第一部
5.ああ紅の血は燃ゆる
十一月二十四日、米軍の爆撃機B29によって初めて東京が空襲された。続いて二十七日、二十九日の深夜とB29が東京上空を飛び回って 沖縄でも十・十空襲後、疎開者は急増していた。 十一月の下旬から十二月の初めに掛けて、首里を中心に 軽便鉄道は那覇を起点に北は嘉手納、東は 嘉手納線は松尾山の北を走っていて、若狭町に移った学校の行き帰りに、千恵子たちも軍用列車を何度も見ていた。ゆっくり走っているので兵隊の顔がよく見え、皆、陽気に手を振ってくる。千恵子たちもキャーキャー騒ぎながら手を振って見送っていた。 「ほら見て、あたしたちに乗れって言ってるわよ」と澄江がはしゃいだ。 「簡単に乗れそうね」と佳代が手を振りながら言って、「どこまで行くのかしら」と聞いた。 「 「東風平っていえば文代んちの方よ」と佳代が言った。 「分隊長のおうちもそっちじゃないの」と小枝子も言う。 「そうよ。分隊長のおうちはもっと先の 「ほんとね。あたしたちにはとても無理だわ」 千恵子と小枝子が感心していると、 「信代なんてもっと凄いのよ。嘉手納から歩いて来るんだから。学校まで五里(約二十キロ)以上あるんじゃないの」と晴美が言う。 「往復したら十里じゃない。すごーい。とても真似なんてできないわ」 「それだけ誇りを持ってるのよ、この校章に」と佳代は胸に付けているバッジを示した。 二高女の校章は白梅をデザインしたものだった。沖縄本島には高等女学校は七校しかなく、義務教育ではないので、誰もが行けるという訳ではなかった。北部の名護に三高女があって、師範学校女子部、一高女、二高女、首里高女、昭和高女、 「そうよね。分隊長も信代もきっと村の代表なのよ。みんなの期待を一身に背負ってるんだわ」 「あたしたちももっと自覚を持たなくちゃあね」 列車が通り過ぎると晴美が校歌を歌い出した。 ♪日 みんなで合唱しながら小枝子の家へと向かった。期末試験を終えて、千恵子たちはホッとしていた。小枝子の家にオルガンがあるので、みんなで思い切り歌おうと試験が終わるとすぐに学校を後にしたのだった。千恵子、晴美、澄江、佳代といつもの仲間に、ダンスが得意な初江が加わっていた。 初江は千恵子と澄江の幼なじみだった。空襲で家を焼かれて 二高女のあった松尾山を見上げると防衛隊の人たちが焼け残った松の木を切っていた。陣地構築のために古くからの松並木が片っ端から切られていた。戦争に勝つためには仕方ないとはいえ、子供の頃から見慣れている山から松の木がなくなってしまうのは悲しい事だった。 小枝子の家は二中の近くにあった。二中はすっかり焼けてしまったのに、小枝子の家は奇跡的に無事だった。つい最近まで、家を失った親戚の人たちが同居していて賑やかだったが、本土に疎開して行ったという。 小枝子に促されて、澄江がオルガンの前に座った。澄江はオルガンの名手だった。自宅にあったオルガンは家と共に燃えてしまった。久し振りにオルガンを前にして、乗り越えたつもりの悲しみがよみがえって来た。澄江が呆然としていると、 「澄江の得意なモーツァルトを聞かせてよ」と千恵子が言った。「ケッヘル何番だっけ。あのトルコ行進曲よ」 澄江はうなづくと、『トルコ行進曲』を弾き始めた。皆はうっとりしながら聞いていた。 聞き慣れた『トルコ行進曲』が、千恵子にはなぜか悲しい曲のように感じられた。思い出すまいとしていた、あの日の情景‥‥‥首里から見ていたあの恐ろしい那覇の空襲がよみがえって来た。敵機の群れに絶え間ない爆発音、空を覆う真っ黒な煙、火の海となってしまった那覇の街、千恵子はそれらを必死に振り払い、空襲前の楽しかった事を思い出そうと努めた。すると、音楽室の情景が浮かんで来た。