〜閉ざされた闇の中から〜
25.モローのサロメ
私は五時発の鹿児島行きの飛行機に乗っていた。鹿児島行きは一日に三便しかなく、五時の便に間に合わなければ、明日の十時まで待たなくてはならなかった。 真一のアパートに来た巡査は私たちから話を聞き、連続無差別殺人事件に関わりがあるかもしれないと言うと驚いて、部屋の中に入る事もなく捜査本部に連絡して、私たちを拘束した。与那覇警部が来るのかと思ったら、新里刑事が若い刑事と一緒に来た。 新里刑事はストライプの入った黒のスーツを着たおしゃれな男だった。一見したところ、エリートサラリーマンという感じだ。白百合探偵社の美夏にぞっこんらしい。 与那覇警部は日高の車が見つかったので、そっちに行っているという。日高の車は国際通りにあるパレットくもじというデパートの駐車場に停まっていた。中山と名乗ったあの男があの晩、ナハパレスの駐車場からそのデパートまで運んだのだろうか。多分、真一のジムニーを南城市に運んだのも奴に違いない。 もたもたした警察の捜査に付き合わされ、四時近くになって、ようやく解放されて、私と冬子は空港に直行した。幸い、間に合って乗る事ができた。 冬子も一緒に行くと駄々をこねたが、静斎の事を考えたら一緒に行くわけにはいかなかった。今から行けば鹿児島泊まりになる。静斎に余計な心配を掛けさせたくなかった。具合の悪いみどりを頼むと言ったら、冬子は口をとがらせながらも仕方なく納得してくれた。 中山が前田上等兵の息子に会っていれば、何かしら進展するだろう。会っていなければ、中山の行動を追って、どこで犯人と遭遇したのか突き止めなければならない。いや、その事はすでに警察が調べているかもしれなかった。与那覇警部に聞けば何かわかるかもしれない。それと、犯人の車が発見された場所にも行った方がいいかもしれない。とにかく、今やるべき事は前田上等兵の家に行く事だった。 空港で冬子がパソコンで前田の家の位置は調べてくれた。鹿児島空港は鹿児島市からかなり離れた不便な所にあった。さらに、指宿市にある前田上等兵の家は鹿児島空港から百キロ近くも離れていて、車で二時間ちょっと掛かるらしい。タクシーで行くには遠すぎるので、レンタカーを借りて行くしかないようだ。向こうに着くのは九時頃になってしまいそうだった。 飛行機が離陸して、空港で買ったサンドイッチを食べていると、「失礼」と誰かが言った。 顔を上げたら、冬子がいた。 「やっぱり、来ちゃった」と冬子は笑った。無邪気な可愛い笑顔だった。 「まったく」と言って私は苦笑した。静斎の怒った顔が浮かんだが、今さら降ろすわけにはいかなかった。 冬子は空いていた私の隣に座った。 「髪を短くしたら、なぜか、行動的になっちゃったのよ。考える前に体の方が動いちゃうのね」 「もう少しだけ髪を伸ばした方がいいかもしれない。体が動く前に少し考えた方がいい」と私は言った。 「指宿のホテルを予約しておいたわよ」と冬子は何でもない事のように言ったが、顔を少し赤くした。 「最上階のスイートルームか」と私は聞いた。 冬子は私を睨んで首を振った。「今は仕事中でしょ。そんな贅沢はできません。普通のツインルームです」 「君と同じ部屋に泊まった事が静斎さんにばれたら、俺はもう出入り禁止になってしまう。それどころか、静斎さんの刀で斬られるかもしれない」 「試し切りにされるの?」と冬子は真面目な顔をして聞いた。 私は右手で首を斬られる真似をした。 「何もなければ 「君と一緒に泊まって何も起きないというのは、うまい酒を目の前にして禁酒するのと同じだよ」 冬子は笑っただけで何も言わなかった。バッグの中からスケッチブックを取り出して開いた。絵でも描くのかと思ったら、スケッチブックをメモ帳に使っているらしく、真一捜しで調べた事が書いてあった。 「絵は描かないのか」と私は聞いた。 冬子は顔を上げて窓の方を見た。 「そう言えば日本に帰って来てからはまだ描いてないわ」 「向こうで描いた絵を送ったって言ってたね、かなりあるのか」 「そうね、五十枚はあるんじゃないの」 「そんなにあるんなら個展でもすればいい」 「お父さんが近いうちに個展をやるらしいの。その時、一緒にやらないかって言ってくれたわ。二人展、いえ、親子展かしら」 「そいつは楽しみだな」 「五月か六月頃、やるって言ってたわ」 「そうか。静斎さんも久し振りの個展じゃないのか」 「うん、九年振りだって。ねえ、パリにギュスターヴ・モロー美術館てあるんだけど、知ってます?」 「ああ、知ってるよ。モローが住んでいた家が美術館になってるんじゃなかったかな。行った事があるよ」 「あたし、モローって、あまりよく知らなかったの。有名な『サロメ』は美術全集かなんかで見た事はあったけど、友達に連れて行ってもらって、本物を見たら圧倒されちゃった。何か気になって、その後、一人で何度も行ったのよ。お父さんに聞いたら、お父さんも何度も行ったって言ってたわ。モローの絵に衝撃を受けたって」 「そう言われれば、表現方法が何となく似ているな。静斎さんの絵は象徴主義だったんだな」 「自分でも影響を受けたって言ってたわ。モローって美術学校の先生をやっていて、教え子にマティスやルオーがいるんでしょ。その人が持っている才能を伸ばすのがうまかったのね」 「そうだな。モローにしろ、マティスもルオーも皆、独創的な画家だからな。君も独創的な画家だと言えるよ。今の絵は見てないからわからないけど、日本を出る前はかなり独創的だった」 「あたしねえ、パリに行って本物の絵をいっぱい見たら、自分の絵がわからなくなっちゃったの。その時ね、あなたが言った言葉を思い出したのよ」 「俺が言った言葉?」と私は聞いた。 冬子は私を見てからうなづいた。「いい絵を描こうと思わなくていいんだよ。感じたままをキャンバスに表現すればそれでいいんだよって、あなたは言ったわ」 「そんな事、言ったかな」と私は首を傾げた。 冬子とは何度か絵の話をした事はあるが、そんな事を言った記憶はなかった。 「『赤い風車』で言ったのよ」と冬子は言った。 『赤い風車』は私の行きつけの居酒屋だった。一度、冬子を連れて行った事があった。その時、言ったのかもしれなかった。 「あの時、あなたはかなり酔っぱらっていて、あたしを口説いたんですよ」 私はうなづいた。「そんな事もあったような気がする」 「でも、その言葉のお陰で、あたし、自分を取り戻す事ができたんです」 「口説かれてよかったというわけだ」 冬子は白い歯を見せて笑い、「あたしも食べておこう」と言って、バッグの中からサンドイッチを出した。
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