酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







08.沖縄戦とガマ




 静斎が風呂に入っている間、私は冬子が調べた事が書いてあるファイルを見ていた。

 まず、冬子たちが真一を捜し回った場所が書いてあった。

  南風原(はえばる)陸軍病院跡

  山部隊第一野戦病院跡

  南北の塔

  萬華(まんげ)の塔

  千人壕

  白梅の塔

  山形の塔

  山部隊第二野戦病院壕跡

  陸軍病院第二外科壕跡

  (とどろき)の壕

  陸軍病院第一外科壕跡

  ひめゆりの塔

  ずいせんの塔

  忠霊の塔

  魂魄(こんぱく)の塔

  陸軍病院本部壕跡

  平和の塔

  健児の塔

  平和祈念資料館

 どこにあるのか知らないが、戦跡を巡ったらしい。ひめゆりの塔以外にも随分と何とかの塔というのがあるようだ。

 次に冬子たちが聞き取り調査をした人たちの名前が並んでいた。

 まず、田島真一が勤めている出版社、デイゴ社の従業員の名前が八名書いてある。

  社長の仲村貴正

  編集長の嘉数(かかず)芳紀

  営業課長の知名(ちな)

  従業員の外間(ほかま)盛順

      金城(きんじょう)新次郎

      村山則雄

      比嘉安治

      渡久地(とぐち)美代子

 比嘉安治はロビーで会った革ジャンのカメラマンだ。これで全員だとすれば、あまり大きな出版社ではないようだ。

 次に真一の友達の名前が五名書いてある。

  石川政行

  崎間好信

  村田順二

  篠原孝志

  大城秀義、大学時代の後輩

 次に『ひめゆり同窓会』と書いてあり六人の名前が並んでいる。

  島袋(しまぶくろ)さん

  伊波(いは)さん

  仲間さん

  玉城さん

  仲宗根さん

  金城さん

 三月十二日の日曜日に真一と会った人も電話で話した人もその中にはいなかったようだ。新しいガマの事を真一から聞いている人は誰もいない。

 最後に真一の家族の名前も書いてある。

  父親、田島昇

  母親、田島静子

  妹、 田島百恵

 両親は鹿児島に住んでいて、妹は沖縄で看護婦をしているらしい。

 私はすべての名前を手帳に写した。ボールペンで写しながら、私も冬子のようにモバイル・パソコンを持ち歩いた方が便利かもしれないと思った。ただ、その予算を工面する余裕はなかった。東京に帰ったら、安い中古品でも捜してみるか。

 もう一つ、冬子のファイルがあったので見てみると、連続無差別殺人事件の事が書いてあった。みどりに言われて調べたのだろうか。

 事件のあった日付と犯行現場、被害者の名前が並んでいる。


@一月二十五日 静岡県伊豆の山中 東京の女子大生、小林美由紀(二十一歳)。

A二月二日 島根県大田市の山中 岡崎のOL、豊崎美香(二十五歳)。

B二月八日 山口県長門市の山中 大阪の大学生、西川寛之(二十一歳)。

C二月十四日 鳥取県大山町の山中 地元の高校三年生、遠山理恵(十八歳)。

D二月十九日 徳島県吉野川市の山中 姫路のOL、清水直美(二十六歳)。

E二月二十三日 愛媛県宇和島市の山中 身元不明の男性。

F三月八日 宮崎県串間市の山中 身元不明の女性。


 こうやって並べて見ると一番初めの伊豆の事件は別にして、二件目の島根から六件目の愛媛まで五日以内の間をおいて犯行を繰り返している。ところが、六件目の愛媛と七件目の宮崎は十二日も間があいている。ミス・ホリーが言ったように、九州でまだ発見されていない被害者がいるのかもしれない。そして、もし、沖縄に来ているとすれば、すでに一人の被害者がいる可能性も高かった。その被害者が田島真一でない事を祈りながら、私はそれも手帳に写した。

 冬子が用意してくれた沖縄戦の資料の最初はウィキペディアの『沖縄戦』だった。フリー百科事典の『ウィキペディア』は私もよくお世話になっている。調査でわからない事があった時は勿論の事、仕事がなくて暇な時も思いついた事を調べては知識を増やしていた。

