酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







35.トロピカル・カクテル




 ホテルに帰ると静斎は出掛けたらしく、フロントに鍵が預けてあった。部屋に入ったら机の上に『バーで飲んでいる』と書き置きがあった。

 荷物を置いて、すぐにバーに行こうとしたが、私はWBCの事を思い出した。冬子に電話して、冬子の部屋に行き、冬子のパソコンで調べると日本は6対0で韓国に勝っていた。

「ほんとかよ」と私は見なおした。

 上原が投げて、スタメン落ちしていた福留がツーランホームランを打っていた。今まで勝てなかった韓国にようやく勝って、いよいよ決勝戦進出だった。そして今、もう一つの準決勝をやっていて、キューバとドミニカは0対0だった。どちらも手ごわい相手だが、今の日本には勢いがある。明日一日休んで、決勝戦は明後日(あさって)だった。決勝戦は何が何でもテレビにかじりついて見なければならない。仕事なんかやっていられるか。

 冬子と一緒に最上階にあるバーに行くと、静斎はカウンターにいた。他にはまだ客はいなかった。私の顔を見ると、「仕事は終わったかね」と聞いた。

 私はうなづいた。「ようやく、終わりました」

「祝杯でも挙げるか」

 私たちは泡盛をベースにしたトロピカル・カクテルで乾杯した。私にはちょっと甘過ぎるカクテルだったが、冬子は気に入ったようで、「これ、おいしいじゃない」と言った。

 私たちはカウンターから海の見える窓際のテーブルに移動した。

 夕日が綺麗だった。沖の方に慶良間(けらま)の島々が見えた。米軍は沖縄本島に上陸する前に、あそこに上陸したのだった。そして、あの海には米軍の軍艦がすらりと並んで、休む間もなく艦砲射撃を続けたに違いない。戦争の時に犠牲になった沖縄は、今も米軍基地があちこちにあって犠牲になっている。

