酔雲庵


時は今‥‥石川五右衛門伝

井野酔雲

創作ノート





千利休(1522-1591)の事




  • 数寄=自由。
  • 大徳寺‥‥‥大林宗套(そうとう)(1480-1568)、古溪宗陳(1532-97)、笑嶺宗訴(そうきん)(1505-83)
  • 利休は宗套に帰依して『宗易』を授かり、宗訴に参禅し『利休』号を授かる。
  • 千阿弥‥‥‥山城生まれ、足利義政に仕え、茶同朋を務めた。応仁の乱の時、京都を離れ、堺に行く。兵乱が治まると再び、京都へ戻り義尚に仕える。1489年、義尚が病死すると堺に引き返して、余生を送る。
  • 千与兵衛(-1540)‥‥‥千を姓とし堺今市町で商いを始める。商売は魚屋(ととや)。海浜に納屋を構え、貸して利潤を得る納屋衆の一人になる。
  • 1537年2月13日、与四郎(利休か?)の朝会が京都で催され、松屋源三郎久政が招かれる。
  • 利休、19歳で家督を継ぐ。
  • 1544年、千与四郎(23)、堺にて松屋久政を招きお茶会。
  • 三好長慶(1523-64)‥‥‥1556年、大林宗套のために堺に南宗寺を建立する。弟は三好之康(実休1527-62)、紹鷗と親しく、津田宗達とも昵懇。
  • 山上宗二(1544-90)‥‥‥利休の弟子。
  • 武野紹鷗(1502-55)‥‥‥幼名は松菊丸、後、新五郎、仲村と名乗る。24歳で上洛、三条西実隆に学び、朝廷に献金して従五位下、因幡守に叙任される。茶の湯は下京の藤田宗理、十四屋宗悟、宗陳について修める。1532年、剃髪し紹鷗と号す。1549年、一閑居士と号す。弟子には嫡子新五郎宗瓦、娘婿今井宗久、天王寺屋津田宗達、宗及、千宗易ら。
  • 北向道陳(1504-62)‥‥‥本姓は荒木、堺舳松に北向きの家に住んでいた。
  • 1554年2月、連歌師谷宗養(1526-63)、里村紹巴(1524-1602)と共に長慶、連歌会。
  • 1559年末、将軍義輝に拝謁がかなったヴィレラは布教の認可を得ると洛中革棚(中京区四条新町西)を拠点に熱心な伝道を開始する。1560年、長慶は京都立売町の自宅にてヴィレラと引見し布教許可の制札を与える。三好家では七十余人の武士が洗礼を受けた。しかし、長慶は信者にならず。
  • 日比屋了珪‥‥‥キリシタン。道具持ちの茶人。
  • 1555年10月、宗易(34)、奈良の茶会に出席。
  • 1558年1月5日を初見に、三好実休の茶会にしばしば招かれる。
  • 1562年1月に宗易の師、北向道陳病死、3月には有力な後援者三好実休が和泉国久米田で戦死。
  • 宗易は実休の死後、河内国高屋城主、三好康長(笑岩)に誼みを通じ、長慶の死後は山城国木津城主、三好政康(1528-1615)に松永久秀を通じて誼みを通じる。
  • 今井宗久(1520-)‥‥‥納屋、皮革、硫黄や火薬を扱う薬種業、貿易商。薬屋宗久とも呼ばれる。1551年には天王寺屋宗達の茶会に招かれる。1554年、大徳寺塔頭大仙院に 170貫文寄進する。1555年、紹鷗の家財、茶道具一式を譲られ、宗瓦の後見になる。
  • 1552年、宗易、天王寺屋宗達の茶会に招かれる。
  • 1568年、松永久秀は九十九髪茄子を信長に進上、今井宗久は松島の茶壷と紹鷗茄子を進上。
  • 宗久は信長より摂津五ケ庄一千石、遠里小野三百石、そのほか併せて二千二百石の代官職を拝命される。五ケ庄には塩および塩合物などの年貢徴収権も付随し、淀川の通行自由の特権を得、生野銀山の経営も付与される。
  • 宗久は安孫子に鉄砲製造工場を持ち、1570年6月、姉川の戦いのおり、信長の部将、羽柴秀吉の依頼で鉄砲薬、焔硝薬各30斥を送り勝利に貢献する。
  • 天王寺屋宗及は石山本願寺の老臣、下間丹後法印(真澄)、三好康長、池田長正、岩成友通、荒木村重、安宅石見ら反信長勢力の友人が多かったが、信長の実力を知り、信長に接近する。
  • 1570年4月、宗易、信長の点前で薄茶を賜る。
  • 1573年1月、信長は宗及、塩屋宗悦、松江隆仙の3人を京都妙覚寺に招き茶会を催した上、宗及には駿馬1頭を贈る。
  • 1573年11月24日の朝、京都妙覚寺において信長の茶会が催され、堺代官松井友閑と宗久、山上宗二が招かれ、この席で宗易は濃茶の点前を行う。
  • 信長は1573年末頃より、宗久よりも宗及を厚遇するようになる。
  • 宗及は1566年8月、父の死と共に稼業を継ぐ。茶の湯、武芸、蹴鞠、生花、聞香、歌道まで通じ、刀剣の鑑定と挿花の技は特に秀でていた。後に明智光秀の茶の湯の師になる。
  • 1575年、三好笑岩が信長に三日月の茶壷を献じ降りる。
  • 1575年10月28日、信長は京都や堺の茶湯者を17名を妙心寺に招き、茶会を催す。松島の茶壷の茶で宗易が茶を点てる。
  • 1578年9月、信長は九鬼の戦艦を観艦した際、宗久の所に寄り茶を振る舞われ、その帰りに宗及、天王寺屋道叱、臙脂屋宗陽の順デ各々の邸宅に立ち寄る。宗易は単なるお供衆の一人に過ぎなかった。
  • 宗久、宗及が信長の前に出た時、信長はようやく茶の湯を始めたばかりだった。
  • 信長は上洛を果たした後は力士を集めて相撲を、あるいは競馬を催し、鷹狩に精を出した。上洛するや茶の湯の虜になるが、茶の湯を政治に利用する事を考えた。
  • 信長が最初に登用した茶頭は上洛以前から側近にあった清須の町衆、松井友閑。次いで、不住庵梅雪という京都の茶人。引き続き、宗久、宗及、そして宗易。
  • 宗易が信長の茶頭になったのは1570年から1575年の間。
  • 信長は粟田口の刀匠吉光の流れを汲む光忠の刀を好み、25振りまで集めた。
  • 信長の死後、秀吉と昵懇の宗久が宗及を大きく引き離す。
  • 1568年の訴訟事件以後、宗久は秀吉と昵懇になり、援助を惜しまなかった。
  • 秀吉と宗易の関わりは1581年6月12日の姫路城の朝会をもって初見。
  • 若狭屋宗可(-1573)は堺の茶人で三好一族と敵対した細川晴元に近かった。宗可の子、宗啓は光秀の茶会の茶頭を務めた事がある。
  • 住吉屋宗無(1534-1603)
  • 利休は金春流の大夫宮尾道三について謡を習っていた。





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