沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




『殉国沖縄学徒隊 愛と鮮血の記録(金城和彦著)』より




昭和19 4月 海軍陸戦隊8825名、沖縄に布陣。
5月 第一陣として鈴木繁二少将の独立混成第44旅団約6000名が沖縄に送られる。
7〜
8月
関東軍の精鋭部隊、雨宮巽中将の第24師団、北満で対ソ戦に備えていた原守中将の第9師団、さらに北支方面軍下にあった藤岡武雄中将り第62師団、それに関東軍にとっては強力な戦力源であった和田孝助中将の第5砲兵団が沖縄に送られる。
8月 5日頃 船便で、那覇市の上山(うえのやま)国民学校、松山国民学校、天妃(てんぴ)国民学校の3校の宮崎県疎開が決まる。
中旬 牛島満中将と長勇少将が着任。
21 午前9時、那覇市西新町の大正劇場前に集合した疎開者たちは午後1時過ぎ、那覇港の桟橋から伝馬船に乗り対馬丸に乗船、夕方に出航する。
22 午後1012分、対馬丸、撃沈される。
9月 航空参謀釜井中佐の第50飛行場大隊と独混第44旅団が伊江島に赴き、一般民も動員して夜を日に継いで飛行場建設を急ぐ。10月には東洋一の飛行場が完成する。
9日 武装した鈴木少佐率いる陸軍兵(基地隊)約1000名が渡嘉志久に上陸する。
10 梅沢少佐率いる陸軍部隊約1500名が座間味に本部を置き、離島の阿嘉島及び慶留間島に駐屯。
20 赤松大尉を隊長とする特幹船舶部隊が兵員30名と舟艇100隻をもって渡嘉敷島に上陸する。
10 10 大空襲。那覇市は灰燼に帰す。
12 台湾出撃の友軍600機が沖縄上空を通過する。
12 上旬 第9師団(武部隊)が沖縄を去る。
昭和20 1月 20 大田実、沖縄根拠地隊司令官に任命され水上機で小禄に着任する。
30 島田叡、沖縄県知事として着任。
1月 伊江島の飛行場を第50飛行場大隊自らの手で爆破破壊する。
2月 11 中部、南部地区の老幼婦女子に対し、北部国頭地域への緊急疎開を開始する。
中旬 島田知事は食糧確保のため配給課長と食糧営団理事長を伴い空路、台湾に赴く。
3月 23 敵艦載機の大編隊が早朝より沖縄を襲撃。大東島守備隊(沖縄本島の東方海上約300キロ)から『敵の機動部隊沖縄に近接中なり』の情報が入る。牛島司令官は『甲号戦備』を下令し、各部隊は配備に就く。
24 早朝から敵艦載機来襲、空襲熾烈なり。南部の湊川艦砲射撃を受ける。
沖縄県庁は重要書類を焼却して、軍司令部のある首里近郊の繁多川(はんたがわ)の壕に移動。
25 敵艦載機による空襲、終日続く。
26 敵は艦船の停泊基地を獲得すべく、午前10時頃、那覇の西方約30キロの海上にある慶良間列島に上陸。その日、沖縄出身の伊舎堂用久大尉(八重山郡、陸士55期)は特別攻撃隊誠飛行隊の隊長として、八重山の白保特攻基地を勇敢発進、慶良間方面の敵艦船に対し果敢なる突入を敢行する。特攻の武勲により中佐に昇進。
座間味島の集団自決。
29 奄美大島、宮古、八重山の離島は米国機動艦隊の攻撃を受ける。
沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校は南風原陸軍野戦病院の三角兵舎で卒業式を挙行し、直ちに野戦看護隊として同病院に入隊する。
31 那覇港外の高さ3メートル程のサンゴ礁からなる小さな無人島神山島に米軍上陸し、火砲を設置、猛烈な射撃を開始する。
鉄血勤皇隊を編成した沖縄師範学校男子部、沖縄県立第一中学校の学徒たちは、この日、二等兵となっておのおの部隊に入隊する。
4月 1日 空に一片の雲なく輝くばかりに晴れ渡った好天気。
>午前5時頃、嘉手納湾付近に敵艦から熾烈な砲撃が開始され、上空からも艦載機によって攻撃が加えられる。
