酔雲庵


銭泡記〜太田道灌暗殺の謎

井野酔雲





14.狙われた銭泡




 夏の盛りも過ぎたとみえて、このところ、過ごし易い日々が続いていた。

 銭泡が糟屋の屋形に来て五日が過ぎた。

 お屋形の定正に、そろそろ、江戸に帰りたいと告げると、明日、曽我兵庫頭の伜、豊後守が江戸に行くので、一緒に行けばいいと言われた。ただし、関東を去る前に、もう一度、来てくれと頼まれた。もう一度、来たいとは思わなかったが、一応、頷いた。

 昼過ぎ、銭泡は道灌の墓参りに出掛けた。ここを去ってしまえば、もう、墓参りもできなくなる。銭泡は道灌に最後の別れを告げていた。

 道灌の墓のある洞昌院はお屋形の北東、五町(約五百メートル)ばかりの所にあった。洞昌院とお屋形の間には、お屋形の鎮守(ちんじゅ)である山王社の森がある。帰り道、その森の側を通った時、銭泡は見慣れない山伏と擦れ違った。錫杖(しゃくじょう)を突きながら俯き加減に歩いていた山伏は一度も銭泡を見ずに通り過ぎた。

「危ない!」と誰かの声が聞こえたが、その前に銭泡は身の危険を感じて、杖を構えながら振り返った。

 山伏が剣を振り上げていた。

 銭泡は後ろに飛びのき、その剣を避けようとした。山伏は銭泡の方に踏み込んで来た。その時、どこからか手裏剣が飛んで来て山伏の肩に刺さった。

 山伏は顔をしかめて剣を銭泡の方に投げつけた。銭泡はその剣を杖で払い落とした。

 山伏は逃げて行ったが、途中で、つんのめるようにして倒れた。

 木の上から風輪坊が飛び降りて来た。

「驚きましたね」

 風輪坊は銭泡の持っている杖をしげしげと眺めていた。

「銭泡殿が棒術を身に付けていたとは‥‥‥」

「自分の身ぐらい守れん事には旅を続ける事はできんからのう」

「それにしても以外でした」

「それよりも風輪坊殿こそ、どうして、こんな所に」

「駿河に帰ろうと思ったんですが、途中で、銭泡殿を守れと命じられたのを思い出して戻って来たのです。命令も守らず、駿河に帰ったのでは、お頭にどやされます。わしが駿河に帰らなくても、あちらには仲間が大勢いますからね」

「そうじゃったのか。お陰で助かったわ。もう少しで殺されるところじゃった。しかし、どうして、わしの命など狙うんじゃろうか」

「奴に聞いてみれば分かるでしょう」

 倒れている山伏の所に行ってみると、山伏はすでに死んでいた。風輪坊の投げた手裏剣の他に、別の手裏剣が胸に深く刺さっていた。

「誰だ?」と言いながら風輪坊は(ふところ)に手を入れ、辺りを見回したが、すでに敵がいるはずはなかった。

 風輪坊は胸に刺さった手裏剣を眺めた。何の変哲もない手裏剣だった。刺され具合から見て、正面から投げられたものだった。

「何者なんじゃろう」と銭泡は死んでいる山伏を見下ろしながら言った。

「多分、弥吉の手下だ」と風輪坊は言った。

「弥吉?」

「ええ。銭泡殿、下男の弥吉の事を調べたでしょう」

「調べたという程の事もないが‥‥‥」

「弥吉は怪しい。何者かは分からんが、お屋形様と曽我兵庫頭がお茶室で話していたのを隠れて聞いていました」

「やはり、あの時、弥吉は盗み聞きしておったのか」

「それに、お紺という女も怪しい。弥吉と隠れて会っていました」

「お紺さんが?」

「ええ、お紺は弥吉だけでなく、怪しい商人とも会っていました」

「怪しい商人?」

「多分、どこかの山伏だろうが身元は分からなかった」

「あのお紺さんが‥‥‥」

 銭泡にはお紺が道灌の暗殺にかかわっていたとは、とても信じられなかった。あんな気立てのいい娘が怪しいなんて信じたくはなかった。

 風輪坊は殺された山伏が身に着けている物を調べていた。身元が分かるような物は何もなかった。

「銭泡殿、お紺という女に何か言いませんでしたか」

 風輪坊が自分の手裏剣を死体から抜き取りながら聞いた。

「いや‥‥‥」

「道灌殿を殺した下手人の事とか、話しませんでしたか」

「その事なら話したが」

「下手人は長尾伊玄だと言ったのですか」

「ああ。そう言ったが‥‥‥」

「もし、弥吉とお紺が伊玄の一味だったら、どうなると思います」

「わしを殺すというのか」

「伊玄としては道灌殿を殺したとしても、自分がしたという事は隠しておきたいのでしょう。道灌殿を殺した事が広まれば、伊玄は関東中の武士を敵に回すという事も考えられます。伊玄としては、ここのお屋形様が道灌殿を殺したという事にしたいのだと思います」

