沖縄の酔雲庵

尚巴志伝

井野酔雲







七重の塔と祇園祭り




 サハチ(琉球中山王世子)たちは憧れの京の都に来ていた。

 京の都は想像を絶する都だった。明国(みんこく)の都、応天府(おうてんふ)(南京)とはまったく違った都で、考えも及ばない驚くべき都だった。

 牛窓(うしまど)港の『一文字屋』の屋敷にお世話になった次の日、サハチたちは室津(むろつ)に着き、その次の日に、明石海峡を抜けて兵庫に着いた。

 兵庫港には明国の船と朝鮮(チョソン)の船が泊まっていた。噂では明国の使者たちは上陸の許可が下りずに船に乗ったままだという。博多港で待たされ、兵庫港でも待たされるなんて、外国船がヤマトゥ(日本)と交易するのは大変な事だ。使者というのは忍耐を要する仕事だとつくづく思っていた。

 兵庫からは陸路で京都に向かった。二隻の船は淀川をさかのぼって京都に向かうが時間が掛かるので、陸路で行った方が速いと孫三郎は言って、孫三郎と娘のみおも一緒に来た。

 景色を眺めながらのんびりと歩いて、夕方には太田宿(おおだじゅく)(茨木市)に着いた。孫三郎の馴染みの宿屋に泊まり、次の日の正午(ひる)過ぎには念願の京の都に到着した。

 京の都は思っていた以上に大きかった。明国の都のように高い城壁で囲まれている事はなく、道は碁盤の目のように整然と区画され、道に沿って家々が建ち並んでいた。広い敷地を持つお寺や神社があちこちにあった。

 道を行く人々は様々な格好をしていた。サムレー(武士)はわかるが、天皇の家臣だというお公家(くげ)さんというのがいた。随分と高い烏帽子(えぼし)をかぶっていて、偉いお公家さんは牛に引かせた牛車(ぎっしゃ)という乗り物に乗っている。

 山伏や僧侶も多かった。僧侶の中には頭巾をかぶって、武器をかついだ大男もいて、(あま)さんと呼ばれる女の僧もいた。

 綺麗な着物を着た女がいるかと思えば、ぼろぼろの布をまとっただけの女が裸の子供を連れて、銭を恵んでくれとまとわりついてきた。

 サハチたちは何を見ても驚いていた。そして、何よりも驚いたのは京都の蒸し暑さだった。琉球の夏よりも暑いのではないかと思われた。皆が暑い、暑いと言って流れる汗を拭いているのに、ただ一人、ヂャンサンフォン(張三豊)だけは汗もかかずに涼しい顔をしている。修行を積むと暑さも感じなくなるのかと改めて感心するばかりだった。

 京都の『一文字屋』は北野天満宮の近くにあった。

 『天満宮』は菅原道真(みちざね)を祀る神社で、菅原道真が亡くなった九州の太宰府(だざいふ)にもあった。商売をするには『座』に入らなければならず、一文字屋は博多に店を出す時、太宰府天満宮の座に入った。その縁で、京都に店を出す時、北野天満宮の座に入ったのだった。

 サハチは二十二年振りに主人の孫次郎と再会した。今は次郎左衛門と名乗っていた。当時の面影はあまりなく、坊津(ぼうのつ)にいた父親にそっくりだと思った。商人としての貫禄が備わり、京都で成功した事がよく感じられた。次郎左衛門もサハチの変わりように驚いていたようで、お互いに相手を見つめたまま、しばらく声も出なかった。やがて、お互いに笑い出して、相手の笑顔によって二十二年前に戻って懐かしがった。

 サハチは息子や弟がお世話になったお礼を言った。去年、マチルギたちは京都まで来られなかったが、その前年には息子のジルムイ、弟のヤグルー(平田大親)、マウシとシラーも京都まで来て、次郎左衛門のお世話になっていた。そのまた前年には息子のサグルーと弟のマサンルー(佐敷大親)もお世話になっている。息子や弟から京都の話を聞いて、行ってみたいと思っていたが、ようやく、来られたのだった。

