酔雲庵


インプロビゼーション

〜閉ざされた闇の中から〜

井野酔雲







36.君の瞳に乾杯




 今頃、静斎は与論島に向かう船の中だろう。石垣島から波照間島に行った時の船旅が気にいったとみえて、五時間近くの船旅を楽しむという。冬子はみどりと一緒に真一の部屋を片付けているのだろう。私は我が家のこたつに入って、WBCの決勝戦を沖縄から買って来た泡盛を飲みながら観戦していた。

 一昨日(おととい)の夜、ホテルのバーで飲んだ後、瑠璃子たちの行きつけのカラオケスナックに行って騒いだ。静斎は沖縄の古い歌『芭蕉布』を歌った。私は初めて聴いたがいい歌だった。冬子はフランス語でピアフの『バラ色の人生』を歌った。それは以外にうまかった。心に沁みて来るような歌だった。私はあまりうまく歌えなかったが『島唄』を歌った。瑠璃子は一青窈(ひととよう)の『ハナミズキ』を歌い、麻里子は夏川りみの『涙そうそう』を歌い、愛と奈々子と美夏は三人でスピードの『White Love』を歌った。比嘉はビギンの『島人(しまんちゅ)の宝』を歌った後、店の三線(さんしん)を借りて沖縄民謡を歌った。なかなかカッコよかった。白百合探偵社の五人は比嘉の歌に合わせて踊り出した。沖縄の人は自然に踊り出してしまうのだという。私たちも踊り方を教えてもらったが、まったく、さまにならなかった。

 昨日は三人で首里城を見に行こうとロビーに下りたら、大勢の報道陣に囲まれてしまった。誰が漏らしたのか私たちが連続無差別殺人犯を捕まえた事を知っていて、インタビュー攻めにあった。私は閉口したが、探偵社の宣伝になるでしょと冬子に言われ、仕方なく、同じ事を何度も何度も繰り返してしゃべった。冬子は犯人を投げた必殺技を何度も披露して、静斎は犯人を誘い出した尺八の名曲を何度も演奏した。

 一日はそれで潰れてしまい、首里城を見る事もなく空港に行って、四時四十分の東京行きに乗った。

 何となく、冬子と別れがたかった。一緒にいた時間が長過ぎたせいかもしれなかった。冬子がいい女になったからかもしれなかった。私が冬子に惚れてしまったせいかもしれなかった。

 七時頃、羽田に着いて、私は事務所には寄らずに真っすぐ我が家へと向かった。事務所に報道関係者が私の帰りを待っているかもしれなかった。取材攻めに遭って、今日、休む事ができなくなるかもしれない。たとえテレビに出てくれと言われても、今日は仕事をする気はなかった。テレビ出演は明日まで待っていてもらおう。

 日本対キューバの決勝戦は十一時に始まった。私は酒とつまみを用意して、こたつに入った。一回の表、一番の川崎はピッチャーゴロに倒れたが、二番の西岡は内野安打を打って一塁に出た。三番のイチローはフォアボールで出塁し、四番の松中は内野安打を打って満塁となった。キューバはピッチャーを交代したが、五番の多村にデッドボールを投げて、日本は難なく一点を先取した。次の里崎は三振してしまうが、七番の小笠原がフォアボールを選んで二点めが入った。八番の今江はセンター前ヒットを打ち、また二点を追加した。キューバはまたピッチャーを代えた。九番の青木はセカンドゴロに倒れたが、一回に四点も取ったのは上出来だった。

 一回の裏に先発の松坂は一番バッターにホームランを打たれてしまった。何をやっているんだと私は泡盛の水割りを飲んだ。二番バッター、三番バッターをゴロに打ち取り、四番バッターからは三振を奪った。

「松坂、いいぞ!」と私はうまい泡盛を飲んだ。

 二回の表は一番の川崎から始まったのに三者凡退で終わってしまった。その裏、松坂はヒットを打たれるが三人を三振に仕留めた。三回の表も日本は点を取れず、4対1のまま試合は膠着状態に入った。そんな時、私の携帯が鳴った。一体、誰だ、こんな大事な時にと思いながら、電話に出ると冬子の声が聞こえて来た。

