沖縄の酔雲庵

尚巴志伝

井野酔雲







女たちの船出




 マチルギたちを乗せたマグサ(孫三郎)の船とシンゴ(早田新五郎)の船は順風を受けて北上し、勝連(かちりん)半島と津堅島(ちきんじま)の間を抜け、美浜島(んばまじま)(浜比嘉島)、平安座島(へんざじま)宮城島(たかはなり)伊計島(いちはなり)を左に見ながら進み、ヤンバル(琉球北部)の沖に泊まって夜を明かして、次の日、辺戸岬(ふぃるみさき)から北西に向かって伊平屋島(いひゃじま)に着いた。

 思紹(ししょう)中山王(ちゅうざんおう)になる前は、佐敷だけでは積み荷が足りず、佐敷から浮島(那覇)に行って中山王と取り引きをして、さらに、今帰仁(なきじん)でも取り引きをして帰って行ったが、今は、佐敷で積み荷を整える事ができるので、そのまま北上して帰ればよかった。さらに北上して与論島(ゆんぬじま)に寄れれば便利なのだが、与論島は山北王(さんほくおう)の支配下にあるので、伊平屋島に寄って水の補給をするのだった。

 伊平屋島と伊是名島(いぢぃなじま)でサハチ(島添大里按司)の親戚たちが作っている鮫皮(さみがー)は、思紹が中山王になって以来、島の人たちによって浮島に運ばれ、そこで取り引きされていた。以前のようにヤマトゥ(日本)の船がやって来るのを待つ事もなく、必要な物は浮島に行けば手に入るので、島の人たちも以前よりは豊かな暮らしができるようになっていた。

 マチルギたちは島人(しまんちゅ)たちに大歓迎されて、島人たちと一緒に騒いで、楽しい夜を過ごした。

 サハチがヤマトゥに行く時にお世話になった我喜屋(がんじゃ)ヌルはすでに亡くなっていて、娘が我喜屋ヌルを継いでいた。田名大主(だなうふぬし)も代が代わって、息子が継いでいる。我喜屋ヌルも田名大主も馬天(ばてぃん)ヌルの従姉兄(いとこ)だった。田名大主の次男は首里(すい)のサムレー大将を務めている田名親方だった。田名親方の兄は首里グスクのお祭りの時、島の子供たちを連れて首里に来ていた。あの時は楽しかったとマチルギたちにお礼を言った。

 馬天ヌルは八年前の旅の時、伊平屋島にも来ていた。我喜屋ヌルの案内で島内のウタキ(御嶽)巡りをして、我喜屋ヌルと仲よくなっていた。再会を喜んで、娘のササ、姪のフカマヌルと佐敷ヌルを紹介した。

 女子(いなぐ)サムレーのイヒャカミー(伊平屋亀)は伊平屋島生まれで、久し振りの帰郷を喜んだ。両親と会って、ヤマトゥに行くと告げると両親は腰を抜かすほどに驚いた。イヒャカミーの両親はマチルギや馬天ヌルたちを回っては、娘をお願いしますと頭を下げていた。

 次の日も風に恵まれて、永良部島(いらぶじま)(沖永良部島)に着いた。永良部島では港に入る事なく、沖で一晩を過ごした。

 永良部島は古くから山北王が支配していて、攀安知(はんあんち)(山北王)の叔父が永良部按司だった。ヤマトゥから琉球に向かう時に港に入れば歓迎してくれるのだが、武器を売ってくれとうるさいし、帰りに寄れば港の使用料を徴収された。悪天候でない限り、シンゴは永良部島には寄らなかった。ましてや今回は島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)の奥方を乗せている。永良部島に寄れば、何が起こるかわからなかった。

 三日目は徳之島(とぅくぬしま)に着いた。ここまでは順調だったのに、四日目の朝に急に風が止まってしまった。正午(ひる)近くまで待ってみたが、風が吹かないので、その日の航海は中止となった。ヤマトゥに帰る船が三隻、港に泊まっていて、やはり、航海は諦めたようだった。

 マチルギたちは徳之島に上陸して、のんびりと過ごした。女子サムレーのチニンチルー(知念鶴)とチャウサ(北宇佐)が船酔いで具合が悪かったので丁度よかった。

 徳之島にも按司がいたが山北王とのつながりはなく、浮島に来ては中山王と交易をしていた。ここの按司も古かった。八十年ほど前に、浦添按司(うらしいあじ)(英慈)の息子が初代の按司になり、今は四代目だった。英慈の子孫の浦添按司は察度(さとぅ)(先々代中山王)に滅ぼされたが、遠く離れた徳之島まで察度が攻めて来る事はなかった。徳之島按司は島人(しまんちゅ)のために察度に従う事に決め、以後、中山王に従っていた。四十歳前後に見える徳之島按司はマチルギや馬天ヌルの噂も聞いていて、一行は大歓迎を受けた。

