酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲







笛の音







 下界は物凄く暑かった。

 もう一度、山の中に戻って、思い切り滝を浴びたい気分だった。

 孫三郎は顔に流れる汗を拭いながら、「暑い、暑い」と文句を言っている。

 智春尼も暑くて溜まらないと、時折、恨めしそうに太陽を仰いでいた。しかし、風眼坊とお雪の二人は、そんな事、まったく気にならないかのようだった。

 お雪は何が嬉しいのか、始終ニコニコしながら歩いていた。照り付ける強い日差しも、流れる汗も、何もかもが楽しくてしょうがないようだった。

 一方、風眼坊の方は何か考え事をしているらしく、黙り込んだまま歩いている。つい、急ぎ足になってしまい、ふと、みんなの事に気づいて足を緩めるが、また、いつの間にか、速足になってしまっていた。

 風眼坊は、甲斐八郎という心強い味方を失った富樫幸千代の事を考えていた。

 果たして、幸千代はどう動くか。

 甲斐八郎は世話になった幸千代のもとを離れるに当たって、朝倉弾正左衛門尉が富樫次郎のために動かないようにさせると約束したに違いない。そして、弾正左衛門尉としても次郎を匿っているにしろ、次郎が加賀に進攻するに当たって表立って兵を出す事はないだろう。

 多分、朝倉としては今、越前の国をまとめる事に躍起になっている。甲斐と和解したというのも単なる方便に違いない。

 朝倉と甲斐が加賀の事から手を引いたとなると、やはり、両者の鍵を握っているのは本願寺という事になる。本願寺を味方に付けた方が勝利を納めるという事になるだろう。

 それと、白山の衆徒がどう動くかも問題だった。

 幸千代には高田派の門徒が付いている。高田派の門徒が付いている限り、本願寺の敵という事になるが、幸千代は高田派門徒のために本願寺を敵にする事になるのか。

 それとも、本願寺に恨みを持っている白山の衆徒を味方に引き入れるか。

 いや、白山衆徒も朝倉に逆らってまで幸千代の味方はするまい。

 となると、やはり、幸千代と高田派門徒対次郎と本願寺門徒の戦という事になりそうじゃ。本願寺が一つにまとまれば勝ち目は絶対だが、蓮如が見て見ぬ振りをしていると勝ち目はないかもしれん。蓮如の命令一つで、幸千代の命も、本願寺の命も決まるという事になりそうじゃ。

 決め手は蓮崇の画策した幕府の奉書次第じゃなと風眼坊は思った。

 吉崎に着くと、風眼坊はお雪を蓮如の妻、如勝に預けた。

「これからの事をゆっくりと考えるんじゃな」と風眼坊はお雪に言って笑った。

「はい」と頷くと、お雪もニコッと笑った。

 お雪の素直な笑顔を見て、本当にいい女だと風眼坊は思った。自分の娘程も年が離れているが、風眼坊もやはり男だった。今まで一緒に暮らして来て、お雪を抱きたいと思った事は一度もなかったとは言い切れなかった。

「風眼坊殿はどこに行かれるのですか」とお雪は聞いた。

「わしか、ちょっと、知り合いに会って来る」

「この吉崎には、いらっしゃるのですね」

「ああ、当分はいる事になるじゃろう」

「もし、この地を離れる時は黙って行かないで下さいね」

「ああ、分かった」

 風眼坊は孫三郎を連れて庫裏を出た。とりあえずは蓮崇に会おうと思って、蓮崇の多屋に向かおうとしたら、途中の坂道で慶聞坊とばったり出会った。

「風眼坊殿、一体、どこに行っておったんです。大変な事が起こったんですよ」

「甲斐の事じゃろう」

「ええ、それもですが、それだけじゃありません。まあ、ここじゃ何ですから、わしの所まで来て下さい」

 風眼坊たちは慶聞坊の多屋の一室に案内された。

 先客がいた。

 安藤九郎と言う名の三十前後の武士で、慶聞坊と同じ位の年の男だった。九郎は山田光教寺の少し先にある弓波(ゆなみ)勝光寺の門徒だと言う。

 風眼坊は杉谷孫三郎を二人に紹介して部屋に上がった。

「風眼坊殿、大変な事が起きたのですよ」と慶聞坊は部屋と戸を閉めると、風眼坊の顔を見ながら言った。そして、風眼坊の前に座ると事の成り行きを小声で説明した。

 まず、六月十日、美濃の国の守護代、斎藤妙椿の仲裁によって、朝倉と甲斐の和解が成り立った。翌十一日には、甲斐の軍勢が幸千代の蓮台寺城から越前に帰って行った。

 そこまでは風眼坊も聞いて知っていた。それからが大変だった。

 翌、十二日、高田派門徒が蜂起して蓮台寺城の近くの本蓮寺(ほんれんじ)を襲撃し、寺を破壊して火を付け、門徒たちを殺し回った。

 本蓮寺としても、甲斐が去って行くのを見て、何かが起こりそうな予感がして、一応、警固を固めていたが、あまりにも急だったため、どうする事もできなかった。

 高田派門徒は武器を持って山の上から本蓮寺になだれ込み、目の前にいる者たち、誰彼構わず撫で斬りにし、本蓮寺に押し込むと手当り次第に破壊、金目の物を奪って、最後には寺に火を掛けた。本蓮寺だけでなく多屋にも押し入り、好き放題に暴れ回って女たちを暴行し、年寄り、子供までも殺して行った。

 本蓮寺には蓮如の異母弟、蓮照(れんしょう)がいたが、門徒たちに守られて無事に脱出し、近くの波佐谷(はさだに)松岡寺(しょうこうじ)に逃げ込んだ。

 高田派門徒らは勝った勢いに乗って、次には松岡寺に襲い掛かった。松岡寺は本蓮寺の事を聞くと、すぐに守りを固めたので、何とか襲撃はまぬがれたものの、松岡寺の門前に並ぶ家々は襲撃されて破壊された。その日の襲撃による被害者の数は正確には分からないが、少なくとも百人に及ぶ死者が出ているらしい。

 もう、戦が始まったのかと風眼坊は驚き、「どうして、また、高田派門徒は急に蜂起したんじゃ」と慶聞坊に聞いた。

「それが、どうも、幸千代方が二つに分かれたらしいのです」と安藤九郎が答えた。

「どういう事じゃ」

「甲斐八郎に去られて、有力な味方を失った幸千代にとって、本願寺の存在が不気味に思えて来たのでしょう。今まで通りに、高田派と共に本願寺を敵に回しては自分らが危ないと思う連中が現れ、高田派を見捨てて、本願寺と手を組もうとする奴が出て来たらしいのです。元々、幸千代は本願寺を敵にしようとは思っていません。高田派門徒が頼って来たので、反本願寺という立場に立っておりますが、今まで、逸る高田派の動きを押えて来た事も事実です。そこで、本蓮寺の蓮照殿のもとに使いを送ったらしいのですが、その事が高田派にばれて、急に、あんな行動に出たものと思われます。事実、高田派の連中は本蓮寺を襲撃した時、幸千代の名を出しておりました」