午前8時頃、艦砲の掩護射撃と空爆は一段と熾烈になる。そのうち、上陸用舟挺が一斉に白波を蹴立てて発進、ついに上陸を敢行。敵の上陸部隊は第24兵団で海兵隊第3水陸両用部隊指揮官はバックナー中将率いる無慮1300隻以上の大機動艦隊で航空機は延べ1500機以上。
嘉手納海岸線にあった北・中飛行場は夕刻までに敵の手に落ちてしまう。
1〜2日にわたって特別攻撃隊は40機をもって嘉手納沖の敵艦船を攻撃、その7隻を撃沈破する。
2日 米軍は東海岸に進出し、沖縄本島を南北に両断し、進攻軍を二手に分けて分進する。
4日 南進した米軍第7師団と第96師団は、日本軍主陣地正面の大山、島袋、宜野湾の線に姿を現す。
5日 北上した米軍は石川付近の線に進出する。
6日 夕刻、日本軍特攻機(速風)230機が飛来し、中部の残波西海岸と南部の糸満方面沖にある敵艦船を猛攻し6隻撃沈、20隻撃破する。
7日 日本軍攻撃開始。大山南方嘉数台地では敵は戦車150台、兵員5000をもって攻撃して来たが、日本軍は同地を死守して敵を撃退する。敵の第7師団は4月4日の線より約4キロも後退する。敵の第184歩兵大隊は2隊に分かれて東西から日本軍陣地を攻め、ようやく山頂に達したが地下に潜んでいた日本軍が随所に肉迫攻撃を敢行し、ものの123分しか確保できず、死者続出のため後退の止むなきにいたる。
西岡健次郎少尉を指揮官とする50名の決死隊は神山島の敵砲兵陣地を破壊すべく夜間を利用して同島に上陸を敢行し、斬込み攻撃をもって多大な戦果を挙げる。事実それから3日間、この島からの砲撃はなかった。
8日 西原村北方にある台地、南上原から約100メートル地点にある高地(赤土のため敵はレッド高地と呼ぶ)で熾烈な攻防戦が行われ、米軍は戦車3輌を喪失、1輌に損害を受け撤退する。
9日 北部国頭地区には形ばかりの特設第一連隊と第44師団の海没残存1個大隊を基幹とする宇土(うづち)武彦大佐の部隊が配置されていただけだったので、敵の海兵隊2個師団に敗れ、本部半島は敵に制圧される。
西海岸を南下中の米軍も日本軍の猛攻を受け一歩も進めず。
12 菊水2号作戦による特攻機125機が飛来、敵艦2隻撃沈、13隻撃破する。
14 特攻機が敵艦船を猛攻、戦艦ニューヨーク以下3隻に損害を与える。
15 米軍は伊江島と本部半島の中間にある小島水無島に野砲大隊を揚陸して伊江島の砲撃目標を定める。
16 夜明けと共に米軍は第5艦隊の掩護射撃を行い、精強2個連隊と戦車80輌をもって伊江島に上陸。伊江島を守備していた井川正少佐を指揮官とする混成約3個大隊と婦人を含む一般人の義勇隊は反撃の火ぶたを切る。
18 伊江島の戦闘において敵従軍記者アーニー・パイルが日本軍の機銃弾によって戦死。
午前3時、女子救護班の真栄田節子(23)、大城ハル子(23)、大浜寿美子(26)、永山ハル子(24)、岬山ヨシ子(21)の5名が斬込みに参加し、将兵と共に散る。
19 日本軍の前線正面の右翼陣地は中城湾を右に望む南上原高地一帯と、前田、仲間の高台だった。特に前田、仲間の両高地は数十メートルの断崖をなし敵戦車の行動を著しく制限する堅陣だった。敵の第382連隊第3大隊は兵員の大半を失い退却。この戦闘における敵の損害は第96、第27の両師団とも日本軍のそれより遥かに大だった。
一方、左翼陣地は、牧港、城間一帯で、敵は18日頃から、この一帯に矛先を向けて来た。ここでも激しい攻防戦が展開され、特に伊祖城趾は日本軍にとって主要抵抗線の中核をなすだけに壮絶を極めた。
20 伊江島の守備隊は夜襲を決行、その際、女子救護班員が頭髪を切り落とし男装となり敵陣に爆雷を持って突入し最期を遂げる。
21 菊水2号作戦により特攻機125機が飛来、敵艦7隻を撃沈破する。