 馬天ヌルはフカマヌルと佐敷ヌル、ササを連れて、徳之島按司の妹の徳之島ヌルの案内で島内のウタキ巡りをした。かつて、陶器作りが盛んだった徳之島には古い窯跡(かまあと)がいくつも残っていた。今でも陶器を焼いている職人は、遙か昔、ここの焼き物が琉球にも大量に渡っていたと自慢げに話した。

 翌日は風が吹き、奄美大島(あまみうふしま)の南端の島に着いた。次の日は大島の西側に沿って進み、大島の北にある湾内に停泊して夜を過ごした。

 次の朝、小雨が降っていて霧も出ていた。ここから先はトカラ列島の宝島まで、途中に島はない。一気に宝島まで行かなければならなかった。途中で日が暮れて、方向を誤ってしまえば遭難してしまう。シンゴとマグサは行くべきか中止すべきか迷っていたが、ヌルたちの言葉を信じて出帆した。四人のヌルたち全員が、雨はやんで霧は晴れ、風も吹くと言い、ヂャンサンフォン(張三豊)も大丈夫だと言ったのだった。ヌルたちの言った通り、霧は流れていい天気となり、風にも恵まれて、その日の夕方には宝島に到着した。

 マチルギたちは船旅を楽しみながらも、ヤマトゥの国は遠いと実感していた。宝島の長老に歓迎されて、マチルギたちは船旅の疲れを取った。

 ヒューガ(日向大親)は嬉しそうだった。馬天ヌルとササ、親子三人で旅ができるなんて思ってもいない事だった。娘のササはシンシン(杏杏)とシズと一緒にいて、父親に甘える事もないが、そんなササを見ているのも楽しかった。

 シズの父親はヤマトゥンチュ(日本人)で、ヤマトゥンチュ相手の宿屋をやっていた。自然とヤマトゥ言葉を覚え、父親やヤマトゥの商人たちから琉球の北にある島々の事は聞いていた。話を聞く度に行ってみたいと思っていたが、女の身では無理だと諦めていた。それが突然、奥方様(うなじゃら)のヤマトゥ旅に同行しろとお頭(ウニタキ)に命じられた。まるで、夢のようだとシズは船旅を楽しんでいた。ササよりも二つ年上で、お互いに父親がヤマトゥンチュなので、仲よくなっていた。

 マチルギは義妹のフカマヌルと佐敷ヌル、叔母のチルーと一緒にいる事が多く、ジクー(慈空)禅師はイーカチと、シタルーはクグルーと仲がよかった。十人の女子サムレーたちも仲よく旅を楽しんでいる。

 マチルギ配下の女子サムレーは全員で百八人いた。首里に六十人、島添大里に二十四人、佐敷と平田に十二人づついる。誰もがヤマトゥに行きたがり、十人を選ぶのは大変だった。首里から六人、島添大里から二人、佐敷と平田から一人づつと決めたが、公平に選ぶにはどうしたらいいのか悩んだ末に、マチルギは馬天ヌルに相談した。馬天ヌルは(くじ)を作って、女子サムレーたちに引かせた。神意によって選ばれた者が、ヤマトゥに行く事になったのだった。

 選ばれたのは首里からウラマチー(浦松)、イヒャカミー、チニンチルー、チタ(蔦)、タカ(鷹)、グイクナビー(越来鍋)、島添大里からニシンジニー(北ぬ銭)とチャウサ、佐敷からナグカマ(名護釜)、平田からナカウシ(中牛)だった。チタとタカの二人が佐敷出身で、あとの八人は皆、キラマ(慶良間)の修行者だった。十人は選ばれた事を神様に感謝しながら、充分に旅を楽しんでいた。

 ヂャンサンフォンはヒューガと一緒にいたり、マチルギたちの所に行ったり、女子サムレーと楽しそうに笑っていたりと、どこに行っても人気者だった。

 次の朝、宝島を出帆しようとした時、「嵐が来るわ」とササが言った。

 空を見ると青空が広がっていて、そんな気配はまったくなかった。

 馬天ヌルはササをじっと見つめ、空を見上げて、「もう少し様子を見た方がいいわね」と言った。

 ヂャンサンフォンもササと空を見て、「様子を見よう」と言った。

 シンゴは佐敷ヌルの意見を聞いた。

「ササが言うのならやめた方がいいわ」と佐敷ヌルは言った。

 島の者たちは大丈夫だと言うが、シンゴとマグサはササの意見を尊重した。

 一時(いっとき)(二時間)ほどが過ぎると空は真っ暗になり、雨が勢いよく降ってきて、風も強くなってきた。ササの言った通り、嵐がやって来た。最小限の船乗りたちを残して、他の者たちは上陸して、船は沖に停泊した。上陸した者たちは分散して、島人の家に避難した。

