の楽しみは末っ子の冬子だけなのだろう。ようやくパリから帰って来たと思ったら、すぐに友達のいる沖縄に行ってしまった。寂しくてしょうがないのに違いない。

「『津軽海峡冬景色』って歌を知ってるじゃろう」と静斎が言った。「あの歌は冬子の母親が東京を去って行った年に流行った歌でな、あの歌を聴くと景子の事を思い出すんじゃよ。その年の暮に冬子は生まれた。わしはまったく知らなかったんじゃが‥‥‥」

 冬ではないが、私も青函連絡船には何度か乗った事がある。歌の通りに上野発の夜行列車に乗って青森まで行き、連絡船に乗って北海道に渡った。

 その頃、冬子は青森で実の父親の存在も知らず、叔父夫婦に育てられていた。もし、冬子が東京に出て行かなければ、未だに静斎も冬子もお互いの存在を知らずに生きて行く事になる。東京の美大に入った冬子はある日、何気なく手にした美術全集で静斎が描いた母親の肖像画と出会う。その絵は冬子が大切に持っていた絵にそっくりだった。冬子は意を決して静斎に会いに行った。

「偶然かもしれんが」と静斎が言った。「『津軽海峡冬景色』のタイトルの中に景子の景と冬子の冬が入っているんじゃ」

 私は静斎を見た。シートを倒して目を閉じていた。ビールを飲み干して、私も目を閉じた。

 静斎と一緒にいると、どうしても八年前の事を思い出してしまう。青森から出て来た冬子の妹から姉を捜してくれと頼まれて冬子を見つけ、静斎と出会い、静斎から娘の紀子を捜してくれと頼まれた。紀子は無事に見つかったが、長男の淳一の殺人が発覚して、静斎の奥さんは過去の罪を清算するために自殺した。その調査の過程で、私は淳一の妻、ひろみと不倫の関係になってしまった。淳一が自首した後、お互いに別れるべきだと悟って別れ、その後は一度も会ってはいない。

 あれはいつだったか、冬子がひょっこり事務所に現れ、ひろみが淳一と離婚して実家に帰ったと教えてくれた。冬子は私とひろみの関係に気づいていたのかもしれない。私はすぐにでも飛んで行きたい衝動にかられたが、じっと堪えた。

「ひろみの事じゃがのう」と静斎が言った。

 私はドキリとして目を開けた。静斎は相変わらず目を閉じたままだった。

「この間、久枝の墓参りに行ったら、偶然、出会ってのう。淳一があんな事になって、あの()にも辛い思いをさせてしまった。あの娘なりに淳一の意志をついで頑張ろうとしていたんじゃが、誰も認めてはくれなかった‥‥‥再婚するそうじゃ。相手は子連れの会社員らしい。夢は諦めましたと悲しそうに笑っておった」

「そうですか」と私は言った。

 静斎は目を開けて私を見つめた。静斎も私とひろみの仲を知っていたのだろうか。静斎が何を言い出すのか、私は内心、恐ろしかった。

「最近はどこでも禁煙じゃ。まったく、喫煙者にはたまらんのう」

 私は笑ってうなづいた。

 静斎は目を閉じ、それからは何も言わなかった。疲れているのか眠ったようだった。

 私はひろみの事を思っていた。ひろみは私より一つ年下で、十九歳の時に女優としてデビューした。テレビドラマやコマーシャルで活躍し、私たちのアイドルだった。二十六歳の時に脚本家と結婚して姿を消したが、その脚本家が静斎の長男だったとは知らなかった。紀子捜しで静斎宅を訪れているうちに、私はひろみと関係を持ってしまった。ひろみは淳一の浮気で悩んでいた時期だった。淳一に対する腹いせもあったのだろう。

 ひろみが夢を諦めて再婚を決心したと聞いて、私の心は複雑だった。離婚して実家に帰ったと聞いた時、私が訪ねて行ったらどんな結果になっていたのだろうか。今頃、一緒に暮らしていたかもしれない。

 いや、それ以前に、もっと早く、迎えに行くべきだったのかもしれない。しかし、私は行かなかった。行きたかったが行けなかった。

 飛行機は定刻通りに那覇空港に到着した。




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