百地砦
1
太郎と楓は一月近くも滞在した多気の都を後にした。 二人は赤目の滝に向かっていた。多気から赤目の滝はすぐだった。ついでだから、栄意坊行信に会って行こうと思っていた。 途中、道にも迷ったが、のんびりと旅をしていたので、赤目の滝に着いた時には、すでに暗くなってしまった。さいわいに月が出ていたので助かった。 不動の滝の側の庵には誰もいなかった。 栄意坊の槍も錫杖も酒のとっくりも何もなかった。すでに、ここにはいないようだった。どこかに旅に出てしまったのだろうか。 仕方がない。今晩はここに泊まる事にした。 滝の音が聞こえていた。 月明かりの下で、太郎と楓は酒盛りをしていた。 昨夜、みんなで飲んだ酒が残ったので、持って行けと言われ、そのまま、とっくりをぶら下げて来たのだった。お涼が作ってくれた握り飯も残っていた。握り飯を肴にして、二人は酒を飲んでいた。 「おかしいわね」と楓が笑いながら言った。 「何が」と太郎は聞いた。 「昨日まで、あんなにすごいお屋敷にいて、今日はこんな所にいる。あまりにも差があり過ぎるわ」 「そう言えばそうだな。昨日まで、ずっと贅沢をしてたな。田曽浦の屋敷も立派だったし、橘屋も立派だったし、無為斎殿の屋敷ときたら、もう、愛洲の殿様の屋敷よりもすごかったもんな。あれ程の贅沢はもう、二度とできないだろうな」 「そうよね。あんなすごい御殿に一月近くも暮らしていたなんて、今、思うと、とても信じられないわね」 「うん。でも、まさか、あそこで松恵尼殿に会うとは思わなかったな」 「そうよ。びっくりしたわ。それに松恵尼様が先代の御所様のお妾さんだったなんて、もう、ほんと驚いたわ」 「うん。確かにな。しかし、俺は松恵尼殿が『陰の術』をやっていた、と言う事の方が驚きだったよ」 「陰の術?」 「そうさ。松恵尼殿がやっていたのは、まさしく、陰の術だよ。木登りなんかはしなくても、北畠殿のために敵の情報を探っていたんだから立派に陰の術さ。きっと、すごい組織を持って、あちこちに潜入させて情報を集めていたに違いないよ」 「そうね。今、思えば、あの花養院に色んな商人の人たちが出入りしてたわ。客間で松恵尼様と何かを話すと、また、どこかに出掛けて行ったわ。松恵尼様のお弟子さんの尼さんもあちこちにいっぱいいるみたいだし」 「そうだろう。北畠の殿様が後ろに付いていれば、人だってすぐに集められるからな。きっと、松恵尼殿は手下をいっぱい持っているんだよ」 「すごいわね‥‥‥」 「ああ。確かにすごいよ‥‥‥酒が終わっちまったな」 「あなた、お酒、強くなったんじゃない」 「毎日、飲んでいたからな、強くなるだろう」 「飲兵衛にならないでよ」 「酒も修行さ」 「もう、寝ましょ」 「そうだな。女子の修行もしなくっちゃな」 「そうよ」 朝、目が覚めると雨が降っていた。夕べは月が出ていたというのに‥‥‥ 太郎は今日、楓にここの色々な滝を見せようと思っていたのに、この雨では駄目だった。昼近くになって、ようやく小降りになったので、不動の滝だけを見て 弥五郎の家は相変わらず、山に囲まれてひっそりと建っていた。 懐かしかった。 ここは、山伏、太郎坊移香の誕生の地だった。ここから、山伏としての太郎の生活が始まった。師の風眼坊と栄意坊、そして、弥五郎と楽しく過ごしたあの夜を太郎は思い出していた。 生憎、弥五郎も留守だった。 太郎は楓と顔を見合わせた。なぜか、ついていなかった。 二人を迎えたのは弥五郎の奥さんのようだった。あの夜、師匠が 奥さんは太郎と楓の姿をまじまじと見ていた。 太郎は本名を名乗らずに風眼坊の弟子の太郎坊移香と名乗った。そして、今は、ちょっとした都合で侍のなりをしていると付け加えた。 奥さんは、そうですかと納得してくれ、主人は今、裏山にいるでしょうと教えてくれた。二人は裏山の道を聞いて、訪ねてみる事にした。 「今の人、どこか、お前に似てるな」と太郎は言った。 「えっ? どこが」と楓が不思議そうに聞いた。 