十六
「今晩は思いっきり飲むわよ。飲んで飲んで飲みまくって、あなたを困らせてやるわ」とお鶴は酒の用意をしながら楽しそうに言った。 「お鶴、完成したぞ」 五郎右衛門はお鶴と一緒に暮らし始めて以来、夜になるとお鶴の像を彫っていた。 「まあ、素敵。あたしが観音様になったのね」 お鶴は自分の像を抱きながら嬉しそうに眺めた。 「ああ、観音様じゃ」と五郎右衛門は満足そうに、お鶴と木像を見比べた。 「笛を持ってるのね。やだあ、とっくりまで持ってるじゃない」 お鶴の像は観音様のように宝冠をかぶり、薄い着物をまとって、あぐらをかいて座っていた。差し出した右手に横笛を持ち、膝の上に置いた左手はとっくりの紐をしっかりと握っている。 「それが、お前に一番、似合うじゃろう」 「やあね。あたし、タヌキじゃないのよ。ねえ、今度、あなたを彫ってよ。一人だけじゃ寂しいわ」 「一人じゃないじゃろ。もう一人の観音様と弁天様がいる」 「あの可愛いのね」 お鶴は自分の像を持って、岩棚の側に行き、観音像と弁天像の間に自分の像を置いた。お鶴の像は二つの木像の倍近い大きさだった。 「この二つ、子供みたい。あたしも欲しいわ、あなたの子供。きっと可愛いでしょうね。男の子がいいかしら。女の子がいいかな。二人とも欲しいわ。一遍に生んじゃいましょ」 お鶴は自分の像の前に二つの像を並べた。 「子供みたいなお前が子供を産んでどうするんじゃ」 五郎右衛門は立ち上がると袴に付いた木の屑を払い、岩棚の所に行った。三つの像が母子のように見えた。 「一緒に遊ぶのよ」と楽しそうにお鶴は言った。 「そいつは楽しいじゃろうな」と五郎右衛門は笑った。
「あのね、昔、あたしが踊り子だった頃、面白い人がいたのよ」 お鶴がいつものように酒を飲みながら話し始めた。 「ほう、お前より面白い奴がいるのか」 五郎右衛門は 「あたしなんか、つまんない女よ」とお鶴は足を崩すと、五郎右衛門の腰にもたれて来た。 五郎右衛門の腰には脇差がなかった。『剣を抜いた時は死ぬ時だ』と悟った時から脇差を差すのをやめていた。 「その人ね、幻術使いのお爺さんなのよ。あたしたち、あるお侍さんのお屋敷に招待されたの。あたしたちの踊りが終わった後、そのお爺さんが現れたのよ。痩せ細った 「まさしく、幻術使いじゃな。しかし、新陰流にもそういう術があるらしい」 お鶴は目を輝かして、「あなたもできるの」と聞いて来た。 「ああ。できるぞ」 五郎右衛門は体を起こすと側に落ちていた小石を拾った。空中に投げ、落ちて来る小石を素早くつかみ、握った両手をお鶴の前に差し出した。 「さあ、どっちに石が入っている」 お鶴は両手を見比べていたが、「こっち」と右手の方をたたいた。 五郎右衛門は右手を開いて見せるが小石はなかった。 「じゃあ、こっちだわ」とお鶴は左手を開こうとした。 五郎右衛門は左手も開くが、そこにも小石はなかった。 「あれ、どこに行ったの」とお鶴は五郎右衛門の回りを見回した。 どこにもそれらしき小石はなかった。 「消えたのさ」と五郎右衛門はニヤッと笑った。 「凄い! あなた、凄いわ」 お鶴は五郎右衛門の両手を持ったまま喜んでいた。 「わしのは単なる目くらましじゃ。お前が話した爺さんは催眠術のようなものを使ったんじゃろ」 五郎右衛門は酒を飲むと、また寝そべった。 お鶴も横に寝そべり、「もっと面白い人もいたのよ」と五郎右衛門の指を引っ張った。 「口が馬鹿でかい男の人でね。自分の足を口の中に入れちゃうのよ」 「ほう。