出陣命令
サハチの長男誕生を一番喜んだのは、祖父のサミガー 祖父も今年で六十一歳になっていた。去年、六十になった時に隠居しようかと考えたが、いや、まだまだ頑張らなくてはならないと取りやめた。今回、曽孫の顔を見て、いつまでも年寄りがうるさい事を言っていたら、ウミンター(思武太)も一人前にはなれんじゃろうと言って、隠居を決心したのだった。 祖父の隠居屋敷を馬天浜から少し離れた仲尾(新里)の地に建てる事に決まり、早速、 そんな頃、マチルギの供として佐敷に来ていた兄のサムが、一年間という約束だったので マチルーはサムが伊波に帰った二か月後の四月の吉日、佐敷按司の重臣、 サグルーはみんなに可愛がられて健やかに育っていた。 今年は去年のような大きな台風が来る事もなく、サミガー大主と馬天ヌルの屋敷は九月には完成した。祖父と祖母が新居に移って、屋敷の中は急に静かになった。 「寂しくなったな」とサハチがサグルーを抱きながらマチルギに言っていた時、珍しく、クマヌが訪ねて来た。 サハチはサグルーをマチルギに預けて、クマヌが待つ部屋に向かった。 「伊波に行っていたと聞いたけど、マチルーは元気でしたか」とサハチはクマヌに聞いた。 「城下に新しい屋敷を建ててもらって、二人で仲良くやっていた。近いうちに伊波にも武術道場を作って、若い者たちを鍛えるとサムは張り切っておった」 「そうですか。サムが師範ですか」 クマヌは嬉しそうにうなづいた。 その顔を見ているとクマヌも父親なんだなとサハチは思った。しかし、娘夫婦の事を言いにわざわざ来たとは思えない。他に何かがあるはずだった。 「帰りに 「若按司にはまだ言っていなかったが、浦添の城下に『鎌倉屋』という刀屋を出したんじゃよ」 「刀屋? クマヌが商売を始めたのですか」 クマヌは楽しそうに笑って、手を振った。 「浦添の事を調べるためじゃよ。商売は二の次じゃ。大した刀は売っていない。名刀など売っていたら怪しまれるからな」 「誰がやっているのです」 「ヤマトゥンチュ(日本人)でキクチ(菊池)という奴じゃ。丁度、ヒューガと一緒に佐敷に来た奴なんだが、琉球に来た時、無一文でな、しばらく、 「何があったのです?」 「先月、 「鳥島というと 「そうじゃ。山北王は明国との交易をする事を条件に鳥島から手を引いた。 「えっ、中山王が山北王を攻めるのですか」 クマヌはうなづいた。 「浦添の城下では、いつ 「前にも鳥島を奪われた事がありましたよね。その時は鳥島を攻めて奪い返したのでしょう。どうして、今回もそうしないのです?」 「多分、跡継ぎのフニムイ(船思)のためじゃろう。中山王はもう七十を過ぎている。フニムイは浦添グスクで生まれて、浦添グスクで育って、 「忠実な按司を見極めるとはどういう事です?」 「 「佐敷にも出陣命令は来ますかね?」 「中山王からは来るまい。ただ、 「そうですね‥‥‥」 「多分、伊波按司と山田按司は、道案内として先陣を勤める事になろう」 「マチルギたちの願いがかなうというわけですね」 「先陣と言っても行軍する時じゃ。向こうに着いて攻撃の先陣を勤めるのはやはり、フニムイの兵じゃろうな」 「マチルギが出陣すると言い出しそうだな」とサハチは言った。 クマヌはうなづいた。 「 敵討ちはマチルギの生き甲斐だった。何を言っても止める事はできないだろう。出陣すれば戦死する可能性もある。マチルギが死ぬなんて考えたくもない。戦に行かせたくないが、引き留めるのは難しい。サグルーが生まれたばかりだというのに、大変な事が起こってしまったと先が思いやられた 「父上には知らせたのですか」とサハチは聞いた。 「知らせた。若按司にも知らせろと言われて、ここに来たんじゃよ」 「出陣命令はいつ出ると思います?」 「今は 「戦か‥‥‥大戦となれば今帰仁の城下は焼き払われますね。ミヌキチは大丈夫だろうか」 「すでに、向こうでは戦の準備を始めているかもしれん」 「向こうから攻めて来るという事は考えられませんか」 「それはこちらから攻めるよりも難しいな。浦添に行くまでにグスクがありすぎる。それらと一々戦っていたら、浦添に着くまでにやられてしまう」 「船を使う手もありますよ。ミーニシ(北風)が吹き始めましたからね」 「船で浦添の近くに上陸して攻めたとしても、負けた時の退却が問題じゃな。まごまごしていたら全滅の可能性もある」 「そうですね。大軍を遠征させるには 「中山王に痛手を負わせる事が一番じゃ。硫黄が手に入らなくなれば、明国との交易はできなくなる。それに、今までは中山王の許可を取って硫黄を手に入れていたが、硫黄が自由に手に入れば、明国との密貿易にも使える。 「密貿易か‥‥‥」 サハチは 「覚悟をしておけ」と言って、クマヌは帰って行った。 サグルーが眠ったあと、サハチはクマヌから聞いた事をマチルギに話した。 マチルギは驚いて、目を丸くしてサハチを見つめた。 「中山王が今帰仁を攻める‥‥‥勿論、お父さんも出陣するのよね」 「多分。