「成程のう。高田派としても、幸千代から見放されたら勝ち目はないからのう。本願寺が一つにまとまる前に先手を打って出たわけじゃな。しかも、幸千代を巻添えにして」

「そういうわけです」

「それで、松岡寺の方はどうなったんじゃ。蓮綱(れんこう)殿は勿論、大丈夫なんじゃろうな」

「はい、蓮綱殿は大丈夫です。しかし、もう十日も経ちますが、未だに、高田派と本願寺派の門徒の睨み合いが続いております」

「幸千代は動かんのか」

「まだ動いておりません。正式に本願寺を敵に回すのを恐れておるんでしょう。門徒同士の争いだから、富樫家には関係ないと言った有り様です。本願寺の門徒は、上人様が戦を許しませんから高田派を攻める事はできません。高田派の方も幸千代が味方になってくれないと攻めても負けるというわけで、お互いに睨み合っておるだけです。しかし、ちょっとしたきっかけがあれば、すぐにでも戦になる可能性は充分にあります」

「一乗谷にいる次郎の方はどうじゃ、動く気配はあるのか」

「その次郎ですが、とうとう、ここに来ましたよ」と慶聞坊が言った。

「なに、ここに来たのか」

「はい、十五日です。松岡寺で睨み合いが続いている最中、上人様に会いに来ました」

「それで、上人様は会ったのか」

「会いました。会いたくはなかったようでしたが、上人様は、来る者は拒まずという方針ですから仕方なく会ったようです。次郎は幸千代に横領された幕府の御領所(ごりょうしょ)や寺社や公家の荘園の事などを話し、是非、幸千代を倒すのに力を貸してくれと頼みました。また、自分が加賀に戻って、改めて守護になったあかつきには、本願寺を保護し、上人様の布教活動の応援まですると言いましたが、上人様のお考えは変わりません。門徒たちに戦をさせるわけにはいかん、ときっぱりお断りになりました」

「とうとう、あの次郎も動きだしたか‥‥‥」

「次郎は上人様と会った後、蓮崇殿に会いたかったようでしたが、蓮崇殿は松岡寺の騒ぎに行っておって、生憎、留守だったので仕方なく引き上げて行きました」

「蓮崇殿は松岡寺に行かれたのか‥‥‥もしかしたら慶覚坊の奴も今、松岡寺におるのか」

「いえ」と九郎が首を振った。「慶覚坊殿はもう山田に帰りました。もしものために敵を後ろから攻める準備をしておるはずです」

「そうか」と風眼坊は頷き、「ところで、例の物は、まだ、来ないのか」と慶聞坊に聞いた。

「例の物?‥‥‥ああ、まだです。しかし、それが届いたら上人様は辛い事でしょう。今もかなり悩んでおられます。とても側で見ておられません」

「そうじゃろうのう‥‥‥」

 風眼坊は慶聞坊に孫三郎を預けると御山の方に戻って行った。

 書院に顔を出し、取り次ぎの坊主に蓮如の事を聞くと、書斎に籠もったまま誰とも会おうとしないと言った。

 風眼坊は構わず、蓮如の書斎の外から声を掛けた。

「風眼坊殿か。どこに行っておったのじゃ。まあ、入れ」と力のない蓮如の声が返って来た。

 風眼坊は中に入った。

 蓮如は何かを読んでいた。

「もう、大峯に帰ってしまったのかと思っておったわ」と言って、蓮如は笑った。

 しばらく見ないうちに、随分と年を取ってしまったような気がした。

「そなたがいない間に、とんでもない事が起こってのう。わしには、どうしたらいいのか分からなくなってしもうたわ。どうしたらいいのか、親鸞聖人様も答えを教えてはくれん。わしはもう、この北陸の地から逃げ出したくなったわ」

 風眼坊には何と答えたらいいのか分からなかった。ただ、黙って蓮如の話を聞いているしかできなかった。







 蓮如と別れた風眼坊は本堂の裏手に出て、海を眺めていた。

 とうとう、始まってしまったか‥‥‥

 蓮如はどう出るか。

 敵が攻めて来ても戦ってはいかん、と言うのだろうか。

 蓮如には逃げる場所があるが、門徒たちにはない。門徒たちには、この土地に生活がある。生活を脅かされるような切羽(せっぱ)詰まった状況になれば、蓮如が何を言おうと自分たちの力で戦うより他ないだろう。もし、そうなったとして、蓮如は自分に背いた門徒たちをどうするのだろうか。

 破門か。

 蓮如としても、本願寺のために戦った者たちを破門する事はできまい。そんな事をしたら、せっかく築き上げた本願寺が崩壊してしまうだろう。

 逆に、本願寺のために戦え、と命じたらどうなるか。

 そんな事をしたら、この北陸の地は戦乱に明け暮れる事になるのは間違いなかった。門徒たちの中に紛れこんでいる国人たちが、待っていましたと『本願寺のために』と言う名目を掲げ、領土拡大に乗り出すに違いなかった。そして、いつの日か、守護を追い出し、蓮崇や慶覚坊の言っていた『本願寺の持ちたる国』というのが出現するかもしれない。しかし、それを実現するには、多大な犠牲者を出す事になろう。そして、その犠牲者のほとんどが名もない本願寺の門徒たちに違いなかった。純粋な気持ちで蓮如に帰依(きえ)している名もなく弱い門徒たちに違いなかった。

 蓮如は多分、先の事まで考えた上で悩んでいるのだろう。名もない門徒たちを戦に巻き込み、犠牲者にしたくはないのだろう。しかし、いつまでも悩んでもいられない。答えを出さなくてはならない時期が迫っていた。

 ここもやられるかもしれないな、と風眼坊は本堂の方に目をやった。

 お雪が働いている姿が目に入った。何だか、楽しそうだった。

 あの娘を、また、悲惨な戦には巻き込みたくはないな、と思った。

 一人の坊主が風眼坊の方に近づいて来て、声を掛けて来た。

「蓮崇殿に頼まれました。多屋の方に来てくれとの事です」

「なに、蓮崇殿は帰って来られたのか」

「はい。ついさっき帰って来られました。上人様に松岡寺の状況を説明して、今、多屋の方にお帰りになりました」

「そうか、分かった。すぐに行く」

 日に焼けた蓮崇が井戸の所で水を浴びていた。

 風眼坊の顔を見ると、「一緒に水を浴びんか、気持ちいいぞ」と笑った。

 水を浴びて、さっぱりすると風眼坊と蓮崇は蔵の方に向かった。この間、慶覚坊たちが作戦会議をしていた例の蔵だった。

 中には誰もいなかった。

 蓮崇は明かりを点けると座り込んだ。

「山に籠もっておったそうですな」

「ええ。松岡寺の方はどんな様子です」と風眼坊は蓮崇の前に座ると聞いた。

「今のところは膠着状態が続いております。松岡寺の守りを固めて来ましたから、総攻撃を受けても三日は持ちこたえられるでしょう。三日間、持ちこたえれば、敵を完全に包囲する事ができるような手筈になっております」

「もし、敵が攻めて来たら、やるのか」

「松岡寺には蓮綱殿がおられます。見殺しにはできません」

「上人様が反対してもか」

「仕方ありません‥‥‥」

「そうか‥‥‥ところで聞きたいんじゃが、高田派の門徒というのはどれ位おるんじゃ」

「そうですね。兵力となるのはざっと一万というところでしょうか。ただし、これは加賀の国内だけです。越前にも一万はいると見ていいでしょう。ただ、越前の高田派がすべて、加賀の高田派に味方する事はないでしょう。加賀の高田派に味方するという事は、幸千代に味方をするという事になり、次郎派の朝倉に敵対する事になります。朝倉に敵対してまで、加賀の高田派を助けるとは思えません」

