女たちの船出
マチルギたちを乗せたマグサ(孫三郎)の船とシンゴ(早田新五郎)の船は順風を受けて北上し、 伊平屋島と マチルギたちは サハチがヤマトゥに行く時にお世話になった 馬天ヌルは八年前の旅の時、伊平屋島にも来ていた。我喜屋ヌルの案内で島内のウタキ(御嶽)巡りをして、我喜屋ヌルと仲よくなっていた。再会を喜んで、娘のササ、姪のフカマヌルと佐敷ヌルを紹介した。 次の日も風に恵まれて、 永良部島は古くから山北王が支配していて、 三日目は マチルギたちは徳之島に上陸して、のんびりと過ごした。女子サムレーのチニンチルー(知念鶴)とチャウサ(北宇佐)が船酔いで具合が悪かったので丁度よかった。 徳之島にも按司がいたが山北王とのつながりはなく、浮島に来ては中山王と交易をしていた。ここの按司も古かった。八十年ほど前に、 馬天ヌルはフカマヌルと佐敷ヌル、ササを連れて、徳之島按司の妹の徳之島ヌルの案内で島内のウタキ巡りをした。かつて、陶器作りが盛んだった徳之島には古い 翌日は風が吹き、 次の朝、小雨が降っていて霧も出ていた。ここから先はトカラ列島の宝島まで、途中に島はない。一気に宝島まで行かなければならなかった。途中で日が暮れて、方向を誤ってしまえば遭難してしまう。シンゴとマグサは行くべきか中止すべきか迷っていたが、ヌルたちの言葉を信じて出帆した。四人のヌルたち全員が、雨はやんで霧は晴れ、風も吹くと言い、ヂャンサンフォン(張三豊)も大丈夫だと言ったのだった。ヌルたちの言った通り、霧は流れていい天気となり、風にも恵まれて、その日の夕方には宝島に到着した。 マチルギたちは船旅を楽しみながらも、ヤマトゥの国は遠いと実感していた。宝島の長老に歓迎されて、マチルギたちは船旅の疲れを取った。 ヒューガ(日向大親)は嬉しそうだった。馬天ヌルとササ、親子三人で旅ができるなんて思ってもいない事だった。娘のササはシンシン(杏杏)とシズと一緒にいて、父親に甘える事もないが、そんなササを見ているのも楽しかった。 シズの父親はヤマトゥンチュ(日本人)で、ヤマトゥンチュ相手の宿屋をやっていた。自然とヤマトゥ言葉を覚え、父親やヤマトゥの商人たちから琉球の北にある島々の事は聞いていた。話を聞く度に行ってみたいと思っていたが、女の身では無理だと諦めていた。それが突然、 マチルギは義妹のフカマヌルと佐敷ヌル、叔母のチルーと一緒にいる事が多く、ジクー(慈空)禅師はイーカチと、シタルーはクグルーと仲がよかった。十人の女子サムレーたちも仲よく旅を楽しんでいる。 マチルギ配下の女子サムレーは全員で百八人いた。首里に六十人、島添大里に二十四人、佐敷と平田に十二人づついる。誰もがヤマトゥに行きたがり、十人を選ぶのは大変だった。首里から六人、島添大里から二人、佐敷と平田から一人づつと決めたが、公平に選ぶにはどうしたらいいのか悩んだ末に、マチルギは馬天ヌルに相談した。馬天ヌルは 選ばれたのは首里からウラマチー(浦松)、イヒャカミー、チニンチルー、チタ(蔦)、タカ(鷹)、グイクナビー(越来鍋)、島添大里からニシンジニー(北ぬ銭)とチャウサ、佐敷からナグカマ(名護釜)、平田からナカウシ(中牛)だった。チタとタカの二人が佐敷出身で、あとの八人は皆、キラマ(慶良間)の修行者だった。十人は選ばれた事を神様に感謝しながら、充分に旅を楽しんでいた。 ヂャンサンフォンはヒューガと一緒にいたり、マチルギたちの所に行ったり、女子サムレーと楽しそうに笑っていたりと、どこに行っても人気者だった。 次の朝、宝島を出帆しようとした時、「嵐が来るわ」とササが言った。 空を見ると青空が広がっていて、そんな気配はまったくなかった。 馬天ヌルはササをじっと見つめ、空を見上げて、「もう少し様子を見た方がいいわね」と言った。 ヂャンサンフォンもササと空を見て、「様子を見よう」と言った。 シンゴは佐敷ヌルの意見を聞いた。 「ササが言うのならやめた方がいいわ」と佐敷ヌルは言った。 島の者たちは大丈夫だと言うが、シンゴとマグサはササの意見を尊重した。 暴風雨は丸一日続いた。夜になっても治まらなかった。家が吹っ飛んでしまうのではないかと思われる強風の中、一睡もできずに夜が明けた。