酔雲庵

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門 

井野酔雲

創作ノート



『長野県史』より



1558年 9月 25日 武田信玄、善光寺如来を甲府に移す。
1559年 2月 16日 甲府善光寺、完成する。
1562年 諏訪四郎勝頼(17)、秋山信友に代わり高遠城主となる。信玄は跡部右衛門尉、向山出雲、小田切五郎左衛門勝宝、竹之内与五左衛門、小原下総、小原丹後、秋山紀伊守を侍大将として付属させる。
1565年 9月 信玄の嫡子義信、幽閉される。
11月 13日 勝頼、信長の娘を娶る。
1567年 10月 6日 義信、自害する。
1568年 12月 6日 信玄、甲府を発ち13日、駿府に乱入。依田信審、赤見源七郎などの信濃武士も参加。
12日 北条氏、今川氏救援のため、小田原を発し、三島に着陣。海路、掛川に向かう。
18日 徳川家康、信玄に呼応し遠江に進攻し、引馬城を落とす。
27日 家康、今川氏真が逃げた掛川城を攻める。
信玄、山県昌景を駿府に置き、本陣は久能城に取り、武田信豊に興津城を築かせて北条軍に備える。
1569年 4月 24日 信玄、戦況が好転しないので、江尻城の守備を厳重にさせ撤兵し、駿府の山県も兵を引く。
7月 信玄、伊豆三島を攻め、その後、大宮城を落とす。
9月 10日 信玄、碓井峠から上野に入り、鉢形城を攻める。
10月 1日 信玄、小田原城に迫るが4日に退却。
6日 三増峠の合戦。信玄、北条氏の勝つ。
12月 6日 信玄、駿河に進攻し、蒲原城を落とす。
薩捶山の北条軍は撤退し、信玄、まもなく駿府を手に入れる。
1570年 5月 14日 信玄、吉原、沼津で北条軍と戦い、8月には韮山城や興国寺城を攻める。
10月 8日 家康、信玄と手を切り輝虎と盟約する。
1571年 1月 16日 信玄、深沢城を手に入れ、ほぼ駿河の主要部分をおさめる。
2月 信玄、遠江に攻め入り、3月に高天神城を攻撃するが落とせず。
この頃、勝頼、正式な武田の相続者として甲府の館に入る。
4月 信玄、三河の足助城を落とし、下伊那の下条信氏に守らせる。
1572年 10月 3日 信玄、西上のため出陣する。
11月 14日 秋山信友、岩村城を攻め落とす。
12月 22日 信玄、二俣城を落とし、三方ケ原で家康と戦い、勝利する。
1573年 2月 10日 信玄、野田城を落とす。
4月 12日 信玄(53)、伊那の駒場で死す。
9月 10日 家康、長篠城を攻め落とす。
1574年 2月 5日 勝頼、明智城を落とす。
5月 勝頼、高天神城を攻め落とす。
1575年 4月 12日 勝頼、恵林寺および甲府屋形で信玄の大法要を営み、三河に出陣。
5月 21日 長篠の合戦。
6月 家康、光明城を落とす。
19日 二俣城を守っていた依田信守、病死する。
8月 家康、諏訪原城を落とす。
11月 21日 岩村城、落城し、秋山信友、殺される。
12月 23日 二俣城、落城、依田信審、高天神城に退く。
1576年 4月 16日 勝頼、恵林寺で信玄の葬儀を行う。
1577年 1月 22日 勝頼、北条氏政の妹を娶る。
1578年 3月 13日 上杉謙信、死す。
14日 景虎擁立に立とうとした柿崎晴家が景勝方に殺される。
5月 13日 景虎、妻子を連れ城を出て府内の御館に入る。
16日 東条佐渡守が春日山城下に火を掛ける。
17日 景虎、春日山城を乗っ取ろうと攻撃するが飯山城主桃井義孝が戦死し失敗に終わる。
22日 景虎と景勝、荒川館で戦う。愛宕でも衝突。
下旬 勝頼、小諸城主武田信豊を先陣として進発させ、やがて自らも本軍を率いて出発。
氏政は沼田に入り利根川以東をおおむね手中にしたが、川西の川田、名胡桃、小川、猿ケ京、中山、尻高の諸城が景勝方に付いたので、関東を出る事ができなかった。
6月 景勝、武田軍先陣の大将武田信豊に講和の斡旋を頼む。信豊は海津城主の香坂弾正と協議する。
7日 跡部勝資が春日山城の十一の将に当てて講和を承諾したと返事を出す。
講和の条件に信濃も上野も勝頼に割譲する事が入っていた。
12日 景勝、誓紙を送り、信豊がこれを海津城に着いた勝頼に見せる。
19日 景勝は妻有城の小森沢政秀に書を送り、高井郡の市川信房の調略に迷わず城を堅固に守るように命じる。
22日 勝頼、長沼(長野市)に陣を進め、27日には春日山城下の間近に迫る。
29日 勝頼、春日山城下の下木田に着陣し、和平の斡旋に乗り出す。
7月 23日 勝頼、景勝の家臣で信濃出身の仁科中務丞、山吉掃部助などに贈り物の礼状を書き、景勝に諌言するようにと述べる。
8月 中旬 勝頼の和平工作まとまる。
20日 景勝、斡旋の礼として勝頼へ太刀1腰、馬1頭、青銅一千疋を贈る。
28日 結局、和平はならず、勝頼、府内の陣を引き払う。
1579年 3月 17日 景勝、御館を攻め落とし、上杉憲政を殺す。景虎、鮫尾城に逃げ込む。
24日 景虎、自害する。
9月 5日 北条氏政、家康と勝頼を挟撃する事を約束する。
10月 20日 勝頼の妹、お菊、春日山城に輿入れする。
1580年 5月 真田昌幸、沼田城を落とす。
1582年 1月 下旬 木曽義昌、勝頼に背き、織田信長に属す。
30日 伊那松尾城(小笠原信嶺)落城する。
2月 2日 勝頼、諏訪上原に着陣する。
6日 下条信氏、伊那滝沢から敗走。
14日 飯田城の保科正直、坂西織部敗走。
16日 伊那大島城の日向宗栄敗走。
木曽義昌、鳥居峠で今福昌和と戦い破る。
28日 勝頼、諏訪上原の陣を引き払い、新府城に帰る。
3月 2日 高遠城落城。仁科盛信、自害。
3日 高島城の諏訪頼満降伏。
深志城の馬場信春も降伏。
5日 織田信長、安土城を出立。
6日 信長、美濃呂久渡で仁科盛信の首実験。
7日 織田信忠、本陣を諏訪から甲府に移す。
9日 信忠、古府中にて家康と会見。
11日 勝頼親子、田野にて自害。
14日 信長、伊那浪合に着陣。勝頼父子の首実験。
