酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



『日本の宿』より



日本の宿




  • 九州、阿蘇の東南麓、馬見原の蘇陽峡‥‥‥サンカの定住地

  • 秋田のマタギ

新潟県と長野県にまたがる秋山の峡谷をさかのぼり、群馬県の六合村から草津温泉あたりまで、獲物を求め歩いている。ただし、山中で採るものは野獣よ りは川魚が多く、それを草津の温泉客に売っている。

  • 奈良県吉野山中の狩人なども、山口県あたりまで、狩りに出掛けていた。

  • 564年に帰化した新羅人は大阪府三島郡、
    565年に帰化した高麗人は京都府、
    665年に帰化した百済人400人は近江神崎郡、
    666年に帰化した百済人2000人は東国、
    669年に帰化した百済人700人は近江蒲生郡、
    684年に帰化した百済人の帰化僧は武蔵、
    687年に帰化した高麗人56人は常陸、新羅人14人を下野に新羅僧尼ら22人を武蔵、
    717年に駿河、相模、上総、下総、常陸、下野にいた高麗人1799人を武蔵に移す。

  • 東北にいた蝦夷を移して作った俘囚(または夷俘)郷が、上野に二つ、播磨に二つ、周防に一つある。

  • 703年、日本を58国3島にわかち、これを畿内および、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7道に分属し、幹線道路でつらね、国々の国府をつないだ。

  • 諸道には、ほぼ4里間隔に駅を置いた。

  • 旅人たちを若い娘が接待するという風俗‥‥‥後に、職業的な遊女となっていく。

  • 鎌倉時代になると、人の往来する街道筋の宿にはかなりの宿屋ができていた。

  • 旅人のための布施屋と苫屋。

  • 熊野詣で

京都を出て、淀で淀川を南へ渡り男山の東を交野、四条畷と歩いて大阪に入り、天王寺へ参詣して、それから、阿倍野、遠里小野などの荒野を横切り、三国丘、大鳥、府中、近木、佐野、信達などを経て、紀伊に入る。そして、海岸づたいに田辺まで行き、そこから東へ折れて、いわゆる中返路を通り、湯の峯に着く。湯の峯は温泉があり、人々はここの湯につかって潔斎(湯垢離)をした。そこから、低い峠一つ越えれば本宮である。本宮の参拝を済ますと川船で新宮に下り、さらに那智に至って三山の巡拝を済まし、海岸線(大返路)を歩いて田辺に帰る。また、本宮から、川船によらず小雲取、大雲取の山路を越えて、那智に出る者もあった。

  • 熊野は、熊野船という堅牢で荒波に耐える船の産地であった。

  • 淡路の論鶴羽山は、熊野山伏の、古くからの道場。

  • 備前児島半島の論伽山は、今熊野と呼ばれ、内海随一の熊野信仰の聖地。

  • 日向鵜戸神宮も、中世は熊野山伏の道場として知られていた。

  • 薩摩種子島の熊野神社も享徳元年(1452)に熊野から勧請せられた。

  • 琉球の沖縄島にも七社の熊野社が祀られている。

  • 一遍

延応2年(1240)伊予の河野家に生まれる。十歳の時、母を失い、13歳の時、筑前の聖達(浄土宗)の元で学問を学び、15歳の時、出家し、随縁と名乗る。25歳まで、九州にて仏法修行を勤める。25歳の時、父の死にあって帰省し、還俗する。35歳の時、伊予菅生の岩屋観音にこもり、37歳の時、宇佐におもむき、さらに山城の男山に行き、そこで、熊野本宮へ参るようにと霊夢を受け、熊野への旅を続ける。そして、本宮の証誠殿に百日間こもって祈願し、満願の日(1275.12.15)熊野権現が現れて、念仏を勧めて全国を歩きなさい、とのお告げを受け、一遍と名を改め、全国行脚の旅に出る。
伊予→大隅→豊後→日向→薩摩→壱岐→対馬→伊予→安芸→周防→長門→備前→熊野→京都→越前→越後→信濃→武蔵→上野→下野→江刺郡(岩手)→平泉→松島→常陸→武蔵→相模→伊豆→駿河→三河→尾張→美濃→伊勢→近江→京都→丹波→丹後→但馬→因幡→伯耆→美作→伯耆→播磨→大阪→和泉→河内→大和→大阪→兵庫→播磨→備中→備後→安芸→伊予→阿波→兵庫
正応2年(1289)兵庫光明福寺にて死す。

