赤松一族
次の日の夕暮れ近く、丹波の国(京都府中部と兵庫県中東部)と播磨の国(兵庫県南西部)の国境を西に向かって、急ぎ足で歩いている阿修羅坊の姿があった。 国境を越えると、まもなく、右手に 清水寺は法道仙人の開基と伝える天台宗の大寺院で、 阿修羅坊は清水寺の山伏ではなかった。 播磨の国には山岳寺院が数多くあり、東播地方では、御嶽山清水寺をはじめ、 阿修羅坊は西播地方にある瑠璃寺の 瑠璃寺は赤松氏発祥の地、赤松村の北方にあり、古くより赤松氏と行動を共にして来た山岳寺院だった。瑠璃寺のある船越山は、さらに北にある 後山は播磨の国と 瑠璃寺はその後山と密接なつながりを持ち、また、本家の大峯山とも深くつながり、数多くの末寺を持ち、その勢力は西播地方一帯に及んでいた。また、 阿修羅坊は船越山のふもとの村で瑠璃寺の山伏の子として生まれ、父親と同じく山伏となり、赤松氏のために活躍している山伏の中でも、中心的な存在として赤松氏の重臣たちに信頼されていた。 夕べとは打って変わって無精髭を剃り、破れ笠の代わりに 大鳥居をくぐり門前町を出て、しばらく山道を進むと、左側に小川に沿って細い脇道が続いている。阿修羅坊はその脇道に入って行った。 小川では子供たちが雪合戦をして遊んでいた。 阿修羅坊は子供たちを横目で見ながら、小川に沿って歩いて行った。 夕べの雪が、まだ、あちらこちらに残っている枯野の中に一軒の家が建っている。阿修羅坊の足はその家に向かっていた。 その家の前の小川で洗い物をしていた野良着姿の女が阿修羅坊に気づいて手を止め、しばらく、阿修羅坊を見つめていたが、やがて、「平太さん?」と言った。 阿修羅坊は女を見ると軽く笑い、「親父はおるか」と聞いた。 「はい、おりますとも」女は嬉しそうに頷いた。「あら、珍しい、ほんと。ちょっと、待ってて下さいな。呼んで参りますわ」 「いい」と言おうとしたが、女は素早く家に入って行った。 阿修羅坊は苦笑しながら、女の後を追った。 阿修羅坊の親父は土間に座り込んで、 「おう。よう来たの。まあ、ゆっくりして行け」 「そうもしておられんのじゃ」と阿修羅坊は相変わらず元気そうな親父の姿を見て、久し振りに帰って来た我家も悪くないものだと思った。 「そうか。まあ、今晩は泊まって行けや。もう、暗くなる。お甲、酒の支度じゃ。ほれ、この間、貰った奴があるじゃろう」 「はい、はい」とお甲と呼ばれた女は外に出て行った。 勿論、この女は阿修羅坊の母親ではない。年の頃も阿修羅坊と同じ位の四十前後だった。母親は二十年も前に亡くなっていて、いない。父親が後添いに貰った女である。五十の父親が三十も年下の娘だったお甲を貰ったのだが、あれから、もう二十年も経っている。今では、どう見ても似合いの夫婦だった。 「ちょっと、待ってろや。もうすぐ、終わる」 父親は今でも瑠璃寺の山伏なのに、三十年近く前、こちらに移って来てからというもの、ここに落ち着き、山伏としての活動は一切やめてしまっていた。今では、『龍月丸』という堕胎に効くという怪しい薬を作って売っていた。効くのか効かないのか知らないが、これが良く売れると言う。清水寺の山伏を五人ばかり使って、東は関東の地から、西は九州まで売りさばいている。 酒の支度ができると阿修羅坊と父親、そして、お甲の三人は囲炉裏を囲んでいた。 「おっ、うまいのう、この酒は」と阿修羅坊は一口飲むと満足そうに頷いた。 「こいつは特別やからのう」と父親は自慢げに言う。