 私が『沖縄戦』の記事を読んでいると風呂から出た静斎が覗きこんだ。

「わしも初めて沖縄に来た時に沖縄戦のすごさを知ってな、沖縄戦の事を調べた事がある。沖縄戦関係の資料なら、うちにも何冊かある。東京に帰ったら読んだらいい」

 私は「はい」と返事をして、またパソコンのディスプレイを見つめた。

 沖縄戦での戦没者が二十万人以上もいたという事にまず驚いた。その内の十万人近くが民間人だったという。

 昭和二十年の四月一日、アメリカ軍は沖縄本島中部の嘉手納(かでな)海岸から上陸した。米軍の総兵力は五十五万人、その内の上陸部隊は十八万人、対する日本軍の総兵力は十一万人だった。海上からの艦砲射撃は『鉄の暴風』と言われる程、尽きる事なく続き、物凄い攻撃力で米軍は日本軍を攻め続ける。沖縄を救うために本土から出撃した戦艦大和は鹿児島坊の岬沖で、四月七日に沈没してしまい、その後、本土からの救援は特攻隊のみになってしまう。

 前線の日本軍を壊滅させて、沖縄守護隊の第三十二軍が司令部を置く首里に米軍が迫って来たのは五月九日だった。激しい攻防戦が続き、五月二十二日、第三十二軍は本土決戦を遅らせるために南部への撤退を決定する。その命を受けて南風原(はえばる)にあった陸軍病院も二十六日に南部へ撤退している。五月三十一日、米軍は首里を攻略して首里城に星条旗を掲げた。

 六月四日、第三十二軍は撤退を完了して摩文仁(まぶに)に司令部を置き、迫り来る米軍に備える。六月十三日、小禄(おろく)の海軍部隊が壊滅し、十四日には八重瀬岳の独立混成第四十四旅団が全滅、十五日には第六十二師団が、十七日には第二十四師団も壊滅した。主力部隊を失った日本軍は戦闘不能状態に陥り、六月二十三日の早朝、司令官の牛島中将(ちゅうじょう)が自決して、沖縄戦は終結へと向かう。

 焦土と化して何も残っていない昭和二十年五月の那覇市街の写真が載っていた。現在の那覇の街からは想像もできない程、悲惨な状況だった事がよくわかる。

 次の資料もウィキペディアの『ひめゆりの塔』だった。

 ひめゆりの塔というのは沖縄陸軍病院第三外科壕跡に立つ慰霊碑で、六月十九日に米軍の攻撃を受けて、ひめゆり学徒隊の女学生五十名近くが亡くなっていた。『ひめゆり』という名は沖縄師範(しはん)学校女子部の校誌名『白百合』と沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」を組み合わせた言葉だという。みどりの祖母がこの『ひめゆり部隊』に所属していたと言っていた。みどりの祖母も『ひめゆり同窓会』に入っていたに違いない。

 『ひめゆりの塔』は何度か映画化されていて、私が見たのは一九八二年に公開された栗原小巻主演の映画だった。学生の頃に見た映画で、内容はほとんど覚えていない。

 静斎はベッドに横になってテレビを見ていた。テレビではニュースをやっていたが、連続無差別殺人事件の事ではなかった。

 次の資料は『沖縄戦とガマ』というホームページだった。それを見ると、ガマと呼ばれる自然洞窟は私が思っている以上にあった。那覇市だけでも五十か所以上あり、自然壕ではないが、首里城の下に掘られた第三十二軍司令部壕は大規模な地下壕だった。司令部が首里から撤退して行った南部にも驚くほど多くのガマがある。糸満市には二百以上もあり、(とどろき)の壕と呼ばれる自然壕は一キロ以上もある大きなものだった。

 その記事を読むと、ガマというものが沖縄戦において最も重要な役割を果たしていたという事がよくわかる。田島真一が新しいガマを発見して、その中を調べてみたいという気持ちも少しながらわかったような気がした。

 その後、『沖縄陸軍病院』『戦跡案内』『沖縄戦年表』のホームページを読み続けた。

 静斎はいつの間にか眠っていた。時計を見ると十二時を過ぎていた。

 私はトイレに行き、テレビのスイッチを切り、パソコンを休止状態にして、氷水を飲むとベッドの中にもぐりこんだ。




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