酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



徳政について




室町時代

『室町時代』より、徳政について



京中の土蔵は300軒(うち85%が山門)、酒屋も300軒。
金融業者には、山門の僧侶や禅僧が多い。
今川氏の御用商人──友野氏。
2文子(月2%)以下の祠堂銭は、徳政から免除される。
公方御蔵(幕府財産管理)‥‥‥籾井氏、正実坊、禅住坊、定泉坊など。
禁裏御蔵(朝廷財産管理)‥‥‥辻入道宗秀、野洲弾正忠、中興藤四郎(大柳酒屋)、津田与二郎、長谷川氏、舞人の多氏、立入氏など。
土蔵‥‥‥現在の質屋と銀行を兼ねたもの。『合銭(ごうせん)』といわれる預金。
1459年の法令によると、
絹布類、絵衫物(えさんもの)、書籍、家具類── 5文子、約月一年。
盆、香合、茶碗物、花瓶、香炉などの金物── 6文子、約月20ケ月
武具── 6文子、約月24ケ月
米穀、雑穀── 6文子、約月7ケ月
質入れした物の利子は毎月取られた。
幕府は、利子額が、本銭(元金)の倍以上になれば、元金を支払わなくても、所領を本主に返府せよと命じている。しかし、実行された事はない(利子を本銭に加えて、借状を書き替える)。
土地の売買 領家職(りょうけしき)、地頭職、名主職(みょうしゅしき)‥‥‥年貢を取る権利。
作職‥‥‥土地を耕す権利、年貢を支払う義務。
座の営業権や座頭職も質入れされた。
代官請負──債権者が、直接、現地に行き、年貢を受け取る。
土蔵は、低利だった堂祠銭を合銭として借り受け、それを貸付けていた。
堂祠銭とは、信者が寺院などに寄進した米銭の事を言うが、寺院が、それを利殖のために貸付けた事から、寺院の貸付け金も、こう呼ぶようになって行った。
有徳人と呼ばれる富裕な商人は、寺社に従属して寄人、神人の身分となり、課役免除の特権を得ていた。
正長元年(1428)の土一揆、興福寺は、見質(動産質)は元金の3分の1で請け出す事、頼母子は破棄、5年以前の借用証文は只で出す事、去年以前の未進年貢は破棄という細目で徳政を行う。
自治体となっていた惣村は『地下請』として、領主から、年貢納入を受け持っていたため、土蔵に借金してでも、年貢を払わなければならなかった。払わなければ自治権を奪われ、以前のように領主の支配下になってしまう。また、戦乱の中、軍隊が駐留しないように取り図るためにも、莫大な賄賂を必要とした。
私有の権利が発達しない段階において、私有物の交換による移動が、種々の弊害を生み出した時に『徳政』という処置が行われる。中世においては、土地を所有する事ができたのは、領有すべき身分の者でなければならなかった。その秩序が崩れた時に、徳政によって、土地を元の所有者に戻した。室町時代になると、貨幣経済の発達によって、その秩序は崩れていった。
中世の農村では、収穫物の大半は、献納物と自家消費であった。その余剰物を市に売りに出て、必要品を買っていた。
米価 (播磨国矢野庄) 1411年10月 石当たり 526文、1升、5,3文
(東寺領) 1412年2月 石当たり1053文、1升、10,5文
1413年12月 石当たり 654文、1升、6,5文
1413年12月《京都》 石当たり 937文、1升、9,4文
1414年10月 石当たり 639文、1升、6,4文
1414年11月 石当たり 677文、1升、6,8文
1414年11月《京都》 石当たり 952文、1升、9,5文
1415年2月 石当たり 752文、1升、7,5文
物価 (京の織物) 普通の織物 1端6貫文
練貫(平絹)上 1端4貫500文
練貫(平絹)中 1端3貫500文
練貫(平絹)下 1端2貫2〜400文
格子織物 1端7貫500文
文紗 上 1端6貫文
文紗 下 1端4貫文
素紗 上 1端4貫文
素紗 下 1端3貫300文
絽  上 1端9貫文
絽  中 1端8貫文
絽  下 1端6貫文
加賀絹 上 1端3貫文
加賀絹 中 1端2貫300文
美濃絹 上 1端2貫300文
美濃絹 中 1端1貫700文
公定価格、米1石=銭1貫(50000〜60000円)
年貢が、代銭納になって行くと、米の相場を利用して、利益を貪ろうとする者が多くなって来る。
手工業の技術革新は、外来技術の入って来た16世紀になってから。15世紀では、製鉄は、野炉から、粘土製の製鉄炉の普及、建築における大鋸、少し遅れて台鉋の使用などが見られる程度だった。
洛中の材木売買の独占営業していたのは、堀川材木座という祇園社の神人集団、大鋸板の独占販売をしていた。
製塩方法は、自然浜方式の地方も多かったが、弓削島など瀬戸内海地方では、人工的な揚浜に塩穴を掘り、桶に入れた海水を注いで鹹水(タレ塩)を取る方法が採用されていた。この揚浜方式は多大な労働力を要したが、収穫量も多く、自然浜の3倍以上の収益が見込まれた。
市場‥‥‥店舗を持った市場在家、立売りに来る商人、借家を借りている商人などがいた。立売り商人は、市場に立つのに100文程度(6000〜10000円)の役銭が必要だった。
座には、生産を独占する座と、運送を独占する座と、販売を独占する座に別れて行った。
1449年頃、京都の織物師(唐綾)、大舎人(おおとねり)の内大内坊西頬右馬孫三郎経信と縫物師(刺繍)、中御門高倉与春日之間東頬衛門次郎が有名。
雲母(きらら)は、紙や蒔絵に使われ、水銀は白粉の原料、さらに死体保存につかわれた。
鋳物師‥‥‥ 河内丹南、京都三条、下野天命、筑前葦屋、能登中居、大和下田、播磨野里、近江八日市、摂津安孫子、伊勢蛸路、備後三原、出雲宇波、備前邑久、周防柳井津、相模鎌倉、武蔵金屋、若狭遠敷、加賀山代、豊前今井、豊後高田。
鍛冶師‥‥‥ 京都三条粟田口、備前長船、吉井、福岡、備中水田、青江、備後三原、相模鎌倉、遠江島田、筑後大石、三池、薩摩波平、豊後高田、阿波海部、若狭小浜。
紙‥‥‥ 播磨杉原紙(公式用紙)、備中檀紙(公文書の包紙)、美濃紙(草子紙)吉野紙(貴族武士の日常用)、越前鳥子。
大和一国の興業権は、五ケ所、十座の声聞師が持っていた。




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