「ここのお屋形様も道灌殿の命を狙っていた事は確かじゃが、自分の口から、そんな事を言うかのう。お屋形様としても関東中の武士を敵に回したくはあるまい」

「しかし、道灌殿はここのお屋形様の家臣です。主人が家臣を殺したとしても、それは内々の事として処理する事もできます。それに、殺された場所が扇谷上杉氏のお屋形内です。お屋形様の屋敷において、その重臣が何者かに襲われ、しかも、何者かの正体も分からないなどという噂が広まった方が、返って、お屋形様の信用はなくなります」

「確かに‥‥‥じゃが、お屋形様が道灌殿を殺したと公表すれば、道灌殿のように活躍した家臣を殺すような主人のもとにはおられんと言って、お屋形様のもとを去るという者も出て来るはずじゃが」

「うむ‥‥‥ここのお屋形様が道灌殿の死に、どんな決着を付けるかだな」

「お屋形様は曽我兵庫頭から下手人は伊玄の配下じゃと聞いたんじゃろ」

「いや。中道坊が兵庫頭に自分らがやったと報告したため、兵庫頭は勿論、中道坊がやったと思っています。お屋形様にも中道坊がやったと報告してます」

「そうか。お屋形様は自分の配下の山伏がやったと信じておるのか‥‥‥」

「そして、長尾伊玄の一味が道灌殿の首を奪って逃げたと思っています」

「話を前に戻すが、弥吉とお紺の二人は伊玄の配下なのか」

「そのへんの所はよく分からないのです」

「捕まえて聞いてみたらどうじゃ」

「危険です。敵はあの二人だけではありません。この辺りにかなりいるでしょう。銭泡殿、この先、奴らからずっと狙われるかもしれません。気を付けて下さい」

「おぬしも危ないんじゃないのか」

「多分‥‥‥」

 風輪坊は死体を草むらの中に隠した。

 二人は死体から離れ、木陰に腰を下ろした。

「銭泡殿、とんだ事に巻き込まれてしまいましたね。早いうちに、ここから去った方がいいでしょう」

「その事なら、明日、江戸に帰る事になっておる」

「そうですか‥‥‥奴らは江戸まで追って行くでしょう」

「わしが下手人は長尾伊玄だと言ったからか」

「それ以外に殺されるような理由はないでしょう」

「うむ。しかし、あのお紺さんがのう‥‥‥道灌殿を殺すために、あのお屋形に奉公しておったとは、どうしても信じられん」

「いい女子(おなご)ですからね。最悪の時は、あの女が道灌殿の寝首を掻いたのかもしれません」

「寝首をか‥‥‥恐ろしい事じゃ」

 銭泡はお紺の言った事を思い出した。道灌から声が掛かれば床を共にすると言っていた。風輪坊が言うように、寝首を掻くつもりだったのだろうか。しかし、道灌は声を掛けなかった。もしかしたら、道灌は以前、寝首を掻かれそうになった事があって、女を近づけなくなったのかもしれない。

「銭泡殿も気を付けて下さいよ」

「何を言っておる‥‥‥それより、弥吉とお紺の事じゃが、二人共、三年前に、あのお屋形を建てた時から、ずっと、いるらしいが、そんな前から道灌殿を殺す計画をしておったというのか」

「そんな事はないでしょう。ただ、お屋形内の情報を流していただけでしょう。わしらが江戸にいて関東の情報を駿河に流していたのと同じですよ。あそこだけでなく、あちこちに伊玄の配下が潜んでいると考えていいでしょう。もしかしたら、江戸城内にも下男や仲居として、誰かが潜入しているのかもしれません。下男や仲居の事など、誰も一々、気に止めませんからね」