 次郎左衛門は立派な屋敷に住んでいた。屋敷にはお客用の離れもあって、裏には土蔵がいくつも並んでいた。

 サハチたちは離れで休む間もなく、京都の町へと繰り出した。次郎左衛門の娘のまりが案内してくれた。まりはみおと同い年の十六歳の可愛い娘だった。

 最初に行ったのは『北野天満宮』だった。赤い鳥居をくぐって、広い庭を通って行くと正面に門があった。門をくぐって土塀に囲まれた境内(けいだい)に入ると、右側に二重の塔があった。

「多宝塔っていうのです」とまりが説明してくれたが、何の事かわからなかった。

 さらに進むとまた大きな門があって、そこを抜けると正面に拝殿(はいでん)と呼ばれる大きな建物があり、その裏に本殿があるという。サハチたちは、まりに言われるままに従ってお参りをした。広い境内の中には、いくつも建物があって、色々な神様を祀っているという。ササはヤマトゥの神様に興味があるのか、一つ一つお祈りをしていた。

 田舎から出て来た人たちが山伏に連れられて、辺りをキョロキョロ眺めながらお参りしていた。見ていておかしかったが、サハチたちも京都の人たちから見たら同じように映っていただろうと思うと急に恥ずかしくなった。

 次に行ったのはヤマトゥの王様だった北山殿(きたやまどの)(足利義満)が暮らしていた『北山第(きたやまてい)』と呼ばれる御殿だった。北山殿が亡くなったあと、跡を継いだ将軍様(足利義持)は北山第に入るが、父親の四十九日の法会(ほうえ)が済むと花の御所に戻り、今年になってからは祖父が暮らしていた三条坊門の御所に移っている。今、北山第で暮らしているのは北山殿の奥方様だけだという。

 高い塀に囲まれた広い敷地内を見る事はできなかったが、塀の外から『七重の塔』は見る事ができた。その高さは物凄かった。こんなにも高い建物が建てられるのだろうか。まったく信じられない事だった。まりが言うには三百六十尺(約百十メートル)の高さだという。ヂャンサンフォンでさえ、その高さには驚いていた。

「ここにできる前は、花の御所の近くにある相国寺(しょうこくじ)にありました」とまりは言った。

「でも、完成してから四年後に雷が落ちて焼けてしまいました。それで、今度は北山第に造る事になって、二年前に完成したのです」

「わしがいた妙心寺が潰された年に完成したのが相国寺の七重の塔じゃった」とジクー(慈空)禅師が言った。

「旅の噂で、雷が落ちて焼け落ち、北山第に再建されるとは聞いていたが、本当だったんじゃのう。こんな巨大な物を二つも造るとは、改めて、北山殿の凄さを思い知ったわ」

 ジクー禅師は七重の塔を見上げながら昔を思い出しているようだった。妙心寺は北山殿の怒りを買って潰されたと聞いている。ジクー禅師は北山殿を恨んでいたのかもしれなかった。

「上に登れるのか」とサハチはまりに聞いた。

「登れます。北山殿が生きていらっしゃった頃は、偉い武将やお公家さんたちを招待して、あの上からの眺めを楽しませていたようです。うちのお得意様のお公家さんも上まで登ったみたいで、お女中さんからお話を聞きましたけど、京都の街がすべて見回せて、まるで、鳥にでもなったような気分だったって言っていました」

