酔雲庵


戦国草津温泉記・湯本善太夫

(2007年改訂版)

井野酔雲

創作ノート







近藤義雄著「箕輪城と長野氏」より




  • 室田長年寺‥‥‥曹洞宗。1492年、長野伊予守業尚開基、開山は白井双林寺三世住職曇英禅師。
  • 原山長純寺‥‥‥曹洞宗。1497年、長野信業により鬼石町の永源寺四世幻室伊蓬禅師が招かれて箕郷町下芝の地に創建される。1557年、長野業政が箕輪城に拠り、長純寺を現在地に移して菩提寺にした。業政は母芳林院殿の十七回忌供養のため、現在地に大伽藍を建築したが、1563年、武田軍の兵火に会い焼失する。
  • 箕輪石上寺‥‥‥箕輪町東明屋。箕輪城の鬼門避けに建立される。箕輪に移る前は高崎市浜川町の御布呂(おふる)の地にあったと伝えられ、布留山石上寺は石上布留社の別当寺。真言宗。
  • 金池山来迎寺‥‥‥浜川。時宗の二祖真教開基の道場。長野氏が外護する。箕輪城落城後、業忠(初め忠業)が境内に塔頭善長院を建てる。寺に接して長野氏歴代の墓あり。長野氏が箕輪に移る前の菩提寺。
  • 極楽院‥‥‥和田山。本山派修験年行事職。
  • 日蓮宗妙福寺‥‥‥西明屋。業政開基の祈願所。
  • 白岩観音(長谷寺)‥‥‥大坊以下白岩六坊あり、本山派修験。1566年、兵火に焼かれる。
  • 榛名神社‥‥‥本山派修験。




  • 長野左衛門尉為兼(−1477.5.8、景春方として戦死)
  • 長野孫六郎房兼(−1477.9.27、景春方として戦死)
  • 長野方業(−1489)‥‥‥栄興院殿固山宗賢。左衛門尉。初代廐橋城主。
  • 長野業尚(−1503.2.20)‥‥‥伊予守。長年寺殿桂岩長善居士。浜川より移り、室田鷹留城を築き住む。菩提寺として長年寺を開基。墓は長年寺にあり。1496年、戸榛名神社(榛名町大字神戸)の神領を安堵する。
  • 長野憲業(−1530.11.7)‥‥‥長年寺殿南方長宗庵主。業尚の男にして初め信業と称す。伊予守。上杉憲房に仕え、長尾為景を討って功あり、編諱を賜いて憲業とと改める。鷹留城を長子業氏に譲り、従って群馬郡明屋村に城を築く。これを箕輪城と名づく。時に永正9年(1512)なり。後、箕輪城を 次男業政に譲り、吾妻郡猿ケ京の古城を修し住む。名胡桃冬景と戦い負傷し死す。1512年、長年寺に壁書を揚げ、1513年、榛名満行権現に、大戸要害(城主は浦野三河守)を落城せしめた末には百疋の地を寄進するとの願文をを揚げる。この頃、長野氏の勢力は倉渕村東部三之倉方面 にも及ぶ。1530年、吾妻町川戸の戦で負傷し死す。
  • 1527年12月、箕輪に長野左衛門大夫、廐橋に長野宮内大輔がいて、蒼海城の長尾顕景を脅かす。
  • 長野業政(1499−1561.6.21病死)‥‥‥実相院殿一盛長純大居士。原山に長純寺を開基。生前、入道して一盛斎と称す。1560年頃、業政の勢力は赤城南麓にまで及ぶ。業政死後、婿の和田業繁は武田方に寝返る。
    1561年7月、武田軍、国峰城を奪取。
    1563年、高山城の高山彦兵衛尉久守、馬庭城の馬庭中務少輔家重、神保砦の酒井中務少輔高重、中大塚城の小林与右兵衛幡繁、武田に降りる。多比良城の多比良豊後守友定、落城。天引城の甘尾若狭守、神保城の神保小次郎昌光、長根城の小河原右馬助重清、武田に降りる。宇多城の小幡図書助景定、没落。宮崎城の小幡左衛門大夫兼行、白倉城の白倉左衛門尉公仕、高田城の高田大和守繁頼、下仁田鷹留城の小幡三河守信尚、武田に従う。大戸の浦野中務少輔、武田に従う。岩櫃城落城。
    1565年6月、倉賀野城、木部城落城。倉賀野直行は廐橋城へ逃げる。安中左近大夫忠成の安中城、安中越前守忠政の松井田城も落城。
  • 箕輪落城時、業盛に殉じた人々。
    白川満勝、青柳忠家、道寺信貞、下田昌勝、高橋一升、寺沢範安、鷺坂長信、梶山吉方、岸信安、利根木呂安、高浜業方、小沢友信、細谷俊方、田口業祐、大久保成安、八木原為範、同為永、山田茂方、田島輔輝、内山、志村、里見、石原、清水、長根、中島、広木、小暮、新井、橋本、島方、木次山、新波、桜井、伊井、北爪、島屋、富沢、後閑、首藤、中村、岡田、森山等。



