火乱坊
霧が立ち込め、しとしとと雨が降っている。 恨めしそうに、空を睨んでいる山伏がいた。 空を睨んでいるといっても、霧が深くて空など見えない。ただ、上の方を睨んでいるだけだった。 太郎の師匠、風眼坊舜香だった。 風眼坊は今、大和の国大峯山、 二年近くも熊野の山の中の小さな村で、家族と一緒にのんびりと暮らしていた風眼坊は、去年の正月、息子の光一郎を飯道山の太郎坊のもとに送り、三月には、十六になる娘、お風を嫁に出した。父親としての義務を果たして一安心し、六月にフラフラと、久し振りに熊野の本宮にやって来た。そこで、昔、世話になった大先達の山伏に会ってしまい、せっかく戻って来たのだから仕事をしていってくれと頼まれた。別に用があるわけでもなかったので、風眼坊は引き受けた。夏から秋にかけて、熊野から険しい山中を抜け、ここ、山上ケ岳を通って吉野までの間を修行者を引き連れて、行ったり来たりしていた。 冬の間は熊野に下りていたが、春になったら、どこかに行こうと思っていた。しかし、今の所、行くべき所が見つからなかった。大先達の山伏に頼まれるままに、また、大峯山に登って来ていた。 大峯山は修験道の根本道場であった。 熊野から吉野までの大峯山中には百近くもの修験の行場が並んでいる。主なものを挙げれば玉置山、天狗嶽、 二月の始め頃より熊野から大峯山に入り、百日間、山中で秘法を修行し、五月の末頃、吉野に出るのを『春の峯入り』と言い、七月の末頃より吉野から大峯山に入り、七十五日間、山中で秘法を修行し、十月の初め頃、熊野に出るのを『秋の峯入り』と言った。 本来は春は百日、秋は七十五日かけて、修行するのが奥駈け行なのだが、この当時、ほとんど、やる者がいなくなってしまい、速駈けと言って、熊野から吉野までを七日間で歩き通す事が奥駈け行と呼ばれるようになっていた。山伏のほとんどが、この速駈けをやり、大峯の奥駈けをやったと称していた。 奥駈け行の他に、梅雨時に行う『夏の峯入り』と雪中時に行う『冬の峯入り』と言うのもあった。これらは春や秋とは違い、山中を歩く行ではなく、一ケ所に籠もって行をするものだった。 夏の峯入りは、すでに、この当時、行なわれなくなっていた。 冬の峯入りというのは、大峯山に雪の降る前、九月の初め頃、山に入り、 冬の峰入りの『冬籠もり』と『晦山伏』は山伏にとって最高の名誉とされていた。そして、大峯山の奥駈け行を何回したかが、山伏に取っての重要な位付けにもなっていた。五回以上、奥駈けをすると先達山伏となり、それ以上やる毎に、正先達、大先達へと位が上がって行った。そのため、地方の山伏たちも大峯山に登って格を上げるため、続々とやって来ていた。 奥駈けは熊野から吉野へ抜けるのが『順の峯入り』と言って本当だが、『逆の峯入り』と行って、吉野から熊野へ抜ける修行者も多かった。 後に、修験者たちは組織の中に組み込まれ、天台宗密教系の三井寺の 大峯山の中でも、中心をなしているのが山上ケ岳の蔵王堂だった。 山上ケ岳の山頂には蔵王堂を中心に三十六の僧院、僧坊が建ち並び、各地からの山伏や信者たちが先達山伏に連れられて登って来ていた。 初めて、この山に登って来た者は誰もが、山頂に建ち並ぶ、僧院、僧坊を見て、驚きを隠せなかった。苦労して、やっとの思いで登って来た険しい山の山頂に賑やかな門前町が、突然、出現する。そして、大きくて立派な蔵王堂は皆を圧倒させた。 一体、いつ、誰が、どうやって、こんな大きなお堂を建てたのだろうと誰もが不思議に思い、大峯山への信仰を深めて行った。 風眼坊は今、山上ケ岳の蔵王堂を預かっている責任者だった。風眼坊の下に六人の先達山伏がいて、蔵王堂を管理していた。 山上ケ岳に登って来る山伏や信者たちは吉野から来る者がほとんどだった。わざわざ、熊野から奥駈けをして来る者も、こちらから熊野へ奥駈けして行く者も少ない。ほとんどの者が吉野から登って来て、また、吉野に戻って行った。 山に登って来た者たちのために護摩を焚いて祈祷をしたり、初めて、大峯山に登って来た者は必ずしなくてはならない裏行場を案内したりするのが、風眼坊たちの仕事だった。 吉野から山上ケ岳までは約六里(約二十四キロ)の距離だった。一日で登るのに手頃な距離だった。しかし、入山に関しては特殊な規律や作法があり、山伏独自の礼法が厳しく、初めての入山者は先達山伏に付いて登らなければならなかった。 まず、登る前に最低七日間の 丈六山の蔵王堂から、さらに坂道を進むと薬師堂があり、空濠に架かる橋を渡ると吉野の町に入る。総門と呼ばれる黒い門の少し下に関所が設けてあり、通行人から関銭十文を徴収していた。そこで、十文支払い、 さらに進み、勝手大明神、世尊寺、子守大明神、 安禅寺の側に 安禅寺の多宝塔から、少し進むと『 そこから行者鍋割坂や足摺坂を越えて行くと、やがて、 さらに進み、小鐘掛、大鐘掛の急な岩場をよじ登り、お亀石を通って 宿坊の建ち並ぶ中を通り抜け、初めて登って来た修行者は裏行場へと向かう。 裏行場で、登り岩、護摩の窟、胎内くぐり、 また、洞呂辻から西に下りた所に洞呂川村、別名、