伊江島の守備隊、玉砕する。
午前6時、ケーリー大佐指揮の第165連隊第2大隊が城間高地を攻めるが撃退する。
牧港、城間一帯を守っていたのは有川圭一少将の第64旅団だったが、この日の夜、有川少将は伊祖城址を奪回すべく飯塚豊三郎少佐の独歩第15大隊を安波茶方面から西林鴻介中佐の独歩第21大隊を城間方面から、そして中間を田川慶介大尉の歩兵第22連隊の2個中隊で、それに連隊  砲や臼砲の各中隊も協力させて3方面から同城址に対し決死的夜襲を敢行。須川隆一中尉の指揮した歩兵砲中隊は敵弾の中を勇敢に進撃し、ついに夜半に至り伊祖城址にたどり着く。すると驚いた事に八木保一郎中尉の独立臼砲第1連隊の1個小隊が19日の夜、敵を蹴散らし、すでに占領していた。両隊は少数の砲兵だけで翌22日も依然として伊祖48高地を占拠していた。
23 敵は空からの支援と共に城間高地を攻めるが猛反撃を浴びせ多大な損害を与える。
棚原(たなばる)から西原、浦添の高地一帯にかけての戦闘も熾烈を極める。分けても嘉数高地の戦闘は凄惨で、敵は30輌の戦車を先頭に攻撃して来たが、たちまち日本軍の迫撃砲や臼砲の凄まじい火力に包まれ、或いは爆雷を背負って戦車に飛び込み、或いは銃剣を閃かして突撃して行く歩兵の反撃に遭遇し甚大なる損害を受ける。敵はこの戦闘で22輌の戦車を喪失、8輌だけが何とか戻った。
27 翁長(おなが)、幸地(こうち)の線に進出した米軍第7師団第1大隊と第2大隊は幸地陣地に進むが日本軍の反撃に会う。この日は雨で戦場は深いぬかるみだった。敵の両大隊は連絡を取る事も困難となり立ち往生し日本軍の迫撃砲や臼砲の餌食となった。敵の死傷者は続出し、1個中隊の人員が7名しか生存しない所もあった。その夜、渡嘉敷島は物凄い豪雨。
28 上原高地一帯に進出した敵の右翼は随所に日本軍の攻撃を受け、4月も終わろうとしているのに悪戦苦闘の連続だった。敵は中城湾に戦艦、巡洋艦、駆逐艦からなる有力な艦隊を回航し27日、28日の両日に亙り雨のような艦砲弾を注いだ。そのため、最左翼にあった三浦大隊は艦砲の側撃を受け被害者が続出し、すでに兵力の3分の2以上を失う。この頃には他の部隊も次第に兵力を損耗していた。ここにおいて第63旅団の各隊は戦略持久の原則に立ち、この日の夜、やむなく上原高地を撤して後退する。一方、敵の左翼も伊祖、城間を抜いて、徐々に浦添を南進して首里に迫って来た。
渡嘉敷島の集団自決。
30 朝、敵は幸地の丘陵地帯に進攻して来たが、日本軍の熾烈な逆襲を受け、20余名が即死、重傷者は数知れず、ついに煙幕を張って退却。翁長でも敵は大損害を受ける。
5月 2日 当時、南部の島尻地区には雨宮中将の第24師団、鈴木少将の独混第44旅団、和田中将の第5砲兵団の重砲陣約4割が、ほとんど無傷のまま展開されていた。牛島司令官は、これらの部隊に『全軍北上』を下令し、この日、首里への移動を完了する。
この時、敵も部隊の再編をしていて進撃は一時停止していた。
3日 菊水5号特攻作戦により、特攻機75機飛来、敵艦4隻撃沈、13隻撃破する。
4日 午前4時50分、日本軍砲兵団の主力は一斉に砲撃を開始し、総攻撃の火ぶたは切られる。敵も直ちに応戦を開始、航空機134機の支援を得て、日本軍の砲兵陣地を攻撃。
午前8時頃、日本軍歩兵部隊は進撃を始め、東海岸方面、中央地域方面、西海岸方面に分かれて前進、敵はこれに対し弾幕をもって報い、日本軍の進路は弾丸の洪水となり死傷者が続出する。このような中にあって中央を前進した第22連隊はよく弾雨を突破して幸地の敵側面を1000メートルも前進し、また、東海岸方面に進撃した第32連隊第1大隊は要衝棚原(たなばる)高地を奪回し、7日の午前零時頃まで、群がり来る敵兵を蹴散らして死守する。しかし、全般的にこの総攻撃を検討すると日本軍の損害は想像よりはるかに大であり、敵の兵力と火力も想像以上に強力だった。