  • 利根川‥‥‥永享の頃より蒼海に用水不足、ぜひなく城を石倉に移し、橘山の麓より利根川を引き入れ、太田道灌を招き縄張りし、数年を経て城成就して移る。しかるに享禄、天文両度の洪水に城中散々に押し崩され大河となる。よって、ぜひなく河の東に三の郭僅かに残るを幸いに、家の秘伝の縄張りにてまた城を築きて移る。戦国時代には既に利根川の本流れは今の流路に変わって着ていた。利根川の本流が西に移ると、廐橋の地は新旧利根川に挟まれた要害の地となって来て、総社長尾氏の蒼海城からは大河を隔てた地になり、東上州への進出は利根川を越えなければならなくなった。そのため、廐橋の要害の地に東上州進出の拠点となるような城が必要となって来た。総社長尾氏は文明期を境に衰退し、箕輪長野氏が台頭し、廐橋城は長野氏によって築城される。
  • 橋林寺‥‥‥金井宿(前橋市大手町2丁目)。1489年3月15日、長野左衛門尉方業によって開基。1506年8月6日、長野賢忠より38貫400文の寄進あり。
  • 三夜沢赤城神社の神官、奈良原氏‥‥‥紀伊守(1562年)──宮内少輔(1572)


  • 家老‥‥‥藤井豊後守友忠(浜川城主)、下田大膳太夫正勝、内田因幡守頼信、大熊備中守高忠、八木原下総守信忠。


  • 箕輪城周辺の砦、館跡

    1.東明屋砦(箕郷町東明屋字内出)    2.原中(げんちゅう)砦(同町原中通称内出)
    3.松之沢砦(同町松之沢字内出) 4.下善地砦(同町下善地字下内出)
    5.上善地砦(同町上善地字上上出) 6.生原砦(同町生原字本田中内出)
    7.上芝砦(同町上芝下田屋敷) 8.下芝砦(同町下芝字内出畑)
    9.富岡砦(同町富岡字童子山) 10.和田山館(同町和田山字後和田)
    11.白川砦(同町白川神社東) 12.御門城(榛名町本郷字御門景忠寺)
    13.七曲り砦(同町本郷字七曲り) 14.高浜砦(同町高浜字坂上)
    15.宮沢砦(同町宮沢字下宮沢内出) 16.菅谷城(群馬町菅谷字堀の内)
    17.引間砦(同町引間) 18.中泉砦(同町中泉字内出)
    19.保渡田城(同町保渡田字北城) 20.浜川砦(高崎市浜川町字館)
    21.乙業館(同市浜川町字乙業) 22.矢島館(同市浜川町)
    23.北爪砦(同市浜川町) 24.北新波砦(同市北新波町字古城)
    25.満勝寺館(同市北新波) 26.住吉城(同市沖町字住吉城山)
    27.井野屋敷(同市楽間町字石田) 28.青木屋敷(同市小八木町)
    29.蒼海城(前橋市元総社町字内出) 30漆原城(北群馬郡吉岡村大字漆原東内出、西内出。利根川渡渉地点)
    31長塩屋敷(同郡同村字東原) 32萩原城(高崎市萩原町字内出)
    33島名城(同市元島名町字西内出)


  • 湛光(たんこう)風車‥‥‥長野業政に仕えた忍び。普化禅宗(虚無僧)の宗和派二十一代目。相模国三崎より箕輪に来て、箕輪城の南の地に金剛山慈上寺を建立してもらい、この寺を根拠地として諜報活動をしていた。箕輪に来てより根笹流と改め、慈上寺はその本山となり、各地から虚無僧が集まった。配下を率いて、甲州勢が碓井峠を越えて小休止している隙に敵の輸送隊の物資を馬もろともに盗んでしまったりした。業政のもとに、情報をもたらしたのは外に時宗の徒、修験者などがいた。




