酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



金峯山寺(きんぷせんじ)




奈良時代前期

吉野郡十座

吉野水分神社、吉野山口神社、大名持神社、丹生川上神社、金峰神社、高桙神社、川上鹿塩神社、伊波田神社、波宝神社、波比売神社。

  • 古代において、象谷(きさだに)の道は金峰山への主要路だった。

平安時代
862年 天台系修験の祖と仰がれる比叡山無動寺の相応が、金峰山に登る。

青根ケ峰の頂上近くに位置する安禅寺の開基を相応とし、本尊として不動を安置する。

895年 東寺長者、醍醐寺座主、貞崇、鳥栖鳳閣寺を建立。
898年 大峯中興の祖とされる聖宝、晦日山伏を行う。

聖宝、6尺の金色如意輪観音を造る。1丈の多聞天王、金剛蔵王菩薩像を彩る。現光寺に於いて、弥勒丈六菩薩、1丈地蔵菩薩像を造る。金峰山の要路、吉野川辺に舟を設け、渡子6人を申し置く。

898年

法華経の持経者、陽勝、吉野郡牟田寺にて3年苦行する。3年後、仙人となって飛び去る。

941年 日蔵、威徳天満宮を祀る。

1090年

増誉、熊野三山検校職に補せられ京都に聖護院を起こし、熊野三所権現を勧請し、修験の鎮守とする。

この頃、行尊、笙の窟の冬籠りの荒行を始める。

  • 安禅寺‥‥‥『女人参詣之堺也』とある。愛染宝塔あり。
  • 吉野の寺、宿坊(平安時代)

石蔵寺(いわくらじ)、一乗寺、金剛寿院、道円寺、薬師院、遍照金剛院、大聖寺、弥勒寺、祇園社、吉水寺、大福寺、千光院、今熊野院

  • 検校‥‥‥興福寺の僧(金峰山が興福寺の傘下に入った)
  • 検校──僧綱──三綱──執行──学侶(寺僧)──供僧──堂衆──行人(満堂)

中世
1225年 正月 金峰山蔵王堂、炎上焼失。
1229年 11月 再建落慶。
1264年 6月 雷火のため、大塔、蔵王堂、食堂、鐘楼、倉など焼失。

1348年

正月

高師直、吉野に火を放つ。二丈の笠鳥居、二丈五尺の金(銅)の鳥居、金剛力士の二階の門、北野天神社、七十二間の回廊、三十八所の神楽屋、宝蔵、竃殿(へつい)、蔵王堂など焼ける。

1410年 この頃までに、再建される。
1463年 畠山義就、吉野山に籠る。
1466年 畠山義就、吉野山に籠る。
1468年 蓮如、下市に願行寺を建てる。
1471年 9月 蔵王堂正面に立つ銅灯籠が寄進される。
1476年 蓮如、飯貝に本善寺を建てる。
1479年 10月 大和南部の合戦により、長谷寺、吉野等の参詣人が一切なくなる。
1496年 三条西実隆、蔵王堂に詣で、桜花を賞す。
1497年 越智父子、吉野に籠る。

  • 金峰山寺は興福寺六万衆のうち、龍花院方に属す。
  • 戦国時代には、興福寺一乗院が、金峯山寺の支配権を持っていた。
  • 鎌倉時代に入ると、大峯を両部曼陀羅になぞらえ、金峯山を金剛界、熊野を胎蔵界、神仙を中台とする思想も現れた。