5日 夕刻、日本軍は各部隊に対し原位置に復帰するよう命じる。
6日 島田知事は後方指導挺身隊を組織、直ちに戦場行政に移る。
10 敵は舟艇約60隻をもって安謝川を渡河し始め、また前田南方高地に対して攻撃を加える。
11 菊水6号特攻作戦により、特攻機64機飛来、敵艦4隻を撃沈。
12 敵は真嘉比(まかび)、泊高地に対して戦車約50輌を先頭に第7師団、第77師団、海兵第1師団、海兵第6師団の全力を集中して総攻撃を開始する。
13 同方面の敵に対し、日本軍は夜襲斬込みを敢行する。
14 米軍は安里(首里西方約2キロ)及び首里西北方末吉付近に迫る。
17 米軍は首里東北方1.5キロの石嶺台地及び北方2キロにある阿波茶に迫る。この敵を迎えた日本軍守備隊は随所に凄絶な攻防戦を展開した。一方、敵の第6陸戦隊は安里川を渡河して那覇市に迫る。
18 米軍の第1海兵師団は那覇市の東北台地にある真壁高地一帯(敵はシュガーローフと名付けた)に攻撃して来たが、日本軍の猛反撃に会い、ついに5月13日から21日までの昼夜の別なき猛攻撃もすべて無効に終わる。この正面で戦ったのは鈴木繁二少将の独混第44旅団で、本来なら予備軍的立場にある兵団だったにもかかわらず、第62師団の戦力消耗の後を引き受けて、敵の海兵第1師団を約10日間も食い止めた。
20 首里東北方の石嶺台地付近には敵がチョコレート丘及びフラットトップ丘と名付けた一連の高地があった。前者を鶴谷義則少佐の第24師団第22連隊第1大隊が、後者を平野茂雄少佐の第2大隊が守備していたが、敵は戦車を先頭に野砲、臼砲などの全火器を動員して攻撃して来た。しかし、日本軍の猛反撃に全く歯が立たず、たちまち死傷者が続出し、戦車数台を失って退却する。攻防実に一週間、日本軍も兵力の大半を失ったが、なお依然として敵を阻止した。
21 西原高地の戦闘も凄絶を極め、敵は第96師団と第77師団をもって攻撃して来たが至る所で損害を重ねた。こうして日本軍は攻撃中止から戦略持久戦に戻ってからも約4週間よく戦い、それは軍が首里を撤退するまで続けられた。敵のある中隊は240人のうち生存者は僅かに2名、他の中隊も8名に減じたといわれる。
22 シュガーローフ高地一帯の戦闘は敵が11回も奪取戦をおるほどに日本軍は猛抵抗したが、ついに刀折れ矢弾尽きて敵手に帰してしまった。一方、敵は北谷、嘉手納に増援兵力を揚陸し、東海岸の与那原、運玉森方面へ進出して来た。
23 各戦線において日本軍は陣地を死守して猛反撃を繰り返し、ために死傷損害続出した敵は、各戦線に対して海上からの支援艦砲射撃を激化し、地上の重砲、迫撃砲等も、さながら狂人のごとく撃ち込んで来た。この日から豪雨が続く。
24 奥山道朗大尉を指揮官とする『義烈空挺隊』が北、中の両飛行場を襲い、そのうちの何機かが      車輪も降ろさず胴体強行着陸を敢行して、手榴弾や焼夷弾を持って飛行場施設やドラム罐集積所を襲撃、少なからぬ損害を敵に与える。これらの飛行場は翌日まで使用不能になる。残念な事に九州地方は天候不良だったため、義烈空挺隊の勇戦に続いて、特攻機の攻撃は中止となってしまった。
25 飛龍特別攻撃隊が敵艦船に突入。さらに九州基地より飛来した振武(しんぶ)特別攻撃隊も敵艦船を襲う。大本営は人間魚雷(回天)による神雷海上特攻隊を発表する。
島田知事の統帥する後方指導挺身隊は戦況の急迫により高嶺村与座に移動する。
敵上陸以来、軍司令部の壕において黙々と戦況の提供をしていた唯一の新聞である沖縄新報は、この日をもって発行不能となる。
27