16日 信長、飯田で武田信豊の首実験。
19日 信長、諏訪法華寺に着陣。家康と会見。13日間滞在。諸将出仕する。
20日 木曽義昌、奥平信昌、信長のもとに出仕する。
21日 穴山梅雪、小笠原信嶺ら、信長に出仕。
27日 木曽義昌、本領木曽の他安曇、筑摩2郡を信長から与えられる。
28日 信忠、甲府から諏訪に帰陣。
29日 信長、知行割りを行う。駿河は家康、甲斐は河尻秀隆(穴山の本知分は除く)、上野は滝川一益、信濃高井、水内、更級、埴科郡は森勝蔵長可、木曽、筑摩、安曇郡は木曽義昌、伊那郡は毛利秀頼、諏訪郡は河尻秀隆、小県、佐久郡は滝川一益に与えられる。
4月 2日 信長、諏訪を出発、甲府に向かう。森長可、水内郡長沼城を奪い返す。
7日 長可、水内郡大倉城を落とす。三千余の首を取る。
8日 昌幸、信長より馬を贈った返書を貰う。
5月 27日 森長可、信越国境を越え関山から三本木(二本木)へと兵を進め、春日山へ迫る。景勝は越中の天神山にいたが急遽越後に退き、長可の侵入に備える。
6月 2日 織田信長、殺される。
森長可、信長死すの報が届くと慌ただしく陣を解き、海津城に帰る。
10日 諏訪頼忠、諏訪郡を取り戻し高島城に入る。
14日 森長可、上洛の途につくが、大倉惨劇の報復として一揆が起こる。長可は先の一揆の人質を前面に立てて、これを切り抜け、無事脱出した後、人質全員を殺す。
19日 北条氏直は滝川一益を破った勢いで信濃に入り、小諸城の依田信審を追い落とし、信濃進攻の拠点とする。
20日 北条の先鋒、大道寺政繁、遠江二俣から帰陣したばかりの依田信審を芦田城に攻める。信審は力およばず佐久郡三沢に退く。氏直と対立していた家康は柴田康忠に命じて信審を助けさす。
22日 上杉景勝、信越国境に近い関山に着陣する。
23日 滝川一益、信濃の武将たちの人質を伴い、小諸を出発する。
27日 滝川一益、諏訪に着く。
上杉景勝、長沼城に入り、森長可の支配した北信4郡を掌握すると共に小笠原貞種を送り込んで深志城の木曽義昌を追い出し、安曇から筑摩郡まで手を伸ばす。
28日 滝川一益、木曽福島で木曽義昌と対面する。人質を義昌に託し、伊勢に向かう。人質の中には真田弁之助もいた。
7月 3日 家康、浜松を出陣。
9日 家康、甲府に着陣、酒井忠次を伊那から諏訪に送り込み、伊那の下条頼安、小笠原信嶺、保科正直らを服属させる。
12日 北条氏直、小県の海野に入る。真田昌幸、高坂、塩田氏らと共に出仕する。
柴田康忠、佐久に入り、信審の案内で北条氏になびいていた前山城主伴野刑部を攻めて、これを降参させる。
13日 海津城将、春日虎綱の嫡子、信達、上杉を裏切り殺される。景勝は村上景国を海津城代とする。
17日 小笠原貞慶、貞種を追い出し、深志城に入る。
26日 家康、佐久に送り込んだ依田信審に佐久、諏訪両郡を宛てがう。
8月 2日 氏直、家康の先鋒隊と鋭く対立していた諏訪頼忠の要請により、諏訪に出兵。
5日 景勝、春日虎綱の介添として海津城にいた小幡昌虎や窪島日向守の所領を安堵する。
6日 酒井忠次、甲斐の新府城へ退く。氏直、それを追って若神子に着陣。睨み合いが続く。
9日 家康、木曽義昌に小県、佐久郡の人質の返還を求める。9月に引き渡される。
30日 家康、木曽義昌に安曇、筑摩と本領を安堵する。
9月 28日 家康は昌幸を味方に引き入れた加津野信君に感状と金子50両を贈る。昌幸には所領を安堵する。
10月 19日 昌幸、北条方の小諸在城の祢津昌綱の本拠地祢津を攻めるが成果はなし。
29日 家康と氏直、若神子で和睦する。真田の上野沼田と北条の信濃佐久、甲斐都留郡を交換。
11月 25日 互いに陣を引く。家康、小諸に城代として依田信審を置く。
1583年 1月 昌幸、丸子城を攻め落とす。
2月 22日 依田信審、岩尾城を攻めるが弟の信幸と共に戦死。翌日、岩尾城は落ち、家康は信審の嫡子源十郎康国に松平姓を与え、小諸城主とする。
3月 家康、昌幸に佐久、小県両郡平定のため出兵すると伝える。
上杉方の海津城二の曲輪を守っていた屋代秀正が家康に内通。
28日 諏訪頼忠、家康に服し、諏訪1郡を安堵される。
4月 家康、甲府まで出陣する。
昌幸、上田尼ケ淵城の築城に取り掛かる。
この時期、室賀信俊、祢津昌綱らも独自に家康の配下に属し、それぞれ郡内に割拠し、真田氏と対立していた。
1584年 3月 諏訪頼忠の嫡子頼水、家康の家臣本多康重の娘を娶る。
屋代秀正、海津城を脱出して荒砥城にこもり、次いで虚空蔵山城に籠もる。
5月 海津城将の村上景国は謀反の嫌疑で越後に招還され、村上氏は実質敵に滅亡する。
7月 昌幸、室賀信俊を上田城で謀殺する。
8月 小笠原貞慶、木曽に出兵し、義昌の館を占領する。貞慶、この頃、深志を松本に改める。
1585年 7月 昌幸、上杉に属す。上杉に属していた祢津昌綱、真田の配下となる。
8月 20日 家康、七千余騎の大軍で上田表に迫る。
29日以前、上杉の援軍、地蔵峠を越え曲尾に到着。
閏8月 徳川軍、昌幸に敗れ、諏訪、甲斐方面に引き上げる。
11月 13日 石川数正、小笠原貞慶の人質を連れ岡崎城を出奔し、秀吉のもとに走る。
18日 徳川軍、遠江に引き上げる。
1586年 7月 家康、真田を討つため駿河まで出陣するが、秀吉の斡旋によりしばらく延期する事となる。
8月 3日 秀吉、上杉景勝に、真田を成敗すると告げる。
9月 25日 秀吉、景勝に、真田成敗はやめると告げる。
12月 秀吉、大政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を与えられる。
1587年 1月 4日 秀吉は景勝に真田氏を上洛させるように命じる。
3月 18日 昌幸、小笠原貞慶と共に駿府の家康のもとに出仕する。
1589年 11月 猪股邦憲、名胡桃城を奪う。
1590年 2月 小田原攻め。昌幸は三千の兵を引き連れ参加する。
4月 6日 秀吉、湯本に到着し、本陣を早雲寺に置く。