「成程、加賀の高田派を助けたら自分の足元が危なくなると言うわけじゃな」

「そう言う事です」

「となると、越前の高田派は数に入れなくてもいいわけじゃな」

「まあ、数に入れても一千、あるいは二千位が、ここ、吉崎に攻めて来るだろうとは思いますが‥‥‥」

「うむ。幸千代の兵力はどれ位じゃ」

「幸千代は何せ、地元ですからね。今の所は二万はおると思いますが、状況次第で、半分以上は次郎方に寝返ります」

「本願寺の方はどれ位じゃ」

「残念ながら、今のところは一万ちょっとです。越前の門徒を入れて一万五、六千と言うところでしょうか」

「なに! この前、五万と言わなかったか」

「ええ、確かに兵力となる門徒は五万はおります。しかし、上人様が命令を下さない限り、五万は動きません。今回、あちこちに行ってみて、改めて、上人様の大きさが分かりました。上人様の教えに背いてまでも戦うと言う者はほんの一万余りでした。それも、ほとんどの者が国人上がりの坊主たちです。在地の領主たちというわけです。彼らは負ければ土地を失う事になる。戦わずにはおれんのです」

「そうか、一万五、六千か‥‥‥富樫次郎の兵力を入れても二万余りか」

「まあ、そんなところです」

「二万と三万か‥‥‥不利じゃのう」

 蓮崇は厳しい顔付きで頷いた。「今の状況では、はっきり言って不利と言えます。今、次郎が加賀に攻め込んで来たら、先手を打って、幸千代は高田派と組んで松岡寺を攻撃する事になるでしょう。幸千代の二万と高田派の一万で松岡寺を総攻撃されたら、完全に本願寺方の負けです。戦の流れとして、一度、敗北を帰してしまうと立て直すのは不可能と言ってもいいでしょう。勢いに乗った幸千代と高田派の連合軍は本願寺の寺院を片っ端から破壊する事でしょう。次郎は恐れをなして越前に逃げ、本願寺の門徒も越前に逃げる事になるかもしれません」

「ありえるな‥‥‥」

「問題は河北(かほく)郡なんです。河北郡の中心をなしておる二俣の本泉寺が絶対に動こうとしないのです。本泉寺の勝如尼(しょうにょに)殿の力は未だ絶大です。有力門徒を抱える鳥越(とりごえ)弘願寺(ぐがんじ)木越(きごし)の光徳寺、磯部の聖安寺(しょうあんじ)、それに石川郡なんですが、吉藤(よしふじ)の専光寺がまったく動こうとしません。それらの門徒だけでも二万はおるはずです」

「ほう、河北郡にそんなにも門徒がおるのか」

「ええ、本願寺の門徒はほとんどが北加賀に集中しております。北加賀は白山とも離れておりますし、政治上でも、年中、守護が入れ代わっておりましたから、教線を広げ易かったのです。五万いる門徒の内、三分の二以上、北加賀におると言ってもいい程です」

「ほう、北の方に門徒が多いのか‥‥‥」

「何とか、勝如尼殿を説得しようと試みましたが、無駄でした」

「それで、これから、どうするつもりじゃ」

「それなんです。実は風眼坊殿に上人様をここから連れ出して貰いたいのです」

「なに」

「この前のように、しばらくの間、旅に連れて行って欲しいのです。できれば、もう一度、白山の山の中にでも連れて行って欲しいのですが‥‥‥」

「ここから上人様を追い出して、何をしようとするんじゃ」

 蓮崇は風眼坊の目を見つめてから視線をそらし、薄暗い蔵の中を照らしている炎を見つめながら低い声で言った。

「偽の『御文』を書いて、ばらまきます」

「高田派を倒せ、と書くのか」

 蓮崇は頷いた。

「上人様にその事がばれたら、いや、ばれるに決まっておるが、とんでもない事になるぞ」

「分かっております。多分、破門されるでしょう。しかし、今、本願寺を一つにまとめなければ本願寺は負けます‥‥‥負けるのを知りながら、何もしないで見ておるわけにはいきません。」

「そのことを誰か知っておるのか」

 蓮崇は首を振った。「風眼坊殿しか知りません」

「一人で罪を背負うというわけか。いや、おぬしの話を聞いたからには、わしも共犯という事じゃな」

「風眼坊殿は聞かなかった事にして下さい」

「うーむ」と唸って、風眼坊は蓮崇の顔を見た。すでに、覚悟を決めている顔付きだった。「大それた事を考えたものじゃな」

「ここまで来たら、他に方法はありません」

「しかしのう、わしには賛成できん。おぬしの作戦が失敗すれば勿論の事、成功したとしても、おぬしは破門という事になるじゃろう」

「分かっております。しかし‥‥‥」

「幕府の奉書の方はどうなっておるんじゃ」

「分かりません。多分、間に会わないでしょう」

「ここまで来たんじゃ。もう少し待ってみたらどうじゃ」

「はい。しかし、待っても五日が限度でしょう。それ以上遅くなると手遅れになります」

「分かった。五日、待つ事にしよう。五日、待って幕府の奉書が来なかったら、何とか、蓮如殿をここから連れ出す事にしよう」

「風眼坊殿、お願いします」

 蓮崇は頭を下げた。蓮崇の両拳は強く握られ、震えていた。

「風眼坊殿、ただ、慶聞坊は連れて行かないで下さい」

「うむ、分かった」

 薄暗い蔵の中から外に出ると、もう日が暮れかかっていた。

 旅に出るまで、のんびりしていてくれ、と風眼坊は客間の一室を与えられた。







 蓮崇は毎日、熱心に土木工事の指揮を執っていた。

 松岡寺の近くの金平(かねひら)という所にある金山から連れて来た(かね)掘り衆を使って、吉崎御坊を完璧な城塞へと変えて行った。

 蓮如は蓮崇のしている事を知ってはいても何も言わなかった。今現在も、息子、蓮綱のいる松岡寺が敵に囲まれている状況なので、やめろとは口に出して言えなかった。

 風眼坊はする事もなく、門前町をぶらぶらしたり、部屋でごろごろしていた。

 杉谷孫三郎は慶聞坊のもとで雑用に励んでいた。

 お雪も如勝のもとで雑用に励んでいた。

 風眼坊にはやる事が何もなかった。

 蓮崇と約束した手前、五日間はここにいて、幕府の奉書が届くのを待たなければならなかった。蓮崇のためにも五日間のうちに奉書が届く事を願わずにはいられなかった。

 風眼坊がお雪を連れて山に入ったのが先月の(うるう)五月の二十八日、山から下りて来たのが六月の二十二日だった。

 その間の六月十日に朝倉と甲斐の和解があり、十二日に高田派門徒が蜂起し、本蓮寺を襲い、松岡寺にも迫った。そして、未だに松岡寺において本願寺門徒と高田派門徒の睨み合いが続いている。六月十五日、一乗谷にいる富樫次郎が蓮如の助けを借りに吉崎に来た。蓮崇からの情報によると、次郎は一乗谷において加賀に進攻する準備を着々と進めていると言う。これが、今の状況だった。