「今回はお前も随分と活躍したが、二度と探偵の真似なんかするんじゃないぞ」と静斎が冬子に言っていた。

「わかってますよ。今回はみどりのために必死だったんです。あたしは絵描きよ。そろそろ絵を描かなくっちゃ」

「うむ」と静斎は満足そうにうなづいた。「しかし、お前も年頃だからな、いつまでも一人でいるわけにも行くまい。いい相手を見つけなくちゃな」

「大丈夫よ、心配しなくても。みどりみたいに縁があればいい人に巡り合えるわよ」

「そうじゃな。焦る事もないな」

 私は静斎と冬子を眺めながら、似ているなと思った。顔つきは全然似ていないが、やっぱり親子なんだなと思った。

 静斎は私の方を見るとニヤッと笑った。

「御苦労じゃったな。まさか、こんな大捕り物になるとは思ってもいなかったわ。わしらの手であの殺人鬼を捕まえる事になろうとはのう。まあ、今夜は楽しく飲もう」

「そうですね。やっと終わりました。沖縄に来てからもう五日が過ぎました。俺は明日、帰りますよ」

「なに、もう帰るのか。一日位、のんびりしたらいいじゃろう」

「いえ、これ以上いたら、こっちに住みたくなってしまいますからね」

「そうじゃな。わしも独り身になったし、こっちに移り住む事にしようかのう」

「それ、あたしも賛成よ」と冬子は言った。「みどりみたいに、どこか、海の近くに一軒家を借りて、アトリエにしましょうよ」

「どうせなら、どこかの島がいいな」

「それ、いいわ」と冬子は嬉しそうに同意した。

「その前に与論島に行って、俊斎さんに会わなくちゃならん。与論島がどんな島だか見てからじゃな。波照間島もよかったが、あそこはちょっと離れ過ぎているからのう」

「波照間島はもう一度、行ってみたいわ。夏になったら、また行きましょう」

「おい、お前、今、誰に言ったんじゃ」と静斎は冬子に聞いた。

「お父さんに決まっているじゃない」と言って冬子は私を見て明るく笑った。

「そうならいいんじゃが、わしは日向に言ったように聞こえたぞ。お前ら、本当に何もなかったんじゃろうな」

「何を言ってるのよ。何もありませんよ。あの夜は眠る事もできなかったんだから」

「わかったよ、信じる。だが、東京に帰っても、用もないのに、日向の所に行くんじゃないぞ」

「わかっています。東京に帰ったら、二人展のための絵を描かなきゃならないじゃない。そんな暇はありません」

「おお、そうじゃった。画廊に聞いてみんとわからんが、五月の連休過ぎか六月頃になるじゃろう。場所はやはり銀座がいいかのう」

 がやがやとお客が入って来たようだった。学生たちかと思ったら、モデルのような五人の女性だった。

「あっ、ルリさんたちだ」と冬子が言って、

「呼んだの?」と静斎に聞いた。

「打ち上げをすると言ってな」

 冬子は静斎に親指を立てて見せ、『白百合探偵社』の女性探偵たちを迎えに行った。

 私たちは全員が座れる広い場所に移って、改めて乾杯した。今夜はタクシーで来たから全員が飲めるという。こいつは楽しくなりそうだと私は静斎に感謝した。

「犯人を捕まえた時の様子を詳しく聞かせて下さいな」と瑠璃子が言った。今夜の瑠璃子は眼鏡を掛けていなかった。コンタクトレンズにしたのか、最初から伊達眼鏡だったのかわからないが、眼鏡を取ると一段と目立つ美人になった。

 冬子が波照間島に行くきっかけとなった写真の事から話し始めた。

 私と静斎は相槌を打ったり、時々、補足する程度で、冬子に任せて、うまい酒を飲んでいた。それは十年物の泡盛だった。以前、静斎が言ったように、それはトロリとしていてコクがあって、コニャックに引けを取らない、うまい酒だった。

 やがて、みどりがカメラマンの比嘉を連れて来た。

 白百合探偵社の全員が揃っているのを見ると、「おおっ、美人探偵さんもいたなんて、やっぱり、来てよかった」と比嘉は嬉しそうに笑った。

 私の携帯が鳴った。出ると与那覇警部だった。話があるというので、スヴニールホテルのバーにいると言ったら、すぐに行くと言って電話を切った。

 警部は三十分程でやって来た。

「おう、やってるな」と顔ぶれを眺め、「新里の奴を連れて来てやればよかったな」と笑った。

 瑠璃子たちが美夏を冷やかした。

 私は席を立って、警部と一緒にカウンターに座った。

「何か飲みますか」と私は聞いた。

「そうだな。今日は仕事も終わったし、ビールでももらおうか」

 私はバーテンに生ビールを二つ頼んだ。

「今夜は打ち上げです」と私は言った。

 警部はうなづいた。「御苦労だった。改めて、お礼を言うよ。もう少し遅かったら、奴は自殺していたかもしれなかった。奴に死なれたら、事件の全貌がわからなくなってしまう」

「奴はやっぱり自殺をしようとしていたんですか」

「南の果てまで行ってしまったからな。もう逃げる場所はない。奴はあの夜、泊まる宿を予約していなかった。死ぬつもりだったのかもしれん」

 ビールが来たので、私たちは乾杯した。

「話というのは何ですか」と私は聞いた。

「話という程でもない。ただ、帰る前にお礼を言いたかったんだ」

「奴は口を利くようになりましたか」

 警部は首を振った。「今朝、那覇に戻ったら、空港にはマスコミ連中が山のように集まって来ていて、勿論、野次馬もすごかった。急遽、那覇から東京へ運ぶ事になったんだよ。わしらの手から離れて行ってしまったというわけだ。もっとも十八人も殺した殺人犯はわしらの手には負えんけどな。ただ、奴の荷物が残っていた。本部の奴らも余程慌てていたとみえて、荷物を忘れたようだ。他の証拠物件と一緒に送るつもりだが、その前に一応、調べてみた。奴のカメラの中を調べたら、波照間島の綺麗な景色が写っていたが、景色以外のものもあった」

 警部はビールを飲むと、「あの島で殺された二人の女の写真だよ」と言った。「生きている時の写真じゃない。死んでから裸にされて、奴に犯されてから撮られたものだ。顔のアップや局部のアップ、全身像やらが五、六枚づつ撮ってあった。もしやと思って、パソコンの中も調べてみた。専門家に頼んでパスワードを解除して、中を見たら、死体の写真が続々と出て来たよ。数えてみたら、全部で十五人いた。一番最初の霧島温泉と二番目の中山淳一、それとヒッチハイクの大学生はなかった。奴は男の死体には興味なかったらしい。たとえ、黙秘を続けても、あの写真が奴の犯行を裏付けしているよ」

