酔雲庵


蒼ざめた微笑

井野酔雲







32.葬送曲は蒼ざめた微笑




 藤沢久江の葬式は無事、終わった。

 葬送曲に紀子の『レクイエム・蒼ざめた微笑』が流れた。その曲には母親に対する紀子の気持ちのすべてが表現されていた。

 自分を産んでくれた母親と、その母親を殺した殺人者でありながら、自分を音楽家に育ててくれた母親、二人の母親に対する紀子の気持ちが葛藤しながらも、やがて、心の中で一つになる過程が表現されていた。

 若くして亡くなった母親への悲しみ。その母親を殺した育ての母親への恨みと怒り。どうしようもない悲しさが押えられない怒りとなって、やがて、優しさに変わり、生きる喜びへと変わって行った。それは紀子の感謝の気持ちだった。自分を産んでくれた母親、昭子への感謝。自分を育ててくれた母親、久江への感謝。自分を見守ってくれた静斎への感謝。色々な人への感謝。すべてのものへの感謝。そして、今の自分がすべてのものたちと一緒に存在している事への感謝だった。

 紀子は泣いていた。本当の母親を殺したのが久江だった事を久江本人の口から聞いて知っていた。しかし、彼女は泣いていた。彼女は素直に泣いていた。




 葬式が終わり、私は久し振りに事務所に戻って来た。湯沢から帰って来て以来、ずっと、静斎の屋敷に滞在していた。静斎の弟子たちが大勢、手伝いに来たため、私はいなくてもよかったのだが、静斎もひろみも私がいる事を当然の事のように思っていた。葬式が終わるまで抜け出す事はできなかった。

 静斎は世話になったな、と予想外な礼金をくれた。今回、私は何も解決できなかった。すべてが私が関わる前に起こっていた。私は舞台に登場するのが遅すぎたのだ。紀子の母親が殺される前に登場すべきだった。流斎が自殺する前に登場すべきだった。上原が殺される前に登場すべきだったし、静斎夫人が自殺する前に登場すべきだったのだ。私がやった事と言えば、隠されていた過去を掘り起こしただけの事だった。

 三時過ぎ、ひろみから電話があった。淳一が上原和雄を殺したと言って警察に自首したとの事だった。

「あなた、知ってたのね?」とひろみは言った。

「知らなかった」と私は答えた。

「ほんと?」

「ほんとです」

「あっ、そう‥‥‥でも、あたし、どうしたらいいの? お母さんは死んじゃったし、うちの人は人を殺しちゃったし‥‥‥これから、あたし、どうしたらいいの?」

「気を確かに持って下さい」

「そんな事、言ったって、あたし、自信ないわ‥‥‥ねえ、お願い、あなた、こっちに来て」

「俺も行きたいが、俺が行ったとしてもどうにもなりません」

「‥‥‥そうね‥‥‥そうよね‥‥‥分かったわ。でも‥‥‥もう、いいわ。御免なさい」

「頑張って下さい。御主人の意志を継ぐのは、あなたしかいないんです」

「主人の意志?」

「シナリオですよ。『和泉式部』を完成させて下さい」

「そうね、『和泉式部』を完成させなくちゃね‥‥‥そうね、そうよ、あたししかいないのよね」

「そうですよ」

「ありがとう」

 電話は切れた。

 淳一はやはり自首した。自分の罪を母親に押し付けて、知らん顔でいられる程、鉄の意志も氷のような心も持ってはいなかった。

 淳一は何も知らなかった。流斎の事も、母親の事も、紀子の本当の母親の事も、上原が陰で東山と名乗って恐喝をやっていた事も、何も知らなかった。何も知らずに、ただ自分の道をひたすら歩いていた。芝居や映画の事だけを考え、生きていた。それが、上原の自分勝手な行動によって平穏無事な世界から突然、真っ逆さまに転落した。かつて、静斎夫人が悩み、流斎が悩み、静斎が悩み、隆二が悩み、紀子が悩んだ世界に引き込まれてしまった。淳一がその悩みを乗り越えた時、本物のシナリオが書けるのかもしれなかった。

 四時を過ぎた頃、客が訪ねて来た。若い女だった。

 私は頭を切り替えて、新しい仕事を持って来た、その女を迎え入れた。

「あのう、日向さんでしょうか?」

 彼女はあまり口を動かさないで、はっきりした口調で言った。臆病そうな目は抜目なく、私を観察していた。

「はい、日向です。どうぞ」と椅子を勧めた。

 彼女は姿勢よく椅子に浅く腰掛け、部屋の中を一通り見回した後、バーバリーのマフラーをはずして、丁寧にたたみ、膝の上に置いた。それから、ゆっくりと顔を上げ、私の所で目を止めた。