 二十四日の昼過ぎ、慶覚坊が吉崎にやって来た。

 慶覚坊だけではない。明日の二十五日に恒例の吉崎の講があるので、各地から門徒たちが続々と押し寄せて来た。

 慶覚坊は風眼坊のいる客間に来ると、「大変な事になったわい」と暇そうに寝そべっている風眼坊に言った。

「わしはつまらん」と風眼坊はこぼした。

「まあ、そう言うな」

「本願寺に勝ち目はあるのか」風眼坊は体を起こすと聞いた。

「はっきり言って五分五分じゃな。以外に高田派の連中もしぶといわ」

「上人様次第というわけじゃな」

「そういう事じゃ。明日、講が行なわれるが、上人様が何とおっしゃるか、みんな、期待しておる」

「上人様が『戦え』と言う事をか」

「そうじゃ。今、蓮綱殿が危険な状態にある。上人様にとっても他人事では済まされんじゃろ」

「上人様は『戦え』と言うと思うか」

「いや。言うまい」

「だろうな。たとえ、蓮綱殿を殺されても、蓮如殿は教えに逆らうような事を自分の口からは言うまい」

「ああ」と慶覚坊は頷いた。「しかし、もし、蓮綱殿が殺されるような事になれば、上人様が何と言おうと本願寺門徒は立つじゃろう」

(とむら)い合戦か‥‥‥」

「そうはさせたくないがな」

 風眼坊と慶覚坊は蓮崇が帰って来るのをずっと待っていたが、蓮崇はなかなか帰って来なかった。

「遅いのう」

「どうせ、暗くなるまで戻って来んじゃろう。穴を掘ったり、土塁を作ったりするのが、余程、好きらしい」

 慶覚坊は笑いながら頷いた。「蓮崇殿は、なかなか城作りのつぼを心得ておる。城を作るような事になったら、蓮崇殿に頼むがいい」

「わしが城をか。わしが城を作る事など、まず、あるまい」

「分からんぞ。これからは実力がものを言う。おぬし程の男なら城の主になったとて、おかしくはない」

「何を言うか」

「わしものう、本願寺の坊主になっておらなかったら、実力を持って、この加賀の国を盗み取ってみたいと思う事があるわ」

「一国の(あるじ)になると言うのか」

「夢じゃ‥‥‥夢じゃよ」と慶覚坊は笑った。

 風眼坊は慶覚坊の顔をまじまじと見ていた。

「なあ、風眼坊、おぬしの夢は何じゃ」

「わしの夢か‥‥‥夢なんて言葉、すっかり、忘れておったわい。わしの夢か‥‥‥何じゃろうのう」

「昔、おぬしとよく夢の事ばかり話しておったのう」

「そうじゃったのう」

「あの頃、これやりたいだの、あれやりたいだの、やりたい事が色々あったが、結局、やった事っていうのは大した事ないのう」

「火乱坊」と風眼坊は慶覚坊の昔の名前を呼んだ。「わしの夢というのを聞いてくれるか」

「何じゃ、おぬしも夢を持っておるんじゃないか」

「ああ。誰でも夢は持っておるんじゃないか。たとえ、ささやかでも夢は持っておるんじゃないのか」

「うむ、そうかもしれんのう。夢でも持たん事には生きていけんのかもしれん。それで、おぬしの夢とやらは一体、何じゃ」

「笑うなよ。わしの夢というのは蓮如殿と同じじゃ」

「なに!」

「蓮如殿は本願寺の教えを以て、この世を阿弥陀の浄土にしようとしておる。戦のない、人々が平等で、平和に暮らせる世の中を作ろうとしておる。わしは蓮如殿とは違うやり方で、平和な世の中を作りたいと思っておる。それが、わしの夢じゃ」

「ほう。でっかく出たな」

「夢じゃ」と風眼坊は笑った。

「その平和な世の中というのをどこに作るんじゃ」

「分からん。分からんが、ここではない事は確かじゃ」

「なぜ、ここではないんじゃ」

「ここには俺の居場所はない」

「何を言う。おぬしが門徒になれば、いくらでも居場所はあるぞ」

「わしの性分なんじゃ。門徒にはならん」

「そうか‥‥‥まあ、いい。とにかく、今回は戦のけりが着くまでは上人様の事を頼むぞ」

「分かっておる」

「蓮崇殿は遅いのう。どうだ、酒でも飲んで待っているか」

「そうするかのう」

 二人が酒を飲み始め、お雪の事を話している時、蓮崇が飛び込んで来た。

 息を切らせながら部屋に上がると一息に酒を飲み干して、風眼坊と慶覚坊の二人の顔を見比べながら急に笑い出した。

「一体、どうしたんじゃ」と慶覚坊が聞いた。

「来たんじゃ。とうとう、来たんじゃよ」と蓮崇は笑いながら言った。

「来た? 敵が攻めて来たのか」と慶覚坊は怪訝な顔で、蓮崇を見ながら聞いた。

「もしかしたら、幕府の奉書が来たのか」と風眼坊は聞いた。

「そうじゃ。来たんじゃ。とうとう来たんじゃ。祝い酒じゃ。飲もう、飲もう」

 幕府からの奉書には、加賀の国の守護職、富樫介(とがしのすけ)政親(次郎)を助け、加賀の国の兵乱を治めよ、と書いてあったと言う。蓮如はその奉書を受け取った後、書斎に籠もってしまった。

 蓮崇は今まで、奉書を持って来た幕府からの使いの者の接待に付き合っていたという。

「よかったのう」と風眼坊は蓮崇に言った。

「ああ、よかった、よかった、助かった。これで、本願寺の勝利、間違いなしじゃ」

「蓮如殿はどうなさるじゃろう」と風眼坊は言った。

「上人様も幕府には逆らえんじゃろうのう」と慶覚坊は言った。

「奉書通りに、富樫次郎を助け、幸千代を倒せ、と命ずるのか」

「いや、そうは言わんじゃろう。多分、上人様は法敵、高田派を倒せ、と命ずるじゃろう」

「その通り」と蓮崇は手を打った。「上人様は今回の戦を宗教上での神聖なる戦いとお考えなのじゃ。そうにでも考えなければ、とても戦の命令などできないじゃろう」

「神聖なる戦か‥‥‥」と風眼坊は呟いた。

「明日から、忙しくなるぞ」

「そうじゃのう。風眼坊には上人様共々、この吉崎を守って貰う事になるじゃろう」

「その事は任せておけ」

「とにかく、間に合ってよかった」と蓮崇は喜んでいた。

「間に合って? おお、間に合ってよかったのう」と慶覚坊も喜んだ。

 蓮崇は偽の御文を書く前でよかったと喜び、慶覚坊は松岡寺が攻撃される前でよかったと喜んでいた。

「とにかく、前祝いじゃ。飲もう」蓮崇は酒を飲み干した。

 本当に嬉しそうだった。蓮崇は死ぬ覚悟で、偽の御文を書くつもりだったのだろう。ぎりぎりの所で首がつながったというわけだった。

 慶覚坊はそんな蓮崇の覚悟は知らなかった。知らなかったが蓮崇の肩を叩きながら、よかった、よかったと喜んでいた。

 慶覚坊は慶覚坊なりに、今回の戦に、やはり、死ぬ覚悟をしていたのかも知れなかった。

 風眼坊はそんな二人を見ながら、しみじみと酒を飲んでいた。

 風眼坊から見たら二人は幸せ者と言えた。自分の命を賭けてまでも守り抜かなければならない本願寺というものがあった。しかし、風眼坊には命を賭けられる程のものは何もなかった。