「あの人、小太刀の名人だよ」 「ほんとなの」 「松恵尼様の所にいたそうだ」 「えっ? あたし、知らないわよ」 「お前が、まだ、小さかった頃じゃないのか」 「そうね‥‥‥覚えてないわ」 山の中の細い道はどこまでも続いていた。 一体、こんな山の中で何をしてるのだろう。 やがて、騒がしい、人の声と物音が聞こえて来た。 懐かしかった。それは、飯道山の音と同じだった。 若い者たちが武術の稽古に励んでいた。 弥五郎もいた。そして、何と、栄意坊もいた。 二人が顔を出すと、皆、稽古をやめた。 中には二人を睨みつけて、今にも掛かって来そうな者もいた。その緊張をほぐしたのは栄意坊だった。相変わらず、髭だらけの顔で笑いながら、「おお、太郎坊! どうしたんじゃ、懐かしいのう」と言いながら近づいて来た。 弥五郎も近づいて来た。 皆はまだ、二人の方を見ていたが、警戒心は消え、今度は何かに驚いているように、なぜか、そわそわとしていた。 弥五郎は皆に、稽古に戻れと命じた。皆は稽古に戻ったが、まだ、太郎たちを気にしていた。 「どうしたんじゃ、一体」と栄意坊は言った。「どうして、こんな所にいるんじゃ」 太郎は飯道山を下りてから、今日までの事を簡単に説明をした。 「そうじゃったんか、成程のう」 「まあ、こんな所で立ち話も何じゃ、うちへ行こう」と弥五郎が誘った。 「そうか、懐かしいのう。おぬしの噂はわしもよく耳にしたぞ。特に、おぬしの『陰の術』は伊賀のこんなはずれにまで聞こえとるわい」と栄意坊は歩きながら言った。 「さっきの連中たちは、おぬしが太郎坊だと聞いてびっくりしていたんじゃよ」と弥五郎は言った。「おぬしは知らんじゃろうが、太郎坊と陰の術というのは、伊賀、甲賀の若い連中は誰でも知っておる。今年は伊賀からも陰の術を習おうと飯道山に登った者がかなりいる。何年振りじゃろうのう。おぬしと初めて会った時、まさか、こんなに有名になるとは思いもしなかったぞ。さすが、風眼坊殿じゃのう。たいした弟子を持ったもんじゃ」 「ところで、太郎坊よ。おぬし、陰の術を使って、楓殿まで盗み出して来たのか」と栄意坊は二人を見比べた。 「はい、楓の心を盗みました」 「まったく、おぬしにはかなわんのう」と栄意坊は大声で笑った。 弥五郎は、どうせ、今日はまだ、何も食べていないのだろうと気をきかせて、食事の支度をしてくれた。太郎と楓は有り難く頂戴した。 しばらく話をしてから、弥五郎は、「ゆっくりしていってくれ」と言い、また、裏山に戻って行った。 栄意坊は残っていた。 楓は弥五郎の奥さんの手伝いをしている。奥さんに昔の事を色々と聞いているのだろう。 「いつから、ここにいるんですか」と太郎は栄意坊に聞いた。 「そうさのう、もう、半年にもなるかのう」 「ここで、みんなに槍を教えてるんですか」 「ああ、弥五郎に頼まれてのう。別にやる事もなかったしな。のう、太郎坊、ちょっと外にでも出んか」と栄意坊は言うと、先に外に出て行った。 太郎はどうしたんだろうと思いながら、栄意坊の後を追った。 栄意坊はどんどんと先に立って歩いて行った。 ちょっとした原っぱまで来ると、栄意坊は草の上に腰を下ろした。 太郎も隣に腰を下ろした。 「なあ、太郎坊、おぬし、これから、どうするんじゃ」と栄意坊は下を向いて、草をいじりながら聞いた。 なぜか、栄意坊は変だった。何となく、気弱に見えた。こんな栄意坊を見るのは初めてだった。前は、いつも陽気で豪快だった。何かあったのだろうか。 「とりあえずは飯道山に戻って、また、修行をします」と太郎は言った。 「また、修行か‥‥‥おぬしはまだ若いからのう」 「どうかしたんですか」と太郎は聞いてみた。 「おぬし、今、いくつじゃ」と栄意坊は聞いた。 「二十一です」と太郎は答えた。 「二十一か、若いのう。わしは、もう四十じゃ。もう、四十にもなってしまった‥‥‥最近のう、やたらと年が気になるんじゃよ」 栄意坊は自分の過去を振り返って、ぽつりぽつりと太郎に聞かせた。 