「そうじゃのう。越後から来たと言っておったが、あれは嘘じゃったんじゃな」

「越後?」

「ああ。弥吉の方じゃがな、一緒にいる下男には越後から流れて来たと言ったらしい」

「越後か‥‥‥多分、嘘でしょうね。関東の地名を言えば怪しまれる可能性があるので、越後出身だと言ったのでしょう」

「うむ‥‥‥」

「お紺の方も越後ですか」

「いや。お紺には聞いてはおらんが、何でも、戦で両親を亡くして親戚に育てられたと言っておった。どこから来たのかは分からんが」

「聞いても本当の事は言わないでしょう」

「そうじゃな‥‥‥あのお屋形に戻るのが恐ろしくなって来たのう」

「お屋形内では銭泡殿を襲う事もないでしょう」

「そう言い切れるか」

「残念ながら言い切れません。わしも陰ながら見守っておりますが、銭泡殿も気を付けて下さい」

「自信ないのう。今晩は眠れそうもないわ」

「江戸に帰ったら存分に休む事です。江戸城内までは入れないでしょう」

「しまった‥‥‥お紺に江戸での居場所を教えてしまった」

「泊船亭ですか」

「違う。善法園じゃ」

「善法園といえば、お茶を売っている、あの店ですか」

「そうじゃ。そこの女将がわしの事をずっと待っていてくれてのう。わしもそろそろ旅をやめて、そこに落ち着こうと思っておったんじゃ。つい、お紺にしゃべってしまった」

「銭泡殿がそこに行けば、その女将も危険な目に会うかもしれませんよ」

「参ったのう‥‥‥」

「江戸には竜仙坊殿がおります。竜仙坊殿に頼むしかないですね」

「江戸まで無事に帰れればいいがのう」

 銭泡は風輪坊と別れ、お屋形に戻った。

 客殿に帰ると、さっそく、お紺がやって来た。お紺はニコニコしていたが、銭泡には、その笑いが恐ろしく感じられた。

 食事の前に風呂に入って、縁側で涼んでいると、お紺は二人だけのささやかな送別の宴をやってあげると張り切って、食事の用意をしてくれた。

 お屋形様は銭泡の事など、まったく、ほったらかしだった。自分の都合で銭泡を留めたくせに、ろくに茶の湯を習う訳でもない。それでも最初の頃は熱心だったが、最近は銭泡を呼ぶと思えば、茶道具の自慢をするだけだった。万里が言っていた通り、もう二度と来たくない所だった。

 銭泡はお紺が自分の命を狙っているかもしれないので、絶対に酔ってはならないと思いながら酒を飲んでいた。

「どうしたんですか、何か変ですよ」

 お紺は首を傾げながら、銭泡に酌をしてくれた。

「いや‥‥‥」

「お料理も全然、お召し上がりにならないし」

「実はのう、お墓参りの帰りに見知らぬ山伏に襲われたんじゃ。殺されそうになったんじゃよ」

「えっ、伏見屋様が?」

「何で、わしが襲われるのか分からんがのう。殺されそうになったのは事実じゃ」

「それで、伏見屋様を襲った人はどうなったのですか」

「何者かに殺されたわ。わしには何が何だか、さっぱり分からんのじゃよ」

「殺された?」

「道灌殿が殺された時もそうじゃったが、このお屋形の回りには正体不明の山伏たちが大勢おるんじゃ。わしを狙ったのが何者か、そいつを殺したのが何者なのか、まったく分からんのじゃよ」

「まあ‥‥‥それは本当なのですか」

「本当じゃ。何者かは分からんが、わしの命を狙っておるとすれば何をするか分からん。もしかしたら、この料理の中に毒を盛ったかもしれんと思って食べる事もできんのじゃよ」

「まさか‥‥‥」

「湯殿の中に潜入しておった程の者たちじゃ。台所に潜入して、毒を盛る事くらい平気でやるじゃろう」

「そんな‥‥‥心配しすぎですよ。そんな事を言ったら何も食べられなくなりますよ。わたしが毒味をしますから、どうぞ、召し上がって下さい」

「そうか‥‥‥しかし、お紺さんが毒を食べてしまったら大変じゃ」

「わたしなんて‥‥‥わたしなんか死んだって誰も悲しみはしないもの」

「そんな事はあるまい‥‥‥」

「いいえ」とお紺は首を横に振った。

 そのお紺の顔はなぜか、いつもと違って、淋しそうな影があった。やはり、道灌暗殺にかかわっていたのだろうか‥‥‥

「伏見屋様も明日、行ってしまうのね‥‥‥淋しくなるわね」

 お紺は酒盃を傾けながら、暗くなった庭の方をぼんやりと眺めていた。庭では秋の虫が鳴いていた。お紺の横顔を眺めながら、やはり、この女が道灌を殺した一味だったとは銭泡には信じられなかった。