「凄いなあ」と言いながら、皆、ポカンとした顔で七重の塔を見上げていた。

「七年後にまた雷が落ちて、焼け落ちてしまうわ」とササが言った。

「えっ?」と言って、皆がササを見た。

「高すぎるのよ。神様が許さないわ」

 ササはそう言って笑ったが、誰も笑わずにササを見ていた。まりは気分を害したような顔をしていた。

「この中に黄金色(こがねいろ)の御殿があるのか」とサハチはまりに聞いた。

「そうなんです」とまりはうなづいた。

「綺麗な大きな池の中に黄金色に輝く三層の御殿があるそうです。まるで、極楽にあるような華麗な御殿だっていう噂です」

「そんなに凄い御殿があるのに、将軍様はどうして、ここで暮らさないんだ?」とウニタキ(三星大親)が聞いた。

 まりは首を傾げた。

「よくわからないけど、噂では将軍様とお父上の北山殿は仲がよくなかったって言います。父親が造った御殿に住みたくないんじゃないですか」

「勿体ない事だな」

「偉い人の考える事は、あたしたちにはわかりませんよ」

 北山第を離れて、次に向かったのは今宮(いまみや)神社だった。厄除(やくよ)けの神様を祀る今宮神社には名物のあぶり(もち)があるという。

「うちと同じ名前の『一文字屋』っていうんですよ」とまりが笑った。

「別に親戚じゃありません。今宮さんの一文字屋さんは四百年も前からやっているらしいわ」

「楽しみね」とシズが言って、シンシン(杏杏)と女子(いなぐ)サムレーたちに琉球言葉で説明した。おいしいお餅があると聞いて、女たちはキャーキャー騒いだ。

「まりさん、あの山は何?」とササが右手に見える小高い丘を見つめながら聞いた。

「あれは『船岡山』です。葬送地なんです。疫病(えきびょう)が流行した時、亡くなった人たちは皆、あの山に葬られます」

「古いウタキ(御嶽)があるわ。行ってみましょう」

「えっ?」とまりは驚いた。

「あの山には誰も近づきません」

 まりがそう言っても、ササは行く気満々だった。いやがるまりを無理やり案内させて、船岡山に向かった。山の近くまで来るとササはさっさと歩いて行き、山頂へと続く道を見つけた。

「気味が悪いわ」と言って足を止めるまりとみおを、

「あたしたちがいるから大丈夫よ」とササは言って、山道に入って行った。

 ササが行きたいと言うのだから、きっと凄いウタキがあるのだろうと皆もあとに従った。

 それほど高い山ではないので、すぐに山頂に着いた。途中に死骸が転がっているわけでもなく、普通の山道だった。

 山頂にはウタキらしい岩があって、そこからの眺めは最高だった。七重の塔も見え、その周りに建っている大きな建物もよく見えた。その向こうにも大きな建物が建っているが、黄金色に輝く金閣は見えなかった。

 ササはウタキの前に座り込んでお祈りを始めた。

 サハチたちは京都の街並みを眺めた。真っ直ぐな道に沿って整然と家々が建ち並び、その中の所々に大きな敷地を有した立派な屋敷があり、森に囲まれた神社や大きなお寺も建っていた。遠くに東寺の五重の塔も見えた。サハチが思っていたよりも桁外れに大きい都だった。反対側に目をやると山々が連なっていた。どこを見回しても海は見えなかった。やはり、ヤマトゥの国は広いとサハチは感じていた。

「スサノオの神様だったわ」とお祈りを終えたササが興奮した顔で言った。

対馬(つしま)にスサノオの神様を祀っている神社がいっぱいあったの。でも、スサノオの神様の声を聞く事はできなかったわ。まさか、京都でスサノオの神様に会えるなんて思わなかった。ここに都ができる前、スサノオという太陽の神様がこの岩に下りていらっしゃったのよ。スサノオの神様はヤマトゥ(大和)の国をお造りになった凄い神様なのよ」

「スサノオの神様は今宮神社に祀られているわ」とまりは言った。

「疫病が流行った時は、スサノオの神様にお祈りして退治していただくのよ」

「スサノオは太陽の神様なのか」とジクー禅師は首を傾げた。

「対馬の船越にあったアマテル神社の神様はスサノオなのよ」

「アマテル神社の神様は天照大御神(あまてらすおおみかみ)じゃないのか」

「アマテラスはスサノオの娘なのよ」

 ジクー禅師はまた首を傾げた。

 サハチはマチルギからスサノオの事を聞いていた。『三つ巴』はスサノオの神紋(しんもん)だと言っていた。京都に行ったらお参りしようと思っていたが、京都に着いた途端に会えるとは思ってもいなかった。