「死体の写真が出て来ましたか」

 奴はどんな気持ちで死体の写真を撮ったのだろう。釣り人が魚拓を取るような感覚で、記念として残したのだろうか。普段の彼は頭がいかれているようには見えないが、頭の中のどこかが普通の人とは違うようだ。脳みそのどこかに深い傷でもあるのだろうか。

 私はビールを飲んだ。

「さっき、鹿児島から連絡があって、中山淳一の遺体が見つかったそうだ。日向さんが録音した奴の供述通りに、奴の家の近くの山にあったらしい」

「そうですか‥‥‥中山の祖父さんがあの手記を残さなければ、こんな事件は起きなかったかもしれませんね」

「そうかもしれんが、それを言ったら、沖縄戦がなかったら、こんな事は起きなかったという事になる」

「沖縄戦か」と私は呟いた。

「沖縄戦で生き残った者たちは皆、沖縄戦を引きずって生きている。戦後六十年以上経った今もだ。あの時の事は決して忘れる事はできんのだよ。俺の祖父さんと祖母さんも沖縄戦で亡くなっている。親父はその時、鹿児島に疎開していて助かったが、五人兄弟のうち、三人は沖縄戦で戦死しているんだよ」

 警部は目を細めてビールを飲んだ。

「前田の母親は沖縄美人だったそうですが、波照間島の生まれだったのですか」と私は気になっていたので聞いてみた。

「波照間島の生まれだよ。だが、今はもう身内はいない。奴の祖母さんが一九八三年に亡くなっているんだ。妹が亡くなる一年前だ。あの写真は祖母さんが亡くなった時に母親に連れられて波照間島に行って撮ったものだろう。祖父さんはそれ以前に亡くなっていて、母親の兄弟も皆、波照間島から出て行ってしまい、今は空き家が残っているだけだ。あの島で暮らして行くのは難しいだろう。高校がないから、子供たちは中学を卒業したらみんな島から出て行ってしまう。一度、外に出てしまうと不便な島には戻って来なくなってしまうらしい」

 警部はビールを飲みほした。私を見て微かに笑うと、「明日は国頭に行って行方不明の女子大生を捜さなけりゃならん」と言った。「今夜は久し振りにゆっくり眠るよ」

 私はもう一杯勧めたが、警部は首を振って、「たまには早く帰らないとな」と苦笑した。「今日は娘の誕生日なんだよ」

 私は警部を見送ると、みんなの所に戻った。冬子の話は終わって、静斎がピカソの話をしていた。

 私が冬子の隣に座ると、「警部の話って何だったの」と冬子が聞いた。

「俺が帰る前に一緒に飲みたかったんだそうだ」

「それだけなの?」

 私はうなづいた。「今日は娘の誕生日だからって、いそいそ帰って行ったよ」

「へえ、そうなの。そういえば与那覇警部って、日向さんと同じ位の歳なんじゃないの」

「多分、同世代だろうな」

「さっき聞いたんだけど、ナナさんのお祖父さんのお姉さんはひめゆり部隊にいて、戦後まもなく亡くなったらしいのよ。ナナさんの名字は金城なの。もしかしたら、みどりのお婆ちゃんと一緒にいた金城芳江さんじゃないかって、今、話していたのよ」

「それ、本当なのか」

「ナナさんは名前までは知らないの。でも、お祖父さんに聞けばわかるだろうって言ってたわ。金城さんて美人だったんでしょ。きっと、ナナさんみたいだったのよ」

 私は奈々子を見た。前田上等兵が田島上等兵を殺してまで手に入れたかった金城芳江はあんな感じだったのかもしれない。川上会長に会わせれば、会長が腰を抜かして驚くかもしれないと思った。

 静斎は沖縄民謡の事を話していた。何だかわからないが『嘉手苅(かでかる)林昌(りんしょう)』はいいのうと言っていた。




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