足を口の中にか」と五郎右衛門は感心した。 「それだけでも凄いのに、両足を全部、口の中に入れちゃうの」 「凄えのう」 「足が全部入っちゃうと、次にお尻も入れちゃって、腰も胸も両手も入れちゃうのよ。なんか、気持ち悪かったわ。体をみんな口の中に入れちゃったから、頭しか残ってないの。そして、口から二本の手が出てるのよ。そして、その手も入れちゃって、首も入れて、頭も、目も鼻も入れちゃって、最後には口だけになっちゃったの。その口がね、『ああ、うまかった』って言ったのよ。ね、凄いでしょ」 「馬鹿な、そんな事できるわけねえじゃろ」 五郎右衛門は体を起こし、 「だって、あたし、この目で見たんだから」とお鶴も体を起こして言った。 「それで、その口はどうなったんじゃ」と五郎右衛門は酒を飲んだ。 「食べ過ぎたからって お鶴は真剣な顔をして説明した。 「厠に行ったって、どこから 「そんな事知らないわよ。きっと、ゲーゲー吐き出して、元に戻ったんじゃないの。その人、すました顔して戻って来たもの」 「馬鹿らしい」 「どうせ、あたしは馬鹿よ。すぐ、何でも信じちゃうんだから‥‥‥」 お鶴は五郎右衛門からお椀を奪うと酒をあおった。 「そうだ」とお鶴は急に五郎右衛門の腕をつかんだ。 「今日、いいお月様が出てるのよ。ねえ、せっかくだから外で飲みましょうよ」 「月見酒か」 「そう。行こ、行こ」
「満月ね。うさぎさんがお お鶴が月を見上げながら言った。 「うさぎは餅が好きなのか」 五郎右衛門も月を見ていた。 二人は岩屋の上に登って酒盛りをしていた。 雪におおわれていた頃はわからなかったが、岩屋の入り口の横に石段があり、そこを登ると見晴らしのいい場所に出た。その場所を見つけたのはお鶴だった。お鶴はそこが気に入り、食事場所に決めた。五郎右衛門もいい考えだと賛成した。月見をするには絶好の場所だった。 「うさぎがお餅を食べたら、 お鶴は急に現実的な事を言った。 「じゃあ、何で餅なんかつくんじゃ」 五郎右衛門はお鶴の頭に付いて行けなかった。 「誰がお餅なんてついてるの」 「うさぎじゃろ」 「うさぎがお餅なんてつくわけないじゃない。ついたとしても尻餅くらいよ。焼き餅もつくかな。ねえ、他に何とか餅ってない」 「草餅、 「いい気持ちっていいわ」とお鶴は喜んだ。 「どんな味がするのかしら」 「こんな味じゃろう」と五郎右衛門は酒を飲んだ。 「いいえ、こんな味よ」とお鶴は唇を五郎右衛門の方に突き出した。 「後でな」と五郎右衛門はお椀に酒を注いだ。 「今」とお鶴は唇を突き出したまま、五郎右衛門に抱き着いて来た。 ブチュッと二つの唇が重なった。 「そう、この味よ」とお鶴はニコッと笑った。「もう一回」 ブチュ‥‥‥ム‥‥‥ム‥‥‥ム‥‥‥ 「ああ、いい気持ち」 お鶴は幸せそうに月を見上げた。 「お鶴」と五郎右衛門は呼んだ。 「あい」とお鶴は答えた。 「わからん」と五郎右衛門は唸った。 「何が」とお鶴は五郎右衛門に寄り添った。 「今のが極意だそうじゃ」 五郎右衛門はお椀の中の酒に映った月を眺めながら言った。 「今の口づけが?」とお鶴は首をかしげて、五郎右衛門を見守った。 「いや。口づけじゃない」と五郎右衛門はお鶴を見た。 「あれはやろうと思ってやったからのう‥‥‥そうか、わかったぞ」と五郎右衛門はお鶴の肩を抱いた。 「わしが今、お鶴って呼んだ時、お前は返事をしようと思って返事したか」 「そんな事、一々、考えるわけないじゃない」 「それじゃ、それ」 五郎右衛門はお鶴の両肩をつかんで、一人で興奮していた。 