「西宮の 「ほう。西宮の旨酒か」阿修羅坊は、もう一口飲んだ。「うまい。話には聞いていたが飲んだのは初めてじゃ。やはり、うまいのう」 父親は頷くと、息子の顔を見ながら嬉しそうに酒を口に運んだ。 「今、どこにおるんじゃ」と父親は聞いた。 「今か、今は京にいる事が多いかのう」 「都か、都も戦で大変じゃと聞いておるが、どうじゃ」 「悲惨なもんじゃ」と阿修羅坊は首を横に振った。「すでに、あれは都じゃないのう」 「そうか、そんなにひどいのか‥‥‥」 阿修羅坊は頷き、酒を飲むと、「親父、ちょっと聞きたい事があるんじゃ」と本題に入った。 「何じゃ、言ってみい。わしの知ってる事なら何でも教えたるで」 「昔の事じゃ。親父、 「行ったとも。それが、どうかしたんか」 「わしに、その時の事を詳しく話してくれんか」 「話してやってもええが、そんな事を聞いて、どうすんじゃ」 「 「美作守‥‥‥あの、浦上殿の伜かの」 「ああ、そうじゃ」 「ふーむ。成程のう‥‥‥あいつめ、若殿を守り立てて、うまくやってるそうじゃのう」 「らしいな‥‥‥」 父親はお甲の酌する酒を飲みながら、ポツリポツリと昔話を始めた。 「嘉吉の変か‥‥‥そうさのう、もう三十年も前になるかのう。まだ、お前が洟垂れ小僧だったよのう‥‥」 嘉吉の変とは嘉吉元年(一四四一年)の六月、京の赤松邸において、六代将軍足利 赤松家は西播磨の 幕府の重臣の事を一口に『 円心から数えて四代目の左京大夫義則の時、本拠地播磨に加え、美作、備前、及び摂津の一部と領国を広げ、赤松家は全盛期を迎えた。 ところが、五代目の性具の時、栄光にあった赤松家に暗雲が立ち込めて来た。三代将軍義満とはうまくいっていた性具も、四代将軍義持とは、なぜかウマが合わず、また、赤松家の中でも、惣領家と共に庶子家も幕府内に力を持ち始め、惣領家と対抗するようになって来ていた。 将軍義持の時、性具は本拠地播磨の守護職を取り上げられそうになった事があった。性具に落ち度があったわけではなく、将軍が庶子家の赤松越後守持貞を可愛がり、越後守に赤松家の家督を継がせようとしたためだった。その時は、越後守の不義が露見して越後守が自害したので事無きに済んだが、六代将軍義教の時、またもや、所領を奪われそうな危機が訪れようとしていた。 初めの頃、性具は将軍義教とうまくいっていた。ところが、『恐怖将軍』恐れられた義教は、三管四職の内の斯波、畠山、山名、京極氏らの家督相続に干渉して勢力を削減し、一色氏においては出陣中に謀殺してしまった。その他にも、自分の意にそわないと、公家であろうが、僧侶であろうが、女房、町人に至るまで容赦しなかった。機嫌のいい時の義教は慈悲深く寛容であるが、機嫌が悪い時はちょっとした事でも怒り、恐ろしい存在となった。些細な事で所領を没収されたり、島流しにされたり、殺されたりした者たちが、公家から町人に至るまで数え切れない程もいた。人々は義教の冷酷さを恐れ、『 永享九年(一四三七年)には、性具の領国、播磨と美作が没収になるという噂が流れ、翌十年には、性具の被官四氏が将軍の命で処罰され、十二年には、性具の弟、 やがて、性具は狂乱を装い、幕府への出仕を取りやめた。 潰されるのを待つよりは、将軍を暗殺してしまおうと思い詰める程、性具は追い詰められていた。前将軍の時にも所領を没収させられそうになったが、何とか、無事に乗り越える事ができた。しかし、今回の場合は違った。