まだ正式に出陣命令は出ていないけど、伊波の父上も出陣する事になるだろう」 「あたしも一緒に行くわ」 サハチはうなづいた。 「止めても行くのはわかっている。サグルーのためにも行かせたくはないが‥‥‥」 マチルギは何も知らずに眠っているサグルーの顔を見た。しばらく見つめていたが、顔を上げるとサハチを見て、「行かなければならないわ」と覚悟を決めたような顔付きで言った。 「行けば死ぬかもしれないぞ」と言おうとしてサハチは口をつぐんだ。何を言っても無駄な事はマチルギの目を見てわかっていた。 「あなたは行かないの?」とマチルギは聞いた。 「それはわからない。親父が決める。俺か親父のどちらかが出陣して、どちらかが留守を守る事になる」 マチルギはサハチにうなづいて、もう一度、サグルーの顔をじっと見つめた。 進貢船が明国に出掛けて行っても、中山王が出陣命令を出す事はなかった。大げさな出陣はやめて、鳥島だけを奪い返す事に変更したのだろうか。そうなってくれればいいと願いながら、何も起こらずにその年は暮れた。 年が明けて、サハチは二十歳、マチルギは十九歳、長男のサグルーは二歳になった。 正月の儀式や挨拶も無事に終わって、五日から東曲輪の庭で娘たちの剣術の稽古が始まった。馬天ヌルも佐敷ヌルも侍女たちも真剣な顔をして稽古に励んでいた。今年も新人が加わって四十人はいそうだった。 今帰仁への出陣の事など忘れかけていた二月の半ば、中山王の 山北王 使者が帰ると、佐敷按司は重臣たちを集めて 「佐敷と浦添は何の関係もないが、伊波按司と婚姻関係を結んだからには伊波按司のためにも、今回は出陣に応じなければならない」と佐敷按司は重臣たちに言った。 重臣たちは厳しい顔つきでうなづいた。 五十人というのは妥当な人数だった。佐敷の兵力は百人で、五十人が出陣しても、残りの兵でグスクを守る事ができる。中山王も各按司の反発を恐れて無理強いはしなかったようだ。 佐敷按司は人選と兵糧の確保を重臣たちに頼んだ。大将をどちらにするかは少し考えさせてくれと言った。 軍評定が終わるとサハチは東曲輪に帰って、マチルギに出陣の事を話した。 「とうとう来たのね」とマチルギは顔を引き締めて言った。 「今回の戦の主役は浦添だ。戦に参加したとしても直接、今帰仁を攻める事はできないかもしれない。それでも行くのか」 マチルギはサハチを見つめてうなづいた。 「直接、手を下せなくても、 「そうか‥‥‥まだ、俺が行くのか、親父が行くのか、決まっていないんだ。どちらにしても出陣したら生きて戻れないかもしれない」 「中山王が負けるっていうの?」 「負けはしないだろうが、今帰仁だって必死だ。簡単には倒せないだろう。こちらが行くのを サハチもそうだが、マチルギも戦の経験はなかった。サハチから戦死するかもしれないと言われて、マチルギは初めて死ぬという事を考えていた。死んだらサグルーに会えなくなる。サハチにも会えないし、死にたくはなかった。急に出陣するのが恐ろしくなって来たが、弱気になっている自分を振り払って、あたしは決して死なない。見事に敵を討ってみせると自分に言い聞かせた。 出陣命令が来てからマチルギはなお一層、武術の修行に励んだ。サハチも出陣する事を前提に、マチルギに負けるものかと修行に励んだ。 三月の半ば、サハチは父親に呼ばれた。 「今回の戦じゃが、お前には留守を守ってもらう事にする」と父は言った。 サハチは父の顔を見つめてうなづいた。そんな予感はしていた。 「お前に戦の経験をさせてやろうとも思ったんじゃが、今回の戦は浦添と今帰仁の戦じゃ。わしらのような小さな按司には、活躍する場もないじゃろう。流れ矢にでも当たって戦死でもしたら、犬死にと同じじゃ。先の事を考えて、お前には残ってもらう事にした。ただ、留守を守るのも決して楽ではないぞ。クマヌが調べた所によると、玉グスク、 「わかりました。クマヌは出陣しますか」 「出陣する。ヒューガは残る。ヒューガと相談してグスクを守れ」 サハチは力強くうなづき、「マチルギを連れて行って下さい」と頼んだ。 「やはり、行く気か」 「俺にも止める事はできません」 「そうか、わかった」 サハチは東曲輪に帰った。 庭では娘たちの稽古が始まっていた。 稽古が終わって着替えて来たマチルギに、「俺は留守を守る事になったよ」と告げるとマチルギはうなづいて、「あたしも残るわ」と言った。 「えっ?」とサハチは驚いて、マチルギを見た。 「行かないのか」 マチルギはうなづいた。 「馬天ヌルの叔母さんから、残りなさいって言われたの」 「叔母さんからそう言われたからといって、自分の考えを変えるとは思えないが」 「何度も神様から、残りなさいって言われていたのよ。でも、 「本当にそれでいいのか」 マチルギはサハチをじっと見つめてうなづいた。 「あなたを守るのが第一だもの。あなたのそばにいなくちゃね」 「そうか、残ってくれるか。ありがとう」 サハチはホッとしていた。 マチルギの考えを変えてくれた馬天ヌルとマチルギの神様に、サハチは感謝した。 |
佐敷グスク