 今までの自分の人生を振り返って見ても、命を賭けてまで、やって来た事は何もなかった。いつも、行きあたりばったりの人生だったような気がする。

 羨ましそうに二人を見ながら風眼坊は黙々と酒を飲んでいた。







 六月の二十五日、毎月恒例の吉崎の講が行なわれた。

 朝早くから吉崎の門前町は祭りさながらの賑やかさだった。

 数多くある多屋及び宿屋は、すべて門徒で埋まっていた。

 蓮崇の多屋の客間にいた風眼坊も追い出され、蓮崇の家の方に移された。家の方の広間にも門徒たちが雑魚寝(ざこね)していた。さらに、多屋に収まり切れなかった者たちは吉崎の総門の外に溢れ、あちこちに固まっては一心に念仏を唱えていた。

 風眼坊は、その門徒の数に、ただ驚くばかりだった。

 その日は、朝早くから夜遅くまで吉崎の地に念仏が絶える事がなかった。

 風眼坊は久し振りに(まげ)を結い、蓮崇から借りた着物を着て、町人姿になって賑わう町中を歩いていた。蓮崇から、門徒たちは気が立っているので山伏の姿で出歩くのはまずいと言われ、素直に着替えたのだった。風眼坊も群衆の怖さは知っていた。いくら腕が立っても、これだけの群衆に囲まれたら逃げる事はできない。つまらない事での争い事は避けたかった。

 町中を歩いていると、やはり、高田派門徒に囲まれている松岡寺の事が門徒たちの噂に上っていた。早く助けなければならないと言う意見が圧倒的に多く、今日の講の場で上人様が何と言うかが、みんなの注目となっていた。

 風眼坊は御山の方に足を向けた。

 本坊へと続く坂道の下にある北門は閉ざされていた。

 門の前には門徒たちがずらりと並び、門が開くのを待っていた。

 並んでいる者に、門はいつ開くのか、と聞くと、よく分からないが、あと一時(いっとき)(二時間)か二時(四時間)位したら開くだろう、と気の長い事を言った。もっとも、蓮如を一目見るために遠くからはるばるやって来た門徒たちにとって、一時や二時位、何でもないのだろう。

 風眼坊は中に入れて貰おうと、門番に慶覚坊や慶聞坊や蓮崇の名を言ってみたが、門番は門の中には入れてくれなかった。仕方ないので引き返して蓮崇の多屋に戻った。

 蓮崇の多屋も門徒たちで溢れ、内方(うちかた)衆(門徒たちの妻や娘)は忙しそうに働いていた。

 蓮崇も慶覚坊も朝早くから出掛けて行っていなかった。

 風眼坊のいるべき所はどこにもなかった。

 風眼坊は蓮崇の多屋には入らず、門前町の外に出た。

 ようやく人込みを抜け、北潟湖のほとりに出ると草の上に腰を降ろし、湖越しに吉崎御坊を眺めた。湖上にも門徒を乗せた舟が行き交っていた。

 風眼坊は吉崎を眺めながら熊野の本宮を思い出していた。熊野も祭礼の日には信者たちで溢れるが、熊野に集まる信者たちと、ここに集まる門徒たちはどこか違っていた。

 風眼坊は草の上に寝そべりながら、どう違うのだろうか、と考えていた。

 一方、本坊では蓮如が朝から休む暇もなく、集まった門徒たちに説教をし続けていた。説教は各多屋ごとに行なわれた。まず、北門と本坊の間の坂道に並ぶ有力坊主の多屋から始め、北門の外にある多屋へと進み、最後に、多屋に収まらなかった門徒たちへの説教となった。四半時(しはんとき)(三十分)毎に門徒たちを入れ換えては蓮如は説教をしていた。それでも、日が暮れるまでに、この日、吉崎に集まって来た門徒たち全員に説教をする事はできなかった。

 蓮如の説教は、いつもと変わらなかった。

 敵に囲まれて、いつ、戦になるともしれない松岡寺の事には一言も触れなかった。門徒たちは期待はずれという気持ちを抱きながら、念仏を唱え、蓮如の前から引き下がって行った。

 日も暮れ、ようやく門徒たちの数が減り始めた頃、今、吉崎の地にいる有力坊主たちが蓮如のもとに内密に集められた。

 厳重に警戒された本坊の中の書院の広間に集まったのは、そうそうたる顔触れだった。

 執事(しつじ)下間頼善(しもつまらいぜん)と下間蓮崇。

 多屋衆の法敬坊(ほうきょうぼう)、円広坊、善光坊、本向坊、長光坊、定善坊(じょうぜんぼう)、法円坊、法覚坊、道顕坊、法実坊、善知坊、そして、慶聞坊。

 長光坊は越前和田の本覚寺蓮光の弟で、定善坊は越前藤島の超勝寺巧遵(ぎょうじゅん)の弟であり、この二人は、吉崎において、かなり強い勢力を持っていた。

 近江からは堅田の法住の弟、法西が来ていた。法西は松岡寺が敵に囲まれて危ないとの噂を聞いて、心配して駈け付けて来たのだった。法西は慶覚坊の義理の叔父だった。

 加賀江沼郡の有力坊主としては、熊坂の願生坊(がんしょうぼう)、黒瀬藤兵衛、庄四郎五郎、安藤九郎、坂東四郎左衛門、柴山八郎左衛門、篠原太郎兵衛、黒崎源五郎、そして、慶覚坊がいた。

 熊坂願生坊は荻生(おぎう)願成寺(がんしょうじ)の門徒で、熊坂庄に道場を持つ坊主。

 黒瀬藤兵衛は河崎専称寺の門徒で、黒瀬道場の坊主。

 庄四郎五郎は弓波(ゆなみ)勝光寺の門徒で、庄道場の坊主。

 安藤九郎も勝光寺門徒で、庄四郎五郎の片腕と言われていた。

 坂東四郎左衛門は九谷道場の坊主。

 柴山八郎左衛門は柴山潟(しばやまがた)で活躍する運送業者たちの頭で、本願寺の坊主となってからは柴山潟の漁師までも配下に入れて、勢力を広げていた。

 篠原太郎兵衛は塩浜道場の坊主で、塩焼き衆の頭であった。

 黒崎源五郎は黒崎称名寺の門徒で、橋立道場の坊主。浜方(はまがた)衆と呼ばれる漁師たちの親方だった。

 そして、慶覚坊は黒崎と同じように、浜方衆を多く門徒に持つ山田光教寺蓮誓の後見人だった。

 江沼郡の有力坊主は、ほぼ全員が、この場に集まっていた。

 能美(のみ)郡からは、高田派門徒に攻められて破壊された波倉(なみくら)本蓮寺の蓮照(れんしょう)が来ていた。蓮照は腹違いの蓮如の弟である。それと、板津(小松市)に道場を持つ蛭川(ひるかわ)新七郎が来ていた。

 石川郡からは、善福寺の順慶(じゅんきょう)安吉(やすよし)源左衛門が来ていた。順慶は越前超勝寺巧遵の弟で、藤島定善坊の兄だった。安吉源左衛門は手取川流域にかなり広い領地を持つ国人であるが、一方、手取川の河原者たちの頭でもあり、彼の一声で手取川の運輸は完全に止まり、手取川上流にある白山本宮の息の根を止める事ができる、とまで言われる程、実力を持った男だった。本願寺が武士による支配体制とは違って、百姓だけでなく、河原者や山の民のような職人層を数多く抱えていたのは強みだった。