相手は冷酷無比で執念深く、狂人とも言える将軍義教だった。一度睨まれたら助かる見込みはまったくない。やられるのを待つより、やるしかなかった。誰もが恐れ、憎んでいる将軍だ。同情こそすれ、悪く思う奴はいないだろう‥‥‥ 性具は嫡子彦次郎教康と共に、将軍暗殺の決行を決めた。 嘉吉元年(一四四一年)四月、将軍義教は関東の不満分子、鎌倉公方足利持氏の遺子二人と下総の結城氏を退治して、意気揚々と京に凱旋して来た。京の町は勝利に酔い、将軍はあちこちから戦勝祝賀の宴に招待され、浮かれて出掛けて行った。 赤松家でも六月二十四日、将軍を祝宴に招待した。 供に連れて来たのは公家の三条 迎える赤松邸の方は、性具が謹慎中なので嫡男の彦次郎教康を主役とし、補佐役として性具の弟、左馬助則繁が当たっていた。 将軍義教は赤松邸の歓待に上機嫌で、観世座の能に見入っていた。 舞台では観世大夫元重(後の音阿弥)が、三番目の『 外は薄暗くなり、雨がポツリポツリ降り始めて来ていた。 突然、どこかで騒がしい物音がした。そして、何頭もの馬が、急に客たちのいる庭に飛び込んで来た。 それから間もなくだった。白刃を振りかざした数人の鎧武者がどこからともなく現れ、客や酌に出ていた女たちが馬に気を取られて騒いでいる隙に、将軍義教を討ち取ってしまった。 将軍が目の前で殺されるのを、信じられない事のように見ていた供の者たちは、魂が抜けたように立ちすくみ、逃げる事も立ち向かう事も忘れていた。 ようやく我に帰って、ほとんどの者たちが慌てて逃げ出した。立ち向かって行った山名中務大輔と京極加賀守は討ち死にし、大内修理大夫は重傷を負い、この時の傷が元で一ケ月後に亡くなってしまう。将軍暗殺には成功したが、同族ながら、赤松家の家督を狙っている赤松伊豆守を取り逃がしてしまったのは口惜しい事だった。 騒ぎが治まると、改めて武装をして屋敷に火を放ち、将軍の首級を奉じて赤松一族は京の都を後にした。重臣、浦上四郎宗安が先陣を務め、総勢七百騎が足並み揃えて堂々と京を去って行った。 将軍が殺されたというのに、追って来る者は誰一人としておらず、赤松一族は悠々と領国播磨へと向かって行った。 播磨に帰ると坂本城(姫路市)を本拠地とし、主だった家臣八十八人、総勢二千九百余騎は幕府の追討軍を迎える準備を始めた。しかし、追討軍はなかなか、やって来なかった。 その頃、幕府側は何をしていたのか‥‥‥ 将軍が赤松氏に殺されたという噂はすぐに京中に広まったが、諸大名はいずれも、どういう態度を取ったらいいものか迷っていた。 将軍暗殺という大それた事が、赤松氏だけの一存で行なわれたものとは信じられず、赤松氏と同盟している大名がいるに違いない。もしかしたら、管領の細川右京大夫持之は、以前から赤松性具入道と仲が良かったので、管領が承知の上での赤松氏の行動なのかもしれない。もし、そうだとすると迂闊に動くわけにはいかない‥‥‥誰もがそう思い、自門を固め、回りの動きを窺っていた。 現場にいた管領細川持之は無事に赤松邸から逃げ出すと、まず、天皇に変事を奏上し、義教の子、千也茶丸を伊勢伊勢守貞国邸から室町御所に移し、七代将軍義勝とした。そして、七月六日に等持院において義教の葬儀を行ない、七月十一日になって、ようやく追討軍の先発隊を京から出発させた。 先発隊は阿波の国(徳島県)の守護、細川讃岐守持常を総大将として、細川一族、そして、赤松庶子家の赤松伊豆守貞村、赤松播磨守満具、有馬兵部少輔持家らで編成され、一万三千の兵を引き連れていた。 