霞と拳とシンシンと
サハチたちは 数日前の朝早く、『 山頂からの眺めは最高だった。まさしく、天界にいるようだった。白い雲が辺り一面を覆っていて、いくつかの山頂が所々に顔を出している。自分たちが今、雲の上にいるという事が信じられなかった。サハチもウニタキも感動して、この世のものとは思えない不思議な光景を無言のまま見入っていた。 「金堂は サハチとウニタキは振り返って、白蓮教の者たちを追い払ったという真武神を改めて見た。まさしく、 来た時と同じ道を下りていると思っていたが、途中から違う道に入ったようで、いつまで経っても朝天宮に着かなかった。そして、谷底を流れる川に出て、そこで一休みした。川の水は冷たくて、最高にうまかった。川を飛び越えて、今度は山登りだった。山道なのか獣道なのかよくわからない狭い道を通り、時には険しい岩をよじ登ったりして、ようやく着いた所は、山の中腹らしい日当たりのいい広い草原だった。眺めもよく、金堂のある山頂も見えた。 サハチとウニタキは金堂のある山が武当山だと思っていたが、あの山は 草原の先に切り立った崖があって、その前に小屋が建っていた。小屋を覗くと、ヂャンサンフォンがのんきに昼寝をしていた。シンシン(杏杏)がヂャンサンフォンを起こすと、目を開けて皆を見たが、シンシンに何かを言うとまた目を閉じた。 シンシンに連れられてサハチたちは小屋の後ろにある崖に向かった。崖に穴が開いていた。中を覗いてみても真っ暗で何も見えなかった。 「このガマ(洞窟)は向こうの穴に通じているそうです」とファイチが言って、十 見ると崖の下に同じような穴が開いているのが見えた。 「修行をするための第一関門が、このガマを通り抜ける事だそうです」 「真っ暗なガマを灯りもなしに通り抜けるのか」とウニタキが聞いた。 ファイチはうなづいた。 「 ファイチがシンシンに聞くと、シンシンは笑ってファイチに答えた。 「怖いマジムン(魔物)が棲んでいるそうです」 嘘をつくなという顔をしてサハチとウニタキはシンシンを見た。シンシンは口をとがらせてマジムンのような顔をして見せてから、「行くわよ」と言って洞窟の中に入って行った。おかしな娘だったが可愛い娘だった。 サハチたちは慌ててシンシンのあとを追った。真っ暗で何も見えなかった。足場も悪く、でこぼこしていて、おまけに濡れているようだった。サハチたちは互いに声を掛け合いながら、岩壁に交互に手を置いて真っ暗闇の中を進んで行った。 サハチの手に何かが触れた。何かわからないが虫のようだった。素早く手を振って、気味の悪い虫を払った。シンシンに声を掛けると返事は遙か先の方から聞こえてきた。あの娘は暗闇でも見えるのだろうか、不思議だった。サハチの前を行くウニタキが悲鳴を上げた。 「どうした?」と聞くと、「わからん。何かがいた」と言った。 「きっと、マジムンだろう」とサハチは言った。 「馬鹿を言うな」と言ったウニタキの声は怒っているようだった。 今度はウニタキの先を行くファイチが悲鳴を上げた。 「大丈夫か」と聞くと、「水たまりがあります。気をつけて下さい」と言った。 ファイチの言った水たまりは思っていたよりも深かった。六、七寸(約二十センチ)ほどはあっただろう。気味の悪い水たまりだった。きっと、不気味な虫がうようよいるに違いない。水たまりは三歩歩くとなくなった。 洞窟の中は曲がりくねっていて、方向がまったくわからなかった。出口に近づけば外の光が見えるはずだが、いつまで経っても真っ暗闇だった。 「行き止まりです」とファイチが言った。 「何だと?」とウニタキとサハチは調べた。 確かに行き止まりだった。シンシンを呼んでも返事はなかった。 壁を伝わりながら、三人は戻った。 「ここで間違えたようです」とファイチが言った。 壁が直角に曲がっていた。三人とも右側の壁を頼りに歩いていたので行き止まりに入ってしまったようだ。行き止まりを越えて、右側の壁を伝わりながらしばらく行くと、先頭を行くファイチが、「段差があります。気をつけて下さい」と言った。 「わかった」とウニタキが返事をした。 両手で段差を確かめながら、サハチはウニタキのあとを追った。 「アイヨー!」と上の方からファイチの声が聞こえた。 「気をつけて下さい。