「明日、お祭りがある祇園社(ぎおんしゃ)(八坂神社)もスサノオの神様を祀っているのよ」とまりが言った。

 お祭りと聞いて女たちはキャーキャー騒いだ。

 サハチには神様の声は聞こえないが、ウタキに両手を合わせて感謝のお祈りを捧げた。

 船岡山を下りて、『今宮神社』に向かった。赤い鳥居をくぐって参道を歩いた。参道の右側には土塀で囲まれた大徳寺という大きなお寺があった。

 赤い立派な門をくぐって中に入ると境内は広く、小さな神社がいくつかあった。大きな本殿は正面にあるのだが、塀に囲まれていて中には入れないようだった。中央にある門の所で参拝して、境内の右側にある門から外に出て、一文字屋であぶり餅を食べた。甘くておいしい餅だった。

 次の日は『祇園社』のお祭りを見に行った。物凄い人出だった。山鉾(やまぼこ)と呼ばれる大きな御神輿(おみこし)がいくつも出て、街を練り歩いた。その山鉾の大きさと美しさにサハチたちは呆然とし、これが都のお祭りというものかと感嘆した。

 お祭りは二日間あった。次の日もササたちはまりと一緒にお祭り見物に出掛けた。イハチとクサンルーも行ったが、サハチたちは人が多すぎて疲れると言って、お祭りには行かずに街中を散策した。

 北小路(きたこうじ)を東へと進み、今は使っていない将軍様の御殿『花の御所』を見て、その斜め前にある天皇の御所を見た。どちらも広い敷地を有していたが、豪華で立派な花の御所に比べて、天皇の御所は塀も所々が壊れていて、何となく惨めな感じがした。

「将軍様と天皇の違いがよくわからないのですが」とサハチはジクー禅師に聞いた。

「天皇というのはヤマトの国を造った王様の子孫で、代々、続いている日本の王様なんじゃよ。伊勢の神宮に祀られているアマテラスが始祖なんじゃが、わしは以前から不思議に思っていたんじゃ。太陽神が女神だという事にな。昨日、船岡山でササが言った事は信じられなかったが、よく考えてみるとササの言った通りのような気がするんじゃ。本当の太陽神はスサノオで、その娘がアマテラスだった。なぜだか知らんが、スサノオは消されてしまったらしい。とにかく、アマテラスから代々続いているのが天皇家というわけじゃ。つい先頃まで、天皇家は南朝と北朝に分かれて争っていたが、その争いも治まった。しかし、長い争いの末に天皇家の力も弱まってしまい、今は将軍様の方が王様のようなものじゃな。元々は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)と言って、日本の北の方にいる蝦夷(えぞ)と呼ばれる異民族を征伐(せいばつ)するために、天皇から任命された役職だったんじゃが、各地のサムレーたちが力を付けるに従って、サムレーたちの総大将となった将軍様は、天皇よりも力を持つようになってしまったんじゃよ」

「琉球が交易するとすれば、天皇ではなくて、将軍様なのですね?」

「天皇は他国と交易するほどの財もあるまい」

 サハチはずっと続いている御所の塀を眺めながらうなづいた。

 御所の近くに、将軍様に最も信頼されている重臣、勘解由小路(かでのこうじ)殿の屋敷があるというので行ってみた。重臣らしい立派な屋敷で、門には武装した門番が立っていた。

 勘解由小路殿の名前はサハチも何度か聞いていた。名前は聞いているが詳しい事は知らない。ジクー禅師に聞いてみた。

「勘解由小路殿の本当の名前は斯波(しば)道将(どうしょう)と言うんじゃ。北山殿が出家なされた時に、一緒に出家して、家督を倅に譲っておる。斯波氏というのは将軍様と同族の足利一門なんじゃよ。勘解由小路殿の父上は足利尾張守(おわりのかみ)と名乗っておられた。将軍様を補佐する役職に管領職(かんれいしき)というのがあって、勘解由小路殿は何度も管領を務めておる。そして、越前、加賀、尾張(おわり)遠江(とおとうみ)の国を治める守護でもあるんじゃ。亡くなられた北山殿が最も信頼されていた武将で、やりたい放題だった北山殿をお(いさ)めできたのは勘解由小路殿だけだったとも言われておる。二十歳の頃、越中の国を平定なされ、武将としても一流で、和歌や連歌も堪能で、文武両道の達人と言えるお方じゃな」