「そういえば、さっき、弥吉がいなくなったって騒いでいましたわ」とお紺がポツリと言った。

「えっ、弥吉がいない?」

「ええ。帰って来ないんですって」

「弥吉が‥‥‥どうしたんじゃろう」

「弥吉も伏見屋様みたいに何者かに襲われたのかしら」

「弥吉がか‥‥‥」

「そんな事ないわね。あの弥吉が襲われるような理由がないもの」

「お紺さんは弥吉と親しかったのか」

「親しいっていうより、三年も同じ所に住んでいれば、自然とお互いの事が分かりますから」

「そうじゃろうの‥‥‥」

「弥吉はわたしにとって父親の代わりだったのかもしれません。弥吉もわたしの事を娘のように大事にしてくれました‥‥‥」

「そうじゃったのか‥‥‥」

「もしかしたら、あんな恐ろしい事件があったので、秩父に帰ったのかしら」

「秩父?」

「ええ。秩父の山の中に息子さん夫婦がいるとか言っていましたわ」

「秩父の山の中に‥‥‥」

「弥吉もいなくなっちゃったし、わたし、本当にここを出ようかしら‥‥‥」

「弥吉の息子が秩父にいるっていうのは本当なのか」

「えっ、そう聞いたけど、どうかしたんですか」

「いや、何でもない」

 秩父と言えば、長尾伊玄が古河に行く前に本拠地にしていた所だ。やはり、弥吉は伊玄の配下だったに違いない。姿を消したのは道灌を殺すという役目が終わったので引き上げたのか、あるいは敵方の者に殺されたかだった。

「お紺さんの親戚の人っていうのは、どこにおるんじゃ」

「河越のお城下です」

「河越か。その親戚というのはお侍なのか」

「ええ。河越のお城を守っております」

「そうか‥‥‥河越のお城を守っておるのか」

 風輪坊は弥吉とお紺はつながりがあると言っていたが、そんな事はあるまいと確信を持った。このお屋形の仲居になるには身元もはっきりと調べるはずだ。風輪坊は弥吉とお紺が二人で会っている所を見たと言ったが、三年も同じ所に住んでいれば、何かの相談をする事もあろう。怪しい商人とも会っていたと言っていたが、ただ、出入りの商人と会っていただけだろう。目の前にいるお紺が道灌暗殺にかかわっていたとは、銭泡にはどうしても思えなかった。

 お紺が帰った後、銭泡は横になった。

 弥吉がいなくなったと聞き、いくらか安心したが眠る訳にはいかなかった。しかし、つい酒を飲み過ぎてしまったのか、いつの間にか眠ってしまった。

 静まり返った深夜、銭泡が鼾をかいて眠りこけている時、足音を忍ばせて、やって来たのはお紺だった。

 眠っている銭泡を見つめながら、お紺は帯に差していた匕首(あいくち)(つば)のない短刀)を口に挟むと静かに帯を解いていった。着ていた単衣(ひとえ)が肩から滑り落ち、一糸まとわぬ白い裸身が現れた。口に挟んでいた匕首を手に取ると、お紺は銭泡に近づいて行った。その時の目付きは、ぞっとする程、冷たかった。

 隣りの部屋に風輪坊が隠れていた。風輪坊はすべてを見ていたが、お紺に向かって手裏剣を投げる事はできなかった。

 風輪坊は(ふすま)を開けて、銭泡の寝ている部屋に入ると、

「やめろ!」と言いながら六尺棒を構えた。

 お紺は銭泡の枕元から離れ、風輪坊にかかって行った。

 風輪坊は棒術の達人だった。しかし、今まで女を相手にした事はなかった。しかも、相手は美人で、まして素っ裸だった。

 実力は充分に発揮されず、後手、後手にと回っていた。そして、以外にも、お紺はすばしっこく、小太刀(こだち)の腕も想像以上だった。

 お紺の方は風輪坊を殺すつもりでかかって行き、風輪坊の方は生け捕りにして、何者なのか口を割ろうとしている。風輪坊の方が圧倒的に不利だった。

 銭泡の回りで二人は戦っていたが、そんな事も知らずに銭泡は眠っていた。

 風輪坊の棒がお紺の腹を突き、お紺は仰向けに倒れた。風輪坊は気絶したお紺を捕まえようとしてかがんだ。その時、お紺の右手に持った匕首が、風輪坊の(のど)を狙って走った。