立つと頭をぶつけます」 三尺(約一メートル)ほどの段差を乗り越えた先は、中腰で進まなければならないほど天井が低かった。壁を伝わりながら中腰のまま進むと、「もう大丈夫だぞ。立っても平気だ」とウニタキが言った。 サハチは上を気にしながら腰を伸ばした。手を伸ばしても天井には届かなかった。 「今度は狭いです」とファイチが言った。 「体を横にしないと通れません」 「大丈夫か」とウニタキがファイチに聞いた。 「何とかなりそうです」 手探りで壁を触りながら体を横にして、サハチも何とか通り抜ける事ができた。 「サハチさん、通り抜けましたか」とファイチが言った。 「ああ、通り抜けた」とサハチは返事をした。 「太った奴はここは通れないぞ」とウニタキが言った。 「太った奴は来た道を戻るしかあるまい」とサハチは言った。 「ここから戻るのと先に進むのと、どっちが出口に近いんだ?」とウニタキが言った。 「今まで歩いた距離からすると、もう少しで出口のはずです」とファイチが言った。 「そう願いたいよ」とウニタキが言って苦笑した。 「出口はどこだ!」と叫びたい心境だった。 真っ暗闇の中を進むのは、気が狂ってしまうのではないかと思うほどに恐ろしかった。 「先に行きますよ」とファイチが平然とした口調で言った。 壁に伝わって、また歩き始めた。曲がりくねっていて、出口に向かっているのか不安だった。どこかで道を間違えて、洞窟の奥へ奥へと進んでいるように思えた。 「また段差があります」とファイチが言った。 先程の段差よりも高かった。そこをよじ登って少し進むと、ようやく外の光が見えてきた。 「光が見える!」とウニタキが嬉しそうに叫んだ。 「光だ!」とサハチも思わず叫んでいた。 本当にありがたい光だった。光を頼りに三人は無事に洞窟から脱出した。 外はまぶしいほどの光であふれ、その光の中に、ヂャンサンフォンとシンシンが立っていた。 「胎内くぐりじゃ」とヂャンサンフォンがヤマトゥ(日本)言葉で言った。 「お前たちは胎内をくぐって今、生まれたんじゃ。新しく生まれ変わった、と言いたいが、生まれ変わるのはこれからじゃ。これから楽しい修行が待っている」 ヂャンサンフォンはそう言って大笑いした。わけがわからないと言った顔をしているファイチに、サハチがヂャンサンフォンが言った事を琉球言葉に訳して教えた。 その時から厳しい修行が始まった。まず始めにやらされたのは 近くにある小川での水汲みから一日が始まった。午前中は大地に座り込んで、呼吸に専念しろと言われ、午後は武術の稽古だった。武術といっても剣術や棒術ではなく、素手で戦う武術だった。 模範を見せると言ってヂャンサンフォンがファイチを相手に戦ったが、華麗な舞を見ているようだった。拳で突いたり、 サハチもウニタキも『 『武当拳』には 『胎内くぐり』は日課となって、毎日、やらされた。三人一緒ではなく、午前中に交替で、暗闇の中を一人で歩かされた。洞穴の中に獣もマジムンもいないとわかっていても、一人で真っ暗闇の中を歩くのは恐ろしかった。誰かがあとから付いて来るような気がしたり、風の音にびくついたり、姿の見えない不気味な虫を追い払ったり、逃げ出したいと思うが、それもできず、一歩一歩、足下を確かめながら進むしかなかった。外の光が見えてくると、ホッと胸をなで下ろして、生きている事に感謝した。 ただ呼吸だけに専念して座っていると色々な事が頭に浮かんでは消えていった。 どうして、こんな所に座り込んでいるのだろう。 サングルミー(与座大親)たちはもう ヂュヤンジン(朱洋敬)とリィェンファ(蓮華)は幸せな時を過ごしているに違いない。 突然、マチルギの怒っている顔が思い出された。琉球は何事もなく大丈夫だろうか。 なぜか、子供の頃の事も思い出された。世間の事など何も知らず、海に潜って遊んでいた無邪気な頃が思い出された。 師匠のヂャンサンフォンが言うには、人間は生まれたばかりの赤ん坊の時、先の事がわかる予知能力や、遠くで起こった事が見える千里眼や、生まれる以前の遠い過去の記憶など、様々な能力を持っているという。しかし、人間として育っていくうちに、それらの能力を使う事なく、忘れ去ってしまう。