栄意坊は 川の民というのは、川で魚やスッポンを取ったり、竹で籠を作ったり、菅で笠や蓑を作ったりして、それを売って暮らしている人たちであった。山の民と同じく、一ケ所に定住しないで移動しながら暮らし、一般の人たちとは付き合わなかった。 栄意坊は川の民の掟によって育てられ、成長して行った。 ある日、事件が起きた。 栄意坊がいつものように川で魚を取っていると、そこに、馬に乗った二人の侍が通り掛かった。その侍は馬に水を飲ませながら、栄意坊が持っていた見事な魚をくれと言った。 いつもの栄意坊だったら、誰か人の気配がしたら身を隠しただろう。そのように躾られていた。しかし、その日はたまたま虫の居所が悪かった。侍たちが来ようと平気で魚を取っていた。 栄意坊は魚を侍に渡した。当然、礼金をくれるだろうと思っていた。ところが、侍たちは銭もくれずに、栄意坊を馬鹿にして、そのまま帰ろうとした。 栄意坊は引き留めた。 侍は刀を抜いた。 栄意坊はかっときて、持前の馬鹿力で侍を投げ飛ばした。一人は打ち所が悪くて死んでしまい、もう一人はやっとの思いで逃げて行った。 それから、一騒ぎとなった。 侍たちが大勢、山狩りに来た。栄意坊の仲間たちは皆、逃げて行った。 栄意坊は彼らと一緒にいると彼らに迷惑が掛かるので、両親とも別れ、一人で別の方へ逃げた。 栄意坊はそのまま京の都まで逃げた。 栄意坊、十七歳の時だった。 川で魚を取って、それを都で売れば、何とか生きて行く事はできた。 そんなある日、一人の山伏と出会った。 山伏は魚を取っている栄意坊を見て笑った。栄意坊は腹を立てて山伏に掛かって行った。山伏は馬鹿力の栄意坊を投げ飛ばした。栄意坊には信じられなかった。何度、掛かって行っても投げ飛ばされた。栄意坊は素直に負けを認め、山伏の弟子となった。 その山伏は、風眼坊たちが親爺と呼んでいる、あの山伏だった。栄意坊は飯道山に連れて来られ、山伏となった。 その当時はまだ、飯道山もそれ程、武術が盛んではなかった。武術の修行はしていても、それは山伏に限り、一般の者たちには教えていなかった。栄意坊は親爺に槍術を教わった。親爺のやり方は厳しかったが栄意坊は耐えた。 親爺は飯道山を武術道場にしようと考えていた。山伏だけでなく、侍や郷士たちにも山伏流武術を教えようと考えていた。親爺はあちこちを回って強い者を集めていた。 やがて、葛城山より高林坊が飯道山に来た。そして、大峯山より風眼坊、伊吹山より火乱坊と集まり、その三人と栄意坊を飯道山の四天王として武術道場は栄えて行った。 「あの頃は楽しかった」と栄意坊は懐かしそうに言った。 飯道山には五年もいた。 その後、栄意坊は旅に出た。東から南まで、あらゆる所を旅して回った。 武蔵の国(東京都、埼玉県、神奈川県北東部)で、れいと言う娘と出会い一緒に暮らした。二年間、幸せな毎日が続いた。ところが、れいは子供を流産し、子供と共にあっけなく死んでしまった。 栄意坊は荒れた。自分も死ぬ気になって、戦に出て、狂ったように暴れた。しかし、死ぬ事はできなかった。 そんな時、栄意坊は江戸城の太田 そして、赤目の滝に落ち着き、しばらく、のんびりとやっていた。今までは平気でのんびりとやって行けた。しかし、今年になってから、それができなくなった。やたらと年が気になってしょうがない。 「もう、四十じゃ。わしは今まで、何をして来たんじゃろう。これから何をしたらいいんじゃ。なあ、太郎坊、わしは一体、何をしたらいいんじゃ」 栄意坊は草をつかんだまま俯いていた。 太郎には何と言っていいのかわからなかった。 「わしはのう、何かがしたいんじゃ。何か、こう、生きてるっていう実感の涌くような事がのう‥‥‥」 太郎は黙っていた。 「あ〜あ」と栄意坊は両手を上に伸ばすと、そのまま、後ろに倒れて横になった。 「太郎坊よ、すまんな」と栄意坊は言った。「何か、すっきりしたわい。胸の内というか、思っている事をみんな言ったら、すっきりした‥‥‥わしが川の民の出だと話したのは、おぬしが初めてじゃ。風眼坊の奴も知らん‥‥‥おぬしは何か、でっかい事をやりそうだしのう。わしにもその何かをやる時には手伝わしてくれよ」 「そんな、今の俺は、ただ、剣の修行をするだけです」 「わかっとる。ただ、今のわしの言葉を覚えておいてくれればいい‥‥‥さて、胸もすっきりした事だし、ちょっと、体でも動かして来るか。おぬしも一緒に来い」 栄意坊は起き上がると、「行くぞ」と吠えながら裏山に走って行った。 よくわからないが、いつもの栄意坊に戻ったらしい。 太郎も栄意坊の後を追って裏山に登って行った。