 風輪坊の首は斬られ、血が吹き飛ぶはずだった。が、斬られる前に、天井から飛んで来た手裏剣に助けられた。手裏剣はお紺の持っていた匕首を跳ね飛ばし、右手の平をつらぬいていた。風輪坊が手裏剣の飛んで来た方を見ている(すき)にお紺は逃げて行った。

 風輪坊はお紺の後を追ったが、どこにも見当たらなかった。勿論、自分の部屋にもいなかった。

 客殿の部屋に戻ると竜仙坊が座っていた。

 お紺が脱ぎ捨てた着物がお紺の残り香と共に、そのままあり、銭泡は相変わらず眠っていた。

「風輪坊も女には弱いと見えるのう」と竜仙坊は笑った。

「不覚だった‥‥‥一つ、借りができましたね」

「なに、わしがおぬしの立場でも同じようなもんじゃろう。丸腰の相手を斬り辛いのと同じじゃ。まして、相手は別嬪(べっぴん)で、裸ときている。あんな女とまともにやり合えるのは余程の冷血漢じゃろう」

「しかし、どうして、裸になる必要があるんです」

「返り血を浴びてもいいようにじゃろう」

「返り血ですか‥‥‥」

「あの女は銭泡殿の喉首を斬りに来たんじゃ。確実に殺せるからのう。しかし、喉首を斬れば物凄い返り血を浴びる事になる。銭泡殿を殺して、ここを去るのなら返り血を浴びても構わんじゃろうが、ここにいるつもりなら、返り血を浴びた着物の処分するのが大変なんじゃろう。裸なら水を浴びれば済む事じゃからな」

「成程‥‥‥」

「まあ、あの女から見れば、裸になったお陰で命拾いをしたと言えるのう」

「ええ‥‥‥それより、どうして、竜仙坊殿は屋根裏なんかにいたのです」

「調べておったんじゃ」

「何を?」

「うむ。江戸に帰るつもりだったんじゃがのう。途中でおかしい事に気づいてな」

「おかしい事?」

「ああ。殿の刀じゃ。どこに行ったのかと思ってのう」

「脇差ですか」

「そうじゃ。湯殿の中には刀掛けがあるんじゃが、そこに殿の脇差はなかった。殿の前に風呂に入った吉良殿に聞いてみたら、そこに脇差を掛けたという。殿もそうしたに違いない。ところが、殺された後、脇差はなくなっていた。どうしてじゃ」