敵は破壊された中飛行場を修理完了して使用し始める。

28 豪雨の中、軍司令部、首里を撤退。
31 米軍の右翼は那覇市に侵入し、国場川、古波蔵の線に進出する。
6月 3日 東海岸方面に進出した敵の左翼は与那原、富名腰(ふなこし)の線に達する。
島田知事はーの統帥する後方指導挺身隊は、この日解散。
4日 那覇市を通過した敵は小禄方面に向かって攻撃を開始。ここは大田実海軍少将の率いる陸戦隊の勇士約8000が布陣していた。
台風により敵艦36隻が損害を受ける。
7日

敵の攻撃軍に対し海軍陸戦隊はこれを迎え撃ち凄絶な戦闘を続ける。

9日 雷電機隊は伊江島の敵飛行場を連続爆破して多大の戦果を収める。
10 東海岸及び中央部を進撃する敵は八重瀬岳、与座部落に迫る。
12 阿南陸軍大臣より島田県知事宛、敵上陸以来軍と一軆になり、よく勇戦敢闘してくれた沖縄県民に対し、感謝の電報が来る。
13 4日以来、小禄地区を死守して奮戦した海軍陸戦隊は敵に多大の損害を与えたるも、兵員の大半を失うに至り、この日、最後の突撃を敢行し全員玉砕する。
16 敵は東海岸の仲座南側方面より八重瀬岳に迫る。
17 日本軍は八重瀬岳南方約800メートルの地点にある敵の157.6高地を攻撃して奪回する。また、大里南方においては白兵戦をもって敵陣に肉迫する。
島田知事は陣中に牛島軍司令官を見舞う。
18 米軍司令官バックナー中将は高嶺村真栄里の戦線で、第8海兵隊の戦況を観望中、日本軍の砲弾により(一説には狙撃兵に撃たれたとも伝えられる)戦死する。
19 米軍の歩兵第96師団長イアスレー代将、戦死する。
首里撤退後、南部地区に残存兵力を配備して、最後まで抵抗を続けるが、すでに戦力の9割を失った今、陸海空から侵攻する雲霞のこどき敵に対し、もはや抗する術もなく戦線は随所に突破される。各兵団間の連絡は遮断され、電信も途絶えがちとなり、軍司令部との通信も決死の伝令兵に頼るような有り様だった。各兵団は状況不明のまま孤立して防御線を続ける状態で、軍の機能はすでに失われた。
牛島司令官は『今後諸子は所在上官の指揮に従い、祖国のために最後まで敢闘せよ』という軍命令を発し、また大本営に対しても最後の訣別電報を打った。
島田知事と荒井警察部長、消息不明になる。
『ひめゆり部隊』がいた第一外科、第二外科、第三外科の壕も敵に包囲され全滅の危機が迫る。牛島司令官は学徒たちに解散命令を下す。
21 午前1時頃、鉄血勤皇隊学徒は将兵と共に最後の総攻撃を敢行し戦死。
23 午前4時30分、牛島司令官と長参謀長、自刃する。




  • 大田実海軍少将(明治24年4月7日生まれ、本籍千葉県)は剣道8段、海軍きっての剣豪であり、常に日蓮上人を敬慕し和歌を嗜む文人でもあった。
  • 県立第一中学校の校長は藤野憲夫(57)は静岡県出身、昭和4年、沖縄に赴任以来、沖縄師範学校教諭、沖縄県立第一中学校教諭、沖縄県立第三高等女学校校長、沖縄県立第一中学校校長を歴任。
  • 沖縄師範学校校長の野田貞雄(54)は熊本県出身、京都、岡山、茨城各県の高女、師範の教諭、学校長を経て、昭和18年沖縄師範学校長となる。




ひめゆり部隊(南風原陸軍病院従軍看護隊)