一方、赤松氏の方は幕府軍に備え、大手の須磨、明石方面に嫡男彦次郎教康を大将として、性具の弟の 搦手の但馬口には弟の伊予守義雅を大将として、同じく弟の龍門寺真操、上原、佐用、宇野、富田らの諸将一千騎を生野峠の手前の田原に陣取らせた。 丹波の国より播磨の国に入る三草口には宇野能登守に将兵五百騎、 そして、幕府軍と対抗するために、旗頭として南朝の皇子を迎えようとして、うまく行かなかったが、代わりに、足利直冬(尊氏の子で、弟の直義の養子)の孫、冬氏を将軍として迎えた。冬氏は義尊と名を改め、『井原御所』と呼ばれた。 合戦の火ぶたは赤松側から開かれた。 七月二十五日、兵庫に陣する有馬兵部少輔持家を、彦次郎教康軍の浦上、櫛橋、依藤、中村ら七百五十騎が海陸両の手から夜襲をかけた。しかし、この作戦は同士討ちとなり、犠牲者を数多く出し、失敗に終わった。 その後は睨み合いが続き、八月十九日になって、幕府軍の細川淡路守持親率いる軍船が赤松軍の前営、塩屋の関を襲った。赤松軍は敗れ、狭い須磨の道で止められていた幕府軍は明石まで進軍し、人丸塚に陣を敷いた。 二十四日、和坂に陣する彦次郎教康は諸将を引き連れ、人丸塚を総攻撃し、幕府軍を須磨浦まで追い返した。この合戦では赤松軍が勝ったが、性具の弟、兵部少輔祐之が戦死してしまった。 翌二十五日は午後から大風が吹き出し、悪天候の中、細川軍の反撃が始まり、両軍共に戦死者を数多く出した。この日、弟の兵庫助則之が戦死した。 二十六日、大暴風雨の中、戦っている彦次郎教康のもとに、但馬口の味方が大敗して、山名の軍勢が一挙に播磨に侵入して来るとの情報が入り、無念だったが坂本城まで撤退する事にした。しかし、その途中、加古川の増水氾濫によって、川舟や 一方、搦手の山名軍は四千五百騎をもって、二十八日、生野峠を越え、龍門寺真操軍を攻撃、赤松軍は敗れて粟賀まで撤退した。 その後、二十九、三十日と搦手軍は伊予守義雅を大将として全軍をもって、山名軍を相手に必死に防戦したが敵わず、無残な敗北となり、夕闇に紛れて坂本城を目指して逃走した。 九月一日、敗戦の将兵たちが東は明石から、北は田原口から、続々と坂本城に集まって来た。この日、龍門寺真操は敗戦の責任を取って自害した。 二日になると赤松軍は坂本城を捨て、 翌三日、坂本城は落城し、多くの国人らが降参した。 戸倉口の彦五郎則尚、美作の国の左馬助則繁、備前の国の小寺伊賀守も、すべて敗退し、皆、城山城に集まって来た。 対する山名軍は因幡、 九月九日の早暁より、山名軍の総攻撃が始まった。 五百余騎に減ってしまった赤松軍は必死に防いだが、どうする事もできず、すでに、落城は時間の問題となって行った。 この夜、性具の弟、伊予守義雅と甥の彦五郎則尚が、ひそかに城山城を脱出をした。これを知った城兵の士気は阻喪し、脱走者が相次いだ。 次の日も早朝より山名軍の総攻撃が始まり、夕方には本丸も危なくなって来た。 性具は嫡子彦次郎教康と弟の左馬助則繁に逃げるように命じ、二人は手薄だった赤松播磨守満具の守っている西南の方より無事、脱出した。彦次郎教康は室津に向かい、左馬助則繁は備前に向かった。他にも、何人かの重臣たちを逃がし、いつの日か、赤松家の再興される事を願い、赤松性具入道は将軍義教の首を斬り落とした安積監物行秀に介錯を命じ、一族六十九人と共に自害して果てた。 