「いくつくらいのお方なんですか」

「六十前後だと思うが‥‥‥北山殿が亡くなったあと、家督争いが生じなかったのは勘解由小路殿のお陰だと、都の者たちは皆、感謝しておるようじゃ」

「成程。立派な人らしいですね。できれば会いたいが、難しいだろうな」

 土塀を見上げながら、

「忍び込んで、その立派な男とやらに会ってみるか」とウニタキが言った。

「だめです」とファイチ(懐機)が言った。

「冗談だよ」とウニタキは笑った。

「九州探題の渋川道鎮(どうちん)が、この屋敷に滞在しているかもしれません」とンマムイ(兼グスク按司)が言った。

「渋川道鎮に会う事ができれば、勘解由小路殿にも会えますよ」

「渋川道鎮を知っているのはお前だけだ。お前は渋川道鎮を探してくれ」とサハチはンマムイに頼んだ。

師兄(シージォン)、任せて下さい」とンマムイは調子よく答えた。

 サハチは赤間関(あかまがせき)で広中三河守(みかわのかみ)から大内氏のお屋形様宛ての書状をもらった事を思い出して、

「大内氏というのも将軍様と親しいのですか」とジクー禅師に聞いた。

「大内氏というのはかなりの勢力を持った武将じゃった。しかし、十年前に将軍様との戦に敗れて、勢力は削減されたんじゃよ。わしがいた妙心寺は大内氏との関係が深かったために、北山殿の怒りを買って潰されてしまったんじゃ。将軍様に逆らった大内氏じゃが、倅は許されて、将軍様に仕えているようじゃな。大内氏を頼りにするよりも、やはり、勘解由小路殿を頼った方がいいじゃろう」

慈恩禅師(じおんぜんじ)の弟子の中条(ちゅうじょう)兵庫は将軍様の武術指南役です。中条兵庫を見つければ、将軍様にも会えるかもしれませんよ」と修理亮(しゅりのすけ)が言った。

「その手もあるな」とサハチは修理亮にうなづいた。

「わしは唐人(とうじん)を探してみよう」とヂャンサンフォンが言った。

「明国の使者が来るという事は、唐人の通事(つうじ)がいるという事じゃ。見つけ出して、会うことができれば、勘解由小路殿と会えるかもしれん」

「師匠、いい所に目をつけましたね。きっと、将軍様に仕えている唐人がいるはずです。お願いします」

「わしは禅僧を当たってみる」とジクー禅師は言った。

「勘解由小路殿は禅の修行もしておるんじゃよ。相国寺の春屋(しゅんおく)禅師に帰依(きえ)していたんじゃ。春屋禅師は亡くなってしまわれたが、今、帰依している禅師がいるはずじゃ」

「明日から手分けして、それらの人たちを探しましょう」とサハチは言った。

 みんなで協力すれば、勘解由小路殿に会う事ができるような気がした。

「ところで、俺たちはどこに向かっているんだ?」とウニタキが言った。

 勘解由小路殿の屋敷を離れて、話をしながら歩いていたので、今、どこにいるのかわからなかった。

 ジクー禅師が後ろを振り返って、

「これが勘解由小路じゃ」と言った。

「この通りをまっすぐ行くと、北野天満宮に向かう道とぶつかるんじゃ。そこを右に曲がれば帰れる」

「勘解由小路というのは道の名前だったのか」とサハチは感心した。

 琉球には道に名前なんてなかった。首里を立派な都にするには、道にも名前を付けた方がいいなと思った。





北野天満宮



北山第



今宮神社



花の御所



勘解由小路殿の屋敷




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