 暴風雨は丸一日続いた。夜になっても治まらなかった。家が吹っ飛んでしまうのではないかと思われる強風の中、一睡もできずに夜が明けた。朝には雨も風もやんで、静かになっていた。

 外に出ると樹木(きぎ)が倒れ、折れた枝葉があちこちに落ちている。海を見ると二隻の船は無事に浮かんでいた。

 嵐に耐えた船を見て、皆、胸を撫で下ろした。ヌルたちは神様に感謝した。

 嵐を予言したササは、島人たちに神様扱いされた。綺麗な花が飾られた祭壇に座らせられ、島人たちはササにお祈りを捧げた。ササはうんざりしていたが、馬天ヌルから、お世話になった島人の頼みなんだから聞いてあげなさいと言われ、シンシンとシズを道連れにして、じっと我慢をした。

 船は無事だったが、船内は水浸しだった。総出で水を汲み出し、船内の掃除をして、その日は暮れた。

 翌日、お世話になった島人たちと別れて、船は北へと向かった。トカラ列島に沿って北上し、二日目に口之島に到着した。口之島から黒潮を乗り越えて、ヤマトゥ側にある永良部島に着き、次の日にようやく薩摩の坊津(ぼうのつ)に到着した。

 馬天浜を出てから十四日目の事だった。無事にヤマトゥに着いたのもササのお陰だった。あの時、海に乗り出していたら遭難していたかもしれない。シンゴとマグサは改めて、ササにお礼を言った。ササは照れて、ヒューガの後ろに隠れた。

 坊津は小さな港だが、家々がぎっしりと建ち並んで栄えていた。サハチと一緒に来た二十年前を思い出しながら、ヒューガは驚いていた。あの頃は閑散としていた。二十年という月日は、琉球を変えたが、坊津もすっかり変えていた。

 『一文字屋(いちもんじや)』も大きくなっていた。以前よりも立派な屋敷が建ち、蔵がいくつも並んでいる。琉球との交易でかなり稼いだようだ。一行は一文字屋の客用の離れに滞在して、取り引きが終わるのを待った。こちらではまだ梅雨は明けていなくて、毎日、雨降りが続いた。

 二十年前、サハチとヒューガがお世話になった一文字屋の主人は亡くなり、次男の孫三郎が坊津の店を任されていた。博多にいた兄の孫次郎が三代目の一文字屋次郎左衛門を継いで、今は京都にいるという。

 長い船旅で体が(なま)っていると言って、ヂャンサンフォンに連れられて、一行は港の見える高台で武術の稽古を始めた。ジクー禅師以外は皆、武術の心得があった。マチルギ、馬天ヌル、佐敷ヌル、チルーは女子サムレーたちの師匠だし、フカマヌルは幼い頃より母から剣術を習っている。ササもそうだった。ヒューガはサハチの師匠、イーカチとシズはウニタキの弟子、シタルーとクグルーは苗代大親(なーしるうふや)の弟子だった。

 キラマで修行した八人の女子サムレーたちは、マチルギと馬天ヌルと佐敷ヌルが強いのは知っているが、フカマヌルとチルーの強さは知らず、負けるものかと必死になって稽古に励んだ。女たちに負けられんとシタルーとクグルーも真剣だった。

 琉球から来た女たちが剣術をやっていると噂になって、わざわざ見物に来る人たちが大勢集まって来た。

 マチルギたちは坊津に滞在中、北山殿(きたやまどの)(足利義満)の死を一文字屋から聞いた。北山殿は将軍様(足利義持)の父親で、明国(みんこく)の皇帝から日本国王に任命されて、明国との交易に力を入れてきた人だという。ヤマトゥで一番力を持っていた人が、突然、亡くなってしまったと一文字屋は嘆いて、京都で一波乱が起きるかもしれないと心配していた。

 マチルギはサハチから聞いた明国の内乱の話を思い出した。ヤマトゥでも王様が亡くなったら、内乱が始まるのかしらと心配した。

 六日間滞在した坊津をあとにした一行は、甑島(こしきじま)を経由して五島(ごとう)に到着した。

 二十年前、五島にいた早田備前守(そうだびぜんのかみ)は十四年前に戦死してしまい、シンゴの兄の左衛門三郎が守っていた。左衛門三郎はシンゴが女たちを連れて来たので驚いた。皆、美人揃いで、その中でも最も美しい佐敷ヌルが、シンゴの琉球での妻だと知らされると、ポカンと口を開けたまま、信じられんと首を振った。