安積監物は一族の自害を見届けると、城に火を放ち、赤松一族、最期の華を飾った。 「‥‥‥まあ、こんな所じゃな。これが、嘉吉の変の全貌じゃ」と父親は話し終わると酒を一口飲んで、口を歪めた。 阿修羅坊は酒をすすりながら父親の話を黙って聞いていた。 「もう昔の事じゃ。無事に赤松家も再興されたしのう。あの時の事を思うと、まるで、嘘のようじゃ。何せ、公方様を殺っちまったんじゃからのう」 囲炉裏の火を見つめていた阿修羅坊は顔を上げると、「親父はその時、どこにいたんじゃ」と聞いた。 「わしか、わしは城山城が落城した時は山名軍の後ろにいて、後方を撹乱しておったわい。わしらは伊予守殿の軍と一緒に但馬口を守っておったんじゃ。龍門寺殿について前線まで行き、わしら山伏たちは 坂本が落城したんなら城山城で戦ってるに違いないと、わしらは城山城に向かった。城山城の回りは敵の軍勢で埋まっておった。そりゃもう、もの凄い軍勢だったのう。わしらはあの光景を見た時、もう駄目じゃと、はっきりわかった‥‥‥しかしのう、城の中で必死になって戦っておるお屋形様の事を思うと逃げるわけには行かんかった。わしらは山名軍の後ろから、夜になると討って出て、山名軍を混乱させておったんじゃ。なにしろ、あの大軍じゃ。わしらが小細工などしたからといって、どうなるもんでもねえわ。それでも、わしらは憎き山名弾正(持豊)の首でも取ってやろうと踏ん張っておった。じゃがのう、結局はお屋形様は自害、城は火を吹いて焼けてしまったんじゃ。城が燃えるのを遠くで見ていたわしらは、もう、すべてが終わったと思った‥‥‥あの時の気持ちといったら、悔しいやら、空しいやら、腹が立つやら、体のど真ん中にポッカリとでかい穴が空いてしまったようじゃったわい‥‥‥」 父親は苦笑しながら伜に酌をしてやった。 阿修羅坊の父親は城山城が落城して赤松家が滅ぶと、瑠璃寺には戻らず、山名氏の赤松残党狩りから逃れるため、あちこちを転々としながら隠れていた。ようやく、山名氏の力の及ばない播磨の東のはずれ、清水寺まで来て落ち着いた。 当時、十二歳だった阿修羅坊は父親と母親と共に、ここに移り住んだ。 十四歳になると阿修羅坊は清水寺の山伏となり、武術の修行を始めた。 十五歳の時、赤松播磨守満具が山名氏に対して反乱を起こし、阿修羅坊は赤松氏のために初めて戦に出た。戦は負け戦だったが、その時、知り合った瑠璃寺の山伏と一緒に瑠璃寺に行き、瑠璃寺で修行を積んだ。 二十六歳の時には、生き残っていた性具入道の甥、彦五郎則尚の挙兵に参加した。 そして、赤松氏が再興されてからは、播磨国中を歩き回り、赤松氏の旧臣を集めたり、戦の先陣に立って、敵をなぎ倒したり、赤松氏のために色々と活躍していた。 「親父、嘉吉の変の事は大体、わかったが、今のお屋形様はどうやって助かったんじゃ」阿修羅坊は酒を一口飲むと聞いた。 「おう、そいつはのう、今のお屋形様の爺様というのが伊予守義雅殿じゃ。伊予守殿には子供が二人おってのう。弟君の千松丸殿は当時、京にいて、すでに母君と一緒に逃げていたんじゃが、兄君の若松丸殿は伊予守殿とこっちにおってのう。伊予守殿は城山城を脱出すると、同族ながら敵に回った播磨守殿(満具)の陣に降参したんじゃ。伊予守殿は若松丸殿を助けるために降参したんじゃよ。それが今のお屋形様のお父上じゃ。若松丸殿を播磨守殿に預けると、伊予守殿はその場で自害して果てた‥‥‥若松丸殿は 「やはり、お屋形様の親父殿は吉野に行っていたのか‥‥‥」 「ああ、そうじゃ。