「道灌殿が殺される前に、誰かが奪ったという事ですか」

「多分な。この屋敷内に手引きした者がいるに違いないと思ったんじゃ。そして、戻って来たという訳じゃよ」

「そうだったんですか‥‥‥あの女だったんですね」

「おぬし、湯殿への渡り廊下を見張っていたんじゃろう。殿が風呂に入っている時、あの女、湯殿に行かなかったか」

「そういえば、あの女、湯殿に行きましたよ。湯加減を聞いていたようでしたが」

「その時、刀を持っていなかったか」

「いえ、そこまでは見えません。下から覗いていたので、肩から上しか見えませんでした」

「そうか‥‥‥あの女は何度、湯殿の方に行ったんじゃ」

「一度だけです」

「一度だけじゃったか‥‥‥」

「ただ、お紺が湯加減を聞いてから、しばらくして、弥吉がお湯を運んで湯殿に入って行きました。すぐに出て来ましたけど」

「なに、弥吉が湯殿に入ったのか」

「はい」

「それはいつの事じゃ」

「お紺が湯加減を聞いてから、ほんの少し経ってからです」

「殿が殺された時より、どの位前の事じゃ」

「どの位と言われても。ほんの少し前ですが」

「殿が殺された時、弥吉は湯殿の中にいたのか」

「いえ。道灌殿が殺されたのは、弥吉が湯殿から出て来て、しばらく経ってからです」

「弥吉はいなかったんじゃな」

「ええ。弥吉がその時、どこにいたのかは分かりませんが、湯殿にいなかった事だけは確かです」

「そうか‥‥‥」

「弥吉は何者なんでしょう」

「何者かは分からんが、多分、今回、中心になっていたのが奴に違いない」

「奴が‥‥‥」

「三年前からここにおるからのう。奴の手引きによって、殿の暗殺は実行されたに違いない」

「それで、奴はどこに消えたのです」

「死んだ」

「えっ」

「今日、伏見屋殿を狙った山伏を殺したのは奴じゃ。多分、仲間の口を封じたんじゃろう。わしは奴の後を追い、倒した。正体を聞こうとしたが無駄じゃった。奴は自らの首を掻き斬ってしまったわ」

「そうだったんですか‥‥‥という事は結局、何者かは分からなかったんですね」

「分からん。弥吉という奴も大したもんじゃ。身元が分かる物など何も持っておらん」

「部屋の中も捜しました?」

「ああ。何もなかった」

「そうですか‥‥‥お紺を追えば、誰のもとで動いていたかが分かりますね」

「さあ、それはどうかのう」

「どうしてです」

「あの女に伏見屋殿を殺せと命じたのは弥吉じゃろう。今回、殿を殺した二人は何者かに殺され、そして、弥吉も死んだ。あの女から見れば、自分も殺されるかもしれないと思うのが当然じゃ。誰が命じたにしろ、殿を暗殺する事に成功すれば、真相を知っている者を生かしてはおくまい」

「お紺も殺されるというのですか」

「弥吉やお紺の役目はもう終わったんじゃ。今度は弥吉らを殺せと命じられた者たちが潜入しているはずじゃ」

「そうか‥‥‥お紺も殺されるのか‥‥‥」

「勿体ないと思っているんじゃろう」

「ええ、いえ」

「確かに、勿体ないわな。うまく、逃げてくれるように祈るしかないのう‥‥‥それと、もう一つ、分からん事があるんじゃ」

「何です」

「塩漬けの首じゃ」

「えっ?」

「下手人は湯殿の中で、殿の首を塩漬けにして首桶に入れて逃げて行った」

「ええ」

「殿は殺される前も殺された時も、声や悲鳴は上げなかった。という事は、下手人は一刀のもとに殿の首を落としたという事じゃ。余程の達人だったに違いない。余程の自信を持っていたんじゃろう。しかし、必ずしも、あの時のように、うまく行くとは考えられん。殿が一言でも『曲者(くせもの)!』とでも叫べば、湯殿はすぐに警固の兵に囲まれる。悠長に首を塩漬けなどにしている暇などあるまい。何も危険を冒してまで、わざわざ、あんな所で塩漬けにする必要はない。おかしいと思わんか」

「確かに‥‥‥偽の首の方は塩漬けにしてあったとしても、道灌殿の首まで塩漬けにする必要もありませんね」

「うむ‥‥‥」

「もし、道灌殿が声を出したら塩漬けにしないで逃げたのかもしれませんよ。ところが、道灌殿は声を出さなかった。そこで、しっかりと塩漬けにしてから逃げた。どこに逃げようとしたのか知りませんが、どうせ、塩漬けにしなければならないなら、今のうちにしてしまえと思ったんでしょう。屋形の外には道灌殿の首を狙っている山伏が大勢いる事は知っていたでしょうからね」

「うむ、そうかもしれんが‥‥‥どうも、気に掛かるのう」

 銭泡が目を覚ました。部屋の中に人がいるのに気づき、はっとして側に置いておいた杖を探ったが、

「伏見屋殿、起きましたか」という竜仙坊の声で部屋の中にいるのが、竜仙坊と風輪坊だと気づいた。

「どうしたのです、お二人が揃って」

「銭泡殿が夢を見ている時、大変な事が起こったのです」と風輪坊が言った。

「はっ?」

 銭泡は部屋の片隅に落ちている帯と着物を見つけ、「何じゃ、あれは」と驚いた。

 銭泡は二人から事の成り行きを聞いた。

 一通り、話が済むと二人は闇の中に消えて行った。すでに、弥吉もお紺もいないから、安心して朝まで眠れるだろうと言われたが、眠る事はできなかった。あの二人が自分の事を見守っていてくれなかったら、今頃、死んでいたに違いないと思うと、眠るどころではなかった。





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