澄江がピアノを弾いていて、みんなでピアノを囲んで楽しそうに歌を歌っている。あの頃、こんな事になるなんて誰が想像しただろうか。楽しかった日々を思い出したら余計に悲しくなってしまった。 トルコ行進曲はいつの間にか終わっていた。皆、しんみりとして黙り込んでいた。誰の目にも涙が潤んでいた。 「次の曲、やってよ」と晴美が陽気に言った。「何だか悲しくなっちゃった」と言いながら目頭をこすった。 澄江はうなづくと涙を拭いて、無理に笑顔を作って『愛国行進曲』を弾き始めた。オルガンに合わせて合唱が始まった。次から次へと軍歌を初めとして流行歌の合唱が続いた。初めの頃は遠慮して小声で歌っていたのが、いつの間にか、いやな事なんか、みんな忘れてしまえと言うかのように、皆、思いっきり歌っていた。 歌に合わせて踊っていた初江が、「やだもう。あれ見てよ」と外の方を示した。 歌をやめて外を見ると塀の上に顔がいくつも並んでいて、こっちを見ていた。 「二中の生徒たちだわ」と小枝子が言った。 「どうする。追い払う?」と佳代が今にも外に飛び出しそうな勢いで聞いた。 「いいじゃない。聞かせてあげたら」と小枝子が言う。 「あら、もしかしたら、あの中にサエのお気に入りがいるの」と晴美が小枝子を横目で見ながら指でつついた。 「そうじゃないけど」と小枝子は少し赤くなった。 「まあ、いいか。減るもんじゃないし。あたしたちの美声を聞かせてあげましょ」 澄江はうなづき、『 『ああ紅の血は燃ゆる』はまだ新しい曲で、ラジオで何度か聞いた事はあっても空襲後、ラジオもなくなって、千恵子はよく覚えていなかった。澄江も知らないと首を振ったが、さすが、晴美は知っていた。みんなが教えてと言い出し、晴美は一人で歌った。 ♪花もつぼみの若桜 学徒動員の歌で、これぞ自分たちの歌だった。これは是非とも覚えなくてはならないと、みんなで晴美に合わせて歌った。晴美も一番の歌詞しか知らなくて、何度も一番を繰り返し歌っていると小枝子の幼なじみだという二中の生徒が二番以降の歌詞を紙に書いて教えてくれた。家の中と塀の外での大合唱となり、二中の生徒たちは歌いながら引き上げて行った。 帰る時、誰かが紙飛行機を飛ばした。小枝子がそれを拾うと、「なに、ラブレター」と晴美が冷やかすように聞いた。 「あっ、何か書いてある。きっと、ラブレターよ。いえ、恋文だわ」と初江がキャーキャー騒いだ。 みんなに早く開けてよとせがまれ、小枝子が開けて見ると詩のような文が書いてあった。晴美が素早く奪い取ると声を出して読んだ。 「花もつぼみの女学生、ふくらむ乳房抱きしめて‥‥‥何よ、これ」 「替え歌だわ」と佳代が言った。「そういえば、いつか、一中の人たちが歌ってたの聞いた事ある。この歌だったのね」 「やあね」と言いながらも、初江は晴美から紙を受け取ると続きを読んだ。「君にみさおを捧げるは第二高女の喜びぞ、ああ紅の血は燃ゆる」 「一中の人たちは首里高女の喜びぞって歌ってたわ」 「まったく、男子ったらろくな替え歌を作らないんだから。馬鹿みたい」 「ねえ、替え歌で思い出したけど、 ♪あたしとあなたは 「やだもう、晴美ったら。そんなの誰が歌ってたのよ」 「 あたしもこんなの聞いた事あるわ、あたしもよと替え歌談義に花が咲き、あたしたちも何か替え歌を作りましょうよという事になって、みんなで考えた。 久し振りに楽しい一時を過ごした千恵子たちは帰り道、自分たちで考えた『ああ紅の血は燃ゆる』の替え歌を歌い続けた。 ♪花もつぼみの女学生 翌日、千恵子たちは作業だった。 昼休みにみんなで『ああ紅の血は燃ゆる』の替え歌を歌っていると、担任の金城先生が教頭先生と一緒にやって来た。教頭先生が作業現場に来るのは珍しかった。