羽尾と鎌原
善太夫の義父、長野原城主 吾妻郡が武田の支配下に入って以来、 去年も、一岩斎と羽尾氏は宮内少輔を攻めたが、善太夫らに知らせなかったため、善太夫らは宮内少輔の味方をし、襲撃は失敗に終わった。今回は失敗しないように、長門守を善太夫のもとに送って来たのだった。 奥の部屋に寝ている妻を見舞った後、善太夫は長門守を庭園内に建つ茶室に案内した。 「大した事なさそうじゃの」と長門守は池の中を覗き込むようにして言った。 「はい。冬住みの準備で忙しかったので疲れたのでしょう」 「鈴の奴、亡くなった母親にそっくりになって来たのう‥‥‥子供ができんのが残念じゃ」 善太夫は長門守のためにお茶を お茶を飲みながら、長門守は子供の頃の鈴とその母親の事を懐かしそうに話してくれた。 なかなか本題に入ろうとしなかったので、「宮内少輔殿の事ですね」と善太夫の方から頃合いを見て切り出した。 長門守は驚いたような振りを見せたが、顔を少ししかめながら、うなづいた。 「困っておる。兄上(羽尾道雲)と宮内少輔は仲が悪すぎる。同族でありながら困ったもんじゃ。武田、上杉、北条と 「争いは避けられないのですか」と善太夫は聞いた。 「難しいのう」と長門守は首を振った。「一岩斎殿は武田軍に降伏したとはいえ、本気ではない。越後の管領殿と年中、連絡を取っている。この冬にも管領殿は 長門守は宮内少輔の味方はしないでくれと言って帰って行った。 長門守の帰った後、善太夫は茶室の裏に隠れて話を聞いていた円覚坊を呼んだ。 「どうしたらいいと思う」 円覚坊は目を細めて遠くの山を眺めながら、「どっち付かずにいるわけにもいかんじゃろうな」と言った。 善太夫はうなづいた。「鎌原を敵に回せば、一徳斎殿を裏切る事となるし、一岩斎と羽尾を敵に回せば、草津の入り口はふさがれる。どうしたらいいものかのう。長門守殿は管領殿がまた出て来ると言っていたが、あれは本当なのか」 「本当じゃ。三国峠が雪におおわれる前に上野に来るじゃろう」 「そして、雪が溶けるまで、こっちにいるのか」 「さよう」 「武田はどうじゃ。管領殿が出て来たら、信玄殿も黙ってはいまい。また、鳥居峠を越えて来るじゃろう」 「いや。どうやら、吾妻郡は後回しのようじゃな」 「後回し?」 「うむ。信玄殿は碓氷峠を攻略するつもりじゃ」 「箕輪城を狙っているのか」 「そうじゃ。信玄殿の恐れていた信濃守殿は亡くなられた。箕輪では、その死を隠しているが信玄殿は騙されまい。箕輪城を落とせば、西上州を支配したのも同じじゃ。箕輪城を落とせば、吾妻郡を支配下にするのは簡単な事じゃ」 「成程、武田は碓氷峠から来るか‥‥‥」 「今の所は宮内少輔の方が不利じゃな。宮内少輔が武田の援護を頼んでも、すぐに、武田の兵が鳥居峠を越えて来る事はあるまい」 「分かった。今回は一岩斎に従えという事じゃな」 「仕方あるまい。草津を守らなければならんからのう」 十月下旬、斎藤一岩斎の指揮のもと鎌原宮内少輔の城は攻撃された。 羽尾道雲、海野長門守、海野 宮内少輔の伜、筑前守は海野長門守の娘を嫁に貰う事となり、しばらくは岩櫃城下にて暮らす事となった。善太夫の妻、鈴の妹が筑前守の嫁になったわけである。そして、以後、鎌原氏を初め吾妻郡の武士は皆、斎藤一岩斎を旗頭として、何事が起ころうとも行動を共にすると決められた。 十一月に管領上杉政虎が越後の兵を引き連れて、廐橋城にやって来ると、斎藤一岩斎は真っ先に挨拶に出掛けて行った。 善太夫らは岩櫃城下に集められ、一岩斎の後を追うように廐橋城まで出掛けた。鎌原宮内少輔は、またもや 管領政虎に対抗するため、甲斐の武田信玄は 善太夫ら岩下衆は箕輪衆と共に、倉賀野城を救援するために出陣したが、武田軍に完全に包囲されている倉賀野城を救う事は不可能に近かった。 武田軍は一月余り倉賀野城を攻めたが、落とすのは難しいと見て引き上げて行った。 善太夫らは陣中で新年を迎え、二月になってから領地に帰る事が許された。 一月遅れの正月を地元で迎え、のんびりする間もなく、三月になるとまた、出陣命令が来た。 管領が今、 善太夫は至急、 管領上杉氏、北条氏、武田氏が上野の国に侵入して来てからというもの、湯治客は極端に減っている。負傷した武士たちは来るが、以前のように、銭を落として行く商人や 善太夫は家臣たちを励まして、下野の国へと向かった。