人間が本来持っていた、それらの能力を呼び覚ますための修行を積むのが道教だという。 厳しい修行を積んで、それらの能力を呼び覚ます事ができれば、自然と一体化して、老いる事なく長生きができ、仙人と呼ばれるようになるという。その基本として、正しい呼吸をしなければならない。自然の中には『気』が流れ、人間の体内にも『気』が流れている。『気』の流れが悪くなると病気になる。体内の『気』の流れを正常に戻さなくてはならない。 武当拳も『気』の流れに従って動く拳術だという。『気』の流れがわかれば体が自然に動くというが、サハチには『気』というものがよくわからなかった。 サハチたちが座り込んでいる時、シンシンは一人で剣術や棒術の工夫をしていた。そんなに強くなってどうするのだろう。マチルギと同じように 断食を初めて三日め、サハチはフラフラしながら拳術の稽古をしていた。腹が減って体の力が出なかった。ファイチは以前にも断食をした事があるので、コツがわかっているのか何ともないようだった。ウニタキも昨日はフラフラしていたのに、今日はそんな素振りもなく稽古に励んでいた。あの野郎、隠れて何かを食べていたなとサハチは思ったが、そうではなかった。昨日までは腹が減ってどうしようもなかったが、なぜか、今日は空腹を感じず、体が軽くなったようで、よく動くとウニタキは言った。信じられなかったが、その夜、サハチも空腹を感じる事なくよく眠れた。翌朝も不思議と空腹は感じなかった。ウニタキが言うように体が軽くなったように感じて、武術の稽古でも思うように体が動いた。 五日めの断食の日は朝から雨が降っていた。雨に濡れながら座り込んでいた。雨は冷たかった。風邪でも引いてしまうのではないかと心配だったが、なぜか、体が熱くなってきた。病に罹って出る熱とは違う、体の奥の方から感じる熱さだった。午後の稽古も今までと違って、体がなめらかに動くように感じられた。何となく、『気』というものがわかってきたような気がした。 五日間の断食も終わって、うまい物が食べられると期待していたが、朝食は薄いお 断食が終わって三日目の夜、「今日は 「呂祖とは誰です?」とサハチは師匠に聞いた。 「仙人じゃよ。 「今も生きているのですか」とウニタキが水を飲みながら聞いた。 「仙人は死なんのじゃよ」と言って師匠は笑った。 シンシンが何かを言った。師匠がそれに答えた。ファイチが笑って、シンシンもサハチとウニタキを見て笑った。 師匠が何を言ったのか、ファイチに聞くと、「サハチさんとウニタキさんがシンシンの事を可愛いと言っているとシンシンに伝えていました」 「そんな事は言っていない」とウニタキが手を振った。 サハチはシンシンを見ながら、「どうして、シンシンは師匠の弟子になったんです?」と師匠に聞いた。 師匠はうまそうに酒を飲むと、「シンシンは孤児だったんじゃよ」と言った 「シンシンは 「敵を討つつもりなんですね」 師匠はシンシンを見て笑い、「まだ諦めてはいないようじゃ」と言った。 「そろそろ、嫁に行く年頃なんじゃが、男には興味がないらしい。困ったもんじゃ」 「その山賊というのはまだ暴れているのですか」とウニタキが聞いた。 「さあのう。もう八年も前の事じゃからな。捕まって殺されたかもしれんのう。シンシンをファイホン(懐虹)に預けたあと、母親が無事なら助けてやろうと探してみたが、見つからなかったんじゃ。たとえ、生きていたとしても探すのは大変じゃろう」 シンシンがまた何かを言った。酒が好きなのか、一人でぐいぐい飲んでいた。ファイチがシンシンに何かを言って、二人で何かを話し始めた。 師匠は琉球の事を聞いてきた。サハチとウニタキは琉球の事を師匠に話した。師匠は興味深そうな顔をして話を聞いていた。 急にシンシンが泣き出した。 「どうしたんだ?」とウニタキがファイチに聞いた。 「自分よりも強くて素敵な男の人に巡り会えないと言って嘆いているんです」 ウニタキが片言の明国の言葉で、「いつか、素敵な人と会える」と言ったら、シンシンは泣くのをやめて、ニコッと笑った。そして、そのまま酔いつぶれてしまった。 「酒を飲んだのは初めてなんじゃ」と師匠は言った。 それから二日が経ち、サハチたちはようやく普通の食事が取れるようになり、厳しい修行は続いていった。 |
武当山