信玄の妻は禰津元直の娘。諏訪頼重の娘。三条公頼の娘、本願寺顕如の妻の姉。
仁科盛信の妻は信繁の娘。逍遙軒の娘。
高遠城 1547年、武田氏は新たに城を築き、秋山信友を置く。1562より1571年まで、勝頼が守る。
1571〜1582年まで逍遙軒軒廉。1582年より仁科盛信。
大島城 1571年3月、普請を行い、以後、下伊那の中心となる。1582年より逍遙軒信廉が入り、小原継忠、安中七郎らが守る。
深志城 1550年8月、新たに築き、馬場信房が城代。信房戦死後、子の民部少輔。
小諸城 小山田昌行→飯富虎昌→小山田昌行→小山田昌辰→春日昌信→武田信豊。
海津城 春日虎綱(−1578病死)→子の信達。


善光寺 1553年、長尾景虎、善光寺内陣の仏像、仏具を越後府中に移す。
1555年、善光寺は武田方に属す。この戦いの跡、信玄は善光寺を祢津に移し、ついで甲斐に移し、1558年、如来堂が完成する。
飯縄修験は真言系。戸隠修験は天台系。
1557年2月、葛山城が落ちると、武田軍は飯縄、戸隠方面を占領。飯縄神主千日太夫は武田に降伏する。
真田の白山寺は明治以降、山家神社になる。




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