しかし、吾妻衆が佐野に着いた時には、すでに、唐沢山城の城主佐野 一岩斎はニコニコして政虎のもとに戦勝祝いに出掛けて行ったが、善太夫は素直に喜ぶ事はできなかった。佐野氏も善太夫ら吾妻衆と同じ立場にあった。上杉勢力と北条勢力に挟まれ、上杉軍が攻めて来れば上杉方となり、北条軍が攻めて来れば北条方とならざるを得ない状況にあった。善太夫は唐沢山城を包囲していた大軍を眺めながら、この大軍が、いつかは吾妻郡に攻め入って来るだろうと恐れた。 上杉政虎は佐野氏を落とすと廐橋城に戻り、 上杉勢が消えると元気になるのが、鎌原宮内少輔だった。 宮内少輔は羽尾氏との争いの原因となっている領地の境界問題を武田信玄に裁いて貰おうと真田一徳斎に訴えた。さっそく、甲府から検使として 道雲は斎藤一岩斎に訴えて、一岩斎は新たに検使を宮内少輔のもとに送った。宮内少輔は武田信玄の検使が決めたものを今更、変えられないとはねつけたが、一岩斎は強引に従わせようした。 善太夫がまた一騒動起こりそうだなと思っていると三日後、鎌原宮内少輔が消えたとの知らせが届いた。善太夫には信じられなかったが確かな情報だった。 宮内少輔は岩櫃城から伜、筑前守をひそかに呼び寄せると家臣やその家族全員を引き連れ、先祖代々の土地を捨てて真田一徳斎のもとへ去って行った。 領主のいなくなった鎌原領は、労せずして羽尾道雲の領地となり、道雲はさっそく羽尾城から鎌原城に移った。長年の 「どういう事じゃ」と善太夫は円覚坊に聞いた。「なぜ、宮内少輔殿は鎌原を捨てたんじゃ」 「多分、一徳斎殿の入れ知恵じゃろうな」と円覚坊は 「一徳斎殿が鎌原の地を道雲殿にくれてやれと言ったというのか」 「さよう。くれたというよりは一時、預けたと言った方がいいじゃろう。お屋形様はいつじゃったか、国峰城の小幡尾張守が草津に来た時の事を覚えておるじゃろう」 「ああ。湯治中に国峰城を同族の 「その尾張守、武田の先鋒として上州に攻め入って、今は国峰城はもとより図書助の領地までも我物としておる」 「うむ。すると、宮内少輔殿も同じ事を狙っているというのか」 円覚坊はうなづいた。 「一徳斎殿は敵に回したら恐ろしいお人じゃ。吾妻郡を手に入れるには、今の状況のままだと無理だと考えたんじゃろう。大軍を率いて攻めて行っても、あっさりと降参してしまう。降参したからといって、吾妻郡が武田の支配下に入ったわけでもない。上杉が出て来れば、また、上杉方となってしまうからのう。かといって、降参して来る者を無理に攻めるわけにもいかん。そこで、吾妻郡に攻め込む、何かいいきっかけが欲しいと考えた。そして、宮内少輔に逃げて来て貰ったというわけじゃな」 「成程な」と善太夫はうなづいた。「領地を奪われた宮内少輔殿を助けるために、一徳斎殿は攻めて来るんじゃな」 「今回は、道雲も簡単に降伏するわけにも行くまい。武田が送った検使にけちを付け、宮内少輔を追い出したんじゃからな」 「うむ。道雲殿は武田にやられるか‥‥‥」 「道雲は当然、斎藤一岩斎を頼る。一岩斎がどう出るかじゃな」 「道雲を見捨てて、武田に降伏するか、あるいは、上杉に助けを求めるか‥‥‥」 「多分、降伏はしないじゃろう。一岩斎は去年とは違う。箕輪の信濃守が亡くなってから、一岩斎は着実に勢力を伸ばしている。管領殿に留守はわしが守ると豪語している位じゃからのう」 「うむ‥‥‥」 「となると、この吾妻にて、武田対上杉の 円覚坊は善太夫を見つめた。 「一岩斎は嫌いじゃ」と善太夫は答えた。 「ほう、この大事な事を好き嫌いでお決めになるか」 「まあ、そうじゃ」と善太夫は笑った。「武田信玄殿と上杉政虎殿は甲乙付けがたい。共に大したお人じゃ。しかし、その下にいる真田一徳斎殿と斎藤一岩斎を比べてみれば、どっちが優位か 「確かに。それじゃあ、わしは宮内少輔のもとに 「頼むわ。一徳斎殿にもよろしゅうな」 円覚坊はニヤッと笑うと部屋から出て行った。 善太夫は廊下に出て、庭の桜を眺めた。 すでに、つぼみが開き始めていた。 もうすぐ、山開きが近いが、今年も湯治客の数は少なくなりそうだと顔をしかめた。
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小雨村