 河北郡からは、砂子坂(すなこざか)道場の高坂四郎左衛門が来ていた。

 一同は薄暗い広間の中で、誰一人として口を開く者もなく、蓮如が現れるのをじっと待っていた。

 蓮如はなかなか、出て来なかった。

 重苦しい沈黙が流れていた。

 突然、どこからか、笛の調べが流れて来た。

 広間に集まった者たちは皆、笛の調べに耳を傾けた。誰もが、この吉崎の本坊で、笛の調べを聞くのは初めてだった。一体、誰が吹いているのか、と誰もが思った。

 心を和ませる美しい調べだった。

 笛の調べに聞き惚れている時、蓮如が静かに現れた。

 蓮如は正面に腰を下ろし、集まって来た者たちの顔をゆっくりと見回すと、「御苦労様でした」と言って皆に合掌をした。

 笛を吹いていたのはお雪だった。蓮如に頼まれて吹いていたのだった。

 蓮如は幕府からの奉書を受け取った時、ようやく、覚悟を決めた。

 蓮如も人の親だった。自分の息子が危険な目に会っているのを見捨てておける程、強い心を持ってはいなかった。親としては、すぐにでも蓮綱を助け出せ、と命令を出したかった。しかし、本願寺の法主として、また、宗教者として、それは絶対に口にしてはならない事だった。それを口に出せば、蓮綱を助け出す、という事だけでは収まらなくなってしまう。法主の命令として門徒全員が動きだし、敵をたたき潰すまで止まらなくなってしまうだろう。人の親としては命令を出したいが、法主としては絶対にできない事だった。

 そんな悩みと戦っている時、蓮如のもとに幕府からの奉書が届いた。

 蓮如は、その奉書を逃げ道に選んだ。幕府から言われれば仕方がないという事にして、自分の信念を曲げた。

 親鸞聖人は寺も持たず、弟子も作らず、ただ、教えだけに生きて来た。蓮如も親鸞聖人と同じような生き方をしたかった。しかし、蓮如は本願寺の法主に成るべくして生まれた。誰一人として訪れる事のない寂れた本願寺を経験し、何とか、本願寺を栄えさせようと必死だった。叡山と戦ってまで、自分の信念を曲げず、親鸞聖人の本当の教えを広めて来た。ただ、ひたすら本願寺のために生きて来た。そして、今、本願寺は数多くの門徒を抱え、栄えている。蓮如はせっかく手にした、今の本願寺を失いたくはなかった。今の本願寺といっても寺院とか財産ではない。蓮如が失いたくなかったのは大勢の門徒たちだった。

 親鸞聖人だったら、たとえ、幕府が何と言って来ようと信念を曲げなかったかもしれない。しかし、蓮如は信念を曲げた。

 もし、今、ここで戦を命じなければ、松岡寺は高田派門徒に襲撃される。蓮綱及び松岡寺にいる多くの門徒を見殺しにした蓮如は門徒たちから見放されるだろう。せっかく築いた本願寺が崩壊する事になる。また、もし、今、命じれば、松岡寺は救われるが戦は拡大して大勢の門徒たちが戦の犠牲者となる。

 蓮如にとって、大勢の門徒たちが戦の犠牲者になるのは非常に辛い事だが、本願寺が崩壊するのは、それ以上に辛い事だった。

 蓮如は命令を下す覚悟を決めた。

 覚悟は決めたが、自分の口から門徒たちに戦を命じる事など、なかなかできなかった。いよいよ、それを言わなければならない時が迫って来ても、その一言を言う決心がつかなかった。

 そんな時、ふと、一昨日(おととい)の夜、聞いたお雪の笛を思い出して聞きたくなった。お雪の笛を聞いているうちに、なぜか、心が落ち着き、みんなの待つ広間へと行く事ができたのだった。

 この日、文明六年六月二十五日、蓮如は法敵高田派打倒を宣言した。

 蓮如が門徒たちに戦を命じたのは、この日が最初で最後となったが、この日から、一般に『一向一揆』と呼ばれる本願寺門徒による百年間に及ぶ闘争の日々が始まったのであった。

 蓮如の口から『法敵を打倒せよ』との命令を聞いた有力坊主たちの反応は以外にも静かだった。誰もが蓮如の苦悩を知っていた。決して口に出したくない事を口に出さなくてはならない状況に追い込まれてしまった蓮如の苦悩を、誰もが痛い程、分かっていた。

 蓮如が『法敵打倒』を宣言した時も、お雪の吹く笛の調べは静かに流れていた。

 蓮如は再び合掌して『南無阿弥陀仏』と唱えると、静かに広間から出て行った。

 蓮如を見送ると、坊主たちはお互いに顔を見合わせ、一斉に頷き、それぞれの多屋へと戻って行った。すでに、これからの作戦は充分に練られてあった。後は、ただ、その作戦通りに行動を移せばいいだけだった。

 講が終わり、ほとんどの門徒たちが帰り、また、元の客室に戻った風眼坊は、蓮崇の娘が持って来てくれた煮物を(さかな)に一人で酒を飲んでいた。

 風眼坊の所にも、お雪の吹く笛の調べは聞こえていた。

 なかなか風流な奴がいるもんだな、と風眼坊は笛の調べに聞き惚れながら酒を飲んでいた。まさか、その笛を吹いているのが、お雪だとは風眼坊も知らなかった。

 笛の調べも終わり、急に静かになった。夕べの騒々しさが、まるで嘘のような静けさだった。

 嵐の前の静けさか、と風眼坊は思った。

 やがて、蓮崇と慶覚坊、そして、慶聞坊が帰って来た。

 三人とも、やけに静かだった。部屋に上がり込むと、三人はお互いに顔を見合わせて、溜息をついた。

「まともに見ておられんかったわ」と慶覚坊が言った。

「ええ、辛そうでしたね」と慶聞坊が言った。

「声が震えておったのう」と蓮崇は言った。

「そうか‥‥‥蓮如殿も、とうとう、決断なされたか」と風眼坊は三人の顔を見ながら言った。

「風眼坊殿、上人様の事、よろしくお願いします」と慶聞坊が言った。

「いよいよ、慶聞坊殿も動き出すのか」

「はい。松岡寺の蓮綱殿のもとに行きます」

「なに、松岡寺に? 戦の中心地に乗り込むのか」

 慶聞坊は頷いた。

「蓮崇殿はどこに乗り込むんじゃ」と風眼坊は聞いた。

「わしは二俣の本泉寺に行きます」

「ほう。あの勝如尼殿を口説きに行かれるのですな」

 蓮崇は頷いた。「河北郡の門徒に動いて貰わん事には勝ち目はありませんから、何としてでも、勝如尼殿を説得しなければなりません」

「大変なお役目ですな」

「はい。しかし、その前にやる事があります」

「その前に?」

「ええ、ちょっと、一乗谷まで行かなければならないのです」

「一乗谷? 富樫次郎か」

「そうです。上人様は高田派を倒す事しか言いませんでしたが、高田派を倒すという事は、必然的に次郎と組む事になります。手を組むに当たって、色々と取り決めなければならないのです」

「成程な、本願寺の有利になるように事を運ぶわけじゃな」

「そうです。まあ、次郎の方は何とかなるでしょう。やはり、問題は、二俣の勝如尼殿でしょうね」

「色々と、御苦労な事ですな」

「はい‥‥‥実は風眼坊殿、この吉崎御坊を守るために近江から門徒が一千人、来る事になりました。皆、古くからの上人様の門徒たちです。門徒ではない風眼坊殿が、上人様の側にいる事を快く思わない者がおるかもしれませんが、何とぞ、彼らとうまくやって下さい。上人様の身にもしもの事が起きたら、戦に勝ったとしても、どうにもなりませんから」