  • 終戦当時、真和志村長だった金城和信氏夫妻が中心になって戦死した沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の御霊を招くべく、第三外科壕のあった場所に塔を建立した。夫妻は師範学校女子部の校友会誌『しらゆり』と県立第一高女の校友会誌『おとひめ』から名を取って『ひめゆりの塔』と名付けたが、以来両校生徒を『ひめ ゆり部隊』というようになった。
  • 沖縄師範学校女子部と県立第一高女の校舎は十・十空襲で免れる。生徒は天久高射砲陣地、垣花高射砲陣地、識名高射砲陣地、小禄飛行場、津嘉山経理部の壕、南風原陸軍病院の壕などの作業に従事した。
  • 1月22日の空襲で8発の爆弾を投下され、女師、第一高女の図書館、体育館、寄宿舎等に被害を受ける。
  • 1月23日、先月上京していた野田校長がひょっこり帰ってくる。
  • 編成は第一師範隊(西平英夫教諭引率)、第二師範隊(岸本幸安、玉代勢秀文教諭引率)、第三師範隊(大城知善、与那嶺松助、内田文彦教諭引率)、第一高女混成隊(徳田安信、平良松四郎、新垣仁正、仲栄間助八、石川 義雄、石垣実俊、奥里将貞、親泊千代教諭引率)。
  • その後、軍の要請で編成を改め、本部付(西平、岸本、親泊教諭引率)、第一外科付(大城、新垣、仲宗根教諭引率)、第二外科付(与那嶺、内田教諭引率)、第三外科付(玉代勢教諭引率)に分かれ、第一高女4年生は全員師範隊に編入されて南風原病院の勤務に就き、3年生以下は2隊に分かれ、第1隊(徳田、石垣、奥里教諭引率)は識名分室に第2隊(平良、仲栄間、石川教諭引率)は津嘉山経理部自給援隊の任務に就く事になる。
  • 5月8日、徳田、石垣両教諭が重傷を負い、第1隊は第一外科付の新垣教諭がこれに代わり、5月25日、摩文仁に移動してからは、さらに新垣教諭の隊と奥里教諭の隊に分かれ、奥里教諭の隊には親泊教諭も加わる。
  • 本科2年の宮城藤子と平田香美子は生徒班長。
  • 南風原病院経理部、佐藤三四郎部隊長は6月23日、摩文仁岩上で戦死。



白梅部隊(第24師団第一野戦病院従軍看護隊)

  • 県立第二高等女学校は那覇市松山町にあった。そこは松の木が点在する丘で、近くに連隊区司令部や県立病院などがあり、東の方には首里古城が遠く望まれる恵まれた環境だった。
  • 十・十空襲で校舎は灰燼と化す。校舎を失った生徒は幸いに火災を免れた隣接の知事官舎を利用して僅かに学業を続けるが、この頃より軍の陣地構築は本格的となり、生徒たちは動員されて働くようになる。
  • 垣花初代、長嶺、津波、与那覇の4人は上の壕にある手術室勤務を命じられる。後に長嶺と与那覇は別の勤務に就き、二人で560人の重傷患者を担当した。
  • 解散後、友とはぐれた垣花初代は長嶺と出会い、二人で行動を共にする。真栄平で級友たち(親里、桑江、平良、比嘉、与那覇、伊芸、仲宗根)と会い再会を喜び、共に真壁に向かう。途中で病院で世話をした高橋伍長たちと会い行動を共にする。
  • 国吉の壕には米田軍曹、大嶺、上原春江たちがいた。
  • 伊敷の壕には積徳高等女学校の生徒隊がいた。
  • 教職員戦死者 校長  稲福全栄
           教頭  上里忠宣
           教諭  新垣隆正、伊波盛吉、當聞嗣元、翁長喜保
           教諭  島袋静、山本シゲ、山口スミ
           事務官  永山啓、阿波連本一



瑞泉部隊(第62師団野戦病院従軍看護隊)

  • 県立首里高等女学校は師範学校男子部、県立第一中学校、県立工業学校等と共に首里市にあった。学び舎は緑なす西森(後に首里攻防戦で砲兵部隊が活躍した所)や虎頭山に囲まれ、近くには水清き川が流れ、首里農園等があった。
  • 昭和20年1月25日より、上級生63名が石部隊から派遣された飯塚少尉の指導のもと看護教育を受ける。2月27日まで実施され3月5日頃からは、石部隊の病院で実習訓練が行われる。生徒たちの宿舎は首里市赤田町にあった山城病院跡が指定され、そこで全員起居を共にした。この期間中における学校側の世話役は金城直吉、石川ゆきの両教諭が当たる。一方、他の生徒は首里近郊の部隊や浦添付近の部隊に配置され戦場勤務の訓練を受けていた。
  • 3月27日、石部隊病院壕(首里市崎山町、俗称ナゲーラ)で卒業式を挙行。式には部隊長渋谷少佐も列席。卒業 式終了後、63名の生徒は正式に従軍看護婦として軍属の身分を命じられ、引き続き各病室に配置され任務に就く。