「無意識のうちに『はい』と出たわけじゃ」 「それがどうかしたの」 「それが極意じゃ」 「へえ‥‥‥」 「ようやく、わかった。お前のお陰じゃ」 五郎右衛門は嬉しさの余り、お鶴を抱き締めていた。五郎右衛門は一人で満足そうにうなづいていたが、お鶴には何が何だかわからなかった。わからなかったが、お鶴も五郎右衛門と一緒に喜んだ。 「よかったわね」とお鶴は嬉しそうに何度も言って、五郎右衛門に何度も口づけをした。 五郎右衛門は嬉しさのあまり、お鶴を抱いたまま、大声を上げながら跳びはねていた。 五郎右衛門の興奮が治まると、「乾杯しましょ」とお鶴は言った。 二人は満月の下で乾杯をした。 「なあ」と五郎右衛門は言った。 「なあに」とお鶴は笑った。 「お前の笛、聞かせてくれよ」 お鶴はうなづいた。 岩屋から横笛を持って来ると吹き始めた。 満月の夜にふさわしい幽玄な曲だった。五郎右衛門は月光に照らされて、笛を吹くお鶴の姿をうっとりと眺めていた。言葉では言い表せない感動が胸いっぱいに広がって来て、言い知れぬ余韻を残して曲は終わった。 お鶴は笛を静かに口から離すと五郎右衛門に向かって笑顔を見せた。 五郎右衛門は拍手をした。 「今度はあなたの番よ。何か歌ってよ」 「わしは駄目じゃ」と五郎右衛門は手を振った。 「そうじゃ。お前がいつも歌ってる、『空飛ぶ鳥』っていうのをやってくれ」 「ああ、あれ。もっといいのもあるのよ」と言うとお鶴は歌い出した。 ♪思う人から杯差され、飲まぬうちにも顔赤らめる〜 ♪ 「うまいもんじゃな」 「まだ、あるわ」 ♪胸につつめぬ嬉しい事は、口止めしながら触れ歩く〜 「これ、今のあたしの心境よ」 「ほう、だから、毎日、虫や鳥に触れ歩いていたのか」 「そうよ。今のあたし、幸せすぎて、幸せすぎて、誰かに言わないと気が済まないのよ‥‥‥さあ、今度はあなたの番よ」 「わしは駄目じゃ、駄目」 「ちゃんと教えたじゃない。あなたが歌った『 「あれは難しすぎるわ。『 「それでもいいわ。渋い声を聞かせてよ」 「よし、行くか」 ♪憂きも一時、嬉しきも、思い覚ませば 五郎右衛門は照れくさそうに歌った。お鶴は横笛を吹いて、合いの手を入れた。 「いいわ。ついでに『世の中は 「よおし」と五郎右衛門も調子に乗って来た。 「次は『吉野川』行ってみよう」 「そんなの知らんわ」 「あたしが歌うわ。よく聞いてて‥‥‥」 お鶴はしんみりと歌い出した。 五郎右衛門はしんみりと聞いていた。 お鶴は歌い終わると、「哀しい唄ね」とポツリと言った。 「いい唄じゃな」と五郎右衛門は月を見上げた。 お鶴も月を見上げた。 「あなた、なに、しんみりしてるの」 「お鶴、わしはお前に会えてよかったよ。お前を見てると、なぜか知らんが楽しくなる。わしは今まで、剣という狭い世界に閉じこもっていたような気がする。お前と一緒にいるお陰で、わしにはわかって来た。この世の中っていうのは、もっと広くて大きいもんじゃと‥‥‥いくら、剣が強いと威張ってみた所で、所詮、それは井の中の 「なに言ってんのよ。あんた、急に改まっちゃって。やだ、五右衛門ちゃんらしくないじゃない。でも、ありがとう‥‥‥ほんとにありがとう‥‥‥」 「ここらでパーッと派手な歌を歌ってくれ」 「そうね。『 二人は手拍子を叩きながら、大声で 山の中の夜は静かに更けて行った。
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