あの頃、若松丸殿は赤松姓を名乗らず、奥方の姓、中村を名乗っておったがの、若松丸殿は吉野に潜入して南朝方の郷民に斬られたんじゃ。かなり、傷は深かったらしいが、執念で生きながらえてのう。赤松家が再興され、自分の息子に家督が許されるのを見届けてから死んで行ったんじゃよ」 「そうじゃったのか‥‥‥という事は、今のお屋形様は性具入道殿(赤松満祐)の弟の伊予守殿の孫というわけじゃな」 「そういう事になるのう」 「それで、弟君の方はどうなったんじゃ」 「千松丸殿はのう、やはり、母君と一緒に近江に隠れておったんじゃがの、縁があって、母君は佐々木家の家臣の小倉殿とかいう武将と一緒になったんじゃ。母君もまだ若かったし、佐々木殿にすがり、子供を助けるために仕方なかったんじゃろうのう。元々、近江の佐々木家と赤松家は古くから縁があっての、同じ源氏じゃし、伊予守殿の婆様は佐々木道誉殿の娘だったんじゃよ。それで、千松丸殿も母君と一緒に、その小倉殿という武将の所に行ったんじゃが、どうも、うまくいかなかったらしいのう。そこで、千松丸殿は佐々木家の菩提寺の何と言ったかのう、天狗で有名な寺じゃよ」 「天狗で有名な寺?‥‥‥近江で天狗といえば、赤神山の 「おお、そうそう。その定願寺に千松丸殿は入ったんじゃよ。 「成程、あの偉そうな和尚はお屋形様の叔父上じゃったのか」 「会った事あるのか」 「いや、ちょっと見ただけじゃ。ついでに聞くが、性具入道殿の嫡男、彦次郎殿(教康)はどうなされたのじゃ」 「お前、そんな事も知らんのか。それで、よく、赤松家のために働けるのう」 「いや、ある程度は知っておる。知っておるが、よくわからんのじゃ。お偉方は都合の悪い事は何でも隠したがるからのう」 「殺されたわい。彦次郎殿は城山城の落城の後、伊勢の北畠殿を頼って行ったんじゃ。彦次郎殿の奥方は北畠氏じゃったし、北畠殿はうちのお屋形様(性具)には随分と世話になっておったからのう。北畠殿は一旦は匿ったらしいが、やはり、幕府を恐れて殺してしまったんじゃよ‥‥‥」 「やはり、伊勢で殺されたのか‥‥‥成程のう、これで、ようやく、本当の所がわかったわ」阿修羅坊は満足そうに独りで頷いた。「いい加減な噂ばかり流れてのう、本当の所が少しも見えんかったが、成程、そういう訳じゃったんか‥‥‥それにしても、親父は良く知ってるのう」 「これでも瑠璃寺の先達じゃよ。わしも陰ながら赤松家のために働いていたんじゃ。赤松家が再興されてからは、もう、お前に任せて、わしは隠退したがの」 「それじゃあ、親父はこっちに来てからも、赤松家のために働いておったのか」 「そうじゃよ」 「知らなかった‥‥‥こっちに来た途端に隠退したのかと思ってたわ」 「ふん。隠退した振りをしてたんじゃよ」 城山城が落城して赤松家は滅んだ。 赤松家の所領のほとんどは山名氏のものとなった。山名氏は播磨の国に入り、国人たちをまとめ、抵抗する者たちは容赦なく潰し、隠れ潜んでいる赤松の一族や余党を捜し出しては片っ端から殺して行った。 本家嫡流の赤松家が滅んだとしても、二百年近く、赤松氏が支配していた播磨の地には、赤松一族が国中に広がり、各地で勢力を持っていた。 新しく播磨の国の守護職となったのは山名持豊(宗全)だったが、彼の実力を以てしても、播磨の国を思うように支配する事はなかなか難しい事だった。それに、赤松性具の甥の彦五郎則尚はまだ生きていた。