「今、事務所にいるの?」と冬子は聞いた。

「今日は国民の祝日だよ」と私は答えた。

「あたしはどこに行ったらいいの?」

「どこって、みどりさんのアトリエだろう」と私は言ってから、「今、どこにいるんだ?」と聞いた。

「調布の駅よ」

「何だって! 帰って来たのか」私は驚いていた。

「体が勝手に動いちゃったのよ」

「頭は沖縄に置いて来たのか」

 冬子の笑い声が聞こえた。「本当は頭が帰れって命じたみたい。今、どこにいるの? お仕事なの?」

「今日は休みだって言っただろう」

 私は冬子にタクシーに乗って、喫茶店『ティファニー』に来るように伝えた。

 私のアパートから『ティファニー』まで歩いて五分も掛からない距離だった。私は時間を見計らって冬子を迎えに行った。

 今日は閉店の『ティファニー』の前で冬子は待っていた。鹿児島に行った時に着ていた革ジャン姿で首にマフラーを巻き、大きなスーツケースの側に立っていた。

 私の顔を見ると嬉しそうに笑って、「来ちゃった」と言った。

「静斎さんは与論島に行ったのか」

「今朝の七時の船に乗ったわ。お父さんを見送るとあたしはすぐに空港に向かったの。もたもたしてるとまたマスコミに囲まれちゃうから。もう、うんざりよ」

「俺が帰った後も、また来たのか」

「そうよ。ホテルに帰ったら、また囲まれて、同じ事の繰り返しよ」

「そうか。そいつは御苦労だったね」

「駅からあなたの事務所に行こうと思ってたんだけど、もしかしたら、事務所にもマスコミがいるかもしれないと思って、行くのをやめて電話してみたの」

「それは正解だ。俺もまだ事務所には行ってないんだ」

 アパートに帰ると私はすぐにつけっ放しのテレビの所に行った。四回の裏が終わった所で、まだ4対1のままだった。

 冬子は部屋の中を見回してから、こたつのある部屋に入って来た。

「どうぞ」と私は冬子にこたつを勧めて、台所に行った。

「昼飯もまだ食べてないんだろう」

 冬子はうなづいた。「飛行機の中でサンドイッチは食べたけど」

「試合が終わったら、何か作ってやるよ。それまで、そこのつまみで我慢してくれ」

 私は冬子のグラスを用意して、氷を入れて泡盛を注いでオレンジジュースで割った。

「とにかく、再会を祝して乾杯するか」

 私は冬子にグラスを渡した。

「泡盛ベースのカクテル『インプロビゼーション』だ」

「えっ、そんなカクテルがあるの?」

「即興で作ったんだよ」

「なんだ」と冬子は笑った。

「まさか、こんなにも早く再会するとは思ってもいなかったよ」

「あたしも」

「また静斎さんの電話に悩まされそうだな」

「あっ、イチローが打った」と冬子が言った。

 イチローのヒットはレフトに飛んで行って二塁打になった。

「おっ、いいぞ」と私は言った。

「あたし、恐ろしいから電話の電源を切っちゃった」

「確かに恐ろしいな。君が俺の部屋にいるとわかったら、与論島から飛んで来るぞ。今夜にも来るかもしれない」

「どうしよう」と冬子は心配そうな顔をして私を見た。「青森に帰った事にしようかしら」

「そんな事をしても、静斎さんは騙されやしないよ」

「そうよね」

「試合が終わってから考えよう」

 続く松中もヒットを打った。ノーアウト一、三塁となって、キューバはまたピッチャーを交代した。

「静斎さんはもう俊斎さんと会ったかな」と私は言った。

「十二時前に着くはずだから、もう会ってるんじゃない。でも、俊斎さんは電話を持っていないらしくて、前もって連絡ができないって言ってたわ。もし、いなかったらホテルに泊まるしかないって言っていた」

「静斎さんも俊斎さんも携帯を持っていないのか。俊斎さんがいて俊斎さんの家に行けば、電話が掛かって来ないかもしれないね。ホテルに泊まれば、この前みたいに二時間おき位に電話が来るだろう」

「あなたの電話も切っておいてよ」

「そうするけど、二人とも電話に出ないと返って怪しまれるぞ」

「仕方ないわよ。出たらもう大変よ。このうちにも電話があるんじゃないの」

「うちの電話は留守番電話がたっぷり溜まっているよ」

「マスコミ?」と冬子は聞いた。

 私はうなづいて、携帯電話の電源を切った。

 多村の打球が内野安打となって、イチローがホームに戻って来た。里崎がバントを決めて、走者が進塁した。またキューバはピッチャー交代だった。

「遠慮しないで食べろよ」と私は言って、ポテトチップを食べた。

 冬子は笑うと足を崩して、こたつの中に入った。

「やっぱり、来ない方がよかったかしら」と冬子は私を見つめて言った。

 私は首を振った。「来てくれて嬉しいよ」

「ほんと?」

 私はうなづいた。

「とにかく、再会を祝って乾杯しよう」

 冬子はうなづいてグラスを手に取った。

 私たちは見つめ合いながら乾杯した。

 小笠原が犠牲フライを打って松中が帰って来た。今江はゴロに終わったが、日本は二点を取って6対1になった。

 五回の裏からは松坂に代わって、渡辺俊介がマウンドに上がった。渡辺のアンダースローはキューバの選手も手が出せなかった。渡辺は三振二つとショートライナーで三者凡退に抑えた。六回の表は日本も三者凡退だった。