「分かりました。上人様の側から離れる事になったとしても、陰ながら、上人様の身の上は守ります」

「お願いします。すでに、この吉崎に、上人様の命を狙う者が入り込んでおります。充分に気を付けて下さい」

「なに、すでに、刺客(しかく)が入っておると言うのか」

「ああ、そうじゃ」と慶覚坊が答えた。「昨日ものう、門徒たちに紛れ込んで高田派の奴らが何人かおった」

「ほう。すでに、戦は始まっておるというわけじゃな」

「そういう事じゃ」

「わしの出番がようやく来たというわけじゃな。それじゃあ、さっそく、今からでも上人様の命を守るために仕事に掛かるかのう」

「いや、今晩のところは大丈夫じゃ。各地の坊主たちが交替で守る事になっておるからのう。明日から頼むぞ」

「風眼坊殿、お願いしましたよ」と蓮崇は言うと立ち上がった。

「さて、そろそろ、行くか」と慶覚坊も立った。

「今頃、どこに、行くんじゃ」と風眼坊は聞いた。

「最後の打ち合わせじゃ」と慶覚坊は笑った。

「あそこでか」

「あそこでじゃ」

 三人は出て行った。

 風眼坊は寝そべった。

 蚊がうるさく飛び回っていた。







 翌日、朝早くから坊主たちは皆、戦の準備のために本拠地に帰って行った。

 慶覚坊も慶聞坊も蓮崇も出掛けて行った。

 風眼坊は蓮如に会いに本坊に向かっていた。

 昨日の町人姿のままだった。腰に刀も差していなかった。

 山伏になってからというもの山伏以外の自分など考えられなかったが、仮の姿にしろ、久し振りに町人姿になってみて、ふと、自分から山伏を取ったら何が残るのだろう、という考えが浮かんだ。大峯山に所属する山伏、風眼坊舜香ではなく、ただの風間小太郎に戻った時、一体、自分には何ができるのだろうと思った。幸い、この吉崎の地では、大峯の山伏と言っても通用しなかった。風眼坊はしばらく山伏をやめてみるのもいいかもしれないと思い、こうして町人姿のままでいるのだった。

 北門をくぐって坂道を登り、本坊の山門をくぐろうとして風眼坊は門番に止められた。いつも門番は立っていたが、一々、止められる事はなかった。誰もが自由に行き来していた。ところが、今日は門番に止められ、「何の用か」と問われた。

 風眼坊は、「上人様に会いたい」と言った。

 すると、「どこの門徒だ」と聞いて来た。

 門徒ではない、と言うと、通すわけにはいかんと手に持った棒で行く手を遮った。何を言っても無駄だった。門徒ではないと言った途端、門番は聞く耳を持たなかった。

 昨日までは、『来る者は、拒まず』だった蓮如の方針も、昨夜、蓮如が、『法敵打倒宣言』を行なうと、さっそく門徒たちによって曲げられてしまった。この先、門徒たちは蓮如から、どんどん離れて独走してしまいそうな気がした。

 風眼坊が諦めて、引き返そうとした時、「風眼坊とか、言ったな」と後ろから声を掛けられた。

 風眼坊が振り返ると偉そうな坊主がニヤニヤしながら立っていた。

「慶覚坊の知り合いだったな。一体、おぬしは何者じゃ」

 蓮崇の蔵の中にいた坊主だった。風眼坊が門徒でない事から、蔵の中に入るのを禁じた和田の長光坊という坊主だった。

「わしか、わしは」大峯の山伏じゃ、と言おうとしてやめた。「わしは慶覚坊と古くからの知り合いじゃ」

「それは聞いた。何者じゃと聞いておるんじゃ」

「何者と聞かれてものう」

「この前、会った時は山伏の格好じゃったのう。風眼坊と言う名前からして、山伏に違いあるまい。一体、どこの山伏じゃ」

「あの時は山伏の格好をしておったが、実は、わしは医者じゃ」

「なに、医者?」

「ああ、目医者じゃ。専門は風眼でな。いつの間にか風眼坊と呼ばれるようになったんじゃよ」

「目医者じゃと? 信じられん」

「何なら、そなたの目を診てやろうか」

「いらん。わしの目はどこも悪くはない」

「そうか、そいつは残念じゃ。誰か、目の具合の悪い奴はおらんか」

 門番の一人が真っ赤な目をしていた。風眼坊は診てやった。軽く目を水で洗ってやり、後で薬を持って来てやると言った。長光坊も風眼坊の態度を見て、目医者だという事は信じてくれたようだった。

「上人様ものう。時折、目がかすむとおっしゃるんでな、わしが診てやっておったんじゃが、門徒でないとここに入れないと言うのでは、上人様の目は治せん事になるのう」

 長光坊はうさん臭そうに風眼坊を見ていたが、武器も持っていないようだし、たった一人では何もできまいと思い、「分かった。通れ」と首で指図した。

 風眼坊は門をくぐった。

 うまく行った、と思った。とっさの機転で、目医者と言った事がうまく行った。自分でも、どうして目医者などと言ったのか不思議だったが、山伏を捨てても、自分には医者としての生きる道があるという事に改めて気づき、何となく気分が良かった。

 長光坊は風眼坊の後に付いて来たが、蓮如の妻、如勝が、「あら、風眼坊様」と迎え入れると門の方に帰って行った。

 子供たちの面倒をみていたお雪は風眼坊の姿を見ると、「一体、どうしたんです、その格好は」と目を丸くして聞いた。

「今日は山伏ではなくて、目医者として来たんじゃよ」と風眼坊は笑った。

「目医者? 風眼坊様は目医者様なのですか」

「ここにいる間はのう。山伏だと危険なんでな、目医者でおる事にしたんじゃ。どうやら、ここでの生活も慣れたようじゃのう」

「はい、何とか‥‥‥」

 蓮如の末っ子の六歳になる祐心(ゆうしん)という女の子が風眼坊を見上げながら、風眼坊の着物を引っ張っていた。

「可愛いいのう」と言って風眼坊はしゃがんだ。

 お雪と遊んでいたのは祐心と、その上の七歳になる男の子の蓮悟(れんご)、そして、その上の八歳になる女の子の了如(りょうにょ)の三人だった。この他に、十一歳になる男の子の蓮淳(れんじゅん)と十二歳になる女の子の妙心(みょうしん)がこの吉崎御坊にいるが、この場にはいなかった。

 風眼坊は三人の可愛いい子供たちを見ながら、「この子らが蓮如殿の子供だとは、とても信じられんのう。どう見ても孫じゃな」と笑った。

「そうですよね。あたしも、お孫さんだと思っておりました」

「可愛いいもんじゃのう」

「風眼坊様は、お子さんはおられるのですか」

「ああ、おる。そなた位のが二人な。一人は今、近江の山で修行をしておって、もう一人はもう嫁に行ったわ」

「そんな大きなお子さんがおられたのですか」

「ああ‥‥‥ところで、蓮如殿は?」

「はい。朝早くから書斎に籠もったままです」

「そうか‥‥‥」

 風眼坊は書斎に行って、閉められた(ふすま)越しに声を掛けた。

 返事はなかった。

 二度、三度と声を掛けたが返事はなかった。

 風眼坊は静かに襖を開けてみた。蓮如はいなかった。

 風眼坊は書斎に入ると部屋の中を見回した。つい、先程まで、蓮如がここにいたという形跡はあった。(かわや)でも行ったのだろうと、しばらく待ってみたが蓮如は戻って来なかった。書院の入り口にいる取り次ぎの坊主も蓮如は書斎に籠もったままだと言った。と言う事は、この書院の中にいる事は確かなはずだ。風眼坊は別の部屋も捜してみた。