梯梧部隊(第62師団野戦病院従軍看護隊)

  • 私立昭和高等女学校は那覇市の崇元寺(そうげんじ)町にあった。歴史的にも由緒深い崇元寺があり、大通りには樹齢 百年を越す梯梧の大木が並木をなして生い茂っていた。時期が来ると深紅の花をいっぱい咲かせた。
  • 昭和19年の半ば頃より陣地構築作業や飛行場設営作業に従事し、昭和20年1月中旬、軍からの要請で看護教育を受ける。石部隊病院から派遣された将校と下士官により看護教育は約1ケ月続く。学科講習を終了した64名の生徒は3月10日、首里市赤田町にあった石部隊野戦本部で看護実習を受ける事となり同町にあった山城家において全員起居を共にする合宿訓練が実施される。病院長の熊谷少佐から訓示を受けた生徒たちは、7、8名づつの班に編成され『実習生』の腕章をつけて、軍医、衛生兵、正規看護婦の指導のもとに、班毎の交替制で伝染病棟、外科病棟、内科病棟等(病棟といっても普通の民家の座敷を利用して作られてあった)を次々に回って実習した。患者の衣服交換、汚物の始末、洗濯等の仕事にも当たる。
  • 3月23日、敵機の空襲を受け、直ちに赤田野戦病院壕に移り、その日から夜を徹しての陣地構築作業を行う。
  • 4月1日、敵が嘉手納海岸に上陸するや、生徒たちは実習生の腕章を外し、正式に従軍看護婦を命じられ任務に就く事になる。
  • 4月16日、戦闘はますます凄絶となり負傷者も急増し、第二班部(識名上間部落の中央にある大きな自然壕)に8名の生徒(神谷道子、前川清子、饒波(よは)八重他)が転属となる。壕内には兵隊と学徒看護婦で約30名いた。第二班部隊長は森田大尉。
  • 4月29日、天長節の日、照屋珠子が壕入口で砲弾にやられて死亡。
  • 5月3、4日頃、全兵力を投入して総攻撃を敢行する事になり、病院に対して『重傷者以外は一人残らず参加せよ』との命が下り、独歩患者は手榴弾を1個づつ支給され前線に出撃して行った。
  • 5月13日、第二班部で前川清子、饒波八重が死亡。
  • 5月2425日頃、看護隊に南部撤退の命があり、翌日の夜、雨の中を重傷患者と共に出発。5月下旬、伊原部落後方の丘にあった壕にたどり着く。



積徳部隊(第24師団第二野戦病院従軍看護隊)

  • 積徳高等女学校は那覇市にあり、以前は家政女学校と呼ばれていた。十・十空襲後は授業はほとんで停止され、垣花(かきのはな)、天久(真和志村)、識名等の高射砲陣地構築や国場の戦車壕掘り作業に従事した。
  • 昭和19年に入る戸、すでに校舎は軍が使用するようになっていた。
  • 昭和20年2月初旬、軍の要請により4年生全員に対し看護教育が施される事になり、第24師団野戦病院から将校以下3名が来校して衛生救急法の講義が行われる。
  • 2月23日、一応看護教育が終わった4年生55名は、東風平国民学校にあった第24師団第二野戦病院で実習訓練を受ける。病院は6つの班からなり、第1班から第3班までが積徳高等女学校で、第4班と第5班が県立第二高等女学校、第6班は初年兵だった。班長は第1班が土肥伍長、第2班が高森伍長、第3班が宮田伍長で、内務班での教育は初年兵と同様で厳しく、衛生学の教育は主として米沢見習士官が担当していた。
  • 3月31日は卒業式の予定だったが空襲の激化で中止となり、生徒たちは同日の夜、第24師団野戦病院山3487部隊(島尻郡豊見城村、豊見城城址在)に正式に従軍看護婦として入隊する。入隊式は各班長(下士官)の指揮によって整列し、病院長小池勇少佐から訓示を受けた後、戦陣訓を復唱して終わる。式終了後、生徒たちは国防色の看護婦衣の他に日用品、携帯食糧(缶詰、鰹節、乾麺包等)、地下足袋の支給を受ける。
  • 4月4日頃、帰宅面会が許され24.5名の生徒が理由書を提出して帰宅する。翌日から空襲が激しくなり帰隊は不可能となり帰宅生徒はそれぞれ最寄りの部隊に入隊した模様で、戻って来たのは若干名だった。結局25名の生徒が残り、本部、治療部、薬室、病室と各勤務場所が指定され任務に就く。4月中旬からは全員が病室勤務となる。
  • 南部撤退後、糸洲の自然壕に入る。