 坊津で手に入れた日本刀や扇子、(うるし)の工芸品や屏風(びょうぶ)など、来年、琉球に運ぶ品々を蔵に保管するため、五島には二泊した。

 一文字屋は初めの頃は鮫皮だけを扱っていたが、やがて、明国の商品も扱うようになり、莫大な利益を上げて京都にも進出して、今では豪商と呼ばれていた。シンゴたちは坊津の一文字屋で琉球との取り引きに使う品々を手に入れて、博多の一文字屋で必要な食糧を手に入れて対馬に帰るのだった。山ばかりで田畑の少ない対馬では、穀物が最も必要な商品だった。

 五島でも、女たちの武術の稽古は珍しがられて大勢の見物人が集まってきた。

 五島をあとにした二隻の船は、二日後に壱岐島(いきのしま)に着いた。壱岐島にはシンゴの義兄、早田藤五郎がいた。ヒューガと二十年振りの再会を喜び、一緒に来た女たちを見て驚いた。ヒューガがマチルギを紹介すると、サハチの奥方かと言って目を細くして歓迎した。

 ヤマトゥ旅に出たサハチの弟や息子たちは皆、藤五郎のお世話になっていた。奥方までやって来るとは琉球の女は勇ましいのうと藤五郎は笑った。

 志佐壱岐守(しさいきのかみ)もやって来て、マチルギたちとの再会を喜んだ。琉球でお世話になったお礼じゃと屋敷に招待してくれた。壱岐守は息子に家督を譲って隠居したので、気楽に暮らしているという。対馬にいるのなら是非また遊びに来てくれと言った。

 壱岐島に二泊した一行は、いよいよ博多に到着した。博多港の賑わいは二十年前とはまったく違っていて、ヒューガは目を丸くして驚いた。初めて来たマチルギたちは多くの船を見ながら、まるで浮島みたいと言って騒いでいた。百年振りに博多に来たヂャンサンフォンも昔の面影はまったくないと驚いていた。

 サハチとヒューガが博多に来た二年後、中山王の察度は、倭寇(わこう)によって琉球に連れて来られた高麗人(こーれーんちゅ)を故郷に帰すために高麗に使者を送った。その船は高麗に行く前に博多に寄った。初めて博多に来た琉球船は九州探題(たんだい)の今川了俊(りょうしゅん)に歓迎された。今川了俊の協力もあって、使者は高麗の王と会い、帰りには高麗の使者を琉球に連れて行き、琉球と高麗の交易が始まった。高麗から朝鮮(チョソン)に代わっても両国の交易は続いて、察度は四回、武寧(ぶねい)も四回、朝鮮に使者を送っている。武寧の四度目は五年前の事で、嵐のために遭難して、黒潮に流されて武蔵(むさし)の国まで行ってしまい、朝鮮には行かずに引き返した。

 朝鮮に行く琉球船は行きと帰りに博多に寄って、博多の商人と交易をした。琉球船が持って来た明国や南蛮(なんばん)(東南アジア)の品々は大いに喜ばれ、一年置きくらいにやって来る琉球船は大歓迎された。

 今川了俊は琉球との交易と朝鮮との交易でかなりの富を蓄え、その富を利用して九州統一を推し進めていたが、勢力拡大を恐れた足利義満によって、九州探題を罷免されてしまう。今川了俊に代わって、九州探題に任命されたのは、幕府の実力者である斯波義将(しばよしまさ)の娘婿の渋川満頼(みつより)で、勿論、渋川満頼も琉球船を大歓迎した。

 琉球船が最後に来たのは八年前で、それ以後、来なくなってしまった。しかし、琉球船に代わるように六年前、永楽帝(えいらくてい)の使者を乗せた明国の船が博多にやって来た。以後、明国の船は毎年のようにやって来ていた。琉球船と明国船のお陰で博多は栄え、元寇(げんこう)以前の繁栄を取り戻していたのだった。

 船の多さには驚かなかったマチルギたちも、上陸して街の賑わいを見ると目を丸くして驚いた。様々な着物を着た人々が大勢行き交い、あちこちに大きな寺院が建っている。賑わう市場では見た事もないような珍しい物が色々と並んでいる。

 女たちははぐれないように固まって、目をキョロキョロさせながら、ヤマトゥの都に来た事を実感していた。





坊津



壱岐島



博多




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