 業政(1499−1561)の婿たち

小幡図書助(1561自害)
国峰城 ‥‥‥ 小幡尾張守、◆1560年、武田方となる。小田原遠征に参陣しない。
忍城 ‥‥‥ 成田下総守長泰、◆1561年、北条方となる。
山名城 ‥‥‥ 木部宮内少輔範虎、◆1563年以前落城。
大戸城 ‥‥‥ 大戸右衛門尉、◆1563年、武田方となる。
和田城 ‥‥‥ 和田業繁、◆1562年、武田方となる。
倉賀野城 ‥‥‥ 倉賀野左衛門五郎直行、◆1564年5月、落城する。信玄は大熊伊賀守を入れる。倉賀野直行、廐橋に逃げ、金井淡路守以下は武田に降りる。
羽尾城 ‥‥‥ 羽尾修理亮、◆1563年、落城。修理亮は箕輪に逃げる。
廐橋城 ‥‥‥ 長野彦太郎(−1560)、1560年、長尾景虎が入る。
浜川城 ‥‥‥ 浜川左衛門尉
安中城 ‥‥‥ 安中景繁(忠成、1575戦死)、◆1564年夏、武田方となる。
松井田城 ‥‥‥ 安中越前守忠政(−1575長篠戦死)◆1564年落城。
鷹留城 ‥‥‥ 長野弾正忠業固
高田城 ‥‥‥ 高田繁頼、◆1561年11月、武田に降りる。
後閑城 ‥‥‥ 新田信純、◆1559年、武田に仕える。
羽田城 ‥‥‥ 羽田彦太郎、◆1562年信玄に攻められ落城。羽田城は大戸真楽斎の城となる。



 永禄9年(1566年)9月、箕輪城攻撃


  • 長野右京進氏業、藤井豊後守正安(戦死)、赤名豊前守、寺尾備後守、土肥大膳亮、矢島久左衛門、
  • 松井田城を攻略した武田軍は碓氷川から烏川の流域まで進み、若田原で激戦。青柳金王宗高(戦死)は二百余人で陣を張ったが、小幡上総助信定の三百余の兵に切り崩された。白川五郎光一、下田大膳政勝二百余人は那波無理助の陣を切り崩した。藤井豊後守友忠、次男忠安、高浜六郎業方等五百余人は武田軍の中に攻め入り、切り崩す。武田軍は安中に引き下がる。長野軍も箕輪に引き下がる。武田軍は箕輪を包囲する。
  • 武田軍の箕輪攻撃は高浜砦(砦将匂坂長信は箕輪在城)攻撃から始まる。先鋒の那波無理助三宗 安は二百五十の兵を率いて夜間、雉ケ尾峠を越え、暁の烏川を越えて高浜の砦に攻めかかる。少勢の砦はすぐに落ちる。宗安はここに火を放って白岩に向かって突き進み、箕輪からはせ向かった安藤九郎左衛門勝道100と戦い討ち取ったが、続いて駆け付けた青柳金王150に敗れて退却する。この頃になると武田方の有力部隊が雉郷城(里見河内守)、里見城(里見河内守)の両城を落として押し出し、白岩一帯に浸透して確保、箕輪、鷹留間を遮断する。馬場信房、山県昌景の二千が鷹留城に迫り、武田軍の主力は東方若田原に向かった。大戸から烏川河谷を攻め下った穴山、小山田隊は大戸、権田勢を先鋒として鷹留の前哨部隊を撃破しつつ鷹留城に進み、馬場、山県隊と呼応して攻めかかった。鷹留は落城する。若田原では両軍主力の決戦が展開された。箕輪勢は北から下がりがかりに突進し、内藤昌豊、小幡信実を相手に終日攻め合ったが勝敗決せず両軍は退く。ここにおいて、氏業は全力を箕輪に集め、篭城の策を取る。信玄は主力を城の東南から指向し、本陣を生原に据えて攻めたてた結果、さしもの名城もたちまち陥り、氏業以下一族郎党は御前曲輪にて自刃して果てた。信玄は箕輪城に内藤昌豊を置き、降伏した者二百騎を召し抱え、西上州の拠点とする。内藤昌豊は長篠にて戦死する。
  • 武田軍‥‥‥武田信玄、武田四郎勝頼、内藤修理亮元豊、飯富(岡田)三郎兵衛昌景、小田孫三郎昌国、馬場美濃守信房、原加賀守胤元、小山田
  • 鷹留城‥‥‥長野業通は弟業勝、業固と防ぐが業勝は戦死し、業通らは吾妻に逃げる。
  • 真田軍‥‥‥榛名山を越え室田の鷹留城を攻略。
  • ◆武田軍15,000、◇長野軍700余





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