朝には雨も風もやんで、静かになっていた。 外に出ると 嵐に耐えた船を見て、皆、胸を撫で下ろした。ヌルたちは神様に感謝した。 嵐を予言したササは、島人たちに神様扱いされた。綺麗な花が飾られた祭壇に座らせられ、島人たちはササにお祈りを捧げた。ササはうんざりしていたが、馬天ヌルから、お世話になった島人の頼みなんだから聞いてあげなさいと言われ、シンシンとシズを道連れにして、じっと我慢をした。 船は無事だったが、船内は水浸しだった。総出で水を汲み出し、船内の掃除をして、その日は暮れた。 翌日、お世話になった島人たちと別れて、船は北へと向かった。トカラ列島に沿って北上し、二日目に口之島に到着した。口之島から黒潮を乗り越えて、ヤマトゥ側にある永良部島に着き、次の日にようやく薩摩の 馬天浜を出てから十四日目の事だった。無事にヤマトゥに着いたのもササのお陰だった。あの時、海に乗り出していたら遭難していたかもしれない。シンゴとマグサは改めて、ササにお礼を言った。ササは照れて、ヒューガの後ろに隠れた。 坊津は小さな港だが、家々がぎっしりと建ち並んで栄えていた。サハチと一緒に来た二十年前を思い出しながら、ヒューガは驚いていた。あの頃は閑散としていた。二十年という月日は、琉球を変えたが、坊津もすっかり変えていた。 『 二十年前、サハチとヒューガがお世話になった一文字屋の主人は亡くなり、次男の孫三郎が坊津の店を任されていた。博多にいた兄の孫次郎が三代目の一文字屋次郎左衛門を継いで、今は京都にいるという。 長い船旅で体が キラマで修行した八人の女子サムレーたちは、マチルギと馬天ヌルと佐敷ヌルが強いのは知っているが、フカマヌルとチルーの強さは知らず、負けるものかと必死になって稽古に励んだ。女たちに負けられんとシタルーとクグルーも真剣だった。 琉球から来た女たちが剣術をやっていると噂になって、わざわざ見物に来る人たちが大勢集まって来た。 マチルギたちは坊津に滞在中、 マチルギはサハチから聞いた明国の内乱の話を思い出した。ヤマトゥでも王様が亡くなったら、内乱が始まるのかしらと心配した。 六日間滞在した坊津をあとにした一行は、 二十年前、五島にいた 坊津で手に入れた日本刀や扇子、 一文字屋は初めの頃は鮫皮だけを扱っていたが、やがて、明国の商品も扱うようになり、莫大な利益を上げて京都にも進出して、今では豪商と呼ばれていた。シンゴたちは坊津の一文字屋で琉球との取り引きに使う品々を手に入れて、博多の一文字屋で必要な食糧を手に入れて対馬に帰るのだった。山ばかりで田畑の少ない対馬では、穀物が最も必要な商品だった。 五島でも、女たちの武術の稽古は珍しがられて大勢の見物人が集まってきた。 五島をあとにした二隻の船は、二日後に ヤマトゥ旅に出たサハチの弟や息子たちは皆、藤五郎のお世話になっていた。奥方までやって来るとは琉球の女は勇ましいのうと藤五郎は笑った。 壱岐島に二泊した一行は、いよいよ博多に到着した。博多港の賑わいは二十年前とはまったく違っていて、ヒューガは目を丸くして驚いた。初めて来たマチルギたちは多くの船を見ながら、まるで浮島みたいと言って騒いでいた。百年振りに博多に来たヂャンサンフォンも昔の面影はまったくないと驚いていた。 サハチとヒューガが博多に来た二年後、中山王の察度は、 朝鮮に行く琉球船は行きと帰りに博多に寄って、博多の商人と交易をした。琉球船が持って来た明国や 今川了俊は琉球との交易と朝鮮との交易でかなりの富を蓄え、その富を利用して九州統一を推し進めていたが、勢力拡大を恐れた足利義満によって、九州探題を罷免されてしまう。今川了俊に代わって、九州探題に任命されたのは、幕府の実力者である 琉球船が最後に来たのは八年前で、それ以後、来なくなってしまった。しかし、琉球船に代わるように六年前、 船の多さには驚かなかったマチルギたちも、上陸して街の賑わいを見ると目を丸くして驚いた。様々な着物を着た人々が大勢行き交い、あちこちに大きな寺院が建っている。賑わう市場では見た事もないような珍しい物が色々と並んでいる。 女たちははぐれないように固まって、目をキョロキョロさせながら、ヤマトゥの都に来た事を実感していた。 |
坊津
壱岐島
博多