 六回の裏に川崎がエラーをした後、三人に連続ヒットを打たれて二点を取られた。次のバッターをダブルプレーに打ち取ってチェンジになったが、6対3になってしまった。

 私と冬子はテレビに釘付けになって、日本を応援した。

 七回にイチローが出て来たがセカンドゴロに打ち取られ、松中と多村は三振に倒れた。その裏に川崎がまたエラーをした。しかし、その後、ダブルプレーを取ってランナーは消えた。ところが今度はピッチャー渡辺のエラーが出た。

「何をやってるんだ」と私は言って、「ほんとよ、もう」と冬子は言った。

 それでも次のバッターをフライに打ち取ってチェンジになった。

 私たちはよかったと乾杯した。

 八回の表は三人で終わってしまった。八回の裏に最初のバッターに内野安打を打たれ、渡辺に代わって藤田がマウンドに上がった。四番バッターをレフトフライに打ち取ったのはよかったが、五番バッターにツーランホームランを打たれた。6対5になって一点差に迫られてしまった。王監督は藤田を下ろして大塚をマウンドに送った。

「大塚頼むぞ」と私は念じて、泡盛の水割りを飲んだ。

「ここで打たれたら負けちゃうわよ。頑張ってね」と冬子も泡盛のオレンジ割りを飲んだ。

 大塚は六番バッターをピッチャーゴロに、七番バッターをフライに打ち取って、敵の攻撃は終わった。

 私たちはほっとして、「よかったね」と乾杯した。

 いよいよ最後の攻防、九回が始まった。最初のバッター金城はサードゴロだったが、キューバのエラーで生き残った。次の川崎は金城を送るためにバントをするが失敗してしまう。

「バントなんてしないで、ちゃんと打ってよ」と冬子が言った。

 冬子はそう言うが、次の西岡もバントした。これが内野安打となって、ワンナウト一、二塁の場面でイチローが登場した。

「イチロー、打ってよ」と冬子が言って、泡盛を飲んだ。

 私も、「打てよ」と言って泡盛を飲んだ。きっと今、日本中の観戦者が「イチロー打て!」と念じているだろう。

 イチローは見事にそれに応えた。ライト前にヒットを打って、川崎が二塁から本塁に突入して一点をもぎ取った。

「さすがイチロー!」」と私たちは手を打ち合って喜んだ。

 次の松中がフォアボールを選んで満塁となった。ここでキューバはピッチャー交代。

「しびれる試合ね」と冬子が言って笑った。可愛い笑顔だった。この部屋に入って来た時は何となくおどおどしていたが、いつもの冬子に戻ったようだった。

「決勝戦らしいいい試合だな」と私は言って、三杯目の水割りを作った。冬子にも二杯目のオレンジ割りを作った。

 多村に代わって、準決勝でホームランを打った福留が出て来た。

「ホームランを打て」と私は言った。

「ホームランを打てば四点入るのよね」と冬子が聞いた。

「満塁だから四点だよ」

「打ってよ、福留さん」

 ツーストライクと追い込まれたが、福留はタイムリーヒットを打って、西岡とイチローが帰って来た。まったく頼りになる男だった。次の里崎はフォアボールを選んでまた満塁になった。ここでまたキューバはピッチャーを交代した。

「次は誰?」と冬子が聞いた。

「次は小笠原だろう」

「小笠原さん、ホームラン打ってね」

 小笠原はホームランにはならなかったが、犠牲フライになって松中が帰って来た。次の今江はゴロに打ち取られてしまい日本の攻撃は終わった。それでも日本は四点を奪って10対5となった。これで、日本の勝利はほぼ確実だが、野球は終わってみなければわからない。油断はならなかった。

 九回の裏が始まった。八回に続いて大塚がマウンドに上がった。

「頑張ってくれよ」と私と冬子は乾杯した。

 ところが、最初のバッターに初球を見事に打たれて二塁打になってしまった。二番めのバッターはフライに打ち取り、三番めのバッターにまたヒットを打たれて一点を取られてしまう。まだ四点差があるとはいえ危なかった。

 私たちは冷や冷やしながら見ていた。次のバッターは空振り三振だった。いよいよあと一人となった。

 私たちはじっと見守った。ツーアウト一塁、ツーストライクワンボールとなった次の一球、バッターは空振りをした。

「やったー」と私は叫んだ。

 思わず、私と冬子は抱き合って喜んでいた。私の顔のすぐそばに冬子の顔があった。私たちは見つめ合い、そして、唇を重ねた。








最後まで読んでいただきありがとうございます。前編の「蒼ざめた微笑」も読んでくださいね

ありがとうございます



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