 書斎の隣には客と会う対面所があり、その隣には広間があったが、蓮如はどこにもいなかった。勿論、厠にもいない。一体、どこに消えたのだろうと、風眼坊は廊下から外を眺めた。

 門の所に長光坊がいるのが見えた。奴があそこにいる限り、蓮如をここからは出すまいと思った。もしかしたら、すでに、この中に敵の間者(かんじゃ)が忍び込んで蓮如をさらって行ったのか、とも思ったが、この御坊は厳重に守られていた。入る事はおろか、出る事さえ、簡単にはできそうもなかった。

 風眼坊は庭園の方を眺めた。門の脇から、この本坊の敷地内の北の一画が、ちょっとした庭園になっていた。その一画だけ木が生い茂り、蓮如がこの地に御坊を建てる前の面影を残していた。その庭園には小さな池があり、茶屋といえる程ではないが、ちょっとした東屋(あずまや)があった。その東屋の側に新しく小屋が建てられ、その小屋の所に人影が見えた。木に隠れてよく見えないが、何となく蓮如のような気がした。

 風眼坊は行ってみようと、一旦、書院から出た。書院の外でお雪が待っていた。

「上人様、どうでした」とお雪は心配そうに風眼坊に聞いた。

「あ、うん‥‥‥どうじゃな、仕事には慣れたか」

「ええ、何とか‥‥‥上人様はまだ、沈み込んでいましたか」

「ああ、お雪殿、ちょっと一緒に来てくれんか」

「えっ?」

「実は、蓮如殿はここにはおらんのじゃ」と風眼坊はお雪の耳元で囁いた。

「えっ!」

「どうも、庭園の方におるらしい。門の所にうるさいのがおるからのう。お雪殿と一緒なら怪しむまい。ちょっと庭園まで一緒に来てくれ」

「上人様は庭園にいるのですか」とお雪は小声で聞いた。

「それを確かめに行くんじゃ」

 二人は庭園に向かった。

 門番の一人が二人に気づき、長光坊もこちらを見たが、こちらに来る様子はなかった。

「この庭園は上人様が造ったそうですよ」とお雪は言った。

「ほう、蓮如殿は庭も造るのか」

「はい。近江の大津にいた時も造ったそうです」

「ほう。蓮如殿が庭造りをのう‥‥‥」

 風眼坊は蓮如らしき人影を見た小屋に向かった。

 小さな小屋だった。物置に違いないと思ったが、こんな所で、一体、何をしているのだろうと、小屋の戸を開けると蓮如はいなかった。小屋の中央に大きな穴が開いていた。

「何ですか、これ」とお雪は穴の中を覗いた。

「この小屋は前から、あったのか」

「いえ、あたしが山に行く前はありませんでした。山から戻って来ると建っていました。何でも、蓮崇殿がここに建てたんだそうです」

「蓮崇殿が?」

「はい。この庭園を直すとかで、そのための道具をしまっておく物置だと言っていましたけど、何なのでしょう、この穴は」

 風眼坊は穴の中に声を掛けた。

「誰じゃ」と穴の中から蓮如の声が返って来た。

「風眼坊です。何をしてるんです」

「おお、そなたか」

 蓮如はしばらくして、穴の中から顔を出した。その顔は泥だらけだった。

「何をしてるんです」

「駄目じゃ。真っ暗で何も見えん」

「一体、この穴の中に何があるんです」

「二人だけじゃな、ここに来たのは」

「ええ、そうですけど」

「誰かに見られなかったか」

「門の所にいる長光坊殿に見られましたが‥‥‥」

「そいつはまずいのう」と言うと蓮如は着物の泥を払い、外に誰もいない事を確認すると、二人を小屋から出し、戸を閉めて鍵を掛けた。

 三人は東屋の方に行くと回りを窺った。人がいる気配はなかった。

「蓮如殿、あの穴は何です」と風眼坊は小声で聞いた。

「抜け穴じゃ」と蓮如も小声で答えた。

「抜け穴?」

「ああ、蓮崇の奴が、もしもの時のために掘ってくれたんじゃ」

「蓮崇殿が抜け穴を‥‥‥どこに出るんです」

「それを調べに行ったんじゃが、真っ暗で先に進めんかったんじゃ」

「あの抜け穴の事を知っておるのは蓮崇殿だけですか」

「多分な。風眼坊殿、お雪殿、この事は内緒にしてくれ」

「ええ、分かっております」

 頼むぞ、と言うように頷くと、蓮如は遠くを眺めた。「実はのう。わしは蓮綱の所に行こうと思っておるんじゃ」

「えっ、松岡寺にですか」

 蓮如は遠くを見つめたまま頷いた。「門徒たちに戦をしろと言いながら、自分だけ、こんな所でのんびりしておるわけにはいかんわ」

「一人だけで行くつもりだったのですか」

「ああ」

「危険です。すでに蓮如殿は命を狙われておるんですよ」

「なに、わしの命が狙われておる」

「ええ、すでに、この吉崎の地に刺客が入っておるそうです」

「わしの命など取ってどうするつもりなんじゃ」

「すでに、本願寺は戦を始めました。蓮如殿は武士でいえば大将という事になります。大将の首を取る事が戦の常道です」

「わしが大将か‥‥‥」

「そうです。そして、この吉崎は大将がいる本城というわけです。やがて、ここにも敵が押し寄せる事となるでしょう」

「そうか‥‥‥ここも戦場になるのか‥‥‥」

 蓮如は辛そうに溜め息をついた。

「松岡寺の事ですが、慶聞坊殿が向かいました」と風眼坊は言った。「慶聞坊殿が蓮綱殿の命は絶対に守る事でしょう」

「そうか、慶聞坊も戦に行ったのか」

「はい。そこで、慶聞坊殿の代わりに、わしが蓮如殿の命を守ってくれと、蓮崇殿から頼まれたわけです」

「風眼坊殿が、わしの命を‥‥‥」

「はい。ただ、わしは門徒でないために、坊主たちからは嫌われておるようです。もしかしたら、ここから追い出されるような事になるかもしれません。しかし、わしは陰ながら、蓮如殿をお守りいたします」

「陰ながら守る?」

「はい。山伏には陰の術という術があります」

「陰の術?」

「はい。誰にも気づかれずに、あらゆる所に忍び込んだりする術です」

「ほう、そんな術があるのか‥‥‥」

 『陰の術』とは、弟子の太郎坊が名づけたものだったが、元々、一般の人々が入らない山の中を走り回っている山伏たちは神出鬼没で、存在そのものが陰の術と言えた。太郎が『陰の術』として、飯道山で教えている術のほとんどは、風眼坊程の山伏ともなれば、すでに身に付いていた。

「陰の術のう‥‥‥」と蓮如は呟いた。

 お雪は風眼坊を見つめながら、改めて、不思議な人だと思った。自分でも気づかないうちに、お雪は風眼坊という男に惹かれて行った。





蓮台寺城跡




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