赤松家の遺臣たちは彦五郎を当主として、いつの日か、赤松家の再興される事を願いながら、ある者は一時的に山名氏に下り、ある者は山奥に隠れて耐え忍んでいた。 まず、同族ながら、嘉吉の変の時、敵方に回った赤松播磨守政具が山名氏に対して挙兵した。本家が潰れれば、自分が赤松家の総領を継ぐ事ができるだろうと甘い夢を見て、真っ先に坂本城攻撃に加わった播磨守だったが、現実は、そううまい具合には行かなかった。 赤松家の所領のほとんどは山名氏に持っていかれ、播磨守は播磨の国の東三郡だけを拝領した。しかし、その東三郡も三年後には召し上げられ、山名氏のものとなってしまった。 播磨守は実力を持って山名氏から播磨を取り戻そうと挙兵に出たが、従う者も少なく、失敗に終わり、播磨守は親子共々、自害して果てた。 城山城落城から七年後の文安五年(一四四八年)には、性具の弟の左馬介則繁が挙兵するが、やはり敗れ、河内の国(大阪府南東部)まで逃げ、敵に囲まれて自害した。 十三年後の享徳三年(一四五四年)の十一月、早くも、甥の彦五郎則尚が八代将軍義政(七代将軍義勝の弟)から さっそく、播磨に下向した彦五郎則尚は遺臣たちを集め、西播磨において挙兵したが、山名軍の大軍の前にあっけなく敗れ、翌年の五月、備前まで逃げた末に自害して果てた。 ここにおいて、赤松家は完全に滅んだものと思われた。しかし、まだ、伊予守義雅の遺児二人が生き残っていた。兄、若松丸は 彦五郎則尚が亡くなった次の年、南朝に奪われたままになっている三種の 赤松の遺臣たちは彦三郎義祐を家督として赤松家を再興するため、南朝の本拠地、吉野の山奥に潜入した。 二年後、神璽は無事、取り戻す事はできたが犠牲者も多かった。家督となるはずの彦三郎も重傷を負い、立ち上がる事もできない有り様だった。それでも、幸い、彦三郎には男の子が生まれていた。 赤松氏初代の円心の幼名にちなみ次郎法師丸と名付けられたその子は、当時まだ四歳だったが赤松家の当主となり、十七年振りに赤松家は再興された。しかし、すぐに旧領を手にする事ができたわけではなく、やがて、応仁の乱となり、ようやく、正式に播磨、備前、美作の守護職に戻る事ができ、侍所の頭人にも就く事ができた。そして、今、元服して赤松兵部少輔政則と名を改めた次郎法師丸は、領国から山名氏を追い出すために戦っていた。 「ところで、今のお屋形様のお父上は近江のどこに隠れておられたんじゃ」と阿修羅坊は父親に聞いた。 「確かのう。近江の浅井郷のどこやらじゃったのう‥‥‥」 「須賀谷じゃ」 「そうじゃ、須賀谷じゃ。何じゃ、知っておるなら聞くな。確か、須賀谷の近くに鶏足寺があったぞ」 「鶏足寺?」 「おう、山伏の寺じゃ。瑠璃寺と同じ天台宗じゃ。そこの山伏に聞けば詳しい事がわかるじゃろう」 「鶏足寺じゃな」と阿修羅坊は頷いた。 「何じゃ。お前、行くつもりか」 「ああ。とりあえずはな」 「一体、どんな仕事を頼まれたんじゃ」 「宝捜しよ」と阿修羅坊は笑った。 「宝捜し?」 「仕事が終わったら、親父殿にもお宝を拝ませてやる。楽しみに待っていな」 「ふん、何が宝捜しじゃ。くだらん嘘をつくな」 阿修羅坊は酒を飲み干すと、大声を出して笑った。 親父殿も伜の顔を見ながら笑っていた。 二人を見比べながら、お甲も嬉しそうに笑っていた。
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御嶽山清水寺