酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







30.指名手配




 那覇空港は厳重な警戒が敷かれ、警官があちこちにいて、目を光らせていた。

 静斎は石垣行きの搭乗口でちゃんと待っていた。

 私たちが近づくと渋い顔をして私たちをじっと見つめて、「本当に何もなかったんじゃな」と念を押した。

「そんなのあるわけないじゃない」と冬子はちょっと無愛想に言った。

「何もありませんよ」と私は穏やかに言った。

「うむ」と静斎は渋い顔のままうなづいてから、私たちを見比べて安心したように笑った。

 鹿児島は雨が降っていて寒かったが、那覇は雨も降っていないし暖かかった。気温が十度は違うだろう。勿論、私はコートを脱ぎ、冬子は革ジャンを脱いで、デニムのジャケットに着替えていた。

「波照間島に犯人がいるというのは本当かね」と静斎は聞いた。

「いるかもしれないって事」と冬子が言った。「いないかもしれないけど何か手掛かりは得られるはずよ」

「まあいいじゃろう。わしも波照間島には行ってみたいと思っておったんじゃ。あそこには幻の泡盛って言われている『泡波』があるんじゃよ」

「へえ、そんな泡盛があるんですか」と私は興味深そうに聞いた。

 静斎はうなづいた。「小さな造り酒屋が島民のためだけに作っているらしい。数が少ないので、島から出た物にはプレミアが付いて三合瓶でも一万円位するようじゃ」

「へえ、そいつは貴重な酒ですね」

「今夜は楽しみじゃな」と静斎は嬉しそうに笑った。

 待合室にあるテレビでニュースをやっていて、連続無差別殺人事件の犯人、前田直樹が指名手配された事を告げていた。顔写真も出たが、その写真は冬子が撮ったものでも、大城秀義が撮ったものでもなく、あの家で新たに発見したもののようだった。実物の直樹よりも人相が悪く、殺人犯を思わせる顔つきのように感じられた。

 被害者の写真も次々に映し出され、直樹が犯行に利用したキャンピングカーの写真も映し出された。そのキャンピングカーが中山淳一の物である事と、直樹が淳一になりすましていた事は警察がまだ発表していないのか報じてはいなかった。そして、犯人は今、沖縄地方に潜伏しているものと思われると報じられるとテレビを見ていた乗客たちがざわめいた。

「どのチャンネルを見ても朝からずっと、あれをやっている」と静斎がテレビを見ながら言った。「誰かが奴を見て通報すれば、すぐに捕まるじゃろう」

 前田直樹がどこでニュースを見たのか知らないが、さぞ驚いた事だろう。今頃、顔を隠して逃げ回っているのかもしれない。もう高級なホテルには泊まれないし、レンタカーも借りられない。防犯カメラのあるコンビニにも行けないかもしれない。日本中を敵に回した直樹の逃げ場はもうどこにもなかった。

 静斎のおごりで『石垣牛めし弁当』を買って、機内に持ち込んで食べた。久し振りに御飯を食べたような気がして非常にうまかった。

 石垣島は晴れていて、いい天気だった。那覇よりさらに暖かかった。半袖でもいい位だ。さらに南にある波照間島はもっと暑いに違いない。空港から波照間島行きの高速艇が出る離島桟橋までタクシーで十分位の距離だった。

 運よく波照間島行きの船は出ていた。波が高いとすぐに欠航してしまうらしい。往復乗船券を買って、まだ時間があるので街中をぶらぶらした。

 静斎も冬子も前に一度、石垣島に来ていた。冬子は竹富島に行った事があり、静斎は西表島(いりおもてじま)に行った事があるという。私は学生の頃、各地を旅して回ったが、沖縄だけは来た事がなかった。もっと早くに来ればよかったと後悔していた。

 冬子の案内であやばにモールという商店街に行き、公設市場を散策した。魚売り場には見た事もない熱帯魚のような派手な魚が売っていて私は驚いた。そんな私を見て静斎も冬子も笑っていた。

「海に潜ると綺麗なお魚がいっぱいいて素敵なのよ」と冬子が楽しそうに言った。

「へえ、君はダイビングもするのか」と私は冬子に聞いた。

「スキューバ・ダイビングはしたいけど、まだやった事はないの。海が綺麗だからシュノーケリングでもお魚は見えるのよ」

「へえ、見てみたいね」

 私は『ティファニー』に飾ってあるホリーが撮った魚の写真を思い出した。あそこで見た時は何の興味もわかなかったが、実際に石垣島に来てみると見てみたいと興味がわいていた。

「今度、夏に来ればいいのよ。夏休みの時期は込むから六月頃がいいんじゃないの」

「六月じゃあ梅雨時だろう」

「沖縄は梅雨明けも早いのよ」

 私と冬子が魚売り場で話し込んでいると、先に行っている静斎が早く来いと手を振った。

 波照間島行きの高速艇は思っていた以上に混んでいた。春休みの大学生らしい若者が多く、キャーキャー騒いでいた。船の中のテレビでも連続無差別殺人事件の事をやっていて、前田直樹の顔写真が何度も映し出された。こんなにも顔写真が出ていれば、目撃者は必ず通報するだろう。

 座席は船内だけでなく、デッキの所にもあった。私たちはデッキに座る事にして荷物を置いた。

 空は晴れ渡り、海は青く輝いて、いい気持ちだった。

 船が動き出して、沖に出ると海の色は益々青くなって行った。その色は本土の海と全然違って、吸い込まれるような青さだった。こんな綺麗な海が日本にあったなんて、本当に驚きだった。

 高速艇は思っていたよりも速く海上を走り、思っていた以上に船は揺れた。船酔いをして具合の悪そうな学生がいたが、私たち三人は誰も船酔いはしなかった。三人ともデッキに立ったまま、何も言わずに海を眺めていた。

 四時頃、私の携帯が鳴った。出ると瑠璃子だった。

 瑠璃子は田島真一さんが見つかったと言った。私は聞き返した。風の音と波の音、エンジン音がうるさくてよく聞こえなかった。

「田島真一さんが無事に救出されました」と瑠璃子は言った。

「無事にですか」と私はもう一度聞き返した。

「そうです。無事です。大分、衰弱していますが生きています」

「どこにいたのですか」と私は聞いた。

「真一さんが見つけたガマの中です。名城ビーチの近くにあったんです。警察が見つけました。一緒に日高支配人と大城美津子さんも見つかりましたが、残念ながら、二人は殺されていました」

「どうして真一さんは殺されなかったのですか」

「わかりません。真一さんはガマの中にある穴の中から救出されたようです。ロープがなければ出られない穴の中にいたようです。真一さんは病院に運ばれました」

「そうですか。御苦労さまでした」と私は言い、今、船の中にいて聞き取りにくいので、船から降りたら改めて電話をすると言って切った。

 冬子も静斎も私の側に来て、耳を澄ましていた。

「真一さんが無事に見つかったそうだ」と私は言った。

「よかったわねえ」と冬子がほっとしたように言った。

「よかったのう」と静斎も言った。「わしはもう殺されてしまったものと諦めておったよ。みどりさんの顔を見るのが辛くてな‥‥‥本当によかった」

 直樹がなぜ、真一を殺さなかったのかわからないが、生きていて本当によかった。ただ、日高も殺され、川上会長の孫の美津子も殺された。直樹は祖父が川上に殺されたと思い、復讐をしたつもりなのだろうか。

 私は海を見ながら考えていた。




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