なごらん部隊(南風原陸軍病院北部分室従軍看護隊)

  • 県立第三高等女学校は国頭郡名護町にあった。
  • 厳重な身体検査と学力検査に合格した10名が本部町伊豆味に聳える八重岳にあった球1880部隊陸軍病院分院に派遣される。



県立第一中学校

  • 首里市にあった校舎は石部隊が駐屯し、校長室は司令官の部屋となっていた。校地の南西端にある別館の物理化学教室が教室となり、その付近にあった通用門だけが職員生徒の出入りできる門だった。
  • 鉄血勤皇隊第一中学校隊の隊長は篠原保司中尉、第1小隊約135名、第2小隊約135名、第3小隊約130名、編成人員は5年生85名、4年生155名、3年生165名、第5砲兵司令部へ入隊。2年生146名は通信隊となり電信兵第36連隊(連隊長大竹少佐)に入隊する。
  • 4月20日、校舎は焼ける。



沖縄師範学校男子部

  • 首里市にあった。
  • 昭和20年3月31日、師範学校職員生徒全員が防衛招集を受け、球10158部隊付鉄血勤皇隊師範隊(独立部隊)として同部隊に入隊する。大隊長は井口一正陸軍中尉、顧問は陸軍嘱託の野田貞雄校長、勤皇隊本部16名、斬込隊56名、千早隊22名、野戦築城隊143名、特編中隊(戦闘中に野戦築城隊から分かれる)48名。



県立第二中学校

  • 那覇市外真和志村楚辺にあったが、十・十空襲で灰燼に帰す。
  • 14.5名が勤皇隊として宇土部隊に入隊、約150名の2、3年生が通信隊に入隊する。



県立第三中学校

  • 名護にあった。147名が第二歩兵隊、150名が第三遊撃隊に配属され、3年生66名は通信隊に入る。



県立工業学校

  • 首里市にあった。
  • 1、2年生の76名が第5砲兵司令部通信隊に入隊、その他の生徒は最寄りの部隊に入隊。



県立農林学校

  • 嘉手納海岸から程遠くない所にあった。



県立水産学校

  • 那覇市垣花町にあった。十・十空襲で校舎は灰燼に帰す。その後、住吉町や上泉町にあった焼け残りの建物を利用して学校を開設。昭和20年2月初旬、宜野湾村の農民道場を借りて学校を移す。
  • 27名が勤皇隊を編成して、北部方面にある球18814部隊に入隊、22名が通信隊に入隊。



那覇市立商業学校

  • 那覇市若狭町にあった。十・十空襲で灰燼に帰す。那覇市牧志町にあった青年会倶楽部が焼け残っていたので、そこを借りて学校を再開する。
  • 仲里朝章校長は首里市当蔵(とうのくら)町に住んでいた。
  • 70名が勤皇隊を編成し独立混成第44旅団司令部(島尻郡大里村)に入隊、31名は首里城内の第32軍暗号班に入隊。



私立開南中学校

  • 昭和11年に設立された新しい唯一の私立中学校で那覇市外真和志村にあった。
  • 学校は陸軍病院が使用する事になり閉鎖となり、11月上旬、学校は本部事務所を玉城教頭宅(真和志村識名)に移し、生徒たちは再び各地の築城作業に従事した。
  • 勤皇隊として石部隊の独立歩兵第23大隊(県立第一高等女学校東側の県立血清研究所在)に入隊。




沖縄戦の学徒隊・愛と鮮血の記録




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