  • 鎌倉時代の法会
一山 釈迦講(毎月晦日)、二月会(二月五日)、曼荼羅供(三月七日)
一切経会(三月十一日)、新三十講(四月二十日〜二十四日)
三十講(五月二十八日〜六月四日)、御影供(六月七日)
蓮華会(六月十日)、章安講(八月七日)、堅義(九月十九日)
結縁灌頂(九月二十九日)、霜月講(十一月二十四日)
山下蔵王堂 法華読誦(毎月十四日)、蔵王講(毎月十九日)
修正(正月八日〜十日)、大仁王会(正月二十三日)
二月堂仏事(二月一日〜三日)、法華八講(三月)
六万前華(七月一四日)、千部読誦法華経(九月二十日〜二十二日)
山上蔵王堂 戸開(三月三日)
晦山伏出峯(四月八日、入峯十二月晦日)
花供山伏出峯(五月九日)
大般若経転読、験競十番、延年舞、大曼荼羅供(五月九日夜)
役行者御影供、験競、延年(六月六日)
諸国山伏入峯(六月七日〜九月九日)
笙窟冬籠(九月九日〜翌年三月三日)
戸閉(九月九日)
吉水観音堂 法華読誦(毎月十八日)
石蔵寺観音堂 本尊千手観音の修正(正月一日〜七日)
 〃 二月堂 修二会(二月一日〜三日)
 〃 常行堂 修正(正月三日)、常行三昧音声(毎月十五日)
不断念仏(九月十一日〜十七日)
天満社 法華八講(毎年二季)、法華読誦(毎月十二日)
下宮勝手社 祭(正月二十三日)、不断尊勝陀羅尼(正月一日〜十四日)
法華八講(二月二十三日〜二十四日、十一月三日)
法華十講(三月一日〜五日)、一日大般若転読(四月三日)
大般若経(十一月一日〜五日)
上宮子守社 祭(正月十八日)
牛頭宮 祭(六月十四日)
二鳥居金峯社 祭(五月五日)

  • 山下蔵王堂   南に広い庭があり、その庭を囲んで七十二間の回廊があり、回廊の南側に中門があり、その南に二天門があった。回廊の内側、東に救世観音堂、経蔵、回廊の外側、西に大塔、威徳天神社、阿弥陀堂があった。蔵王堂の西には鐘楼、北には食堂があった。

  • 総門(黒門)の70メートル程、下手の辺りに、金峯山衆徒により、関(六文関)が設けてあり、通行人から関銭を徴収していた。1457年頃、通行料は六文。

  • 山上三十六坊   藤尾寺、上浄土寺、下浄土寺、妙法寺、不動寺、上辰之尾寺、妙覚寺、清水寺、上宝蔵院、下宝蔵院、浄明院、惣持院、菩提院、東南院、中院、上吉水院、小鳥院、新中院、光明院、持明院、東室院、岩本院、薬師院、南院、一鳥院、東院、往生院、橋本坊、吉峯坊、下吉水坊、少山坊、西牛頭坊、下辰之尾坊、大門坊、小松坊、中光坊

  • 『大和巡日記』(1838年4月)より

六田の渡しを舟で渡る→一の坂の桜並木→木戸→丈六蔵王堂→薬師堂→黒門→胴の鳥居→仁王門→蔵王堂→吉水院(物見代百文)→灯籠の辻→桜本坊→勝手明神→竹林院→大将軍社→夢違観音(貘の観音)→花矢倉→辰の尾の布引の桜→世尊寺→子守明神→高坂山→金精大明神→奥の院(本尊、蔵王権現)→安禅寺愛染宝塔→目洗の井→苔清水→西行庵(西行自作の像)→《女人禁制》→行者鍋割坂→試の茶屋(そこより二十五丁に一軒づつ腰掛け茶屋あり)→試坂→足摺山→七坂→百丁茶屋→小天井茶屋→国見茶屋(茶代三文、飯を食べる時は六文)→大天井の峯→象が鼻→蛇腹の坂→蔵掛→かつ元坂→洞辻茶屋→道刈銭小屋(もともとは火打ケ岳にあったが、1720年頃、ここに移動。六文)→鞋替場(清めのために草鞋をはき替える)→鐘掛岩→亀石→西の覗き→東南院→裏行場(山上の先達に七十九文)→山上本堂→金剛童子→子守明神→東南院





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