酔雲庵

天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記

井野酔雲

創作ノート







大石慎三郎著『田沼意次の時代』より




宝永4年(1707 富士山噴火する。
享保2年(1717 大岡忠相、町奉行となる。
享保4年(1719

田沼意次、将軍吉宗の御小姓田沼意行の長男として生まれる。

享保6年(1721 将軍吉宗、目安箱を設置する。
5月

浅間山、噴火する。

享保17年(1732

意次、吉宗に拝謁。

享保19年(1734

意次、世子家重の御小姓となる。

享保20年(1735 3月

意次、父親が亡くなり、その遺跡を継ぐ。

元文元年(1736

大岡忠相、寺社奉行となる。

元文2年(1737 12

意次、従五位下主殿頭に叙任。

延享2年(1745

吉宗が隠居し家重が九代将軍になると意次も従って西の丸から本丸に移る。

延享4年(1747

意次、小姓組番頭格になる。

延享5年(1748

意次、小姓組番頭になる。

宝暦元年(1751 6月

吉宗死す。

7月18

意次、側用申次に栄進する。

宝暦4年(1754 6〜7月

浅間山、噴火する。

宝暦8年(1758 9月

意次、加増されて一万石となり、大名の列に加わる。田沼時代始まる。

宝暦10年(1760 5月

家重、将軍職をその子家治に譲る。

宝暦12年(1762 12

松平武元、勝手掛老中(民政と財政を専管する老中)となる。

明和元年(1764

日光例幣使のための助郷に反対し、信濃、上野、下野、武蔵の農民たち約20万人が一揆を起こす(伝馬騒動)。

明和2年(1765

鈴木春信、錦絵を生み出す。

明和4年(1767

意次、側用人になる。明和事件起こる。

大田南畝(19)、『寝惚先生文集』を刊行。

明和6年(1769

意次、老中に準ぜられる。

明和9年(1772

目黒行人坂の大火。

安永元年(1772

意次、側用人の役を兼ねながら老中に任じられる。

安永5年(1776

疱瘡が流行。

安永8年(1779 7月

松平武元(67)死す。

安永9年(1780

大雨が降り、関東一円に大洪水が起こり作物できず。

天明元年(1781 6月

上州絹一揆起こる。

天明3年(1783 7月

浅間山大噴火。

天明4年(1784 3月24

田沼意知、斬られる。

4月2日

意知(36)死す。

天明5年(1785 2月

蝦夷地調査隊、派遣される。

天明6年(1786 8月15

将軍家治、発病する。意次、失脚する。

天明7年(1787 6月

松平定信、老中首座となる。

寛政4年(1792

島原半島雲仙岳、噴火する。



  • 天明元年の銭相場は金1両に銭6貫文。






天明3年の浅間焼け



  • 7月6〜7日、噴火口から灼熱した熔岩が浅間山の北側の火口壁を越えて流れ出し、山体東北面の地表を覆う。現在の北軽井沢別荘地帯を覆っている『吾妻火砕流』と呼ばれている岩肌の荒い地帯がそれである。
  • 翌8日、午前10時頃、信州木曽御嶽、戸隠山あたりから飛び出した『光るもの』が浅間山の火口に飛び入り、山がむくむくと動き出したかと思うままに、一大音響と共に大爆発を起こし、幅30間(約54メートル)、高さ数百丈(約15002000メートル)にも及ぶかと思われる火煙を噴き上げたが、それが北側に崩れ倒れたかと思う間に、火口から噴き出た多量の熔岩流が、今度はまっすぐ北側の急斜面を滑り落ち、途中の土砂岩石を巻き込みながら、その量を増し、あっと言う間に火口から約15キロメートル北にある鎌原村を埋め尽くし、さらに下って利根川の支流の吾妻川までなだれ落ちて行った。『鎌原火砕流』と名付けられているのがこれである。
  • 続いて浅間山は今度は粘性の強い熔岩流を火口から吹き出し、さしもの大噴火もこれを最後に急速に終焉に向かっている。この最後の部分が『鬼押し出し』の名で知られている『鬼押出熔岩流』である。 
  • 最後の3日間は日中から火山灰のために真っ暗になり、上州、武州では家々は昼間から灯火を灯し、また深谷宿では外出するにも提灯を持ち、お互いに衝突しないように声を掛け合いながら歩いたと言われている。
  • 軽井沢では7月6日は朝から猪、鹿、狼などが山から走り出て来て人々を脅かし、8日には人々はいたたまれず、老幼男女とも夜具、なべ、釜、ざる、すり鉢、桶などを頭に被って逃げ出した。被害も真っ赤に焼けた火石の直撃を受けて即死した男を初め傷つく者も多く、また家屋も本陣が三棟大破したのを初め、焼失家屋52軒、潰家82軒、大破48軒、計185軒に及ぶ。焼失は降って来た火石から火災になったもの、潰家とは降って来た砂礫の重みで潰れたものである。軽井沢の次に被害が大きかったのが碓氷峠を越えた坂本宿で、軽井沢より西にある沓掛、追分両宿は浅間山より近いにもかかわらず被害は少なく、それより西にある小諸、岩村方面は被害なし。
  • 草津温泉では隅田川両国の花火より見物であると浅間山の噴火を見るため人々が集まって来、夕食もそこのけに高台に登って夜空に火を吹く浅間山を見て喜んでいた。 
  • 鎌原村の38人は縁者などに引き取られ、村に帰って復興に取り組んだのは93人。





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