2
太郎と楓は真っすぐ、飯道山に帰る事はできなくなった。 栄意坊の話を聞いてから裏山に行くと、みんなが太郎を待っていた。太郎を待っていたというより太郎坊を待っていた。太郎坊にぜひ、陰の術を教えてくれ、とみんなして迫って来た。これから、すぐ、飯道山に帰るとは言えなくなってしまった。 「少し、教えてやってくれ」と弥五郎も言った。 弥五郎に頼まれたら断るわけには行かなかった。栄意坊までも、もう少し、ここにいろと言う。太郎は次の日から陰の術を教えるという事になってしまった。 楓に相談すると、「いいじゃない。陰の術がそれだけ有名なのよ。いい機会だから、伊賀の国にも、あなたの陰の術を広めればいいわ」と賛成した。 「お前はどうする」 「あたしなら平気よ。お祐さんのお手伝いをしてるわ。若い人たちがたくさんいるから何かと大変らしいの。それに、お子さんと遊んでいたっていいし」 「そうか‥‥‥修行はどこでもできるしな。ここで、しばらく、陰の術を教えながら陰の術を完成させるようにしよう」 「ねえ、あたし、お祐さんの事、思い出したわ。お祐さん、あたしの事、覚えてたの。でも、びっくりしてた。お祐さんからその頃の話を聞いて、だんだんと思い出して来たの。お祐さんの話だと、あたし、二歳の時にあのお寺に来たんですって。お祐さん、あたしの事、妹みたいに可愛いがってくれたんですって‥‥‥あたし、お祐さんがいつも、庭で剣術のお稽古をしていたのを思い出したわ。あたしねえ、お祐さんがお嫁に行って、あのお寺から出て行く時、物すごく泣いたんですって‥‥‥お祐さん、出て行くのが辛かったって言ったわ‥‥‥あたしが薙刀のお稽古を一生懸命やったのは、もしかしたら、子供心にお祐さんの剣術のお稽古の事を覚えていたのかもしれないわ‥‥‥あたし、お祐さんに会えて良かった」 「そうだったのか‥‥‥それじゃあ、お祐さんはお前のお姉さんみたいなもんだな」 「そうね」 「それじゃあ、弥五郎殿は兄貴だな。兄貴から頼まれたんじゃ断れないな」 「そうよ。いくらかでも恩返ししなくちゃね」 「そうだな」と太郎は頷いた。 「ところで、どの位、ここにいるの」 「そうだな、飯道山では時間が短かったから一月かかったけど、二日分を一日で教えれば、半月もいれば充分じゃないか」 「頑張ってね。あたしも何か手伝う事があれば手伝うわ」 百地弥五郎の所に武術の稽古に来ているのは、この近所の者がほとんどだったが、ここから二里程離れた、名張から来ている者も数人いた。また、裏山というのが丁度、伊賀と大和の国境にあるため、大和の国(奈良県)から来ている者もいた。全部で二十人近い若い連中が集まっている。弥五郎の所に世話になっている者も七人いた。今、三人は用があって出掛けていていないが、四人は稽古に励んでいた。 弥五郎がここに来たのは七年前の事だった。 弥五郎の生まれた百地家は服部氏の一族だった。服部氏は古くからこの伊賀の地に入って勢力を広げ、一族は伊賀の各地に散らばっていた。中でも上野の西南の予野を本拠に持つ本家の服部家と、北部の甲賀との国境近くの湯舟に本拠を持つ藤林家と、中東部の 弥五郎は百地家の三男に生まれ、子供の頃から剣槍の稽古に励んでいた。十六歳の時、親爺と呼ばれている飯道山の山伏と出会い、彼に連れられて飯道山に登った。その頃、飯道山の武術道場の創成期で、親爺は各地から才能の有りそうな者を集めていた。弥五郎も親爺に選ばれた一人だった。 飯道山には五年間もいた。