風眼坊はつまらなそうに、ぼんやりと雨の降る空を見上げていた。 大峯山は比較的、雨が多かった。霧もよく立ち込めた。 風眼坊のいる山上ケ岳の山頂には水がなかった。すべて、天の恵みに頼っている。いくつも建っている僧坊は、どこでも雨水をためて使っている。雨が降らなかったら生きて行けなくなるのだが、こう雨ばかり降っていると気が滅入ってしょうがない。 体中にカビが生えそうだった。今の時期は梅雨なので、どこに行っても雨は降っているのだが、そんな事とは関係なく、とにかく、ここの雨がいやだった。 風眼坊はもう、限界に来ていた。もう、じっとしていられなかった。去年はまだ、山の中を歩き回っていたから良かった。今年は、ここにじっとしているだけだった。 もう、たまらなかった。どこでもいい、どこかに行きたかった。どこかに行って、思いきり暴れたかった。 そんな、ある日だった。珍しい男が山に登って来た。 久し振りに晴れたいい天気だったので、風眼坊は蔵王堂の裏の日当たりのいい草の上で、のんびりと昼寝をしていた。そこへ、東南院の岩見坊という先達が一人の山伏を連れて来た。 風眼坊は片目を開けて、山伏を見上げた。 その山伏は錫杖の代わりに 風眼坊が起き上がろうとした時、山伏の薙刀が風眼坊めがけて斬り付けて来た。 風眼坊は慌てて避けた。 その山伏は何も言わず、本気で風眼坊に斬り付けて来た。 風眼坊は腰に刀を付けていなかった。錫杖も持っていない。ただ、ひたすら、薙刀を避けていた。 やっとの事で、木切れを拾うと風眼坊は構えた。 山伏も薙刀を構えた。 岩見坊は木陰に隠れて、以外な展開になった二人の様子を見ていた。 薙刀を構えたまま、山伏は急に笑いだした。 「風眼坊、久し振りよのう」 「おぬし‥‥‥ 「おお、もう、忘れたか」 「忘れるか。どうしたんじゃ、その頭は」 「おお、これか」と火乱坊と呼ばれた山伏は頭を撫でた。「なかなか、さっぱりして、いいもんじゃぞ」 「それにしても、久し振りじゃのう。何年振りじゃ」 「それでは、私は‥‥‥」と岩見坊が言った。 「ああ、すまんかったのう。こいつとは古い仲なんじゃ。心配いらん」 岩見坊は二人に合掌をすると去って行った。 風眼坊を訪ねて来た山伏は、かつての飯道山の四天王の一人、火乱坊 風眼坊と火乱坊は草の上に腰を下ろすと懐かしそうに昔の事を話し始めた。 思い出話が一段落すると、火乱坊は今、自分がしている事を話した。 火乱坊は浄土真宗本願寺派の第八世 去年の七月、蓮如は近江(滋賀県)の堅田から越前(福井県)の吉崎に進出していた。 火乱坊は堅田にいた頃の蓮如と出会い、彼の生き方に同意し、彼のために戦って来た。堅田にいた頃は主に比叡山の法師たちを相手に戦っていたが、越前に行ってからは、守護の 火乱坊は昨日、用があって吉野まで来た。たまたま同じ宿坊にいた山伏から、風眼坊が今、山上ケ岳にいると聞いて、懐かしくなり、会いたくなって、今朝、早速、山に登って来たのだった。 「南無阿弥陀仏か‥‥‥わしは、どうも好かんのう」と風眼坊は言った。 「わしだって初めはそうじゃった。だが、蓮如殿に会ってから変わった。おぬしも一度、蓮如殿に会ってみればわかる」 「本願寺の法主の蓮如殿か‥‥‥」 「とにかく、一度、来いよ。絶対、気に入る。こんな山の上で昼寝してるより、よっぽど面白いぜ」 「面白いか‥‥‥」 「なあ、来いよ」と火乱坊は執拗に誘った。 「南無阿弥陀仏か‥‥‥まあ、ここより面白いのは確かじゃ」 「わしは今から戻る。あっちも色々と忙しいんでな、わしのこの薙刀を必要としてるんじゃよ」 火乱坊は薙刀をつかむと立ち上がった。 「いつでも来いよ。待っておる」と火乱坊は笑うと風眼坊に背を向けて去って行った。 風眼坊はまた、草の上に寝転がった。 太陽が眩しかった。 風眼坊の心はもう決まっていた。 山を下りる。そして、行き先は越前、吉崎だった。本願寺の親玉、蓮如という男をこの目で見てみたかった。火乱坊があれ程いう男を、一度、この目で見てみたかった。 そうと決めたら、風眼坊の行動は早かった。 蔵王堂に戻り、一緒に蔵王堂で働いている山伏に、「思う所があって、今から窟に籠もって、一千日の行を始める」と告げ、さっさと支度をして山を下りてしまった。 途中で、火乱坊に追い付いた。後ろから声を掛けると火乱坊は振り返り、「よう、待っておったぞ」とニヤッと笑った。 「待っておったじゃと」 「おお。おぬしは絶対に来ると思って、ゆっくり歩いていたんじゃ」 「何を言うか、この」と風眼坊も笑った。 「行こうぜ、相棒」 風眼坊は火乱坊と共に越前に向かって旅立って行った。
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大峯山、山上ヶ岳