 私はその目を覗き込んだ。利口そうで、真面目そうで、優しそうな目をしていた。彼女は私から目をそらせて、机の角を見つめた。

「どんな、御用でしょうか?」

 私は静かに、そして、丁寧に聞いた。

「あのう」と彼女は言って、体をもじもじさせた。

「上原和雄さんの事なんですけど‥‥‥」

 私はドキッとした。この女から上原の名前が出るとは、まったく、予想もしていなかった。

 私は改めて彼女を見た。清潔そうな髪、少し浅黒いが小さくて形のいい顔、くっきりしているが少しおどおどしている目、無理にすぼめているような口、派手でもなく地味でもなく体の曲線をすっかり隠してしまうコート、高くもなく低くもない茶色い靴、年は二十五位か、どう見ても、上原の犠牲者のようには見えなかった。

 彼女はハンドバッグの中を探って、一枚の紙切れを出すと、机の上にそっと置いた。それは、汚れてはいるが私の名刺だった。

「私、彼の友達なんです。今日、彼のアパートに行ったら留守でしたので管理人さんに聞いてみました。そしたら、あなたが彼の事を聞きにいらしたというので、私、彼の事が心配になって、それで、ここに来ました。彼が何かしたのでしょうか?」

 彼女は落ち着いた低い声で説明した。

 私は汚れた名刺を手に取って見た。確かに、管理人の親爺に渡した肩書付きの名刺だった。

「いえ、彼が何かしたわけではありません」と私は言った。

 彼女がホッとしたように肩を落とした。

「私が彼を訪ねたのは藤沢紀子さんの事で、ちょっと話が聞きたかったからです。紀子さんが急に、どこかに行ってしまったので、彼が何か知らないかと思って訪ねてみたのです。でも、紀子さんはもう、見つかりました。あなたは上原さんとは古くからの友達なのですか?」

「そうですか‥‥‥彼が何か悪い事をしたのではないのですね?」

 彼女の顔は明るくなって来たが、目にはまだ、不安の影が残っていた。

 私はうなづいた。

「彼と私は小さい頃からの友達です。うちが近くにあったものですから、子供の頃からよく一緒に遊んでいました」

「失礼ですが、うちというのはどこですか?」

「京都です」

「京都から二人で出て来たのですか?」

「いえ」と言ったまま、彼女は俯いてしまった。

「お名前を教えていただけますか?」

 私は話題を変えた。

「島田友美です」と俯いたまま答えた。

 島田T‥‥‥確かに、上原のキャビネットの中にあった。

「島田さん。あなたが上原さんの幼なじみなら知ってると思いますけど、彼は前に絵をやっていて真面目な人だったと聞いてます。ところが、今の彼は写真をやっていて、あなたには悪いのですが、あまり、評判がいいとは言えません。どうして、彼は変わってしまったのでしょう?」

 彼女は俯いたまま身を堅くしてしまった。

「それは」と呟いて、唇をかんで机の隅を見つめていた。

 私は辛抱強く、彼女が話し始めるのを待った。タバコをくわえ、火を点けた。ライターのカチッという音に彼女はピクッとして、私の顔を見た。

「それは、紀子さんのせいなんです」と彼女は言った。

「でも、紀子さんが悪いわけではありません。和雄さんが真面目すぎたのです。彼は紀子さんが好きになってしまったんです。彼は毎日、楽しそうに紀子さんのお宅へ通っていました。静斎先生から絵を習うのが目的だったんですけど、紀子さんに会う事も楽しみにしてたんです。彼は紀子さんの事を、まるで、女神かなんかのように思っていたんです。私は紀子さんに会った事ないので知りませんけど、きっと、綺麗な人なんでしょうね‥‥‥和雄さんは大学を卒業してからも絵の勉強を続け、静斎先生の喫茶店で働いたりしていました。紀子さんは音楽の大学に入りました。大学に入ってから、だんだんと紀子さんは変わって行ったようです。彼が夢に見ていた女神とは、少しづつ違って行ったようなのです‥‥‥私は彼と紀子さんの間に何があったのかは知りません。でも、彼が絵をやめてしまったのは紀子さんに関係しているのだと思います。彼は女神でなくなった紀子さんを恨み始めました。でも、彼は紀子さんが好きなのです。どうしても、女神だった紀子さんの事が忘れられなくて、彼女を愛していながら憎んでるように思えるんです‥‥‥私は彼が心配なんです。私は彼がどんなお仕事をしてるのかよく知りません。でも、何となく、悪い事をしてるような、そんな感じがするんです」