四天王のもとで剣、槍、棒、薙刀とすべての武術を修行し、さらに自分で工夫して手裏剣術をものにした。そして、松恵尼の世話で花養院にいたお祐を嫁に貰い、喰代に帰った。 お祐は北畠一族の娘だった。一族と言っても本家の北畠教具に逆らって敵対し、滅ぼされた家の者だった。父親は討ち死にし、母親は自害した。お祐は当時、十三歳だったが助けられ、教具の計らいで松恵尼の所に預けられた。 松恵尼の所に来た当時のお祐は教具を両親の お祐の中の恨みは消えていった。そんな時、弥五郎と出会った。何度か会っているうちにお互いに惹かれて行った。 喰代に帰った弥五郎とお祐は子供も二人でき、幸せに暮らしていた。 ある日、二人の所に松恵尼が訪ねて来た。 一仕事しないか、と言う。北畠氏のために働いてみないか、と言った。 北畠氏のために大和方面の情報集めをして欲しい。表向きは北畠氏のためだが、それは自分のためにもなる事だ。これからは正確で早い情報というのは一つの武器になる。その情報の使い方次第では城を一つ、つぶす事もできるし、人の命を助ける事もできる。どうだ、やってみないか、と松恵尼は言った。 弥五郎とお祐は思い切って、やってみる事にした。どうせ、ここにいて、兄の下で働くより、いっそ、自分たちで何かを始めた方が面白そうだった。 二人は子供と若い者を三人連れて、伊賀と大和の国境近くの竜口にやって来た。表向きは郷士として、若い者たちを使って百姓仕事をやり、裏では、彼らを使って北畠氏のために大和を中心に情報集めをしていた。 その事を知っているのは、北畠教具と松恵尼だけだった。栄意坊も知らない。裏で何かをやっているというのは感付いているが、本当の所は知らなかった。 弥五郎には三人の子供がいた。一番上は十四歳になる女の子でサクラ、二番目は男の子で十歳になる小五郎、一番下はまだ四歳の女の子、ナツメだった。 サクラは母親似の綺麗な子で、母親の手伝いをしてよく働いていた。小五郎は午前中、姉のサクラから読み書きを習い、午後は裏山に行って剣術の稽古に励んでいた。ナツメは楓になついて、よく一緒に遊んでいた。 ここでも武術の稽古は午後からだった。午前中はみんな、田や畑に出て働いている。午後になるとぞろぞろと山に集まって来た。 太郎は朝から誰もいない裏山に行き、その日に教える事を考え、そして、立木を無為斎だと思って剣術の稽古をした。 裏山に集まって来る若い連中の数は日を追って増えていった。初め、二十人位だったのが、五日も経つと倍の四十人にもなっていた。 太郎坊本人から陰の術を習う機会など滅多にないからと、弥五郎は来る者は誰でも拒まず稽古に参加させていた。 稽古する者の数が増えて来ると、教えるのも大変だった。弥五郎や栄意坊に手伝ってもらっても、なかなか、うまく行かなかった。第一、飯道山とは教える相手が全然、違った。飯道山では皆、一年間の厳しい修行に耐えて来た者ばかりだったので、皆、呑み込みが早かったが、ここの連中ははっきり言って素人と大差ない連中ばかりだった。 栄意坊が何となく、おかしくなったわけがわかるような気がした。毎日、こんな連中を相手にしていたら、だんだんと自分がいやになって行くだろう。かと言って、基本からやっている暇はなかった。形だけでも教えて、後は彼らの修行に任せるしかない。 太郎は十七日間、彼らに陰の術を教えた。教えるべき事はすべて教えた。 十七日目の最後の日、この山に集まって来ていたのは、何と百人を越えていた。教えるどころではなかった。みんな、お祭り気分だった。そのうちの半分以上は陰の術を習うためではなく、ただ、一目、陰の術を作り出した太郎坊を見たいために集まって来た連中だった。 お祭りは終わった。 太郎と楓は百地弥五郎の家を後にした。三人の子供たちが手を振ってくれた。 「おねえちゃん、また、来てね」とナツメが小さな手を振りながら言った。 太郎と楓も手を振って、別れた。
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