酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







11.悲風の丘




「あの丘が黄金森(こがねもり)です」とみどりが正面に見えて来たこんもりとした丘を示しながら言った。「沖縄方言ではクガニムイです」

 真一の母親と妹と別れて、真一のアパートを出たのは十一時頃だった。まだ、ナハパレスに行くには早い。私はひめゆりの塔に行ってみたかったが、今から行ったら一時の約束に間に合わなくなるという。ホテルでもらった沖縄の観光地図を眺めながら、どこに行こうか悩んでいたら、陸軍病院跡に行こうとみどりが言った。そこには昨日も一昨日も行ったが、もう一度、真一の車がないか確認したいと言う。私はうなづいて車に乗った。

「あそこに陸軍病院がありました。あったと言っても丘の上に建物があったわけではなくて、地下に横穴を掘って病院壕として使っていたんです」

 車は黄金森へと続く細い道に入って行って止まった。そこから先は車では進めなかった。

 車から降り、私はみどりの後に従った。

 しばらく細い道を登って行くと『南風原(はえばる)陸軍病院壕址』という石碑があり、『悲風の丘』と書かれた石碑もあった。『南風原陸軍病院案内図』という看板もあって、第一外科や第二外科の位置が示してあった。

「あたしの祖母はここで補助看護婦として働いていました」とみどりが古い石碑を見つめながら言った。

 私はポケットからタバコを出すと口にくわえて火をつけた。みどりの車は禁煙車だった。

「祖母はここに来ようとはしませんでした。真一さんから聞いたんですけど、米軍がすぐ近くまで迫って来て、陸軍病院が南部に撤退する事が決まった時、病院壕に入院していた患者さんで、重傷で動けない患者さんたちは皆、殺されたそうです。米軍に捕まって、軍の秘密をしゃべらないように口封じをしたんだそうです。その中には重傷を負って動けない女学生もいたみたいです」

 戦争の事に詳しくはないが、日本軍のやりそうな事だと思った。殺されたと聞いて、私は前田上等兵の事を思い出した。息子さんが言ったように、殺されたのだとすれば、一体、何があったのだろう。戦時中に何かがあったのか、それとも、戦後に何かがあったのか。真一の行方不明とは関係ないだろうが気になった。

 私はポケットから携帯用の吸殻入れを出し、その中にタバコの吸殻を入れると、みどりの後に付いて細い山道を先へと進んだ。

「この丘であたしは真一さんと出会いました。東京から沖縄に戻って来て、あたしは沖縄の素晴らしい自然を絵に描こうとあちこちに行ってスケッチしました。それを基に油絵も描きました。でも、何か物足りなさを感じていました。何かが足らないような気がしたのです。ある日、普天間飛行場のそばにある佐喜眞(さきま)美術館に入って丸木夫妻が描いた『沖縄戦の図』を見て、衝撃を受けました。あたしの絵に足らないのはこれだと思いました。表面の美しさだけでは表現できない沖縄の本質を描くには、沖縄の歴史を知らなければならないとあたしは沖縄戦の事を調べました」

 みどりが言った丸木夫妻はいつだったか、テレビで見た事があった。大きなキャンバスに老夫婦が二人で絵を描いていた。確か、二人は『原爆の図』も描いているはずだ。実物を見た事はないが、ピカソの『ゲルニカ』を思わせる迫力のある絵だったと記憶している。

「そして、ここに来てスケッチしていたら、真一さんが来たのです」とみどりは言っていた。「真一さんはあたしに挨拶するとそのまま病院壕がある方に行きましたけど、しばらくして、また戻って来て声を掛けて来ました。あたしの祖母がここで働いていたと言ったら、興味を持って色々と聞いてきました」

 細い道を進んで行くと24号壕と名付けられた病院壕跡があった。丸太で補強された入口はふさがれていて、中には入れないようになっている。入口の脇に立つ解説文によると、この辺りには第二外科の病院壕がいくつもあったらしい。

「あたしの祖母は第一外科に所属していました」とみどりは言った。「第一外科の病院壕は悲風の丘の周辺にあったそうです。第一外科の婦長さんは上原婦長さんと言って、美人でしっかりした婦長さんだったようです。戦争の話をあまりしなかった祖母ですが、上原婦長さんの話はよく聞きました。上原婦長さんはひめゆり隊の人たちから尊敬されていて、怪我をして入院していた兵隊さんからも慕われていました。上原婦長さんが壕内に入って行くと、兵隊さんたちはバンザイをして喜んでいたそうです。今まで痛い痛いとわめいていた患者さんも、婦長さんの顔を見ると急におとなしくなって、まるで、観音様でも見るような目つきになったそうです。上原婦長さんがいるだけで、そこはパアッと明るくなったような感じだったと祖母は言っていました」

「へえ、そんなすごい婦長さんがいたのですか」

「祖母も上原婦長さんのような看護婦さんになりたいと憧れたそうです。その婦長さんも戦死してしまいました」

 悲惨な沖縄戦にもそんな一輪の花のような婦長さんがいたなんて、素晴らしい事だった。

「お祖母さんは看護婦さんになったのですか」

 みどりは首を振った。「戦争の事は思い出したくなかったのでしょう。看護婦にも先生にもならないで、小さな食堂を始めたんです。お祖母ちゃんが亡くなってからは母が継いで、今もやっています」

「そうだったのですか」

 この丘にも米軍の砲弾が次々に落ちて来て、何人も亡くなったのかもしれないと私は周りを見回した。しかし、私はまだ沖縄戦の事に詳しくなく、実感として伝わって来なかった。

「真一さんとはその後、またどこかで出会ったのですか」と私は聞いた。

「えっ」とみどりは言ってからうなづいた。

「次に会ったのは摩文仁(まぶに)にある平和祈念資料館でした。ちょうどおひるの時間だったので、一緒におひるを食べて‥‥‥それからお付き合いが始まりました」

「そうでしたか」

 みどりは腕時計を見て、「そろそろ、おひるですね」と言った。私も時計を見ると十二時十分前だった。

「ここからホテル・ナハパレスまでどの位掛かりますか」

「三十分もあれば行けると思います」

 近くにおいしいソーキそばを食べさせる食堂があるというので、みどりに任せて行く事にした。

 黄金森の周りを一回りしてみたが、真一の白いジムニーはなかった。




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