 彼女は黙った。力が抜けたかのように、ガックリと肩を落とし、ぼんやりと床を見ていた。

「彼は今、どこにいるのでしょうか?」

 彼女は力のない声で言った。

 山奥の雪の中で静かに眠っているとは私には言えなかった。

「みんなの話では仕事でヨーロッパに行ったとの事です」と私は答えた。

 彼女は背筋を伸ばして、姿勢を正した。

「管理人さんもそんな事を言ってました。でも、おかしいんです」と彼女は言った。

「私は彼が湯沢にスキーに行く前に会いました。その時、先週の土曜日にヨーロッパに行くから、それまで、預かっててくれと荷物を預かったんです。でも、彼は未だに取りに来ないんです。荷物の中身は何だか知りませんが、大事な物だと言ってました。その荷物を持たないでヨーロッパに行ったとは思えません」

 彼女は初めて、私の顔を真っすぐに見て喋っていた。私が嘘をついた事を責めているような口調だった。私ははやる気持ちを押さえてタバコを吸い、気持ちを落ち着けた。

「その荷物はどんな物ですか?」

「小さなトランクです」

 私はタバコを消した。

「あなたは東山という名前の人を御存じですか?」

 彼女は首を振った。

「でも、ヒガシヤマではなくてトウザンでしたら和雄さんが以前、使ってた画号です」

「画号?」

「はい。彼は静斎先生の先生の三浦硯山先生を尊敬していました。それで、自分で東山(とうざん)て付けたんです。それと、京都の東山に実家があるんです」

「成程、トウザンですか‥‥‥」

 私は引き出しから歯医者の高橋に貰った東山の写真を出して彼女に見せた。

「その男を知ってますか?」

 彼女は首を振った。

「東山と名乗って、あるモデルをゆすっていた男です」

「この人と和雄さんが何か関係あるのですか?」

 彼女は写真を机の上に置き、不安そうな目で私を見た。

「よく見て下さい。それは上原和雄さんです」

「まさか」と彼女は言ったが、もう一度、写真を手に取って見た。彼女の顔が少しづつ歪んで行き、まさか、まさかと呟いていた。

「やはり、上原さんですね?」

 彼女はうなづいた。

「彼がかつらをかぶっていた事を知ってましたか?」

 彼女は首を振った。

「和雄さんは東京に出て行く前から髪の毛の事は心配してました。でも、私が東京に来た時、薬を使ったとか言って髪の毛が生えて来るようになったと言っていました‥‥‥」

「彼は上原というカメラマンと東山という雑誌記者あるいは探偵を名乗っていたのです。上原というのは表の顔で、東山という裏の顔の時はゆすりをしていました。彼は湯沢に行く前、東山の名前であるモデルをゆすりました。しかし、相手が悪かった。そのモデルはかなり大きな芸能プロに所属していました。モデルをゆするつもりが逆に脅されたのです。彼はその芸能プロから逃げるために、ある歯医者に大金を要求しました。ところが、彼はその現場には現れませんでした」

「和雄さんがそんな事を‥‥‥」

「他にも彼の被害者は大勢いる事でしょう。その芸能プロの連中はまだ、上原さんと東山が同一人物だという事は知りません。しかし、二人を追っています。二人からモデルをゆすった写真を取り戻すまでは追い続けるでしょう」

「写真?」

「東山はあるアパートに仕掛けをして、ポルノまがいの写真を撮って、それを被害者に見せて、ゆすっていたんです」

「そんな‥‥‥」

 彼女は信じられないというように首を振っていた。

「後で分かる事ですから本当の事を教えましょう。上原和雄さんは殺されました」

「えっ!」

 凍りついたかのように彼女の動きが止まり、目を見開いて私を見つめた。膝の上にあったハンドバッグが床に落ちた。彼女はゆっくりと視線をハンドバッグに落としたが、それを拾う力がないように両手を膝の上に垂らしていた。顔を上げて私を見ると、

「芸能プロの人に殺されたのですか?」と感情のない声で言った。

 私は首を振った。

「紀子さんのお兄さんです。ちょっと前に警察に自首しました」

「どうして‥‥‥」

 彼女はようやく、ハンドバッグを拾った。

「湯沢の山荘で起こった事故なんです。上原さんが一人で留守番していた時、紀子さんが突然、山荘にやって来ました。二人の間に何があったのかは分かりませんが、上原さんが紀子さんの首を絞めていたそうです。そこに、紀子さんのお兄さんが帰って来ました。紀子さんのお兄さんは上原さんが、かつらをかぶっていた事を知りません。紀子さんが見ず知らずの男に殺されそうになってると思ったそうです。お兄さんは二人を離そうとしたけど駄目で、そばにあった置物で上原さんの頭を殴ってしまったんです」

「和雄さんが紀子さんを‥‥‥」

「事故だったんです」と私は言った。

 彼女は唇をかみしめて、ハンドバッグを握りしめていた。涙が出て来るのを必死に堪えているようだった。

 私は彼女から上原の荷物を見せてもらう了解を得て、彼女を乗せて、彼女の家に向かった。




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