  • 関東から東北にいたると、宿屋はなく、ほとんどが、山伏の寺に限られる。

  • 大和吉野郡天川村坪内弁財天の神主たちは、曲物の苧桶を配り歩いていた。

  • 大峯山西麓の洞川の山伏は柄杓を配り歩いていた。

  • 京都大山崎の離宮八幡の神人は、荏胡麻から取る荏油を売って歩いた。

  • 熊野の神主たちは、帯、扇、針、小刀、櫛などを持って行商を兼ねて歩いている。

  • 上野の大戸、海野三河守、連歌師宗長をもてなす(1509年頃)。

  • 宗長は、遠江の掛川では、朝比奈備中守の泰能亭に逗留。

  • 鍛冶屋の故郷は大和と南河内。そこから出て、全国を放浪。

  • 鉄の産地は、中国地方の山地と東北の北上山地。

  • 塩の道。

  • 行商人

紅粉解、白粉売、薫物売、薬売、灯心売、畳紙売、扇売、枕売、硫黄箒売、ひきれ売、鍋売、麹売、酒売、酢売、餅売、饅頭売、じょうさい、心太売、そうめん売、豆腐売、ほろ味噌売、煎じ物売、一服一銭、大原女、桂女、魚売、蛤売、塩売、米売、豆売、葱売、芋売、絃売、綿売、白布売、帯売、すあい、すあい、馬買、革買など。

  • 近江商人の故郷‥‥‥蒲生郡得珍保。

  • 海賊、盗賊たちの盗品を裁く所があった。

  • 港に発達した問丸が商人宿となって行く。

  • 文明年間、奈良、京都や伊勢の門前町には、かなりの宿屋があった。伊勢街道の沿線にも宿屋が増えていた。京都では、三条から五条にかけて多かった。

  • 奈良の宿屋

筏屋、烏帽子屋、鉢屋、墨絵屋、但馬屋、舟戸屋、蜂屋、ワク屋、鎌倉屋、岩屋、ラシアウ屋、橘屋、鳥屋、塞屋、瓦屋、藤屋、猪屋、腹巻屋、精好屋、わくだ屋、松屋、みす屋、鶉屋、柏屋、クツワ屋、甲屋、チキリ屋。

  • 京都の宿屋

扇屋、トキ屋、山崎屋、粟津屋、まさ屋、うつほ屋、丹波屋、俵屋、灰屋、針屋。

  • 近江坂本の宿屋

布屋。

  • 鈴鹿坂下の宿屋

大竹屋。

  • 岐阜の宿屋

塩屋、風呂屋。

  • 遠江見付の宿屋

奈良屋。

  • 門前町

伊勢の山田、信濃の善光寺、伊豆の三島大社、尾張熱田神宮、紀伊粉河寺、山城男山八幡宮、備前の吉備津神社、安芸厳島神社。

  • 浄土真宗の寺内町

近江堅田、越前吉崎、山科、大阪石山、和泉の貝塚、伊勢の一身田。

  • 町民自治の町

和泉堺、摂津兵庫、博多など。

  • 城下町

岐阜、小田原、大和の沢城、近江の観音寺城、周防山口、豊後府内など。

  • 伊勢の御師

祈祷をしたり、お祓いの札と共に、扇、帯、櫛、針、小刀、ふのりなどを配って歩いた。これに対し、旦那方は礼金を払っている。暦も配る。

  • 伊勢の宇治山田は、御師の勢力が強く、一般の宿を営む事はできなかった。

  • 伊勢の御師たちは、三日市、八日市、大湊をも支配する。

  • 内宮の禰宜は荒木田家、外宮の禰宜は度会家。

  • 路上の子供達

旅人たちに、貧しげな商品(草鞋、縄、細紐、小楊枝、駄菓子)の押し売りや道中案内をする。

  • 比丘尼

歌を歌って旅人から喜捨を受ける乞食尼僧。頭を剃り、兜巾をかぶり、その上から、軽い帽子をかぶっている。

  • 化粧させた男の子(10歳〜12歳)を置いている店もある。

  • 街道に出て、物乞いをする者たちは、若い娘と子供が多い。

  • 東海道の飯盛女
    (江戸時代)

藤沢、小田原、三島、沼津、府中(遊郭あり)、浜松、吉田(豊橋)、御油、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒、宮の宿(名古屋)、関、水口。

  • 旅籠屋

昔、馬の飼料を供給する所で、廐も付いていた。旅籠屋で人間の食事を出すようになるのは、江戸時代中頃より。

  • 旅の食糧は(ほしいい)

  • 一膳飯屋ができるのは、江戸時代初期。それまでは、食べ物は持って歩かなければならなかった。

  • 温泉

有馬、紀伊の瀬戸鉛山、湯の峯、熱海、箱根、那須、塩原、草津、中部地方では筑摩、山代、山中、中国地方では玉造、吉岡、四国では道後、九州では別府、杖立、 武雄、嬉野、雲仙。

  • 温泉湯治には、布団から米、味噌まで持って行くのが普通。

  • 草津温泉では癩病患者の宿を『カッタイボウヤ』と呼んだ。





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