誰かがまた疎開したのかなと思いながら整列すると、 「残念ながら不幸な事故が起こってしまった」と教頭先生は苦痛に耐えているような顔をして言った。 「疎開船がまたやられたんだわ」と誰かが小声で言った。 「昨日の午後五時半頃、糸満線の そこまで聞いて生徒たちは動揺した。敏美と文代と麻美の三人が今日は来ていなかった。 まさか、分隊長が‥‥‥千恵子は 「 そんな、馬鹿な‥‥‥千恵子は自分の耳を疑った。分隊長が死んでしまったなんて信じたくはなかった。ざわめきの後、あちこちからすすり泣きが聞こえて来た。教頭先生は二人の 千恵子は目をつぶって、昨日の敏美の姿を思い出していた。試験がうまくできなかったと舌を出して笑っていた。千恵子がそんなはずないでしょと言うと、ほんとなのよ、あまりお勉強できなかったからと悔しそうな顔をした。校庭に畑を作る時、 昨日の五時半と言えば、千恵子たちが二中の男子と合唱していた頃だった。あの時、敏美と文代はあの世に行ってしまった。そんな事、信じられるはずがなかった。 教頭先生はこの事は軍事機密に属するので、むやみに他人に話さないようにと言っていたが、千恵子は聞いていなかった。教頭先生が去って行くと、皆、うなだれてしまった。突然、二人の級友を失ったショックは大きく、どうしたらいいのかわからなかった。午後の作業はまるでお通夜のように皆、黙り込んで、泣きながら体を動かしていた。 作業が終わった後、トヨ子が、「バレーボールなんかしなければよかった」と目に涙を溜めながら言った。 千恵子たちはさっさと帰ってしまったので知らなかったが、敏美たちは文代が家から持って来たバレーボールで遊んでいたという。学校が焼けてからスポーツなんてやっていなかったので、十数人が残って、工場の空き地で楽しくバレーボールをやっていたらしい。 「あの三人は家が遠いから、もう帰ろうって言ったんだけど、まだ大丈夫よって、あたしたちが引き留めちゃったのよ。もう少し早く帰っていればあんな事に‥‥‥」 「仕方ないわよ、そんな事言ったって。先の事なんて誰にもわからないんだから」 「だって‥‥‥」 トヨ子は泣き出してしまった。一緒にバレーボールをやっていた者たちも泣き出した。こんな時、敏美がいれば、みんなを励まし、クラスを一つにまとめてくれるのに、その敏美はもういない。メソメソしながら、トボトボと家路へ向かった。いつも元気な晴美もしんみりとして歌を歌う元気はなかった。 翌日、授業も作業も中止になり、四年生は 帰りには陸軍病院になっている 麻美の他にも大 「あら、チーちゃんじゃない」といつもの笑顔を見せて廊下に出て来た。 「この間はどうも」と千恵子は留守に乾パンを置いて行ってくれたお礼を言った。 「なに、そんな事はいいのよ。元気そうじゃない」 浩子おばさんは白衣ではなくモンペ姿だったが、看護婦としての威厳が漂っていた。 「ええ、でも‥‥‥」 「ああ、あなたの同級生もいたのよね。可哀想に‥‥‥ああ、そうだ。ナッちゃんもいるのよ、会った? 外科じゃなくて伝染病科の方よ」そう言って、浩子おばさんは中庭を挟んだ向こう側の校舎を指さした。一目でもいいから姉に会いたいと思ったが、姉の姿は見えなかった。 「今日は学校のみんなと一緒だから、もう行かなくっちゃ。また、来ます」 「そう。お父さんによろしくね」 浩子おばさんは笑うと病室に戻って行った。浩子おばさんの仕事振りをもう一度見てから、千恵子は慌てて友達の後を追った。姉とは会えなかったけど、苦しんでいる重傷患者を必死に看護している浩子おばさんを見て、看護婦になろうと決心を新たにした。
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